阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第45号
穴吹町の峠道

民俗班(徳島民俗学会)  橘禎男

1.はじめに
 穴吹町は、昭和30年(1955)に旧穴吹町、口山村、古宮村、三島村が合併して誕生した総面積109.18平方キロメートルの町である。耕地面積は全体の19%で、山林が77%を占めていることから分かるように、その大部分は山地である。
 吉野川に面した北側を除き、貞光町、一宇村と接する西側、一宇村、木屋平村と接する南側、木屋平村、美郷村、山川町と接する東側は、友内山、八面(やつら)山、綱付山、正善山、奥野々山、高越山など1,000m を超す高い山々で囲まれている。
 交通路は、吉野川に沿って国道192号とJR徳島本線が東西に延び、また穴吹から国道492号が穴吹川に沿って南に延びて木屋平村に達している。
 穴吹町の地図を見るとわかるように、山地を越える他町村との道路は、口山から貞光町家賀に通じる県道と、古宮から木屋平村谷口に通じる林道があるのみで、道路の開発が遅れていることがわかるが、逆に言えばそれだけ古い峠道が残っていることを示している。
 今回の調査は、徒歩が主な交通手段であった時代の峠道に焦点を当てて、そのルートと現状、峠に残る石造物を明らかにするために行った。現地調査は、平成10年7月28日から12月6日までの間の11日間である。

2.穴吹町の主な峠(図1)


 1)杖立峠(図2)1080m
 杖立(つえたて)峠は、剣山参拝道としてよく使われた峠である。口山の閑定の滝前にある、昭和3年(1928)建立の「剣山道 是よりお山へ十里 龍光寺八里」と刻まれた高さ3m、幅1.1m、厚さ40cm の道標や、古宮の石尾(いしお)神社の鳥居横の「剣山大権現 明治三十三年(1900)三月建之」と、本殿横の「安政五午年(1858)三月吉日」の2基の常夜灯などに、その歴史を読みとることができる。藤原の仁木宮子氏(73)は、小学校6年生の時、先達さんに連れられて剣山へ登ったときのことを詳しく話してくれた。登るときに使った杖を下るとき立てた峠は、「杖の森」ともいって木がたくさん繁っていたという。
 この峠は、平成5年(1993)3月に完成した林道杖立線の工事で、昔の面影は消えてしまった。

 2)恋人岬(越途峠)
 穴吹川中流域の首野と拝立(はいたて)、左手(きで)を結んでいたこの峠には四本の道があり、石造物も多い。
  (1)上越途峠(徒歩道)290m
 首野から六つ辻、拝立につながる峠で、山の神がある。
  (2)越途峠(徒歩道)(図3)240m
 藩政期から明治初期にかけて使われた。ここは石造物も多く、回り踊りが行われたという広場もある。茶屋もあったといわれており、昔の峠の雰囲気を残している。「延宝二甲丑年(1674)十月吉日」の庚申(こうしん)塔が2基あり、首野、左手の人の名が刻まれている。文化6年(1809)の大師像と観音像は庚申塔と並んで立つ。


  (3)中道(荷馬車道)180m
 郡道(六尺道)としてつくられ、明治の末、自動車道が下に出来るまで使われた。壁側の崩壊で一部通行不能だが、峠部分はよく残っている。石造物はない。
  (4)国道(自動車道)120m
 明治36年(1903)から45年(1912)にかけて大改修された。「恋人峠」という名が付いたのは戦後のことで、近年若いカップルが恋の成就を願って、フェンスに鍵を掛けることで有名になった。現在国道482号線が通る。「明治四十二年(1909)二月二十一日安置 首野名中」の銘がある大師像が鎮座する大師堂がある。
 なお、峠名の由来については、国道沿いの説明板にある平家落人説のほかに、首野の藤川義夫氏(74)が、昭和27、8年ごろたばこを出荷する際、屋号の「コエト(越途)」を「恋人」と書いて出したことから、「恋人」の名が広まったという話を聞くことができた。
 3)六つ辻(320m)と左手の石造物
 峠らしい名前でないが地形的には峠で、五つの道が交わっている。ここに、「こんぴらへ すぐみち 孫右衛門 弥太郎」の銘のある道標(図4)が立つ。これは、讃岐の金比羅への道しるべで、古宮、鍵掛(かいがけ)から左手、拝立を経て六つ辻に達し、梶山峠を越えて家賀(けか)から貞光へ出て、三頭越から讃岐に入る金比羅参拝ルートがあった。


