阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第45号
穴吹町の地域産業と地域社会構造の変化

地理班(徳島地理学会)

  横畠康吉1)・萩原八郎1)・豊田哲也2)・
  坂東正幸3)・
野々村拓也4)・勝藤雅宣5)

1.はじめに
 穴吹町は吉野川中流と下流の接点である岩津の上流、右岸地域に位置する。地勢的には剣山に続く北部の山地が吉野川右岸にせまって、町域の大部分が中山間地域となっている。剣山北面から流れ出す穴吹川が吉野川に合流する地点に低平な小平野部を形成している。平野部の西山麓(ろく)に穴吹町の中心集落があり、中心商店街もここに立地している。中心商店街の北西部にJRの穴吹駅があり、駅前通りにも商店が立地している。中心商店街と駅前通りの接点に新穴吹橋があり、橋の南端で東西にのびる国道192号線、北に向かって香川県高松市に通じる国道193号線と地方道の穴吹・剣山線が交差し、交通の要所となっている。穴吹町の経済は、中心集落の背後にある穴吹川両岸の広大な後背山地をひかえ、農業、林業が中心であった。農業では、稲・麦・サツマイモなどの耕種作物、養蚕、ブロイラーの生産に特化し、林業では、ツガ・松・杉材などを産出していた。高度経済成長期に中山間地域から人口が都市部に流出し、農業、林業の働き手を失い、中山間地域に一般的に認められる林業の衰退と高齢農業経営者による特定商品作目である養蚕、肉牛・ブロイラーの飼育に特化した農業活動がみられる。
 地理班では産業構造的に、第一次産業従事者を減少させ、第二次・第三次産業従事者を増加させている穴吹町の産業構造の現状について、統計資料から調査をした。
 さらに、1975・1976年の台風災害によって、挙家離村者や域内移住者の発生したことなどを穴吹町の社会構造上の問題としてとらえるとともに、集落住民の給水変化の事例調査をおこなった。以下、順を追って記述する。

2.穴吹町の地域産業
 1)人口の変化
 人口分布は、経済活動の繁栄した地域では増加し、その逆の場合は減少するのが一般的である。すなわち地域の産業構造が、生産経済的集落の集合体である場合は人口増加となり、消費経済的集落の集合体であれば減少となる。そのような視点から穴吹町の社会経済の実状をみることにする。
 穴吹町の総面積10,888ha に占める土地利用の状況は、耕作地面積478ha(4.4%)、山林面積9,049ha(83.1%)、その他1,361ha(12.5%)で、その他の土地利用に含められる平地部の都市的土地利用部分が人口の集中地区であり、第二次・第三次産業の生産活動地区である。これまで穴吹町は、農業・林業を基幹産業とし、地域サービス産業である商業や地場産業である製造業を営んできたが、産業構造上雇用力のある中核産業の成長がみられない状況で推移してきたため、1955年以来消費型経済地域の特徴を示す人口減少が続いている。

 表1に示すように、穴吹町の人口は1955年に16,460人であったが、1995年には、8,150人となり、この40年間に50.5%の減少を示している。減少の著しかったのは、1955年から1975年に至る20年間であった。美馬郡内の他町村においても、穴吹町同様に人口は減少しているが、その状況は一様でなく、中心地機能をもつ脇町では、減少の底となった1975年から増加に転じている。中山間地域に立地する貞光町・半田町は穴吹町と類似の人口減少を示し、山間地域の一宇村・木屋平村では人口減少率が今日なお著しく、基準とした1955年に比べ70%をはるかに超える減少となっている。穴吹町は、人口減少の急減期は去ったものの、今後も緩やかな人口減少と、高齢者人口比率(1995年に24.3%)を増加させることになろう。
 美馬郡域の町村が相対的に人口の急激な減少を示したのに対し、徳島県全体の人口の推移をみると、1955年の878,109人を基準にした場合、1965年に80万人を下回ったが、1975年に再び80万人を超え、1995年には832,427人となっている。この事実は、第一次産業を基幹産業とする中山間地域に立地する郡部の町村域では人口を減少させ、第二次・第三次産業を基幹産業とする吉野川下流平野部に立地する市部とその周辺地域では人口増加となることを示している。この傾向はさらに進み、県域内における人口の集中地域と人口の減
少地域、という2極分解の展開が、今後も続くものと思われる。
 2)就業人口と就業地からみた穴吹町の地域産業の特徴
 地域社会の産業構造が生産型経済へ移行するにしたがい、産業は第一次産業から第二次産業へ、さらに第三次産業へとウェイトをシフトする産業発展の基本的歴史パターンがある。ここでは穴吹町ではどうなっているか、その特徴点を検討する。

