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1.はじめに 穴吹町は、北は吉野川を挟んで脇町と対座し、周囲を山川町、美郷村、木屋平村、貞光町、一宇村に囲まれ、清流穴吹川に沿って奥深く広がる町である。多くの町村と接していることもあって、穴吹町固有の民俗というよりは、周囲の村や町からの影響を受けながら風習が成り立っていると考える。昭和30年(1955)の町村合併促進法の施行により、三島村(小島、三谷、舞中島)、穴吹町(穴吹、拝村)、口山村(東口山、西口山)、古宮村(半平、古宮)の四カ町村が合併して穴吹町となった。 今回は婚姻儀礼と葬送儀礼についての聞き取り調査を行った。町内で共通している事柄も多くあるが、地域ごとにやはり違いがある。そこで共通の部分を柱に、異なった部分には地域名を加えて書くことにした。紙面の都合上、葬送儀礼のみ報告する。 現在では葬儀社に電話をするだけで準備が整い、告別式を行うようになってきている。が、かつては、近隣の人たちの助けを借り、手作りの葬式を執り行っていた。葬式を出すことは各家にとっての一大事であり、講中・隣組にとっても最も重要な仕事であった。70歳代・80歳代の方々が昔を思い出しながら、快く話してくださったのは幸いであった。 全員が仏教、宗派は真言宗がほとんどで、他宗派(真宗)の人も親類や町内が真言宗なので、葬儀は真言宗と同様の方式で行うそうだ。どの地域にも隣組(講中)があり、例えば、三島地区の小島の東分では40軒が6班に分かれ、その内の3班(15〜20軒)が手伝いに当たる。口山の宮内西には9軒から6軒で構成する5組があり、死者の出た組の組長が指令を出す。死者が出た組は二人(夫婦)で他の組は一人が出役をする。
2.死の前後 ヨビモドシ(呼び戻し) 近隣の声の大きい人に名前を呼んでもらって生き返りを願うとともに、死を確認していた。 ヒキャク(飛脚) 電話や電報がなかったころ、飛脚が親類縁者に死亡の連絡をしていた。川田・美馬・貞光辺りまで、近隣の者が二人一組になって伝えに回った。知らせを受けた家で、お支度(そうめん)をよばれることもあった、その後、郵便局で電報を打つとか、国鉄の駅(小島)から電信で知らせるなど、伝える方法も変化していった。 マクラナオシ 死者を出里の甥(おい)(嫁の時)とか血(身)の濃い人(子・兄弟)が来るまでは病人として扱い(遠くで来られない時でも来るまで待つ)、死んだことを確認してもらってから、初めて死者として扱う。北枕(まくら)にし、死者の一番よい着物を布団の上から逆さに掛ける。枕をカブウチの人が蹴けってはずす(古宮)、一番血(身)の濃い人が蹴る(口山)などの風習は今も残っている。死者の枕元に屏風(びょうぶ)を逆さに立て、足元には、チョウナ、カミソリ、ナタ、カマなど刃物を魔除(よ)けのために置いた。出棺後に掃き出す時に使うほうきも逆さに立てた。近隣の人で死者の家の人と話をしていない人が神棚の戸を閉め、白い半紙を張る。 マクラモン(枕モン)、マクラノメシ(枕の飯) 死亡が確認されると、生前使っていたギョウギ茶碗(わん)一杯の米を土鍋(どなべ)で炊く。茶碗に盛り上げ箸(はし)を立て、八寸の膳(ぜん)の真ん中に置く。残った飯を4個の握り飯にして、四隅に置く。 マツゴノミズ(末期の水) チョク(湯飲み)に水を入れ、ハナシバ(しきみ)の葉を一枚入れ、近親者がその葉に水をつけ、死者の唇を浸し末期の水をあげる。「一本花(樒(しきみ))」を供え、「一本線香」を立て、納棺まで火を絶やさないようにした。 マクラダンゴ 米一升を粉にひき、49個のだんごを作る。(50個作って1個は後ろにほうる 三島)枕モンとして供えた握り飯やだんごは仏さんの弁当として、棺の中に入れる。 オツヤ ヨトギ(お通夜 夜伽) 坊さんに枕経を上げてもらい、初めて死者は仏となる。死者に付き添って別れを惜しみ、近親者は通夜をする。 ユカワ(ユカン 湯灌) 斎川浴(ゆかわあみ)−ユカワは葬式の当日の朝、納棺前に行った。最近は病院死が多く、家では儀礼的にアルコールでふく程度であるが、家で亡くなるのが普通であったころは、近親者が集まりユカワをした。「ユカワ酒」を飲み、畳を上げて座板の上にたらいを置き、先に水を、後に湯を逆手で入れ、たらいの中に死者を座らせ洗い清めた。男性は毛剃(ぞ)りをし、女性は化粧をした。ユカワに使った水は太陽の光に当てないように、座板を上げて流した。 納棺 白木綿で縫った死装束を左前に着せ、手甲に脚絆(きゃはん)を着け、足袋は左右反対にはかせ、「サンヤ袋」の中に6文銭や菓子、マクラメシを入れて首にかけさせた。死体が棺の中で動かないようにわらや番茶で埋め、生前の好物やわらじ、マクラのだんごも入れた。 昭和22、3(1947.8)年ごろまで、口山では中学校あたりに火葬場があり、手もとの良い家と、伝染病だった人の死体は火葬にした。それ以外は土葬であった。棺桶(かおんけ)(またはカメ)を使用し、寝棺になったのは昭和30年美馬東部共立火葬場が出来てからである。
