古代( こだい) 中世( ちゅうせい)

日本(にほん)一番(いちばん)(ふる)地図(ちず)は、どんな地図でしょう。地図が(つく)られたという記録(きろく)は、大化(たいか)(六四六)(ねん)大化(たいかの)改新(かいしん)(みことのり)で、「国々の(さかい)()て、(ある)いは(ふみ)にしるし、或いは(かた)をかきて、()(まゐ)りて()(まつ)れ。」(『新編日本古典文学全集 四 日本書紀 巻二五』小学館 一九九八)と、(くに)地誌(ちし)・地図の作成(さくせい)提出(ていしゅつ)命令(めいれい)したものが(のこ)っています。しかし、地図そのものは(のこ)っていないため、どの程度(ていど)まで、どんな地図が作られたか、()かっていません。

今も見られる地図の中で、(もっと)も古いものは、八世紀(せいき)以降(いこう)(おお)きな寺社(じしゃ)貴族(きぞく)がもつ荘園(しょうえん)(えが)いた地図「荘園図(しょうえんず)」です。(とく)東大寺(とうだいじ)正倉院(しょうそういん)には、荘園図が多く所蔵(しょぞう)されていて、その中に、「阿波(あわ)(こく)新嶋庄(にいじましょう)絵図(えず)」「阿波国名方(ながた)(ぐん)大豆処(まめどころ)()」もあります。奈良(なら)時代(じだい)阿波国を()ることが出来(でき)る、貴重(きちょう)資料(しりょう)です。

日本全体(ぜんたい)を描いた地図で残っている一番古いものは、「行基図(ぎょうきず)」と()われていました。国々(くにぐに)(まる)(あらわ)され、山城(やましろの)(くに)から各国(かっこく)への(みち)(せん)()かれ、奈良時代の(そう)・行基が作成(さくせい)したと()かれています。実際(じっさい)に見られるものは、嘉元(かげん)(一三〇五)年以降(いこう)で、内容(ないよう)(あと)の時代のことが書かれていますから、行基が作ったとは言えません。正確(せいかく)ではないものの、(なが)く、江戸(えど)時代のはじめまで使(つか)われました。

荘園図(しょうえんず)

(おお)きな寺社(じしゃ)貴族(きぞく)などが()私有地(しゆうち)(しょう)(えん)」をめぐって(あらそ)いがおこったときのためにも、区画(くかく)耕作(こうさく)面積(めんせき)など、荘園の様子(ようす)()いた「荘園図」は、必要(ひつよう)でした。

阿波(あわ)(こく)新嶋庄(にいじましょう)絵図(えず)」「阿波国名方(ながた)(ぐん)大豆処(まめどころ)()」も、東大寺(とうだいじ)が阿波国に()っていた荘園を描いたものです。2(まい)()()がれて1枚の地図(ちず)のようになっています。

 

阿波(あわ)(こく)新嶋庄(にいじましょう)絵図(えず)

天平(てんぴょう)(ほう)()2758)年

(あん)題簽(だいせん)に「阿波国新嶋庄絵図」とありますが、()(しょ)枚方(ひらかた)地区(ちく)だと(かんが)えられています。(かわ)薄緑色(うすみどりいろ)(みち)(ぼく)(せん)朱色(しゅいろ)

阿波(あわ)(こく)名方(ながた)(ぐん)大豆処(まめどころ)()

8世紀(せいき)(ころ)

案。水鳥(みずどり)()かぶ「大川」は、(よし)野川(のがわ)(かんが)えられています。「川度船津」と()かれ、(わた)しがあったことが()かります。

行基図(ぎょうきず)

 山城(やましろの)(くに)(げん)京都(きょうと))を中心(ちゅうしん)として、そこから7つの街道(かいどう)(あらわ)(せん)が、(まる)(えが)かれた各国(かっこく)()びている日本図(にほんず)です。「行基(ぎょうき)菩薩(ぼさつ)御作」など、行基の(さく)だと()かれていることから、「行基図」と()ばれています。

 行基は奈良(なら)時代(じだい)諸国(しょこく)をめぐった(そう)ですが、行基図では、奈良時代の(みやこ)大和国(やまとのくに)(現奈良県(ならけん))の平城(へいじょう)(きょう)ではなく、山城(やましろの)(くに)中心(ちゅうしん)となっていること、まだなかったはずの加賀(かがの)(くに)(現石川県(いしかわけん))が描かれていることなどから()ても、行基より(あと)10世紀(せいき)以降(いこう)に作られた図であると(かんが)えられています。

 ()かれた(とし)(あき)らかな現存(げんぞん)最古(さいこ)の行基図・嘉元(かげん)3(1305)年「日本図」(仁和寺蔵(にんなじぞう))は、(みなみ)(うえ)で、右上(みぎうえ)に「阿波(あわ)」があります。北海道(ほっかいどう)沖縄(おきなわ)姿(すがた)はまだ(えが)かれていません。