阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第45号
白人神社祭礼について

民俗班(徳島民俗学会) 高橋晋一1)

1.はじめに
 本稿の目的は、毎年10月27・28日の両日に行われている白人(しらひと)神社(口山字宮内)の祭礼の概要を報告するとともに、同祭礼の特質を明らかにすることにある。なお本稿で用いたデータは、平成10年10月6・7日に行った岡山歳治宮司、武田大三郎氏、南郷源一氏からの聞き取り、および7月28・29日、10月27・28日に行った現地調査に基づくものである。

2.白人神社について
 白人神社(旧村社)(写真1)は穴吹町口山字宮内2番地に鎮座する。社地は宮内地区の南端にあり、穴吹川に臨み、境内は楠(くすのき)、杉、椋(むく)などの古木に覆われている。主祭神は瓊瓊杵尊(ににきのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)・豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)・崇徳天皇・源為朝。境内社に八幡神社、天神社、神明神社がある。神明神社は、白人神社南側の鬱蒼(うっそう)たる原生林の中に鎮座している。白人神社の奥社と言われ、頂上付近の石堤は古代の磐境(いわさか)とされる。
 白人神社の氏子区域は奥口山全域(調子野、梶山、支納、知野、丸山、猿飼、宮内、田方、首野、大内)に及ぶ。氏子数はかつては500〜600戸あったが、過疎化が進み、現在は約300戸に減少している。
 白人神社の例祭は10月27・28日に行われている(27日が宵宮、28日が本宮)。その他、御的(おまと)祭(旧暦1月13・14日)、八朔(はっさく)祭(旧暦7月末日)などの祭礼行事がある。

3.祭祀組織
 1)宮人
 白人神社の祭祀(し)の最も大きな特色の一つが、75人の宮人(みょうど)の存在である。宮人は忌部(いんべ)族の子孫とも言われ、古来、白人神社の祭祀の中心を担ってきた。現在も白人神社の神輿(みこし)かきは宮人に限られている。宮人は、特定の家に代々世襲されており、一種の宮座と考えることができる。宮人は、かつては厳しい潔斎をもって祭礼に臨んだものと思われる。
 白人大明神は古来広大な社領を有し、それを確保するために宮人らは武装して防衛に当たった。中世を通じて、宮人は神威を背景に社会的・経済的特権を拡大していった。しかし藩政時代に入ると宮人の武装は解除され、自らの姿を木像に刻して神前に侍(はべ)らし(75体の神像が社殿内に奉祀されている)、平素は農業に従事し、祭礼にのみ参集することになった(穴吹町誌、1071頁)。宮人の家は宮内・首野・田方・調子野・知野・支納の六つのムラに分布している。神社を中心とするこれらの地域が、かつての宮人の活動の拠点であったものと思われる。宮人は現在、転出した家もあり、50人ほどになっている(「穴吹町誌」1071頁に、現在残る宮人の家が列記されている)。
 宮人の中には、代々、神主(かんぬし)(現当主・南郷源一氏[首野])、禰宜(ねぎ)(現当主・根元和典氏[田方])の屋号を名乗っている家がある。これらは、宮人のまとめ役を果たしていた家筋と思われる。神主は祭りの中できわめて重要な役割を果たす。出御(本殿から御霊代を取り出し神輿に奉遷する)・入御(神輿から御霊代を取り出し本殿に奉遷する)の際、宮司に付き従って本殿を出入りしたり、神輿巡幸の際に金幣(きんぺい)をささげ持ち、宮司とともに神事に参与するなど、本来宮司が行うべき役割を、同様に行っている。
 2)屋台と当屋、乗り子
 白人神社の当屋(屋台当屋)は、かつては七つの当屋組の輪番となっていたが、人口の減少(過疎化と昭和50、51年の台風災害による。新名、四合地、拝立、左手などのムラは、台風災害による地滑りによって消滅した)・高齢化・少子化が次第に進行し、従来の当屋組では祭りを維持することができなくなり、昭和60年(1985)ごろ、当屋組を次の4組に再編成した(一つの当屋組は2〜3のムラから構成されている)。現在、当屋は4年に1度回ってくる。
  1.調子野・支納・梶山
  2.知野・丸山・猿飼
  3.宮内・田方
  4.首野・大内
 平成10年度の屋台当屋は調子野・支納・梶山であった。当屋に当たった各地区からそれぞれ代表世話人が出て、世話人会を結成し、祭りの運営に当たる。また、当屋組の中の一つの地区がその年の代表責任地区となる。代表責任地区は各当屋組内の輪番で、平成10年度は支納が担当した(前回は梶山、前々回は調子野が担当)。
 屋台の上には5人の乗り子(打ち子)が乗り込み、大太鼓1、小太鼓2、鉦(かね)2で楽を入れる。乗り子は当屋地区の小学生(男子に限る)が務める。平成10年度は小学4年生2名、3年生2名、2年生1名という構成であった。基本的に、鉦は一番小さい子供が担当する。かつて子供がたくさんいたころは、抽選で乗り子を決めていた。
 3)ヨイヤショと当屋、乗り子
 ヨイヤショは、宮内・田方の2地区が共同で出している。かつては宮内・田方・新名・四合地の4地区が共同で出していたが、新名と四合地は、昭和50、51年(1975、76)の台風災害と過疎の影響で人口が激減(もしくは集落が消滅)し、ヨイヤショの当屋から抜けた。
 現在、ヨイヤショの当屋は、田方→宮内東→宮内西の順に、3年に1度回ってくる。各当屋地区に世話人2名がおり、全体の指揮をとる。ヨイヤショの乗り子は、宮内・田方地区全体から選ばれる。ヨイヤショの上には幼稚園〜小学1、2年生くらいまでの子供(男女どちらでも構わない)が乗り込む。ヨイヤショには屋台のように決まったたたき方はなく、担ぎ手の掛け声に合わせて、中央に据えられた大太鼓を周りから適当にたたく。ヨイヤショは、当屋地区の大人の男性(15〜20人程度)が担ぐ。
 ヨイヤショは本来5人乗り(以前は7人乗り)で、20年ほど前まで抽選で乗り子を選んでいた。そのため、乗り子の親には「おくじ当たりでおめでとうございます」というあいさつをした。近年は子供の数が少なくなり、乗り子は毎年2、3人である。平成10年度の乗り子は2名(いずれも女子)であった。
 ヨイヤショは、宮内・田方地区の氏神(小宮)である八幡神社の祭礼(10月1日)にも担ぎ出され、地区内を巡行する。