3.野辺送り・ソウレンの準備 男衆はまず青竹を切りに行き、飾り物に使う細竹や棺を担ぐ棒の竹を用意する。「梅のズバエ」(引導を渡すときに導師が使う)も取ってくる。棺を埋める穴を掘る。土葬ではカメ(底に水抜きの穴を開けた)を埋めるために、直径1m、深さ1.5m
もの穴を掘らなければならなかった。墓石にする石を取りに行く。飾り物を作る。仕事は沢山あった。 おなご衆は食事の準備をした。白和(あ)え、ならえ、豆腐のみそ汁、ばらずし、なます、てんぷらなど今でも作っている。 当用物(とうようもの)の買い出し 今では葬儀屋がすべてを準備するが、かつては買い物帳を作り、荒物屋などで買い物をした。棺桶(カメ)から始まり、ロウソク・線香・骨壺(つぼ)・色紙・半紙など葬具に使う物一式(当用物)や死者の装束用のサラシ布なども買ってきた。 飾り物 地域によって飾り物が違う。テンガイは、寺に骨組みだけがあるので借りてきて、金紙銀紙を混ぜた色紙を張る。四本旗、たつのくち、花かご、四花など竹と色紙で作る。トンボぞうりはわらをたたかないで作る。ウマ(結界(けっかい) 三島地区だけで、口山・古宮はしない)も作った。棺を結ぶ縄は逆さになう(さかなわ)。
4.葬式 葬式の日取りは、寺の住職と火葬場との相談で出棺の時間を決めた。土葬は太陽を避け、夕方にかけて行っていた。僧に戒名(かいみょう)を与えてもらい、読経中に焼香し、引導を渡してもらう。棺のふたは石を拾ってきて打ちつけ、縄で縛った。 棺桶を担ぐ青竹は「さか棒」にし、根本の方が「先棒(さきぼう)」で孫が、「後棒(あとぼう)」を出里の甥が担ぐと仏が喜ぶと言われている。「位牌(いはい)持ち」は跡取り、「テンガイ持ち」はその家の一番主になる人(本家の長老など)が受け持ち、この人たちが三角の白い紙に梵字(ぼんじ)を書いたものを頭に結び着け、わらぞうりを履いた。「出立ちの酒」を飲み、葬列を整え寺の庭などの斎場に向かって出発した。飾り物を持つ役は、葬式を取り仕切っている人が名前を呼び上げた。庭には「六地蔵」が祀(まつ)られ(図1)、棺は庭で3回半回って葬列は出発する。その時、戸口でわら火をたき、死者の使っていた茶碗を割る。

5.野辺送り 葬列 1)花かご(口山では作らない)(図2)。2)タツノクチ(竜の口)道案内の灯ろう1番・2番の2本。3)四本旗(のぼり)4本作り、坊さんに経文を書いてもらう。4)盛りもの 口山と三島では違う。5)シカ(四花)盛りものと一対になる(図3)。6)導師。7)位牌。8)棺 天蓋(てんがい) 棺の上に天蓋をかぶせるようにする。9)ゼンノツナ(善の綱)サラシ1反を棺にかけ、女・子供が引く。
  埋葬 血縁・近親者が火葬場に行く。土葬では、そのまま墓地へ行き穴に納め、一枚石を置く(地獄石 くも石ともいう)。土をかけ、囲い石と拝み石を置き、四花、盛りもの、香立て、水入れを載せる(図4)。一周忌までに拝み石を取り、石塔を建てる。火葬場が出来るまでは穴を掘って「ぼた焼」をしたという。まきを荷車で10把ぐらい積んで行き、骨にしてもらった。墓地や火葬場に棺を担いでいくのは近隣の人だった。葬列に使った飾り物は、谷に捨てるか焼き捨てるかした。
 葬式の後 きよめ(塩祓(はら)い)をした。家の入り口に置かれた竹で作った「うま」(結界)(図5)をまたぎ、塩水で手を洗って清めた。今も三島地域では行っている風習である。

6.おわりに 葬儀が終わった後も、「お六日」など次々と行事は続くが、紙面の関係上割愛する。 本調査にご協力くださった次の方々に、紙面を借りて心よりお礼を申し上げる。 穴吹:拝村 岸竹次郎氏(大正9年生)、三島:小島 吉坂初市氏(大正3年生)、荒井美登氏(昭和4年生)、三谷 内藤博尚氏(昭和5年生)、内藤君子氏(昭和7年生)、舞中島 大塚享氏(昭和5年生)、口山:宮内 貞野孝治氏(大正13年生)、初草 北浪子氏(昭和17年生)、古宮 森西信雄氏(大正14年生)、教育委員会社会教育主事 上原芳明氏。
参考文献 『穴吹町誌』穴吹町誌編さん委員会,穴吹町.昭和62年10月1日. |