 表2に示すとおり、1955年の穴吹町の総就業人口は7,732人で、うち第一次産業就業者の比率は72.7%を占め、実人数で5,625人を数えた。その後第一次産業就職者を急激に減少させ、1995年には総就業者数3,751人のうち、15.7%の588人となる。同年の第二次産業就業者は37.6%(1,409人)、第三次産業就業者は46.7%(1,752人)である。次に、穴吹町の産業構造がそれぞれの地域産業を高度化させながら第一次産業から第二次産業、さらに第三次産業へと比重を移動させたのかどうかを検討する。

 地域産業に雇用力があると、第二次産業・第三次産業就業比率が高く、自町村内就業率も高くなる。自町村内就業が高率で第二次産業就業比率の高い場合は、製造業の集積率も高く、第三次産業比率の高い場合は、中心地機能の高い地域となるのが一般的である。このような条件から穴吹町の地域産業をみると、町内産業は比較的雇用力が弱く、就業の場のサービスに欠ける点が特徴的である。その実態を表3でみると、総就業者数3,751人のうち、57.9%(2,170人)が町内就業者で、42.3%に当たる1,581人が町外の産業に就業している。町外就業地は、脇町の553人、徳島市の220人、貞光町の138人、麻植郡内186人などとなっている。郡内の他町村では、中心地機能をもつ脇町、山間地で交通の不便地域で、しかも高齢化人口率30%を上回る一宇村(33.8%)・木屋平村(34.3%)においでは、自町村就業者比率が高い。地理的に穴吹町と類似性の高い美馬町・半田町・貞光町では、穴吹町に比べ、自町村内就業比率を10ポイント以上高い水準として維持している。そこで、穴吹町内の雇用力のある産業が郡内の他町村と比べてどのような状況にあるのか、製造業出荷額、商業年間販売額を美馬郡内7町村の比較において検討する。

 表4に示すとおり、穴吹町の製造業事業所の年間製造品出荷額は、美馬郡内の製造業事業者の総製造品出荷額245億4,363万円の4.5%に当たる10億9,784万円にとどまり、脇町(47.1%)、貞光町(22.8%)、美馬町(14.8%)、半田町(9.2%)に及ばない。商業販売額では、卸小売業店舗の美馬郡内総年間商品販売額644億9,472万円の10.5%を占めているものの、脇町(52.7%)、美馬町(18.4%)、貞光町(12.3%)に続く第4位の状況である。
 3)穴吹町における農業の特色
 穴吹町農業の特徴は、1970年の農家数1,762戸から1995年に858戸と51.3%減少させたが、農家の経営形態でみた場合、専業農家を4.3%増加させた点である。日本経済の高度成長期からバブル期にかけての離農は、第一種兼業農家が第二種兼業農家に経営形態を変化させ、第二種兼業農家が脱農する過程をたどったものである。この過程で、専業農家は現金化を目的とする基幹作目と補完作物との比較有効性の原理に支配されながら、特定作目への特化を進めている。表5から作目別の農業粗生産額の特化係数をみると、1995年には、養蚕の6.3を首位に、ブロイラー(4.7)、雑穀・豆類(4.1)、麦類(2.7)、工芸農作物(2.4)、養豚(1.8)の順に特化度が高い。平地部が少なく、山間傾斜地という経営環境を反映した中山間地域特有の耕種作物と畜産部門による作目構成となっている。最も特化係数の高い養蚕農家の事例を以下に述べる。

 (1)養蚕農家の実態
 穴吹町では、古くから養蚕が行われていた。その中心地は旧口山村である。1997年の養蚕農家数は25戸で、うち旧口山村に16戸あり、中でも首野地区は7戸の養蚕農家が集中する地区である。首野地区は、穴吹川中流に位置し、耕地は山腹斜面に分布している。桑園のほかは自給野菜の栽培が行われているものの、耕作放棄された畑地も目立ち、農地の荒廃も進みつつある。桑園は農家の周辺に分布するが、一般的に採桑運搬労力の面から、農家の立地地点より高い場所に桑園の分布がみられる。
 (2)養蚕農家の経営形態の事例
 穴吹町首野地区で養蚕農家の経営実態の聞き取り調査を行った。その結果を記述する。
 事例農家の経営耕地規模は平均30a 程度で、春と晩秋に上ぞく1枚の飼育が行える10a 規模で桑の栽培を行っている。上ぞく1枚からの収入は平均85,000円程である。表6に示すように、事例農家1〜3は、企業勤務する長男夫婦と同居し、事例農家4は妻が農外産業に勤務する兼業農家であって、経営者は高齢化している。