4.祭りの過程
 1)当屋入り、乗り子の練習
 宮人主導の祭祀と並ぶ白人神社祭礼の大きな特色は、聖別された時・空間で厳粛に行われる乗り子の練習であろう。
 乗り子の練習は、その年の屋台当屋の有志の家(多くは旧家)で行われる。しかし、個人の家でお世話をするのは大変なので、最近では、当屋地区によっては地区の集会所を練習場にあてている。平成10年度は、調子野・支納・梶山の3地区共有の集会所(調子野地区の中央にあるみさき野菜集出荷施設)で練習を行った。
 10月19日、練習を開始するに当たって、俗なる空間を聖化する「当屋入り」の神事が行われる。午後から集会所に宮司、神社総代、代表世話人らが参集し、大広間(個人の家で行われる場合はその家の座敷)にシメ(紙垂(しで)を吊(つ)るした注連縄(しめなわ))を張り巡らし、床の間にひもろぎを立てて白人神社の神霊をお招きし、玉串(ぐし)を奉奠(ほうてん)して練習の無事成就を祈願した後、師匠(当屋地区から1名選ばれる)の指導により練習が始まる(写真2)。平成10年度の師匠は、調子野の武田大三郎氏であった。乗り子の父兄は交替で炊事・雑用などの手伝いに当たる。


