阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第45号
四宮九平とその一族

郷土班(阿波郷土会)  篠原俊次

1.藍の商いから土地開拓事業へ
 四宮九平は明治8年(1875)、農林業を営む西村倉吉の三男として口山村尾山(現穴吹町尾山)で生まれた(資料1)。


 明治22年(1889)、15歳で上阪。西黒田村(現徳島市西黒田)の出身で、大阪市西区南堀江通四丁目で藍(あい)商を営んでいた初代近藤甚助方に見習として住み込み、奉公を始めた。
 以来27年間、同店で勤続し、藍の商いをつぶさに体得した。
 大正5年(1916)、42歳で独立。明治30年(1897)から始まった大阪市域拡張の流れに乗り、土地開拓事業に着手した。当時空き地だらけだった西成郡今宮町(現西成区の一部)の梅南通や萩の茶屋周辺を開発し、4か所(梅南通・松通・旭北通・三日路町)120戸を超える貸家を所有するに至った。毎月2千円余りの家賃が入ってきたという。
 大正10年(1921)、大阪市と合併前の今宮町議会議員となり、同年大阪府方面委員(今の民生委員)、同11年(1927)民力涵養(かんよう)奨励委員、府水道委員、衛生組合今宮支部長、同評議員などを兼務した。
 同10年ごろ、江戸初期の木津周辺の開拓者で、木津川の水運開削と大飢饅(ききん)の窮民救済に尽力した木津勘助の銅像を建設する計画が持ち上がり、地元の侠客(きょうかく)である三代目南福(新野伊之助)が中心となり、建設を推進した。この建立資金の負担を、南福がその向かいで営業していた九平に依頼。九平が「君が侠客の世界から足を洗うなら資金を出そう」と提案したところ、南福は承諾した。そして、約束どおり足を洗い、その後は立派な紳士になった。九平が上京して帰阪後、肺炎で死線をさまよったとき、南福夫婦が「ワシらがついてまっせ」と励ます仲であった。九平は「ワシの目に狂いはなかった」と、後々まで語っていた。
 九平が建設後援責任者となり、南区木津敷津町の大国主神社境内に完成した銅像は、戦時中、金属供出の憂き目にあったが、昭和29年(1954)、南福の養子新野嘉雄を会長とする木津勘助彰徳会の手で再建された。現在もその威容を誇っている(図1)。ちなみに、嘉雄の子が、放送作家として活躍している新野新(しんのしん)さんである。


 不動産業で財を成した九平は、勧める人があり、大正12年(1923)、二代目近藤甚助の制止をふりきり、木津公設市場のそばにレンガ造りの木津冷蔵株式会社を創立した。払込資本金が68万5千円という巨額であり、製氷を主な業務とし、冷蔵が必要な市場の物資も保管した。
 この間にも社会奉仕活動として、大正13年(1924)に国民精神作興奨励委員、同14年(1925)国勢調査員、失業調査員、大阪市教化委員、同15年(1926)大阪朝日新聞主催同情週間委員、昭和2年(1927)今宮衛生組合副組長などを務め、多くの感謝状や功労賞を贈られた。大旦那(おおだんな)としての風格が漂うこの時代が、九平の一生で最も花のある時期であったろう(図2)。


 趣味の義太夫は、文楽の新三郎が私邸に教えにくるほど情熱をかたむけ、その芸は玄人はだしであった。この趣味は生涯続いた。
 本業の木津冷蔵はしばらくは順調な経営が続いたが、昭和4年(1929)に始まった空前の不況に直面し、経営が大きく傾いた。九平は金策に走り回ったが、ついに万策つき、倒産した。
 旦那衆のくせがついている九平は、裸一貫からやり直すことができず、その後は、趣味と社会奉仕を生きがいにして余生を暮らした。
 方面委員の職務には殊の外熱心で、近所の人が元日から葬式を頼んできても、いやな顔ひとつせず引き受けた。生来、社会奉仕の精神にあふれた人だった。
 昭和13年(1938)、64歳で逝去。徳峰智淳信士。後継者の長男淳三もその9か月後、中学校卒業2か月前に、19歳の若さで早く亡くなった(図3)。覺道智淳信士。他に後継者がいなかったため、四宮家は断絶を余儀なくされた。