 蚕期は春蚕・夏蚕・初秋蚕・晩秋蚕・晩々蚕・初冬蚕の年6回あるが、首野地区の場合は春蚕と晩秋蚕の飼育となっている。種蚕は高知県の藤村製糸の子会社から供給される。1998年度の春蚕は、5月5日の掃立、5月15日配蚕、6月4日から6日に上ぞく(回転ぞく)され、11日後に出荷された。晩秋蚕は8月25日掃立、9月1日配蚕、9月15日から20日に上ぞくされた。上ぞくは蚕室内の温度条件に左右され、20度以下になると上ぞく期間が長くなる。
 繭の価格は、1995年に中国からの輸入繭の増加により、1kg 当たり700円と低価格に押さえ込まれ、養蚕農家の生産意欲の減退をきたし、穴吹町のみならず全国的に養蚕農家が減少している。1998年度は価格補償により、1kg 当たり1,500円の水準を維持している。
 中山間地域の現金収入を目的とした農業は、タバコと養蚕の経営を中心とする補完関係に求められていた。首野地区においても、現金収入を目的とした農業経営は、春蚕+タバコ+晩秋蚕の補完関係により成立していた。しかし、農産物の輸入自由化、農業経営者高齢化、農業後継者不足などの時代環境に逆らえず経営規模の縮小を余儀なくされながら、農業が衰退するようである。

3.穴吹町の地域社会構造の変化
 1)1976(昭和51)年風水害による穴吹町の集団防災移転
 1975年及び1976年に穴吹町は、2年連続して台風による災害を被った。とくに1976年9月8日〜13日にもたらされた台風17号(総降水量:穴吹1,057mm、剣山1,838mm)による被害を契機として、穴吹町では山間部に立地した一部の集落で防災のための集団家屋移転が行われた。そこで、ここではこの防災事業の一環として行われた集団家屋移転を通じて、山間集落が抱える社会経済的課題や転居者の動向について、報告することにしたい。
 2)集団防災移転事業の概要
 この集団防災移転については、穴吹町役場が昭和54年(1979)10月に発行した報告書「災害とたたかう台風17号記録 1976年9月8日〜13日」の「大災害に、遂に防災集団移転へ」(P.43〜53)の中で、初期の救援活動、住家・宅地被害調査、住民の移転に関する意識調査の結果と併せて、防災集団移転事業についても報告されている。本報告書に基づいて防災集団移転にかかわる経緯を要約すると、以下のようになる。
9月10日 8日以来の断続的な雨のため、町内各地で被害が出始める。
9月11日 口山、古宮地区では住家の流失、倒壊、山崩れ等の大被害が続出し、通信はすべて途絶。
9月12日 古宮地区小谷集落の民家をはじめ、穴吹高校古宮分校等の流失、大規模な山崩れ、地滑り被害等が続出。口山地区にある四国電力首野発電所が倒壊。
9月15日 午後5時からの課長・主任会議で、町長より被災住民の安全な宅地の早急な確保・供給のために、移転希望の概数をつかむように指示が出される。
9月16日 古宮地区で被災者の意向を確認。移転は止むを得ないという意見が多数出される。
9月22日 緊急課長会議で、1 家屋及び宅地の被害の再調査、2 住民の住居移転の意向調査の実施、3 住宅対策として宅地化可能な土地の取得と、4 被害公営住宅数の確保が協議される。
      移転についても山崩れの激発、流失等による家屋宅地の損壊が多い古宮地区を中心とする被災地では、全体が急傾斜地で平地が無く、安全と思われる土地は皆無に等しい状況から、安定した土地を求めて脱被災地を希望する住民が多いことが判明。
9月25日 口山・古宮地区の比較的被害が軽い集落の居住者でも、穴吹方面への移転を希望。
 穴吹町が行ったこの災害調査によれば、移転を考えている世帯は被災地全域で247世帯にのぼった。この内、下森15世帯、長尾27世帯、四合地7世帯、左手20世帯と鍵掛29世帯の合計98世帯、364名が集団移転の意向の強い集落として上がった。しかし、全世帯の意向がまとまらず集団移転は結局実施されなかった長尾や、対象地区にあっても個々に周辺市町村へ移転を希望する世帯も有り、最終的には35戸が集団移転することになった。受入れ地としては宮内、初草、拝村、小島の4団地に約34,600平方メートルが確保された(図1)。集団移転の総事業費は国庫支出金19億6,565万円、町費8億3,993万円で、住民は後に土地代を町に返済し、住宅は国庫と町費の補助を受けて住民自ら建設するというものであった。
 当初、移転事業における移転先は、初草、拝村、小島などの穴吹市街地や国道192号に近い地区と山間地の宮内地区とであったが、長尾集落の移転計画が行き詰まったこと、さらに、移転住民が穴吹市街地への近接性を希望したこともあって、山間地の宮内地区は結局移転先には選ばれなかった。

