阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第45号
岡本韋庵(文平、のち監輔)について −関係史料の所在調査と研究動向−

地方史班(徳島地方史研究会)

  立石恵嗣1)・名倉佳之2)・

  増田智一2)・大柴せつ子3)・    

  須藤茂樹4)・根津寿夫4)・

  小川裕久5)・金原祐樹1)

1.はじめに
 当町三谷地区出身の岡本韋庵(いあん)(天保10年[1839]〜明治37年[1904])については、没後7年にして発足した韋庵会を中心に、胸像の建立・伝記の編集・関係史料の収集等がおこなわれ、昭和32年(1957)ころ韋庵文庫の整理に着手し、同39年(1964)には家系と年譜の作成、「岡本氏自伝」、「窮北日誌」(開拓事宜を含む)の翻刻出版、銅像の再建など、以前にも増して顕彰活動がなされている。韋庵の足跡は広域に及び、中んずく東京・北海道・柯太(樺太)・千島諸島などに東奔西走しており、未見の関係史資料も多く残存していると推察され、十分に研究され尽くしているとは言いがたい。柯太と樺太については、「岡本氏自伝」にも明記されているように、松浦武四郎(幼名竹四郎、韋庵よりも9年ほど早く南樺太を2度探険)との間に侃侃諤諤(かんかんがくがく)の論争が展開されている。松浦武四郎については、樺太南部の東岸マクンコタンに記念碑が建立されており、汗牛充棟の著書も刊行会が出版、記念館も建設されているという。それに比べて韋庵は、眉山ロープウエイ下の銅像の撤去が議論になっていたが、この度ようやく決着がつき、地元穴吹町役場の正面玄関前への移転が実現した。かつては、少年たちの理想像の一つに岡本韋庵が掲げられていたという(三宅弥之治郎、「ふるさと阿波」第38号)。幕末から戊辰(ぼしん)戦争を挟んで、明治維新というわが国の激動・変革の時代に先駆け、北門の鎖鑰(さやく)の重要性の警鐘を鳴らしたわが郷土の偉人、岡本韋庵について、その歴史的評価を見直す必要があろう。幸い穴吹町では、郷土偉人資料館・吉野川治水歴史館の建設推進委員会が結成されており、着々と資料調査が進んでいる。資料調査に入る前に、同推進委員の三谷英二氏のご教示を得たことに深謝するとともに、私たちの調査が同委員会の一助となるならば望外の幸せである。以下、調査の経緯の概略をご報告することにしよう。

2.現地調査及び岡本韋庵の墓石調査
 1)現地調査
 三谷英二氏のご案内で、韋庵の旧宅・岡本家先祖の墓所・堤新甫宅跡・同墓地などを探訪したあと、各種資料についてご教示を頂いた。韋庵の生家はすでに他家の手に渡っていたが、青石の標柱によって明示されていた。生家の前方には、緩やかな登り道を挟んで先祖の墓石が数基並んでおり、濃い緑の樒(しきみ)が手向けられていた。幼年期に師事した堤新甫の塾は雑草に覆われていた。その高台から北方に目をやると、眼下に吉野川が滔々(とうとう)と流れ、対岸の脇町がくっきりと見え、かつての領主・稲田家の浜屋敷などに思いを馳(は)せた。「岡本氏自伝」に記載されている上田隆三郎は、対岸脇町の稲田家家臣・猪尻侍で私塾・発生塾の塾主であり、上田官兵衛はその父である。また、すぐ近くで私塾・神全塾を経営していた武田家には、岡本文平発信の書状が現当主武田誠夫氏によって保存されている。讃岐国(香川県)の古文辞学派・中山城山の弟子が藤川三渓であり、武田家には城山の書簡も所蔵されている。韋庵が北方探険への情熱を燃やしたのは三渓のところに寄寓(きぐう)していたときであり、明治19年(1886)に書いた「海国急務」(海業社)の序文を請われたのが監輔(韋庵)であった。それは、「夫海は天造の大福田で、無尽蔵の宝庫である。これを開発するのは国家富強の基であり、今日の急務である。」と論じている。韋庵関係の史料について言えば、他にも町内はもちろん近隣町村には、未見の書簡や遺墨が所蔵されている可能性があり、徹底的な調査が必要であろう。
 2)岡本韋庵の墓石調査
 韋庵は、長谷寺(東京都港区西麻布2丁目21)に岡本家の墓とともに葬られている。
韋庵本人の墓は、正面に「韋庵岡本監輔墓」、裏面には「明治三十七年十一月九日卒」の文字が刻まれている。その隣には韋庵以降の岡本家代々の墓が建てられている。正面には「岡本家之墓」とあり、向かって右側面部に「鶴壽院瑤室智泉大姉 監輔室[昭和五年二月九日歿/俗名岡本壽こ行年八十歳]/天真院絶學義照居士 嗣子[大正八年十一月十一日歿/俗名 健 行年三十四歳]/智芳院妙容信女 長女[明治二十九年二月六日歿/俗名たけ行年十四歳]/紅顔孩女 孫[大正十一年十一月二十五日歿/俗名 悦 行年二歳]」と見える([ ]は割書、/は改行を示す)。さらに向かって左側面には「厚誼院健山道悦居士[昭和二十五年一月十六日歿/俗名健二郎行年六十三歳]/温順院靈室貞光大姉[昭和四十二年四月十七日歿/俗名れい行年七十歳]/嘉祥院篤実通達居士[昭和二十八年十一月十九日歿/俗名 勇 行年五十九歳]」とある。
 韋庵の墓石は写真で紹介されているので、岡本家の墓碑についても当然知られていたと
考えるが、これまで詳しく報告されたことがないので、この機会に紹介しておく。
 本墓碑銘で注目されるのは、監輔(けんすけ)の妻として「壽こ」の名が確認できることである。はじめ「壽」と刻んだ後に「こ」の字を余白に小さく添えたように見えるから、あるいは「壽」と通称していたものかもしれない。また行年14で亡くなった「たけ」は長女とあるから、その生年と推測される明治15年(1882)には、監輔と壽(壽こ)の二人は家庭を営んでいたかとも思われる。また「悦」は監輔の「孫」とあるが、おそらくは嗣子である「健」の子と考えられる。従来「健」には子女がなかったと伝えられていたが、「悦」が幼くして死んだために、あえて子としては数えなかったのかもしれない。
 左側面の碑文には続柄の記載がない。ただし、「健二郎」「勇」は、ともに監輔の子として知られており問題ない。「れい」については監輔の娘であった可能性も否定できないが、むしろ「健」が子女のないまま死去した後、宗家を継いだ「健二郎」の妻女ではなかったかと思われる。また没年にこれまでの記述と多少のズレのあることも気にかかるが、とりあえず碑銘の記載をもって訂正すべきかと思われる。