 このことは、左手に残っている「左こんぴらみち 貞光どうり 祥(拝)立名佐出(左手)名中 世話人 喜太良 重吉」と刻まれた道標からも裏付けられる。2基の道標に年号はないが、左手の道標に並び立つ「文化十年(1813)九月吉日」の庚申塔に、六つ辻の道標に名前の出ている「孫右衛門」の名があることから、同時代の建立とみられる。
 その他の石造物として、六つ辻には像高37cm の大師像がある。また、左手の毘沙門(びしゃもん)堂横には、「元文四年(1739)正月十三日」と「元禄十三庚辰年(1700)十月朔日」の庚申塔があり、「天保六未年(1835)三月」の像高33cm の大師像もある。
 4)梶山峠
 梶山と貞光町家賀を結ぶ峠で、首野、梶山から貞光へ出るのに使われていた。県道端山(はばやま)調子野線が峠を通っており、峠の手前に道路の完成記念碑がある。
 5)地蔵峠(図5)510m
 支納と貞光町家賀を結ぶ峠で、支納峠ともいう。「子供の時から、貞光へよく買い物に行った。旧暦4月の9、19、29と9のつく日に立つ市に出かけて、農具や生活用品などを買って帰った。片道2時間はかかった」と、支納の向井昌利氏(74)が話してくれた。昭和62年(1987)、峠を南北に貫いて林道内田小島線が通じたため、峠の様相は一変した。峠には、造立年代はないが2体の地蔵尊があり、古い方は首が欠けている。


 6)中谷越 840m
 古宮から北又を経て峠を越え、端山、貞光へと通じていた。また峠から稜(りょう)線を北に登ると友内神社のある友内山に通じる。峠には、「右 友内山 左 端山 こんぴらか(嘉)永二年(1849)八月吉日 寛勝」と、方角を示した手形が刻まれた緑色片岩の道標(図6)が残っている。この道標には、山、村、神社の名が並んでいて、書体も楷(かい)書から草書まで使われており、さらに手形が線刻でなく凹状に深く彫り込まれているなど、他では見られない特徴を持っている。


 「古宮と端山は姻戚(せき)関係が多く、峠を越えてよく往来した。たばこ、こんにゃく、炭などの産物を出荷し、帰りは食料品を買って帰った。友内山は参拝者が多く、子供のころからよく行った」と、谷奥一敏氏(77)が話してくれた。
 7)剪宇峠(図7)861m
 北又と一宇村剪宇(きりう)を結ぶ峠。昭和48年(1973)、この峠の穴吹側で大蛇を見たという話が広まり、大蛇騒動があった峠として有名である。V字形の典型的な峠の形をしており、杉の大木もあるので、麓(ふもと)から一目で峠と確認できる。明和9年(1772)と弘化4年(1847)造立の2体の大師像と、「嘉永三年(1850)羽根切惣氏子中」の銘がある常夜灯がある。いずれも一宇側にあり、剪宇の人々によってまつられている。