 数年前までは、当屋入りから祭りまでの10日間、師匠と乗り子5人が当屋の家に泊まり込んで練習を行っていた。乗り子は学校を休んで練習に専念し、外食することも禁止されていた。また、ケガレを忌み、女性は練習が行われている座敷には一切立ち入ることができなかった。昔は当屋入り以降は神に仕える期間ということで、師匠と乗り子の食事は別火で炊いていた。
 このように、当屋入り以降の練習期間は、単に鉦や太鼓の打ち方を教えるというだけではなく、神に仕えるための物忌み=潔斎の期間としての性格が強くみられる。しかし近年はこうした厳格な禁忌も徐々に緩やかになる傾向にある。乗り子は毎日給食を食べてから集会所にやって来て、13〜18時頃まで練習をし、夜は自宅に帰る。女人禁制や別火の食事についても、当屋によっては行われないこともある。
 鉦・太鼓の打ち方には、寄せ(打ち始めに全体のリズムを合わせるために入れる)、道中(御旅(おたび)[巡行]の最中に打つ)、据え打ち(御納場(おのば)などで屋台が止まった時に打つ)の3種類がある。屋台が移動しているときは道中を繰り返し打ち、止まっているときは全体(寄せ→道中→据え打ち)を繰り返す。
 当屋入り以降、10月23日の中日(中祝い、中祓(はら)い)までに、寄せ・道中・据え打ちの打ち方を一通り覚える。中日を過ぎたら本番に向け体力作りに重点を置き、ひたすら長い時間打ち続ける訓練を積む。鉦や太鼓の打ち方は口伝によるため、当屋地区によって、また同じ当屋地区でも師匠によって微妙に違ってくる。
 2)宵宮(10月27日)
  (1)屋台の組み立て
 屋台当屋は宵宮の朝8時に神社に集合し(30人あまりが参加、いずれも男性)、屋台の組み立て作業を行う。また、国道に面した鳥居の脇に「白人神社」と書かれた大幟(のぼり)一対を立てる。屋台は土台、かき棒、輦台(れんだい)、屋根というように、下から上へと順に組み立てていく。以前は祭り前日(10月26日)のショウジリ(精進入り)の日に、当屋地区総出で屋台の組み立てや奉納相撲(現在中断している)の土俵作りを行っていた。
 組み上げられた屋台は、カラ(乗り子を乗せない)のまま、宮内の街道(旧道、木屋平街道)筋の北外れ(宮内と調子野のムラ境付近)の緒方昭明家の庭に運ばれる。ここが午後の宵出し(屋台の巡行)の出発点となる。屋台は北向きに、穴吹川を挟んで正面に見える新宮神社と向かい合うように据え置かれる。
  (2)小宮回り
 宵宮の午前中、師匠と乗り子は、当屋地区にある小宮(こみや)(各集落ごとに祀(まつ)っている小祠(し)小堂)を順番に回る。これを小宮回りという。
 師匠と乗り子は朝8時に鳴り物を持って集会所を出発、2時間ほどかけて調子野・支納・梶山の小宮を順番に回り、神前で寄せ・道中・据え打ちを一通り奉納する。回る順序は次の通りである。大森神社(支納)、樫尾神社(支納)、大山祇神社(支納)、小森神社(支納)、若宮神社(梶山)、滝落神社(梶山)、御崎神社(調子野)、五所神社(調子野)、妙見神社(調子野)、妙見神社(調子野)。車で回るとはいえ当屋地区の範域は広く、また小宮にたどり着くまで足元の悪い山道を歩かねばならないところも多く、一苦労である。昔は徒歩で回っていたという。
 調子野・支納・梶山地区に当屋が回ってきた時には、小宮回りの最後は、必ず調子野の妙見神社(武田家[現当主・武田大三郎氏]の氏神)で行っている。午前中に妙見神社以外の小宮回りを済ませ、昼食を済ませた後、午後から妙見神社で岡山宮司に乗り子のお祓いをしてもらい、寄せ・道中・据え打ちを一通り奉納した後、そのまま屋台の宵出しに向かう習わしである。
 13時、集会所で乗り子が着物に着替える。華やかな大人用の振りそでを着、頭にかつらと烏帽子(えぼし)を被(かぶ)り、化粧を施して稚児(ちご)姿となる(写真3)。大太鼓担当の乗り子は着物の上に裃(かみしも)を着け、その他の乗り子は紅白のタスキを掛ける。


 13時20分、師匠、乗り子、乗り子の親一同、集会所を出て、車で口山集落基幹センター裏手山腹にある妙見神社に向かう。着物姿の乗り子たちは、父親に背負われて神社の急な石段を上る。本社到着後、鳴り物を拝殿内の所定の位置に据える。
 14時、岡山宮司が到着。14時10分、宮司、師匠、乗り子一同、拝殿内に参進、着座。宮司による修祓(しゅばつ)の後、乗り子が寄せ・道中・据え打ちを通しで奉納する。14時20分、一同、妙見神社を出て宵出しの出発地点に向かう。
  (3)宵出し
 宵宮の午後、屋台が宮内の北のムラ境を出発し、街道筋(JA〜宮内小学校〜口山郵便局)を通り、白人神社までの約1km の道程を打ち込んでくる。これを宵出しという。
 14時30分、師匠、乗り子、乗り子の親が緒方家に到着。鳴り物を緒方家の座敷(床の間の正面)に据える。師匠、乗り子、乗り子の親一同、緒方家の座敷に上がり、着座。乗り子は寄せ・道中・据え打ちを通しで1回奉納する。
 14時50分、乗り子は緒方家の庭に据え置かれた屋台に上り、川向かいの新宮神社に向かって寄せ・道中・据え打ちを通しで奉納する。昔から新宮神社を拝んでから屋台が出る習わしである。緒方家で楽を奉納するのは、おそらく庭を借りることに対するお礼の意味で、本質的には新宮神社に対する奉納が重要な意味を持っていたものと思われる。緒方家は、いわば新宮神社の遙拝(ようはい)所の機能を果たしているとみることができよう。新宮神社は白人神社の分社のようなもので、安永8年(1779)の「白人大明神由来書」によれば、白人大明神の神輿が川を渡り新宮社まで渡御していたという(穴吹町誌、1423頁)。新宮神社は為朝の妻女を祀っているとの伝説もある(美馬郡郷土誌、192〜3頁)。
 14時55分、屋台が出発。当屋の男性40人あまりが屋台を担ぎ上げ、腰で重心をとりながらゆっくりと宮内の街道筋を進んでいく(写真4)。屋台の上では乗り子が「道中」を繰り返したたき続ける。15時、宮内小学校前に屋台を据え置き小休止。