2.一族の系譜
 九平の生家西村家は、元々生家のすぐ上に住む西岡家から分家した家で、その際西村を名乗った。生家は現在取り壊され、敷地は空き地となり、納屋とトイレのみ現存している(生家の現当主西村久良氏は、泉佐野市に在住)。
 九平の長兄米太郎が家督を継ぎ、次兄民右衛門は同じ尾山で分家。弟賢吉は貞光町の折目家へ養子に入り、姉ミナは貞光町の津司家へ、妹ヤエは脇町江原の香西家へそれぞれ嫁いだ(表1)。


 九平の妻キヌエは、西中富村(現板野町西中富)の藍商佐野米蔵の娘で、米蔵の母キクは、東貞方村(現徳島市東貞方)の藍商で、代々庄屋を務めた四宮家が出里であった。そして、初代近藤甚助の妻が、四宮家の当主四宮勘五郎の妻ヤソと姉妹であった。勘五郎夫婦に子どもがなく、東貞方の四宮家は実弟の彦三郎に譲り、夫婦は大阪に転居していた。
こうした藍商間の縁戚(えんせき)関係と事情で、九平はキヌエが17歳の年に結婚し、四宮勘五郎家を継いだのである(表2)。


 米蔵は晩年、夫婦で上阪し、九平の借家の一軒でタバコと売薬の店を経営。この借家で九平夫婦も同居していた。
 九平夫婦には一男一女があり、長女が大正2年(1913)生まれのキサさんで、25歳まで実家で暮らした。派手な生活に懲りていたので、堅実な生活を希望し、サラリーマンの三谷清に嫁ぎ、一男二女を育てた。
 四宮家で育てられた人に、九平の甥(おい)折目哲雅(貞光町)がいる。哲雅の母親が6人目のお産で亡くなったため、哲雅を小学校卒業と同時に四宮家で預かってほしいとの申し出を、九平は快諾した。哲雅は徴兵検査までの6年間を四宮家で暮らした。昼は九平の友人が経営する会社で働き、夜は夜学で学び、時々貸家の家賃集金も手伝ったりして、キサさんとは兄妹のように育った。九平は哲雅に「人間、金を残すより、名を残すような仕事をしろ」と諭していたという。このあたり、九平も戦前までの日本人に広く浸透していた「名こそ惜しけれ」という信念の持主だったことがうかがえる。終戦前後の3年間、キサさんと二人の子ども、そしてキヌエは貞光町の哲雅の家で疎開生活を送った。哲雅は昭和26年(1951)、美馬郡選出の県議会議員に当選し、郷土の政界で活躍した人である。
 三谷家は昭和20年(1945)3月14日の空襲で全焼し、大阪市浪速区塩草町から、前述のとおり貞光に疎開した。その後、昭和25年(1950)から伊丹市緑ケ丘に転居し、今日に至っている。キサさんの長男で、現当主の稠(しげる)氏は、大阪府池田土木事務所長として重きをなしている。
 四宮家のお墓は、天王寺区上本町八丁目の正祐寺にあったが、昭和53年(1978)に三谷家の累代墓を三田市の三田霊園に建立したため、その翌年、この霊園に改葬した。
 次は、九平をよく知る二人の方からお聴きした話である。
 三谷キサさんのお話(平成10年10月2日採録)「父は元々弁護士志望で、几帳面(きちょうめん)な人でした。父は藍染の絣(かすり)を1反だけ大事に持っていました。父からこの藍の匂(にお)いをかいでみろといわれたときの、あの藍の匂いがいまだに忘れられません。この染物を三谷家へ嫁入りのとき持参しましたが、戦災で焼いてしまいました。他の遺品もことごとく焼いてしまい、何も残っていません」
 西村好弘さんのお話(次兄民右衛門の孫。平成10年11月12日採録)「九平さんは、すぐ上の兄の民右衛門と一番仲が良かったです。姓名判断に凝っていて、九平から敏博に改名したほどで、私たち3人の兄弟の名付け親も九平さんです(図4)。書画骨董(こっとう)も好きで、奥さんから苦情をいわれるので、収集物は別の場所に保管していたそうです。民右衛門が九平さん宅に遊びに行った際、いただいた掛軸を今も大切に所蔵しています」