 なお従来より監輔の子として三男一女を数えるが、その際「鑑子」を一女として数えている。ただし「明治38年(1905)天津に嫁し戦後不明」と伝えられるように、他家に嫁ぎ、消息すら不明な彼女は、当然ながら本墓所には埋納されていない。代わりに長女として「たけ」の名が見えることは既述の通りである。14歳にして没していたため、子女として数えられなかったのだろうか。
 以上を系図にまとめると次の通りとなる。


 とまれ監輔の妻として壽こ「壽こ(壽子か?)」の名を確認し、子女の生没年等も知り得たことは、監輔の私的生活をうかがう手掛かりとして重要ではなかろうか。

3.北方探険および開拓関係の史料調査
 1)北海道立文書館所蔵史料
〈目録〉
簿書5706 399「岡本監輔 御用滞在ノ件」
  5708 42「樺太開拓費精算ノ儀に付関係ノ官員帰京ノ件」
     101「岡本判官免官ニ付官録渡方ノ件」
  5481 52「岡本判官依願免官ニ付直垂下賜ノ件」
  131〜136「樺太事件(岡本関係)」
  和書  「北門急務」
 青年時代(文久元年[1861]:20才〜明治4年[1871]:34才)の岡本韋庵(監輔)は、北辺の樺太開発に奔走していた。樺太は当時安政元年(1854)12月にプチャーチンとの間で結ばれた日露和親条約で雑居地と定められており、その開発は、北辺の厳しい気象条件と共に、ロシア人との交渉という難題が横たわっていた。
 明治新政府は、明治元年(1868)4月12日箱館(函館)に北地開発のため函館裁判所を設け、清水谷公孝を総督とした。清水谷と知遇があり、数度の樺太調査を経ていた韋庵は、従五位を受け権判事として樺太島全島一切の開拓事務を任されることになった。6月外務大丞の丸山作樂と共に、約200の農工の移民団を連れて樺太南岸のアニワ湾内久春古丹(クシュンコタン・大泊)に入り、公議所を置いて樺太開発の拠点とした。しかし、入植当時から南樺太の雑居化を図ろうとするロシアの中佐テフラートとの交渉に苦心していた。更に翌2年には、ロシア軍が樺太に上陸し、函泊を占領するという事件が起こるなど、ロシアとの交渉は困難を極めていた。
 明治2年(1869)7月明治政府は箱館に開拓使を置き、韋庵も判官となり一時箱館に戻っていたが、9月には農耕民400余を連れて再び樺太へ渡っている。更に翌3年(1870)2月13日には樺太に樺太開拓使が独立して置かれるようになった。しかしその一方、1月に丸山作樂が函泊でロシア側と交渉を持ったが妥結を見ないなど、依然厳しい状況は変わらなかった。
 こうした対ロシア問題の中で5月より北海道開拓使次官となった黒田清隆は、同時に樺太専務となり、7月19日樺太への出張が決まった。樺太へ渡った黒田は、その状況を精力的に観察し、10月に樺太の情勢を建議としてまとめている(いわゆる「10月建議」)。その建議は、ロシアの情勢・歳費(今後の開拓にかかる予算)の状況・樺太開発の困難さ(前年樺太は凶作であった)などから北海道開発に歳費を集中させるためにも、樺太開発に消極的なものになっていた。さらに閏(うるう)10月にはこの建議を元に樺太開拓使の改革が行われている。それに対して韋庵は、この時期免職願いを提出している。下記の史料は、免職願いを提出した後、免官の聞き届け沙汰書等を受け取ったとき書かれた請書で、北海道立文書館の簿書の中にある「岡本監輔御用滞在一件」の中につづられた史料である。
  小臣義去冬免職奉願候義ニ付而者、御沙汰之次
  第彼地ニ於而伺居候筈とも奉存候とも、御沙汰之
  程如何難斗、氷解之折柄依然奉職仕居候ハ
  何分子 汗顔之至、殊ニ彼地近来之情実私
  心難被遊御棄置と存込候、許々従来之失策
  ニ抱り黙止仕も背本意候間、其邊一應奉建
  言度、過三月八日久春古丹出立昨廿三日出府仕、
  □箱館着之節免職願之通被仰付
  候趣承知仕候、道路行違ニ而御沙汰書ニ
  通并直垂も今日ニ至り奉落掌候、依之此段
  御請奉申上候以上
   未(明治四年)
   四月廿四日   岡本監輔  花押
   辮官御中
    (北海道立文書館所蔵簿書5706 399「岡本監輔 御用滞在ノ件」542)
 この資料は花押まで書かれており、精巧な写本又は現物と思われるが、去る冬(明治3年の冬、黒田の建議書以降か)免官を依願したこと、沙汰書を待つつもりだったが、遠方なので沙汰の状況を図ることができず、数カ月過ぎ3月となり流氷の氷が解けた上でもさらに樺太で仕事をすることは汗顔の至り(恥ずかしいこと)なので、3月8日にクシュンコタンを出て23日には出府(東京か)についたこと、その後箱館で行き違いになっていた沙汰書等を受け取ったことが書かれている。また自分自身も樺太開発の失策にかかわり、このまま黙っていることも本意に背くので一応建言を残したいということを述べている。その後も札幌に滞在(5月に北海道開拓使は函館から札幌に移される。)し、樺太開発の精算などを行うかたわら、「北門急務」「窮北日誌」といった本を書き上げたのである。
 2)北海道大学附属図書館所蔵資料調査
  北海道、樺太、千島、ロシア 日本北辺関係旧記目録
岡本監輔(文平、韋庵)
 岡本韋庵草稿   2020
 岡本監輔書    2019
 岡本氏自伝    1859
 開拓事宜     2635
 管見       2618
 北蝦夷新志    2616
 窮北日誌     2634
 権判事以意見全嶋江被示候写 2621
 古今文髄     2015
 千島諸島の現状  2475
 北門急務     2636
〈史料〉
*1859 岡本氏自伝 上・中・下 岡本監輔 写本 3巻2冊 88丁、146丁 27cm
(註)慶応元年(1865)箱館奉行所の在住となってカラフト島N北端を周回し、明治初年箱館府の権判事、開拓使の開拓判官としてカラフトの維持に努めた岡本監輔の自伝。他書にみられない多くの貴重な情報を含む。 (道写本 033)
1860 岡本監輔先生伝 河野常吉 明治37年 写本15丁 27cm *「北海道庁」罫紙