 15時5分、小学校前を出発。途中、山下商店前で待機していたヨイヤショ(写真5)と合流する。ヨイヤショの上には宮内・田方地区の子供(女子2名)が乗り、太鼓をたたく。ヨイヤショは屋台の後に少し遅れて付いていく。
 15時10分、屋台は県道に面した鳥居をくぐり、神社境内に入っていく。境内左手にある八幡神社の前で少し練り、本社前に進む。15時12分、屋台を拝殿前に据え置く。続いてヨイヤショも鳥居をくぐって境内に入ってくる。八幡神社の前で少し練った後、本社前に進む。15時20分、ヨイヤショを屋台の左隣に据え置く。この日の行事はこれで終了となる。
 3)本宮(10月28日)
  (1)神社への打ち込み
 この日は、午後から神輿の巡幸(屋台、ヨイヤショもお供する)が行われる。
 前日の宵出しの時と同様、宮内の北境の緒方家が屋台の出発地点となる。ヨイヤショも前日同様、街道筋の山下商店前に据え置く。ここから神社まで、屋台とヨイヤショが街道筋を巡行し、神社で神輿に御霊入れをした後、今度は神輿・屋台・ヨイヤショの順に列次を組み、街道筋を北に戻る形で御旅所(武田商店前)まで進む。御旅所祭を済ませた後、神輿・屋台・ヨイヤショの順に列次を組み街道筋を神社方面に戻り、お入りとなる。結局この日、屋台・ヨイヤショは街道筋を一往復半、神輿は一往復することになる。
 13時、当屋が屋台の出発地点に集まってくる。13時20分、師匠、乗り子、乗り子の親一同、緒方家の座敷に上がり、着座。乗り子の父親は黒のスーツに白いネクタイ、母親は黒の和服を着ている。師匠は黒の紋付き・袴(はかま)姿。乗り子は前日と違った着物を着ている。
 13時20分、乗り子は寄せ・道中・据え打ちを通しで1回奉納する。引き続き、乗り子は緒方家の庭に据えられた屋台の上に乗り込み、新宮神社に向かって寄せ・道中・据え打ちを通しで1回奉納する。
 13時45分、当屋が屋台を担ぎ上げ、巡行に出発する。この日の担ぎ手は60人ほどで、前日の宵出しの時よりかなり多い。近年は過疎化の影響で担ぎ手が少ないため、乗り子を出す家では、1人につき5人の担ぎ手を雇うことになっている。巡行の最中、乗り子は屋台の上で「道中」をたたき続ける。
 13時52分、屋台を宮内小学校前に据え置き、小休止。14時、屋台が出発。山下商店前でヨイヤショと合流。
 14時10分、屋台、ヨイヤショが相次いで境内に入ってくる。屋台、ヨイヤショを拝殿前に並べて据え置く。
 (2)神輿巡幸(神幸)
 14時16分、宮人が本殿右手の神輿庫から神輿を引き出し、拝殿正面に据え置く。
 14時40分、宮司、宮人、神社総代、代表世話人、乗り子、乗り子の親、露払いが拝殿内に参進、着座。宮司、大麻で乗り子を祓う。乗り子は拝殿を出て、屋台、ヨイヤショに乗り込む。引き続き宮司は大麻で宮人、神社総代、代表世話人、乗り子の親、露払い、拝殿前に据え置かれた神輿を祓う。屋台の上では、乗り子が寄せ・道中・据え打ちを通しで繰り返したたき続ける。
 15時10分、御霊遷(うつ)し。宮司、警蹕(けいひつ)をかけながら御霊代を本殿より取り出し、神輿に奉遷する。金幣を捧持した神主が終始、宮司に付き従う。
 15時17分、宮司、拝殿前に据え置かれた神輿の前で、発輿祭の祝詞を奏上。宮人が後ろに列立。発輿祭終了後、神輿が巡幸に出発。先触れの太鼓が先導し、宮司・金幣を捧持した神主、神輿の足を持つ役、神輿(チハヤを羽織り烏帽子を被った宮人の男性10人ほどでかく)が続く(写真6)。少し遅れて屋台、ヨイヤショが出発する。屋台は露払いの長刀(なぎなた)が先導する。乗り子の親たちは行列の最後尾に付く。