 この集団移転では、災害危険区域(1979年2月13日徳島県告示第105号)に指定された下森、四合地、左手、鍵掛に加えて、拝立の住民も集団移転している。移転先である小島地区石神に転居した住民は鍵掛出身者のみで占められ、初草地区へは下森・鍵掛集落・拝村地区へは四合地・左手・拝立の3集落の住民が移転している(表7)。すなわちこの集団防災移転事業では、移転先でも同じ出身地の住民がまとまって入居しており、事業遂行に当たっては出身地によるチェーンが重視された。

 3)集団移転の社会経済的背景
 この集団移転は台風17号による被害を契機に行われたものであるが、その背景には山間部の災害危険集落がおかれていた社会経済的状況があることを理解する必要があろう。穴吹町における旧町村別人口の推移(図2)で古宮地区の人口を見ると、1960年には3,906人であったが、1970年になると2,212人、1990年には374人と1970年の87.2%の減少をみる。この減少数は穴吹町全体をみてもとくに際だった数であった。しかし移転対象地域(拝立を除く)の移転前である1960〜1978年の世帯数推移(表8)を見てみると、鍵掛の49世帯から29世帯への減少を除いては、大幅な減少はみられなかった。


 ちなみに、古宮地区では1960年には総世帯数659戸中512戸(77.7%)が農家である。1985年でも総世帯数210戸中135戸(64.3%)が農家であり(「穴吹町誌」)、このことから古宮地区の主たる産業は農業といえる。
 そこでここでは農業センサスのデータをもとに、古宮地区(旧古宮村)における農業経営の変化についてみて行く。
 年齢別農業人口(図3−1)をみると、どの年齢層でも、1975年から1980年にかけ大幅に減少している。これは、当時旧古宮村の主要産業であった木材や換金作物の買取り価格の暴落にともなう労働力の流出や、1979年の集団移転事業完了を反映したものであるが、1990年の農業総人口は1979年当時のわずか16.9%となっている。特に、青壮年労働者の流出によって農村の高齢化が著しく進んできている(図3−2)。


 農業就業者率・兼業従事者率(図4)をみると、1970年以降に農業就業者数が減少する一方で、兼業従事者率が増加しており、農業収入だけでの生計の維持が困難になってきている状況を示している。経営耕地面積の増減率(図5)からは、当時の耕地の作付けが流動的でかつ減少しており、若年層の流出により経営耕地の放棄が進んだことが推察される。
 次に、この山間地域における主たる換金収入源についてみて行きたい。表9は農産物販売金額第1位部門別農家数を年次ごとに示したものである。これによると、工芸農作物(葉タバコ)と養蚕がこの地域の主たる換金収入源であったが、1975年以降、農産物販売農家率が低下し、1995年には、農作物販売を行っている農家は総農家数41戸のうちわずか7戸にすぎない。既述のように、当地域では青壮年労働力の流出にともなって高齢化が進み、1戸当たりの経営面積も縮小されており、この結果、農業経営も大幅に縮小されたとみられる。



 図6および図7は、葉タバコ(穴吹町)と繭生産(徳島県)の推移をみたものである。これによると、旧古宮村の換金収入源であった工芸農作物の葉タバコと養蚕の売り上げが、1975年ごろを境に次第に低下して行くが、その原因は双方の作目で若干異なっているようである。繭の単価が停滞しているのに対して、葉タバコの単価はわずかずつではあるものの値上がりしているにもかかわらず、収穫量は減少しているからである。この葉タバコと繭生産の衰退時期は、前述したように過疎化・高齢化が進んだ時期と合致している。葉タバコの栽培が養蚕などよりも重労働で、高齢者にとってはかなり負担を生じる農作業であったとされる。つまり、葉タバコ栽培は労働力の高齢化、養蚕は価格の不安定と安値が衰退の主たる原因であり、1976年災害当時の旧古宮村は、まさにこうした農業問題に直面していたといえる。