(註)カラフト問題の先覚者岡本監輔の略伝。明治35年(1902)岡本の来道に際し直話を聴取した河野常吉が、明治37年岡本の死去に際し同年11月の「北海タイムス」紙に掲載したもの。 (活)犀川会資料第九号 (道写本032)
*2015 古今文髄 上・下 岡本監輔評選 複写(活字本 2冊)26cm 東京 選者 明治18年刊
(註)中国の古典籍より名文を抜粋し、漢文で注釈を加えたもの。選者は阿波の人。慶応元年(1865)日本人として初めて樺太を周回し、明治初年には樺太詰の開拓判官として活躍した。明治24年(1891)には千島義会を興す。 (旧記1232)
*2019 岡本監輔書 明治24年 軸物 書 112×55cm
(註)七言絶句の漢詩 「自函館到根室舟中作韋庵」とあり、千島義会を設立した際のもの。(軸物 103)
*2020 岡本韋庵草稿 明治25年ごろ 複写(自筆本 6丁)26cm
(註)「読函館寓名士伝」「哭前野五郎」(いずれも漢文)の2編を含む。 (別895.2−OKa)
*2475 千島諸島の現状 岡本監輔 明治24年 複写(活字 22頁)26cm
*「東邦協会々報」掲載の講演筆記
(註)もとカラフト詰の開拓判官岡本監輔が、千島の開拓を志してウルップ島以南の島々を調査した後の講演。その後「千島義会」を設立したが成功しなかった。 (旧記1233)
*2616 北蝦夷新志 岡本文平(監輔)慶応3年 木版本 30丁 22.5cm
*北門社蔵版 3部
(註)慶応元年西村伝九郎とともに北カラフトを周回した筆者が、各地の地理・状況を記し、カラフト開拓の不可欠なことを説く。地図およびニクブン(ギリヤーク)語彙(い)が付いている。所蔵3部のうち2部は標題紙を欠き、1部はサイズその他にやや違いがある。 (旧記298−1〜2、199)
*2618 管見 岡本監輔 慶応4年12月 複写(写本 9丁)26cm
*北海道立文書館本「北蝦夷地日誌抄」中に収録
(註)箱館府のカラフト詰権判事として赴任した岡本が、同地の官員たちに対してカラフトを日本に確保するために産業開発の努力を求めたもの。 (旧記 1419)
2619 久春古丹往復書 泊り保呂公議所 慶応4年 複写(写本27丁)26cm
*北海道立文書館所蔵本
(註)箱館府時代のカラフトで本拠地の久春古丹と出張所間で交わされた往復文書控。岡本監輔のウショロ廻浦、堀清之丞(堀基)の出函に関する文書も含む。 (旧記 1464)
北蝦夷地日誌抄 明治元〜2年 複写(写本 30丁)26cm
*北海道立文書館所蔵本
(註)明治初年箱館府時代のカラフト関係文書を収録する。「北蝦夷詰合心得七則」、「辰一〇月一七日於ウショロ渡来の満州人ト対談仕候儀申上候書付」(高橋峰三郎)、「管見」(岡本監輔)、「権判事以意見全嶋江被示候写」(岡本監輔)、「北蝦夷地東浦漁場石高網類並人数見込書」その他を含む。 (旧記 1419)
*2621 権判事以意見全嶋江被示候写 岡本監輔 明治2年 正月複写(写本 6丁)26cm
*「北蝦夷地日誌抄」に収録
(註)「カラフト島仮規則」の締結によってカラフトに日露雑居の現状をもたらした旧幕府の小吏(小出大和守)を批判するとともに、ロシアに対抗するための自らの非力を述べる。 (旧記 一四一九)
2622 楠渓贈答録 鵜城出張所 明治2年 複写(原本 172丁)製本2冊 26cm
*北海道立文書館所蔵本
2624 函館府往復書 明治2年 4〜8月 原本 43丁 24cm
2627 柯太談判書 118号 明治2〜3年 写本 35丁 23.5cm
*明治4年写、「羽沢文庫」印あり。
(註)明治2年12月より同3年1月の樺太函泊における外務大丞丸山作楽、開拓判官岡本監輔らのロシア軍当局者との談判記録。アイヌ墓地を通る道路建設、漁場内の波止場築立に対する抗議など。
*2634 窮北日誌 上・下 岡本文平(監輔)明治4年 木版本2冊 22.5cm
*北門社蔵板
(註)慶応元年北蝦夷地在住の岡本監輔が、箱館奉行の許可をえて足軽西村伝九郎とともに日本人として初めて樺太北部を周回した際の紀行日誌(漢文)。南摩綱紀、海保元起、山東一郎、岡修等の序文あり。付録として樺太開拓の急務を説いた「開拓事宜」が付く。 (旧記 323)
*2635 開拓事宜 岡本文平(監輔) 明治4年 木版本 17丁 22.5cm
*「窮北日誌」巻下に収録
(註)慶応4年(1868)から明治3年まで樺太行政の責任者であった岡本が、辞職後に日露雑居の樺太の現状を憂い、その開拓の急務を論じたもの。(旧記 323)
*2636 北門急務 上・下 岡本監輔(文平)明治4年 木版本2冊 22.5cm
*東京 北門社蔵版
(註)明治3年に樺太行政の責任を辞した著者が、樺太は日本固有の領土であることを説き、その開拓の方策を論じたもの。(別・樺 325−OKa)
 上記の史料中、2618の「管見」(「北蝦夷日誌」中に所収)を抄出しておこう。これは、箱館府のカラフト詰権判事として赴任した韋庵が、官員たちに対してカラフトを日本に確保するために、産業開発の努力を求めたものである。韋庵のカラフト開発への意欲がみなぎっている史料である。
「北蝦夷日誌抄」 北海道廰図書之印
管見
北地全島ノ外国人ドモガ異論アルベキ筈ナラザルコトハ諸君ノ常ニ評セシ如クナリト云トモカンシャツ。オボッカヨリ黒竜江ヲ経テ朝鮮ニ至ルマデ元来我邦ニ属セシヲ置テ問サルハ有志ノモノナラテハ嘆スルモノ少ナシサレド前代ノ事ヲ口実ニシテ其術ナキハ恥ベキノ甚シキト云ベシ近年徳川家俗吏ノ處置不行届ナリシニ魯國ノ勢盛ナルヲモテ西洋人ナドモ此島ヲ魯國ニ属シタルト思モノアリト聞ク夷民ノ情実南島ニ同ジキヲ知ザルニ由ト云ドモ此地ニ詰合スル上ハ詳辮シテ至當ノ公議ヲ求ズンバアルヘカラズ因ヲ諸君ノ為ニ大畧ヲ演舌スベシサレドコレハ某ガ管見ヲ述ルノミ歴代史載ナド某未ダ百分ノ一ヲ窺モノニアラザレバ此島ニ関係アル事件ニ於テ見ノ及ザルコトノミ多シ幸ニ示教ヲ惜ムナカレ