 梅南通にあった九平の屋敷跡は、現在個人病院になっていて、隣接地に九平が建てた2階建の貸家が現存している。また、松通四丁目(現松二丁目)には、戦災で焼け残った貸家が今も50軒ほど現役で働いている。木津冷蔵の建物跡には、学校法人大阪中華学校の校舎が建っている。自宅と借家周辺の土地は、明治44年(1911)〜大正8年(1919)にかけて、今宮村第二耕地整理事業が実施されたので、土地区画の形状は現在とあまり変わっていない(国道26号は新たに整備された)。それに比べて、木津冷蔵周辺は、戦災復興浪速東部土地区画整理事業が、昭和21年(1946)から平成3年(1989)まで延々と継続されたため、土地区画が大きく変わった。

3.まとめ
 四宮九平といっても、その名前を知る穴吹町民はほとんどいない。今日の穴吹町からすれば、歴史のかなたに消えた人といって過言ではない。少年期以降は地元で活動していないのが大きな理由であるが、地元が発掘してこなかったのも一因であろう。
 九平に限らず、穴吹町出身で、立派な功績をあげた人物であるにもかかわらず、出身町から忘れられた人はまだまだ潜在しているはずである。こうした人物を発掘し、調査した成果を穴吹町民に紹介すれば、町民の町を誇りに思う気持ちがさらに高まるだろうし、次代を担う青少年には大きな励ましとなるであろう。
 行政が取り組みにくいのであれば、民間のグループや個人がやればよい。確固とした使命感をもって地道に努力すれば、個人で十分できる仕事である。
 調査対象の人物とじかに接した遺族や知人は、年々世を去っていく。あの人が生きていれば、詳しい事情が分かったのにという例は、人物調査の場合、常に生じる。
 今回の四宮九平の調査も、長女の三谷キサさんが86歳で今もお元気で、筆者の問いに的確に答えてくれたからこそ詳しい内容が明らかになったが、こうした人がいなければ、具体的な事実がなかなか判明しなかったであろう。
 取り組みは早ければ早いほどよい。地元で、こうした取り組みをぜひ進めていただきたいと切にお願いする。
 本文は、以下の資料と三谷キサさん並びに西村好弘さんの談話に基づいて記述した。
*昭和3年刊『阿波人物鑑』(徳島日々新報社)545ページ
*昭和9年刊『大阪府市名誉職大鑑』(自治名誉職協会)第1編
*大正11年刊『大阪市商工名鑑』(工業之日本社)1191ぺージ
*大正15年刊『板野郡誌』(板野郡教育会)136ぺージ
*昭和40年刊『貞光町史』(貞光町史編纂委員会)1568ぺージ
*昭和36年1月〜11月連載の『毎日新聞大阪版』中「勘助町」の記事
*『大阪仕入案内』昭和5年11月号折込の大阪市街地図
*平成3年刊大阪市内の『精密住宅地図』(吉田地図株式会社)
*昭和58年刊『角川日本地名大辞典−大阪府』(角川書店)
*昭和61年刊『日本歴史地名体系大阪府の地名 I』 (平凡社)
*三田霊園の四宮・三谷両家墓所の墓碑銘
*木津勘助銅像の台座裏面碑文


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