 4)移転後の動向
 今回行ったアンケート調査の結果(表10)によれば、1976年を境として災害移転前後の職業を比較すると、災害移転前の農林業従事者は11人を数えたが、移転後では5人であり、跡継ぎの農業者にいたっては皆無であった。また、農林業を除いては大きな変化はみられないものの、出稼ぎ・季節労働者の数は3人から1人と減少しており、跡継ぎの職業としては0人である。この農林業従事者の急速な減少は、耕作地の出身集落が災害危険区域であることや、今後の農業への不安、そして将来の生計維持や教育への不安から、離農して第二次・第三次産業への転職が迫られていた時期に起こったことでもあった。そのため災害後の、住民の安全が維持できる町の中心部への集団移転は、労働先を確保し、子弟の教育への心配をも解決しうる選択肢であったといえよう。この結果、家庭菜園も含めて、元々の耕作地に自動車での通勤耕作は回答者19人中11人がおこなっており、「生活の場」と「生産の場」の分離が進んだといえる。集団移転にともなうこのような職住分離は、過疎化対策の一環として行われた上那賀町の集団移転事業においても確認される。

 20年たった現在、当初予想されたとおり、有職跡継ぎ者の14人中12人までが土木・建設、製造、事務・公務員などの農外就業で占められている。しかしながら、跡継ぎの非同居率が42%であることからも分かるように、移転先においても後継者が働く場所を確保できず、県内・外へ働く場を求めて流出しているのが現状である。

4.水利用にみられる社会構造の変化
 「穴吹町誌」の1288ページに、穴吹町における給水方法とその変化に関して次のような記述がみられる。「水道が普及するまで、三島地区の飲料水や生活用水は谷川から竹どいで水を導入したり、井戸や泉から取水したりするのが一般的であった。井戸からはハネつるべ、又は滑車式の巻き上げ桶で汲み上げていた。また、一つの井戸を数戸で共同利用する場合もあった。(中略)昭和30年代になると、飲料水に不便な山間では、衛生思想の向上と生活様式の変化に伴い、簡易水道の普及率が急速に高まり、三島地域においても水道施設の建設が各所で実施されることになった。」
 穴吹町で最も早く計画された水道は、1954年度事業として一ノ谷川の表流水を水源として計画された小島簡易水道であった。その後町内各地で簡易水道や飲料水供給施設が建設された。穴吹町上水道事業は、1963年12月に給水を開始している。1996年の統計によれば、穴吹町には上水道が1カ所、簡易水道が7カ所、飲料水供給施設が7カ所あり、給水人口はそれぞれ上水道5,764人、簡易水道1,991人、飲料水供給施設236人となっており、これらの給水システムをもって町内総人口8,043人にほぼ対応している。なお、町水道課によれば、1997年8月までに中野宮簡易水道と丸山飲料水供給施設が穴吹町上水道に統合された結果、簡易水道と飲料水供給施設はそれぞれ6カ所になっている。
 町内ではこれまで、空野のように一度は設置された給水施設が人口流出に伴って廃止されたり、前記のように統合(一元化)される動きなどがみられた。ここでは、穴吹町の中心地から2〜3km の比較的近い場所で飲料水供給施設(簡易給水施設)を有する仕出原地区の事柄を取り上げ、地域と給水システムの変化をみることにする。仕出原地区では、戦前には竹の管を数 m おきに松のジョイントでつないで、近くの谷川から自然流下で導水しており、戦後これをビニール製パイプに変え、数年前に途中のタンクをコンクリート製にした給水施設がある。1993年に農水省補助事業の林業構造改善事業として、穴吹川の伏流水を水源とする仕出原簡易給水施設(図8)が設置されたが、従来の給水施設は今日もなお並行して利用されている。