 カムシャッハ蝦夷語ナラズヤカムハ揮テ魚獣ノ肉ヲ云シャッカハ箸ナリサレドコハシャッケノ誤ナリト云シャッケハ乾スコトナリ蓋シ濱海ニ魚ヲ乾スト云義ナリトゾ其地實ニ我クルムセハ本南島ニ出テ千嶋ヨリカンシャッカ諸處ニ住スト云故ニ千嶋ハ論ナクカンシャッカ地方ハ蝦夷ノ地名ナラザルモノナシ千嶋ノ末座ナルクシュンコタン嶋ハカンシャッカノ岬ト相封シテ海上數里ヲ隔タルノミ此等ノ地名モ確拠トスベシサレド近年魯人ノ島ニ呑并セラレテヨリ地名モ大半変ゼラレシト云旧史ニ載セタルガ如キハ僅ニ老夷ノ口傳ニ存シテ海外諸国ニ洽カラズ従来政府ノ不行届ナルヲ嘆ズルノミ
 (中略)
上ニ陳スル如ク固ヨリ 祖宗ノ地ニテ又其遺氏ナレバ寸地モ失
ベカラズ一民モ外ニスベカラスト云ハ至當ノ議論ナレトソレニテハ未タ尽
サザル所アリ廣漢ノ地ナルヲ徒ニ棄置ンハ何ニモシテ外人ニテモ開拓
セシメ共ニ天地ノ大徳ヲ享シメンヲ道理ノ正ト云ベキガ如シ熟思スルニ
我邦内地ハ己ニ水渥山嶺マデヲ開墾シテ東ニ地力ノ尽スベキ所ナシ
窮民ハ衣食ニ苦デ其子ヲ養コトアタハズ忍テ堕胎スルモノ年ニ何
千万人ト云数ヲ知ズコレ天地生ヒノ心ヲ傷ル其罪莫大ナリ又
乞丐ノ類路頭ニ倒レテ死スルモノモ数万人ニ下ラザルベシ而シテ今
其弊ヲ救ハントスルニ夷地ヲ開クノ外夷ニ奇策アルベカラズ今モシ多ク
便利ノ器械ヲ製シ四民ノ耳目ヲ新ニセバ国内三分ノ一ハ
コト疑ナシ因テコレヲ夷地ニ移サバ二三十年ノ間少シク紛ヒノ累モ
アルベケレドモ終ニ貧富ノ融通シテ内外皆無事安穏豊楽ノ世界
トナルベケレバ堕胎棄子ハ令セズシテ止ヘク乞丐ナドモ跡ヲ絶ニ至ラン
我邦現在人民凡三千万人ト見テ三分ノ一ヲ夷地ニ移サバコレ一千
万人民ニ各其所ヲ得セシムルナリ又年モ数十万人ヲ活シテ天地ノ
化育ヲ傷害セズコレ仁政ノ最モ先ニスベキ所ナラズヤ  照祖
太神ノ天国ヲ知シメシ四海万国ヲ照臨シタマヘルハ何地モ同一ナラ
ザルコトナシト云ドモ 天御中主神ノ人ノ方寸間ニ備ハルモノ自ラ内外
本末ノ規則アルハ 照祖ノ訓典昭然トシテ誣ベキニ非ズ今ヤ
外人ヲ問ズシテ置ナバ終ニ 大政ノ妨害スル所アルヲ免レズシテ
寝クニ 照祖ノ規則ヲ壊ルニ至ラン故ニ外人ノ島内ヲ官制セント
スルハ魯西亜ニアレ英佛ニアレ決シテ許容スベカラズ
我邦ノ此島ニ於ケル管見ニスラ右ノ如ナレバ諸君輩モ外人ヲ患ト
スルコトハナカルベシ且ヘ今ノ副総裁岩倉公ノ有志ノ御方ナリ
親ラ黒竜江ノ外ニ臨ンデ復古ノ令ヲ布ント欲シタマヘル由ヲ聞ク
諸君ノ大義ヲモテ奮発セラレンモ此時ヲコソ然トスベケレサレド現
在利益ノ生ズベキヲ察シテ深計遠謀スルニ非ザレバ何ソ懶惰ノ
罪ヲ免レンヤ因テ今試ニ其利益トナルベキ数条ヲ掲テ問ベシ
第一捕魚ノ事 北地開拓ハ捕魚ヲ第一トスベシ久春古丹ノ
鰊ハ三万石ト云シッカノ鱒ハ一万石ノ見込ナリト云ドモ久春古丹
近年ノ出高ハ五千石ノ書上ニ過タルモノナリシッカモ其半ニ足ズ
其故久春古丹ナドハ魚ノ少ナクトリタルニハ非ズタダ昔年ノ如ク
奥地土人ヲ使ハレザルタメナリト云蓋シ奥地ハ論ナク何方モ手配
ノ行届ザルコト斯ノ如シ漁人ハ多ヒ■可ナリト云ドモ當時ハ
先其處ノ漁魚何百万ト云見込ヲ立テ開拓スベキガ
細カニ考定セラレンコトヲ望ナリ
第二 麻苧栗麦ノ事 島内ハ何地モ麻苧ニ宜シカラサル
所ナク麻ハ其実ヲ拠モ生セサルモノナシ又苧ハ澤間處ニ
ニ自然生ノモノ夥シキナラスヤ右等物ヲモチ網ヲ制シタランニハ漁魚ノ少
ナキニモ決シテ損失ハアルマシ又反物トナシ内地ハ論ナク廣東諸處ニ賣
出サバ多シテ丘上ノ如ナルモ害シザルノ患アルベカラス又粟麦
ノ類ハ皆土地相應ノ物ナレハ耕作スルニ随テ何計モ多ク出来ベシ
コレ固ヨリ限量ヲナスベキモノニアラデ而モ内地ヲ頼マズ生育スベキ
品ナリ其餘蕪大根牛蒡葱菽ノ類モ皆人生必需ノ品ナリ
又 蕨 百合 冬胡索コシャク。アットリ。キトピルナド極テ多シ
第三石炭ノ事 島内濱海處トシテ石炭ヲ見サルハナシ知
内地ニモ斯ノ如ナル處アリヤ某ガ臆推ニハ満山皆石炭ナル場所
モアルベシト思ハル某ガ僕金兵衛カ見タルノボリポロノ石炭ハ極テ上
品ナルモノナリ其厚サ三間長サ六十間計アリテ山ノ後ニモ往ヒ露
出シテ見 ト云又野ヒ部優ニカオタツ辺ニテ見タルモノハ厚サ
三尺ニテ十五丁ノ外ニ連ナルト云又ア井ノ石炭ハ吉田カ実見セル所
凡二十丁四方モアルベシ満山皆石炭ナリト云ドモ未ダ用ルニ堪スオチョ
ボカハ上品ナリト云トモ厚サ三尺長サ二十間ニ過ズ思ニナセシ辺ニハ
上品ノモノ夥シクアルベシ奥地ナヤシ小海岸一里ノ間皆石炭ナリ
ボンチョモ亦夥シ
第四 金銀ノ事 トッツ近辺ニハ金銀ノアルヘキ由昔ヨリ話アリ
金兵衛ガマクンコタンノ北ナルニ處ニテ穿チ来レルモノハ全ク金銀タルニ
相違ナシカクアレバ金礦ヲ開クニモ決シテ損失アルマジク思ハル其侘
銅氣銀氣鉛鉄氣ナトノ見タルモノハヤマンベツ并ニトマリ南方ノ
諸處極テ多シト聞ナリ
第五 牧牛ノ事 ウルー。ルータカ。シュマヤ。キブンナ井。ナ井ブツ。マクン
コタン。シッカ。ノコロ。チャーモキ。ロモウ。ウシカ。オッチン。ウシクロナヨロトン
ナイ。シラマシ諸処ノ河傍ニハ豊草多ク何方モ牛ヲ牧スベキ
コレヲモテ外國ニ賣出サバ捕魚二十倍セル利益アラン又豚モ大利
益ナルベシ又外國ヨリ羊ノ類ヲ買来テコレヲ乳育シ外國人ヲ雇テ
毛絨ナトヲ製セシメハ我邦一圓外國渡来ノ品ヲ持スシテ具足
スベシ或ハ外國ニ賣出スノ利益モアルベシ
第六 捕鯨ノ事 春夏ノ交ニ當テ大鯨ノ陣ヲナシ鰊ヲ逐テ海面
ニ充満シ来ルハ諸君ノ共ニ壮観トスル所ナラズヤ蓋シ北地近海ハ
鯨ノ多キコト四海第一ト承ハル志アランモノ此業ニ創タランニハ
我邦無上ノ利益ヲ奥スベシ
第七 板材ノ事 樅落葉松ハ其大サ合枹ニ過キ森然
直立シテ十餘丈ノ高サニ至ルモノ山トシテ然ラザルハナキナラズヤ
板ニテモ材木ニテモ内地ニ賣出シタランニハ無数ノ利益アルベシ船ニ
造モ然ルベキカ
第八 キナ席ノ事 キナハ島内自有ノ産ニテ其質甚ダ柔
軟ナリ多ク作テコレヲ製シ四方ニ賣出サバ江籬ニ慙サル利益タルベシ
右ノ数件ハ多ク諸君ノ目撃セル所ナレバ固ヨリ某ガ詳言ヲ待ズ
ナレド愚見ヲ否ト思ハルルコトアレハ仔細ニ示教セラレタキモノナリ
又海ニ昆布アリ水豹海馬アリ陸ニ熊狐獺鷲ノ類アリ樺
櫻謀木アリ薬草黄精蒼木。紫胡。當皈。芍薬。白■。羌活。竹
麻細辛。沙参。貝母。龍騰。附子。木賊。紫根艾等アリ共ニ利益ト
スベキニヤ別ニ財源ヲ開クベキモノアラバ速ニ建明セラレンコトヲ望ナリ
諸君ガ島内ニ来レルハ報國ノ素志ヲ果サント誓ヘルナラズヤ固ヨリ
酒ヲ飲ミ色ヲ談ジテ閑室ニ逸居スルナドヲ愉快ノ極ト云モノハアルマジ