 15時48分、神輿を武田商店前に据え置く。屋台は緒方昭明家の庭、ヨイヤショは神輿の隣に据え置かれる。
 15時50分、御旅所祭の神事。宮司、神主が神輿の前に参進。宮司、修祓の後、御旅所の祝詞を奏上。ここで小休止。一同、御神酒を拝飲。
 (2)神輿巡幸(還幸)
 16時40分、神輿が御旅所を出発。屋台、ヨイヤショが後に続く。神輿は街道筋の商店や宮人の家を順番に回っていく。神輿が立ち寄る家は毎年大体決まっている。神輿が寄った家では、お礼に御花(御祝儀)や御神酒を差し出す。それに対して宮司、神主がお祓いをする。
 16時50分、庚申(こうしん)塔の前に差し掛かったところで、神輿、屋台、ヨイヤショの提灯(ちょうちん)に灯を入れる。現在はバッテリーを使っているが、以前はロウソクをともしていたので、提灯を焼かないように、神輿は静かにぼれ(かけ)といわれた。
 17時、神輿は白人神社向かいの神明神社境内に入っていく。鳥居手前に神輿を据え置き、宮司が御旅所の祝詞を奏上。金幣を捧持した神主も付き従う。
 神輿に続いて、屋台、ヨイヤショも大きく練りながら神明神社境内に入ってくる。威勢よく屋台を差し上げた後、神輿の後方に据え置く。続いてヨイヤショも到着し、屋台の隣に据え置かれる。あたりはすっかり日が暮れ、提灯の灯(あか)りが闇(やみ)に映えて美しい。神社付近は500人あまりの参拝客でごった返している。白人神社境内には13軒の露店が並び、子供のグループや家族連れでにぎわいをみせている。
 17時15分、神輿が神明神社を出発。しかし大勢の見物人の目を意識してか、神輿はすぐにはお入りをせず、白人神社の鳥居付近で行ったり来たりを繰り返す。屋台、ヨイヤショも、鳥居付近で大きく練り続ける。
 17時35分、ようやく神輿が鳥居をくぐり、境内に入ってくる。神輿かきが神輿を拝殿前に据え置く。続いて拝殿にて還幸祭の神事。宮司、警蹕をかけながら御霊代を神輿より取り出し、本殿に奉遷する。金幣をささげ持った神主が終始、宮司に付き従う。
 17時45分、屋台が鳥居をくぐり、境内に入ってくる。担ぎ手は屋台を高々と差し上げながら境内を練り、拝殿前に据え置く。ヨイヤショも後に続き、屋台の左隣に据え置かれる。これで祭りの行事はすべて終了。この後、拝殿内で直会(なおらい)が行われる。
 4)当屋の注連上げ(10月29日)
 祭り翌日の午前中、当屋が神社境内に集まり、屋台を解体して倉庫にしまう。また、この日の午後、集会所に宮司、代表世話人、神社総代が参集し、当屋入りの時にお迎えした白人神社の神霊をお還しする神事を行う。これを注連上げと呼ぶ。

5.まとめ
 神輿巡幸に屋台、ヨイヤショがお供するという祭りの形式についてみれば、白人神社祭礼は、穴吹町各地の旧郷社・村社の祭礼に共通した性格を持っていると言える。しかし本文でも指摘したとおり、白人神社祭礼の大きな特色は、宮人中心の祭祀、厳格な聖別をともなった乗り子の練習にある。前者は宮座につながる性格を持ち、後者は物忌みにつながる性格を持つ。近年、過疎化の進行によって伝統的な祭りの形も次第にその姿を変えつつあるが、宮人、乗り子といった「神に仕える者」を聖別しようとする発想が依然として強いという点が、白人神社祭礼の最大の特徴であると言うことができよう。

 参考文献
穴吹町誌編さん委員会編『穴吹町誌』穴吹町、1987年。
笠井藍水編『新編美馬郡郷土誌』聚海書林、1981年。
美馬郡教育会『美馬郡郷土誌』美馬郡教育会、1915年。

1)徳島大学総合科学部


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