 8)ホトケノタオ 886m
 川瀬と大内を結ぶ峠。途中に葛籠、早草、大平などの集落があったが、現在人は住んでいない。峠には4体の石造物がある。地蔵尊(図8)とみられる2体は、高さ112cm のおかまごの中に祀(まつ)られている。銘はなく、材質は中世の五輪塔に使われたと同じ凝灰岩である。凝灰岩の地蔵尊は少なく、県下の峠では他にまだ見つかっていない。他に砂岩製の地蔵尊や、「村惣中」と刻まれた石造物が離れて立つ。なお、おかまごの中には、古宮新四国の虚空蔵菩薩もある。


 9)杖立峠
 前記1)と同名の峠だが、こちらは半平山の北東にあり、ホトケノタオの西に位置する。今は無住となった杖立と新名、大内を結んでいた。なお「杖立峠」という名は、新名、大内の人々が使っていたもので、杖立や半平の人は峠とは呼んでいない。
 峠部分はやせ尾根で、大きな岩壁もある。山王神社に近い尾根には、「元禄三年(1690)庚午年三月三日」の行者墓がある。また峠から1.6km 北の町道沿いには、役の行者像を浮き彫りにした道標(図9)がある。それには「(右)新名峠迄二十丁 左高越山エ五拾八丁 明治二(1869)巳十二月吉日」とあり、施主名は「柳作」は読めるが、出身地は読みとれない。


 この道標は、この道が高越山への参拝道として使われていたことを示している。また方角を示す(右)の部分は欠けているが、「二十丁」という距離から、「新名峠」が「杖立峠」と同じ所を指すのではないかと思われる。もしそうだとすれば、杖立や半平など古宮地区から、この峠を越えて新名、大内を経て、樫山、船窪を通り高越山へ行く道があったことになる。大内の佐藤弘氏(65)にたずねると、このルートがあったことを教えてくれた。
 さらに、地元の人から確認することはできなかったが、道標は、この峠に二つの名前があったことを示唆するものである。

3.峠の保存と活用
 穴吹町の峠道を歩いて思うことは、石造物が多いこと、車道が出来た三つの峠を除いて昔の峠の状態がよく残されていることである。特に、こんぴら道の道標が3基も残っていることは、昔の信仰の道を知る上で欠かせない資料である。
 恋人峠(越途峠)は、交通手段の発達につれて順次変わっていった道がすべて残っていて、さながら道の博物館ともいえるもので、このような例は県下でもここしかない。広場や庚申塔のある峠を中心とした巡回コースをつくるなどの活用策が考えられる。
 剪宇峠は、現在両地区から林道が延びているが、「林道は、峠の南方を通る計画である」ということを、町役場の担当者から聞いた。
 ホトケノタオは、どちらから登っても峠まで3時間を要する、県下の峠道の中でも長いコースだが、変化に富んでいて石仏も多く、峠歩きをしたい人には大変魅力ある峠である。
 どの山村にも共通しているが、林業の不振や利便性から山地に住む人が減り、山道を歩く人もなくなった。峠の石仏に、水や花が供えられているのを見かけなくなって久しい。
 時代は、速くて便利な車社会の時代へと変わり、山地にも車道の建設が急速に進んで、使われなくなった峠道は忘れられ、消えようとしている。しかし、先人たちが苦労してつくり守ってきたふるさとの峠道を、消えるまにしておいてよいのだろうか。
 峠とそこに残る石造物を文化財として保存すること、そのため尾根を越す道路は古い峠を避けて通すこと、さらに峠道の活用法を考えるなど課題は多いが、その取り組みを少しずつ前進させていくことが大切である。

4.おわりに
 今回の調査に際して、多くのご教示を賜りました地元穴吹町の谷奥一敏、向井昌利、高岡安正、仁木文雄、仁木宮子、藤川義夫、佐藤弘、大内安子、土居庄一、田尾道治の各氏に深く感謝いたします。

 参考文献
穴吹町誌編さん委員会編『穴吹町誌』穴吹町,昭和62年
徳島県郷土文化会館民俗文化財集編集委員会編『阿波の石造民俗』徳島県郷土文化会館,平成6年


徳島県立図書館