サレドダマニ建議スルコトモナク徒ニ上タルモノハ用サルヲ評セバコレ
失禮ノ甚シキナリ何ソ有志人物ト称スルヲ得ン深思熟慮シテ奇
謀良策ノ出ナンコトヲ祈ルノミ
 慶應四年十二月初一日   岡本監輔識

4.徳島県立図書館所蔵の資料調査
 県立図書館には、岡本韋庵関係の史資料が多数保存されており、韋庵文庫とも称されていた。これら史資料は、韋庵の没後7年を経過して創設された「韋庵会」を中心に収集されたものである。とりわけ「韋庵会」事務所の代表であり、かつて光慶図書館長であった坂本章三氏は、徳島中学校時代の恩師・韋庵の顕彰記念事業を企画し、韋庵の胸像建立、伝記・年表の編集、さらに関係史資料の収集を意欲的に行った。坂本氏没後は、令嬢・桜井あや子夫人のもとに保管され、昭和32年、飯田義資氏の手を経て県立図書館に寄託されたものである。ここには、韋庵自筆の原稿を含め1074点という膨大な資料が保存されている。それらは昭和32年ころから金沢治氏の手で整理が進められ、平成10年にその照合、点検が行われて目録が改訂された。その間、昭和38年(1963)ころ原菊太郎県知事の発案で銅像再建計画が企図され、県教育委員会を中心に銅像建設が行われた。同時に著書(岡本氏自伝、窮北日誌)及び韋庵家系と年譜が出版された。まず、県立図書館所蔵の、いわゆる「韋庵文庫」の目録の概略を掲げ、その中から関係の史料を掲示しよう。
 1)岡本韋庵先生蔵書及原稿目録(平成10年7月点検・照合)
第一種  蔵書、原稿(著書)
 第一類 蔵書(手沢本)
 第二類 校正刷又は著書その他新聞雑誌等の断片
 第三類 完成した原稿で浄書したもの
 第四類 著書の目次だけを収録
第二種  北地、南方開拓関係
 第一類 北地、南方開拓関係書類
 第二類 諸計画及規定、法律関係書
 第三類 神社考、内地紀行
 第四類 支那遊記
 第五類 経書解義
第三種  岡本先生自作作文集その他
 第一類 岡本先生自作文集
 第二類 地図
 第三類 広告宣伝文
 第四類 金銭取引関係書
第四種  諸家文集その他
 第一類 漢文作文教科書の類原稿
 第二類 雑抄本類原稿
 第三類 日本地誌に関する著書原稿
 第四類 中国人諸家文抄原稿
 第五類 日本諸家文集原稿
第五種  書簡集
 第一類 書簡及筆蹟
 第二類 中国人と交換したる書簡その他
次の史料は、上記の目録から抽出したものである。
 (1)第五種、第一類、501の「北海道開拓判官退職願」
        未2月(明治4年)
        岡本判官 → 長有[ ]判官殿
                堀[ ]事殿
                会計庶務其外一同御中
 (2)第一種、第一類、蔵書(手沢本)の中に「千島探険記(誌か?)」とあるが、別に桐原光明著「北方領土の探検家 関熊太郎伝」(平成8年)に所収されている同書の序文を岡本監輔がしたためており、韋庵と熊太郎の関係がよく分かる史料でもあるので紹介しておこう。
 序 岡本監輔
  茨城県に憂国の士関熊太郎有り。かつて第一高等中学校に入り、孜々(しし)業を修む。説を唱えるを聞く。慨然筆を投げ、家貲(かし)(家の宝)を傾け、同志と合し、予が択捉に行くに従う。親しく捕魚に服す。未だ成功に至らず。力尽きて帰る。予と相依り、情は父子の如くなる頃、一書を著す。千島探険誌という。展(ひら)いて之を閲(けみ)す。土質気候、物産人情風俗より、外客密猟等状(ありさま)に及ぶ。条を逐(お)い、論に列(つらな)る。懇到周密、末に意見六条を付す。いわく、よろしく色丹土人を占守に徒(うつ)し行かしむべし。いわく、よろしく島司(とうす)を置くべし。いわく、よろしく定期航路を開くべし。いわく、よろしく港湾を探査し、もって泊船場を築くべし。いわく、よろしく海狸(ラッコ、アザラシ)の禁を解くべし。いわく、よろしく借地法を改め、もって壟断(高くそびえた所、市の利益を独占する)を防ぐべし。その他塩倉を設け、電線を架し海兵団を置き、諸囚徒を移すの類、皆政府急務に属し、若夫、庶民、報効を企図するは各処に徒住(しじゅう)(うつり住む)するをもって事業を営む如(し)かなし。必ず財本三年維持すること有り。しかるのち、よく益有るに至る。その言切(説)時弊に中(あた)り、的確に易(かわら)ず世の拓殖を講ずる者、此書を詠めば則ち思いは半ば過ぎたる。余謂わく、必財本三年を維持する有る者(は)、自ら、万全の策に属す。しかるにまた、着手先後如何に顧みるか。青魚、鱒の如く、毎歳豊歉(ほうけん)(あたることと食足らず、方策と凶作)常なし。その財本を要するにもっとも大。ゆえに、三年を待たざるを得ず。これ豪民専業に属す。大口魚及び、その他の諸魚、海草諸物とともに至る。すなわち、年々収穫し、豊歉有ることなし。その財本また多くを要せず此に従事す。零細網羅今年即ち今年の収有りて明年以後その収愈大、未だ必ずしも三年の後待たず。是れ小民分業に属し、専業失うこと多し。過ぎること寡(すくな)し。今の拓殖の言はよろしく分業より始めるべし。多く、私財を散らし、奮進回顧せざる者を徒す。事前に俸銀を給せず。事後において利益を分かつ。その各自励精の互いに相生養せしむ。余は千島の為に慮(おもんばか)り、関生とともにしばしば此事を談ず。しかして、関生まことにこれを遺す。もとより惜しむべきに属す。よって前言に叙し、もって読者の参考に供すと云う。
 明治二十六年三月中浣(中旬) 岡本監輔撰
自序
余はかって第一高等中学校に在りて、韋庵岡本先生に教えを受けた。先生罷免される。よって千島に遊ぶ。これは三年前の事となす。その歳先生千島より帰る。余往きて候(さぶら)う。先生余に謂いて曰く。樺太千島は均しく我の遺民と為す。樺太を欠いて、千島を得る。これ同胞・沍寒を畏れ強隣を虞(おそれ)出す。臍(ほぞ)を噬(か)み(噬(せい)臍後悔するとも及ばないこと)、及ぶことなきのみ。千島の今日の勢、これを不問に付す。まさに樺太の二の舞を為さんとす。足下常陸人為り。常陸は本、武甕槌神(たけみかつちのかみ)が垂跡し、日本武尊が経営の区に属す。輓近(ばんきん)(近頃、近年)に及ぶ。源義公烈公の如く憂国の志士前後輩出あり。足下豈これを知るや。禍転じて福と為す。実に今日在り。足下それ勉旃(べんせん)(これをつとめよ、勤めはげます語)余曰く。それがし、先生が千島にゆくに従わんと欲す。先代神人の霊を藉(か)りず。