 仕出原地区の人々は、新年の集まりや秋祭りなど、何かにつけて一緒に行動する生活の単位としてまとまっており、相互扶助の精神をもって、今日でも道の整備のために年に1〜2回の草刈りを行うなどしている。従来の給水施設では、とくに順番が制度化されていたわけではないが、暴風雨後に断水した際などに、ベテランを含めた4、5人が誰ともなく声をかけ合って出かけていた。地下水(穴吹川の伏流水)を水源とする新しい給水施設によって安心して十分な水量の水が得られるようになると同時に、水道メーターによる料金徴収制度が採用されるなど、生活はより近代化した。その一方で、これを管理するための組合組織が誕生し、年に1度の会計報告を行うとともに、月に3回(10、20、30日)上と下のタンク2カ所を持ち回りで見回る制度が誕生するなど、以前より役割分担は増えて連帯はむしろ強まったという。しかし、もしポンプの故障等が発生した際には専門業者に修理を依頼しなければならないなど、水道の維持管理が自分たちの手に負えなくなりつつあることもあって、今後は一元化(町が管理)される方向へ進むと思われる(1993年設立当時の仕出原簡易給水施設管理組合組合長新居一男氏からの聞き取り)。
 このように、穴吹町中心市街地からさほど離れていない仕出原地区の場合、町内のより離れた位置にあって著しく人口が流出した地域とは異なり、従来の給水施設が存続する一方でさらに近代的な給水施設が共同体によって管理運営されている。給水施設と生活様式の近代化に伴い、水道管理に関する組合組織や分業が行われるようになり、共同体としてのつながりはむしろ強まった観がある。しかし、上水道への統合など町内の給水事業は一元化される傾向にあり、これによって今後、役割分担が軽減された場合、共同体の関係も新たな関係に入るものと予想される。

5.まとめ
 穴吹町は、斡旋道路と鉄道の敷設によって、長い間後背山間地域の人・物資の集散地として地域の中心地機能を果たしてきた。工芸農作物、養蚕、木材などの農林業経済収益性の低下の始まった1955年以来、人口の減少が続いている。就職者人口は、1955年に第一次産業就業者72.7%、第二次産業就業者8.8%、第三次産業就業者18.5%であったが、1995年には、それぞれ15.7%、37.6%、46.7%となり、第二次・第三次産業就業者を増加させている。この傾向は美馬郡内の他の町村とも同じである。穴吹町の就業者は1995年に3,751人で、57.9%に当たる2,170人が自町内就業である。美馬郡内の他町村と比べると町外就業者の数が多い。
 1995年の穴吹町の農業粗生産額は13億8千円で、うち養鶏を中心とする畜産部門生産額は8億7千万円となる。対県比較でみると、養蚕、養鶏、雑穀・豆類、麦類、工芸農作物に特化している。1996年の製造品出荷額は10億9,784万円、年間商品販売額は67億6,528万円となるが、双方とも美馬郡内に占める比率で脇町、美馬町、貞光町に及ばないのが現状である。
 地域社会問題では、1975年・1976年自然災害による集団防災移転は、当初247世帯の希望があったが、結果として39世帯の集団移転となった。集団移転の特徴は、同一集落集団移転の形態をとり、顔見知りの住民同士の集団移転となっている。移転後の世帯主の職種は、離農して他産業部門に就業した世帯主も少なくないが、自給用家庭菜園を含め、通勤耕作を行う世帯もある。今回実施したアンケート調査結果をみると、移転世帯の同居跡継者の就業状況は土木・建設、製造、一般事務、公務員などの農外産業で占められ、非同居跡継者は農外産業従事のため、町外流出している例が多い。
 一方、集団防災移転でもみられた集落別の地縁同族意識は、穴吹町内の各所にみられる。水利用の社会的小集団集落の地縁関係の実態を穴吹町仕出原地区の事例にみる。これまで仕出原地区では、生活用水を谷川から導水していたため、水確保や暴風雨後の断水に際し、通水の共同作業を行う習慣が成立していた。今日、従来の給水施設が存続するとともに、近代的な給水施設が共同体で管理運営されるなど、相互扶助システムが残っている。
 本調査実施に当たり、穴吹町役場関係各課、下森防災集団移転促進協議会会長緒方重忠氏、新居一男氏、調査にご協力いただいた農家および町内住民の方々に深謝申し上げます。

 参考文献
1)大迫輝道(1975):桑と繭―商業的土地利用の経済学的研究―.古今書院
2)平井松午ほか(1989):上那賀町における集落再編成.郷土研究発表会紀要,No.35,pp137-148.
3)穴吹町誌編さん委員会編(1987):穴吹町誌.穴吹町.
4)中国四国農政局徳島統計情報事務所編(1998):徳島農林水産統計年報 平成8年〜9年.徳島農林水産統計協会.

1)四国大学経営情報学部 2)徳島大学総合科学部 3)北島町立北島中学校
4)鳴門教育大学附属中学校 5)徳島大学大学院


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