近世
古代より後、豊臣秀吉の頃まで、全国的な地図作成は行われていませんでした。江戸時代になると、幕府が支配をするために、各藩に国ごとの地図「国絵図」を、慶長・正保・元禄・天保の四回作らせました。国や郡の境界、村名、石高、主な道路、城などが描かれたものです。そして、国絵図を基に、日本全体を描いた「日本図」が作成されることもありました。最初は書き方もばらばら、測量結果に基づいていない「見取図」で、歪みや誤りのあるものでしたが、統一されていき、実学を重んじて蘭学(洋学)を許した吉宗の享保年間以降は、実測に基づいた絵図が作られるようになっていきました。伊能忠敬が全国を測量した「大日本沿海輿地全図」(伊能図)は、よく知られています。また、藩も、幕府への提出、自国支配のために、絵図を作りました。各地で優れた測量家が活躍し、徳島藩では、岡崎三蔵が、「阿波国図」の作成を藩から命じられ、天保二(一八三一)年に約三〇年かけて完成させました。
こうした地図の作り方の発展とは別に、この時代、出版文化が発展しました。そこで、限られた人のために手描きで作られていた地図が、多くの人を対象に出版されるようになり、種類も増えていきました。
幕府の絵図と藩の絵図
幕府は、大名をまとめるために、各国の絵図「国絵図」を提出させました。国絵図には、小判型に村名と石高、国境・郡境、主要交通路、城郭などが描かれますが、最初の慶長国絵図では、国によって書き方がばらばらでした。正保国絵図からは統一され、縮尺も6寸1里(約2万1600分の1)に決められます。城と城下を描いた「城絵図」も提出させました。元禄国絵図では、国・郡・村の境界がはっきり表現され、天保国絵図では、元禄国絵図の写に、元禄以降の変化を修正させました。また、正保、元禄には、国絵図をまとめて、「日本図」も作成しています。
幕府の命令以外に、藩でも、支配のため、家屋・田畑・山林・河川といった村の状況を記した「村絵図」や、目的に応じて「普請絵図」「川絵図 」などを作成させています。
-伊能忠敬と岡崎三蔵-
幕府は、正保・元禄期以外にも、日本図を作成しています。中でも有名な伊能図は、伊能忠敬が正確な暦を作るため、子午線の長さを求めようとしたことが始まりでした。寛政12(1800)年に測量をはじめ、奥羽街道から蝦夷地の実測図ができると、その正確さが認められ、測量を重ねた第5次測量以降は、幕府直轄事業となりました。文政元(1818)年に忠敬は亡くなりますが、3年後、「大日本沿海輿地全図」が完成しました。
19世紀になると、各地でも実測による藩内の詳しい絵図が作られます。徳島では、享和2(1802)年に藩から「阿波国図」の作成を命じられた測量方岡崎三蔵が、西洋流測量法に基づき測量を始め、天保2(1831)年、宜平の代に完成、弘化4(1847)年重家の代には、「淡路国図」も完成しました。
みんなの絵図
絵図の多くは手描きで、支配のため、一部の人のために作られた特別なものでした。それを変えたのが、17世紀頃盛んになった出版です。絵図は、簡単に手に入れられるものになったのです。理解しやすい記号が発展し、種類が増え、ベストセラーも生まれました。
大日本国地震之図 |
寛永元(1624)年 |
単独で出版された刊行年が最古の絵図。行基図を基にした形。地震占いがあります。 |
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扶桑国之図 |
寛文2(1662)年 |
幕府撰日本図の影響が見られる形。国名、城、城下町名、街道などが記されています。 |
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流宣日本図 |
貞享4(1687)年 |
浮世絵師石川流宣の『本朝図鑑綱目』『日本海山潮陸図』等。絵画的で観光情報豊富。 |
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改正日本輿地路程全図 |
安永8(1779)年 |
長久保赤水作。緯線・経線が記されました。 |