 終に殉国(国難に死すること)不渝(かわらない)の誓に立つ。先生曰く、維新前に当たり、樺太蝦夷五十度以南に住む者、二千五百人を慮るなし。皆我撫育を仰ぐ。維新の初めに及ぶ。余命を叩音(とうおん)(みだりに恩恵を受ける)し、その地に赴任す。かって一夷魯国(ロシア)に行く者なし。五十度以北の土夷肉分小六子等大半は我の政令に帰す。しかして国人往々にして余の為す所に服さず。終に、一大島挙げて得撫以北と交換至す。千島全土始めて我旧に復す。爾後(旧い習慣によりしたがい改めないこと)因循す。十六星霜を経てこの無人荒域に付す。山川の神、飢餓してすでに久しく、祀者は有望、まさに直ちにこれを享(う)けんとす。何ぞ内外の人に問うや。これ危急存亡の秋(とき)なり。余曰く、それがしこれを得る。先生樺太の為に心を尽くし、拮据(きっきょ)(忙しく働くさま)す。土人これをそむくこと忍ばず。故に魯国樺太を取ること辞するなし。千島を以てこれを易え(交換する)至る。国人またいまだ先生に非ずして尽くさず。故に辞し、樺太の舎(やど)(役所)なし。千島を得、以て自ら解く。すなわち、知る樺太の彼領を帰すを。先生の罪に非ず。千島の我が旧に復するはすなわち先生の功なり。先生計を為す。よろしく交換日を以てすぐに千島に赴く。以て聖天子簡抜(かんばつ)(選び抜くこと)の恩に報いんとすべし。因循決まらず。今に至り始めて憂国の説を唱うるは何ぞや。先生曰く、彼は一時也。此一時也。前日余の千島を問わざるは豈、余の本意なり。余樺太において竊(ひそか)に忠臣烈女の感有り。天地鬼神皆これを知る。全国人士いまだかってこれを知らず。千島を曠棄(こうき)(明らかに棄てる)するゆえんなり。
 今に及びこれを救わんと欲す。豈やむを得ずや。足下よろしく足下の分をつくすべし。大丈夫(もののふ)は事を行う。要は誠意より始まる。公明正大、青天白日の如し。志業成否、本は天命に有り、余の千島において未だ我身親しくこれを為し必(はた)さず。足下の功、すなわち余の功。聖天子に報いるゆえんなり。余はここにおいて爽然自失者これに久し。志を決め、千島拓殖に従事す。遂に此書に有り致す。ほとんど先生の賜なり。因りて前言を叙し、以て巻首を弁ずと云う。
  時に明治辛卯(二四年)二月下浣(下旬)。東京本所林街寓居に於いて。
  紫軒主人 関熊太郎謹識
 つぎに、「韋庵会」の創設や顕彰記念について、幾つかの史料を見ることにしよう。
 (3)韋庵会の創設について
  徳嶋毎日新聞(明治43年1月27日)目録番号第一種第二類98)所収の記事より
1 韋庵會成立す(□は判読不能)
 故正五位岡本監輔氏を敬慕せる同志は客臘屡々會合し種々協議する處ありしが今回全国知名の士の賛助を得て左の如き趣意書を發表せり
 粛啓
 餘寒尚不去□□貴下益壮健之趣奉賀候扨故韋庵岡本監輔先生、識見高邁操志金石の如く能く眇々の身を以て匪躬の節を致し流離困阨死して而は毫も悔ひず眞に國士として崇敬すべきは之を鬼神に□して疑ひ無しされば今回記念碑建設遺著遺稿の整理等遂行致し以て不朽に傳へむ事を期し同志鳩合相談の上過般本會を組織仕候就ては幸に御賛同被下候はゞ多少に不拘御寄附相成度茲に□而得貴意候   早々敬具
  明治四十三年一月二七日
   事務所徳島市富田浦町坂本章三方       韋庵會
 追而於送金は來る十月三一日迄に左記三氏中
 御便宜御  被下度候
    東京 麻布區材木町二四
          松岡康毅氏
    京都 京都帝國大學法科大學内
          岡本 司氏
    徳島 徳島市徳島町南濱
          曾我部道夫氏
2 韋庵會を賛助せよ (同上)
  若し一代の人々が希臘語を忘れ書籍を失ひたらんには、恰も埃及の象形文字又はバビロンの楔形文字を模索するが如くならん、仮りに吾人が腦中より先人の業績及經験の斷片を抜き取らんか、必ずや、トレミー、コペルニカスの業を反復するの外なかるべし。
 四千年來築き上げたる知識の宮殿を毀ちて之を人生僅かの時日に再建するには、到底人力の及ぶ處にあらざるなり、それ故に、人類文明の發達は、海底に於ける珊瑚礁の層重するに似たり、各働き手は皆其先人の肩上に立つなり、是を以て過去の保存は、現在維持の基礎にして将来進歩の母なり、豈忽かせにすべけんや、余儕は此意義に於て韋庵會の成立を歡迎し、世人に向って大に賛助せむことを要求するものなり。故韋庵岡本先生は、本紙所載の肖像の如く髪は浩然たるも、顔は童然たり、常に子弟を教ゆるや、豊頬に紅潮を漲らし大聲疾呼して、一片至誠たれとは實に先生の口癖なりき、若し夫れ談一度ひ柯太及び北海問題に移らむか舌頭雲を湧し口吻霧を吐く、而して炯々たる眼底熱涙潜々たり、眞率の意は汪々として溢れ、糠慨の氣は浸々として滴るが如し、鳴呼、蚊龍遂に雲雨に遇はず、一箪の食一瓢の飲死に臨んで惑はず、眞に聖代の國士と云ふべし、
 先生逝いて□り茲に七星霜頃者舊故門人韋庵會なるものを組織し、記念碑建設遺著遺稿の整理を遂行し、以て之を不朽に傳へむとす、實に美挙というふべし、余儕又何をか云はん、唯専心望む處のものは、本會の事業を大成せしむると同時に能く先人が経営惨憺鞠躬孜々、恰も珊瑚礁の如く今日の文明進歩を層重せし所以に想到し、多くの青年者中より各働き手を出し、何に先人の肩上に立ち又は立つべきかを認識せしめ、而して續々等この韋庵先生を輩出せしめこと是なり、嗚呼快なるかな  素堂
 (4)韋庵の胸像建立について
 目録番号第一種第二類102、「徳島公論」(大正元年(1912)12月24日)や、「阿波國最近文明史料」(神河庚藏編纂、大正四年)等にも触れているが、目録番号第一種、第二類100、昭和14年9月30日 徳島毎日新聞(昭和14年[1939]9月30日)には、「岡本監輔先生小傳」と題して後学・坂本章三が寄稿している。
 その序説に、『監輔先生の高風を欽迎する者の記念事業として、大瀧山八坂神社境内に東北を聘睨する韋庵の胸像が建設され、大正元年十二月二二日除幕式が挙行された。制作者は、武石弘三郎(東京美術学校卒業)と岡田信一郎。銘記板「択捉感懐」は友人の伯爵芳川顕正が揮毫したもの。側文は内藤虎次郎(京都帝国大学文科大学教授)、他側には「大正元年一月 韋庵會」と曽我部道夫が揮毫している』と記している。
上記の韋庵胸像建設について、三宅弥之治郎は、「韋庵先生銅像建設寄付発起人」の芳名を「ふるさと阿波」第38号(昭和38年所収)で次のように報告している。
  文学博士          井上 円了
  東京帝国大学教授文学博士  芳賀 矢一
  ・京都帝国大学教授法学博士 岡村  司
  東京女学校長        田中 弘之
  代議士 文学士
  郁文館中学校長       棚橋 一郎
  ・銀行家          深沢 朔象
  東京帝国大学講師      日下  寛
  蒙古通           佐々木安五郎
  法学士 弁護士       桜井熊太郎
  文学博士          三宅雄次郎
  第一高等学校教授      島田 釣一
  ・高等文官試験合格後渡米  裨田 三平
  法学士 弁護士       小川 平吉
  ・京都帝国大学教授工学博士 横堀治三郎
  第一高等学校教授      塩谷 時敏
  ・実業家 在北海道     津田禎三郎
  ・学校教師         蒔田 松三
  台湾総督府局長       小林丑三郎
  仏国大使          石井菊次郎
  東京帝国大学総長      福原鐐太郎
                山座円次郎
  枢密院副議長  (県人)  芳川 顕正
  福岡県知事   (県人)  曽我部道夫
  徳島中学校長  (元岸本) 塩谷 依信
  大審院検事総長       岩野 新平
                木内重四郎
  儒者      (県人)  岡本 斯文
  医師      (県人)  三宅 玄達
  熊本高等学校教授(穴吹町三谷出身)
                須藤 求馬
   ・印は岡本家の門下生
(5)韋庵会による顕彰記念事業
 韋庵会による顕彰記念事業のうち、伝記・年表の編集、著書目録、史料の収集については以下の史料がある。
 1 韋庵岡本監輔先生(壱、二) 徳島毎日新聞 明治43年2月1、2日
 2 「韋庵岡本監輔年表」 『阿波國最近文明史料』(神河庚藏編纂、大正4年)所収。
 3 昭和14年9月30日   徳島毎日新聞
  ・「岡本監輔先生小傳」 後学 坂本章三稿 徳島毎日新聞 昭和14年9月
     「序説」及び「一」〜「一二」があり、韋庵会創設から30年を経てまとめられたものである。「一一」、「一二」には和歌、漢詩、著書目録(既刊の分、未刊の分)が納められている。則ち、著書73部、内既刊32部、未刊41部、漢詩一千余篇、和歌25首となっている。
     なお、史料の収集については序説で、「若干の関係事業の文献逸話獲たるも尚主として関係事業方面に欠くる處少からざるを思はしむ。未だ就中北門社、千島義會中正義塾等に不備を感じ衷心忸怩として焦燥の日を送りつつある」と述懐しており、収集が不十分な様子が推察できる。
 岡本韋庵の著書については、前掲「岡本監輔先生小傳」のような報告がある。それとは別に、昭和32年ころから「韋庵会」収集の史料整理を行った金沢治氏によって次のような報告がおこなわれている。
  4 岡本韋庵先生著書目録 (大正元年徳島韋庵会調査)
  既刊34部 110余巻、未刊20余部
   慶応3年 北蝦夷新誌  1巻  樺太の地理を詳述地図一葉挿入
   明治4年 窮北日誌   2巻  樺太探険の日誌にして地勢物産等の記述精彩
   同年   北門急務   2巻  北門鎖鑰の急務を痛論せる大論策
   10年4月より11年11月迄東洋新報を発刊せり
                   欄を内報、外報、論説、文苑の四に分ち支那人に宇内の情勢を知らしむるを眼目とせり
   12年   萬国史記   20巻  世界列国の歴史を記述。清国にて特に広く行はる同年
        要言類纂   6巻  和漢学者の述べし所謂格言的辞句を分類
   15年   小学新編   3巻
   16年   小学修身新書 6巻
   17年   萬国通典   12巻  萬国の制度を網羅し34門に分って之を詳記し出所と論策とを附せり。広く清国に行はる。
   18年   古今文髄   2巻  和漢古今名文を摘録し評語を附し作文の秘訣を示す
   同年   義勇芳軌   2巻  和漢古今男女義勇の事蹟を集めて11賛辞を附す
   同年   国史紀要   3巻  日本歴史なり
   19年   励業新書   8巻  殖産に関する諸説を収録
   22年   岡本子    5巻  孔孟儒学の要を論じたるものにして古来諸家の説に対して先生の学説を発表せしものなり。
   23年   祖志     6巻  日本の神代史を考証し建国の大礎を説けり
   24年   儒学精彩   1巻  儒学の要を説く(哲学館講義録所載)
   同年   神道発軌   1巻  神道の意義を閘明す(同)
   25年   千島聞見録  1巻  千島の地理を詳述
   26年   開国致富要覧 1巻  開国致富の要は北地経営にあることを説く
   同年   耶蘇新論   1巻  基督の言行によりて其教義を批判す
   28年   皇道鼓吹   1巻  古言によりて我日本の皇道を説明す
   同年   名神序頒   1巻  阿波国にある式内の名神を序し頒詞を加ふ
   同年   萬民宝典   1巻  和漢古来の秘法を記述す
   同年   韋庵小詩       詩の一部を録す
   29年   越山先生伝  1巻  芳川顕正伯の伝也
   30年   論語正本   1巻
   32年   教育勅語正解 1巻
   同年   亜細亜ノ存亡 1巻  亜細亜の存亡に関する一大論文
   33年   国文之栞   4巻  国文作法を述ぶ
   34年   西学探源   4巻  支那人の為に泰西名家の言行を紹介す
   同年   鉄鞭     4巻  政治道徳に関する所見を吐露す
   同年   孝経頒義   1巻  韻語を以て孝経を解釈す
   同年   大日本中興先覚志 2巻 維新志士の伝記
   35年   知新学源       支那人の為に文明の学術を説く
   36年   日本維新人物志四巻  先覚志に漏れたるを補ひ明治の人物に及ぶ
〈未刊の部〉20部
   千秋策      明治4、5年の交に於ける時勢に関する所見を録す
   考古蓄議
   古今通議     日本支那の制度文物を比較せるもの
   祖志(続編)   神武天皇より応仁天皇に至る
   阿波史料     阿波国の史料を蒐録せり
   千島日誌     千島周遊の日誌にして 記述詳細なり
   岡本氏自伝    幼少より明治二年頃に至る、樺太周行の記事は極めて詳密なり(本書にて出版)
   台湾人の詩集
   台湾人の文集
   台湾詩史
   大学頌解     韻語を以て大学を解釈す
   中庸頌解     韻語を以て中庸を解釈す
   論語頌解     韻語を以て論語を解釈す
   孟子頌解     韻語を以て孟子を解釈す
   勅語頌解     韻語を以て教育勅語を解釈す
   中庸衍義     中庸を解釈し泰西哲学者の学説を紹介す
   哲学大観     泰西哲学者の学説を紹介す
   仏説大観     仏教教義を批判す
   概世異聞     概世の余り発したる論文なり
   経国新論     経国策としての意見なり
  以上は大正元年徳島韋庵会の調査なるもその後新発見の著述約20部あり更に先生の令孫(?)が内藤湖南博士の処に持ち込みしままとなれる著述相当大量にある筈なりと聞く。漢詩は判明せるもの長短計60余首、和歌は20数首に上ると。

5.韋庵会以降の動向(年代別に記載)
1)明治43年(1910)3月13日 大阪毎日新聞 (目録番号第一種、第二類99)
 露國大學講師ボズドネエフ著「岡本監輔(韋庵)傳」
2)大正4年(1915)「韋庵岡本監輔年表」(「阿波國最近文明史料」(神河庚藏編纂)
3)昭和2年(1927)6月22日 徳島日々新聞
 中等学校物語 山県公の世話で来た 岡本監輔校長
4) 同   7月10日   徳島日々新聞
 俸給全部を下女まかせ
5)昭和3年(1928)9月 阿波國先哲遺著展覧會、先哲遺墨展覧會
 於光慶図書館及び千秋閣 主催 徳島光慶図書館
6)昭和15年(1940)12月5日記 横田庄八「韋庵先生研究餘録」(「渦の音」 第53号)
 所収
7)昭和31年(1956)1月1日 「渦の音」城南高校創立八○周年記念号所収
 岡本校長留任運動の同盟休校
8)昭和32年(1957)岡本氏自伝(「ふるさと阿波」第16号)
9)昭和33年(1958)奉贅庵岩本翁書 「ふるさと阿波」第16号
10)昭和39年(1964)8月2日(この日は104年前樺太北端に達せられた記念日)除幕式を挙行。
 銅像建設について以下の記載あり
 「彫塑家二科会所属太田三郎氏に委嘱、詩の方は本県出身史学界の最高峰京都大学名誉教授文学博士那波利貞先生、銘は徳島県書道連盟顧問の富永眉峯氏の揮毫によった」
11)同年 著書の刊行
 「岡本氏自伝」(県立図書館所蔵の自筆原稿、文語体仮名交じり文)目録番号第一種、第二類97
 「窮北日誌」(明治4年自費出版の木版本、原漢文)を文語訳
 ・県立所蔵の自筆漢文の自伝を翻刻採録
12)同年 岡本韋庵先生の家系と年譜(金沢治)
13)同年 岡本韋庵先生著書目録(大正元年徳島韋庵会調査、既刊34部110余巻、未刊20余部)を添付
14)絹川元一「岡本韋庵研究の問題点」(金沢治編「韋庵の家系と年譜」をべースに)
15)昭和46年(1971)新北海道史 第三巻 通説二
16)昭和54年(1979)河野常吉「北海道史人名字彙」
17)昭和62年(1987)後藤善猛「万人の敵」
 城南高等学校の校長室に掲げてある扁額「萬人敵」を最初に論じている。
 劔一人敵不足學、學欲萬人敵 「史記」項羽本紀の発見に至る経緯を述べる。横田庄八氏(昭和5年〜19年、旧徳中勤務国語漢文教師、当年79才、札幌在住)の来校により判明、この扁額は在勤中坂本章三氏(光慶図書館長)より頂き、香田校長(昭和50年4月〜昭和52年3)のときに横田氏が表装したもの。別に韋庵著「孝経頌義」、「開国富致要覧」、「名神序頌」を寄託したことに触れている。後半部では、韋庵が書いた軸物3本についても記している。
18)平成7年(1995)3月 有馬卓也、真鍋正宏「支那遊記」を翻刻・訳註(その一)「徳島大学国語国文学」第8号
19)  同上 (その二)
20)平成8年(1996)4月 桐原光明「北方領土の探検家 関熊太郎伝」(暁印書館)
 茨城県下館市の下館市立図書館長
21)平成9年(1997)12月 徳島新聞所収 郷土文化講座、担当は梅谷寺住職、後藤善猛「開拓者から教育者へ―岡本韋庵の生涯」
22)平成10年(1998)1月、3月
 ・有馬卓也「烟台日誌」を翻刻・訳註。「同志社国文学」 第47号
 ・真鍋正宏「支那事情」を翻刻「同志社国文学」第48号
23)平成10年(1998)7月 岡本韋庵先生蔵書及原稿目録の点検・照合 徳島県立図書館蔵

6.おわりに
 今回の総合調査において、私たちが目的としたのは、平素ほとんどむとんちゃくに見過ごしてきた岡本韋庵(監輔)の史料の所在を明らかにすることであった。北方探険と開拓に東奔西走した岡本韋庵(監輔)の足跡をたどるには、今回の史料調査は微々たる成果しか挙げることができなかった。直接手を触れて読むことができた史料はごくわずかではあったが、憂国の士、韋庵の心情の一部を感知できたような気がした。韋庵に対する歴史的評価が正当になされるためには、さらなる史料の発掘と解読の広がりを待たなければならない。県立図書館に収蔵されている「韋庵文庫」が、より多くの人々によって解明されるよう、今後の研究に期待したい。私たちが踏み出した一歩が、何らかの刺激となれば幸いである。

1)徳島県立文書館 2)徳島文理中・高等学校 3)徳島県立城ノ内高等学校
4)徳島市立徳島城博物館 5)徳島市教育委員会


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