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1.穴吹町の伝説とその特色 穴吹町は吉野川沿いの平野の中央部に位置する農山村である。昭和30年(1955)に三島村、穴吹町、口山村、古宮村の四つの町村が合併して成立した町である。穴吹、三島は吉野川に面した比較的平らな土地であるが、口山、古宮は穴吹川ぞいに南へ逆上って四国山地の奥深く入っていく。町面積の90%は傾斜の急な山地である。ほぼ長方形をした町の中央部を清流穴吹川が縦断し、木の枝のように多くの谷川が穴吹川に流れ込んでいて、その周辺に集落が発達している。穴吹川を逆上ることにより剣山山地の北斜面の木屋平や祖谷地方との結び付きも強く、穴吹の町は、穴吹川が吉野川に合流する谷口集落である。 また、吉野川をこえて脇町から清水越えして、高松市を中心とする中讃地方との歴史的交流が借耕牛(かりこうし)などを通じてみられた。 穴吹町は、前述のように吉野川沿岸平野のほぼ真ん中で、東西交通の中心であるのみでなく、剣山、祖谷地方への入り口であって、阿波の南北交通の中心的役割を果たしてきた町である。穴吹町の歴史は古く、縄文時代の石斧(せきふ)が小島で発見されていて、三島古墳、三谷古墳など6基の古墳があるし、穴吹城や三島城などがあったそうで、それにまつわる伝説も伝えられている。 以上のようなことを背景とした穴吹町の伝説であるが、山村の特色として大蛇や狸(たぬき)にまつわる伝説は多く、それに関連した剪宇(きりう)峠の大蛇騒動は記憶に新しいところである。珍しい狼(おおかみ)や山犬の伝説もある。剣山や祖谷地方には有名な平家伝説が多いが、穴吹町には平家伝説だけでなく、白人(しらひと)神社に伝えられる源為朝(ためとも)の伝説など、源氏にまつわる伝説も多く、源平両方の伝説が伝えられていることは、他町村に見られない特色といえるようである。 前述のように穴吹町は交通の要地、人の交流の激しいところであって、人が語り伝えた伝説も交流したことが想像され、後記の穴吹町の伝説一覧表を見てもわかるように、穴吹町の伝説の中に他町村に伝えられている伝説が数多くある。例えば、弘法大師にまつわる「食わずの芋」は神山町にある有名な伝説であるし、大師が高野山のような修業場を作ろうとしたという話は、井川町や神山町にもある伝説である。それで穴吹町の伝説の特色の一つとして、他町村にある伝説が多く流れ込んでいる、ということをあげてよいのではないかと思う。 穴吹より穴吹川を逆上り、口山から古宮と山深く入るにつれて伝説の数は増える。特に古宮には、伝説や昔話の宝庫と言えるほど多くの伝説があり、古宮の緒方勝茂氏は、それらを何年にもわたって収集し記録されている。それらを参考にして、穴吹町の伝説を集めて次のように一覧表を作成してみたが、その数はなんと110以上という多数になった。伝説の数の多さは他町村に例がないほどである。このように多くの伝説があるということも穴吹町の伝説の特色にあげたい。
2.伝説の分類 穴吹町の伝説は「穴吹町誌」、「古宮村誌」や口山の「郷土読本」などに収集されているが、特に前述の緒方勝茂氏の「消えゆく古里」は、古里への愛情のこもった本で、多くの興味ある民話、伝説が収集されている。また多くの方々から貴重な話を集めることができた。ご多忙中にもかかわらず時間をさいてお話しいただき、また案内をしていただいた方々に感謝している。 穴吹町の伝説を分類し、一覧表にしたのが表1である。後に伝説の一部を紹介する。

3.伝説の紹介 1)旗屋の窪 喜来地区の麓(ふもと)の谷川を渡り、600〜700m
登ると「旗屋」と呼んでいる所がある。昔、源平の戦いに敗れた平家の武士たちが、ここに逃げてきて旗を立て、陣をとって、作戦を練った場所だといわれている。付近一帯に陣屋の端、切り合いの窪、墓の窪という地名や、多少の遺跡が残っている。 旗屋は面積約80a
以上もあり、一面に大岩が並列している。中でも高さ百数十尺(1尺=約0.3m)位もある三つの大岩があり、いずれも奥行き数十間(1間=約1.8m)位の洞穴がある。土地の人は、ここに大蛇が住んでいて、辺りは金蝿(きんばえ)が飛び回っており、ものすごい所で誰も近寄らなかった場所、と伝えている。 (「古宮村誌」) 2)世の中桜 古宮内田の八面山の中腹に、「世の中桜」と呼ばれる山桜の巨木がある。大人の二かかえ位あり、樹齢300年もたっているといわれる。この桜は咲くと景気がよくなるといわれ、景気占いによく活用された桜だそうである。この桜のある内田地区では、こんにゃく、タバコ、みつまた等がよく作られていて、それらの作物の収穫のよしあしの目安にもされたそうで、「今年は世の中桜がよう咲いたので、こんにゃくがようとれたでわ」とか「桜があまり咲かんので、タバコの収穫がさえんでわ」という会話が交わされているのをよく聞いた。 (三好テルエさん〔76歳〕談) 3)舞中島の観音堂 舞中島の観音さんはもと北向きであったが、霊験あらたかで、その前の道を通る牛や馬が止まって動かないようになるので、南向きに向きを変えたそうである。この観音さんはもと光泉寺にあったが、明治以前のある年の洪水で流された。ところがある壇家の人の夢枕(まくら)に現れて、はやく迎えに来いというので迎えにいったら、北東約1km
の川田の船戸(山川町)の畑の中にあったそうである。その後、洪水でも流れないような高い所ということで、現在の高い土地にお堂を建立して移したそうである。 (大塚義教さん〔94歳〕談) 4)宮人(みょうど)の家 口山、宮内の山下家は白人神社の宮人の家柄で、そのしるしの神像が秘蔵されている。 大昔、忌部(いんべ)の大神は一族を引き連れて阿波の国にやってきた。その一族が宮内、首野、田方、知野(ちの)、調子野(ちょうしの)、支納(しのう)等に住みつき、麻、楮(こうぞ)、穀物等を作るようになった。それらの人々は、作物の豊作と一族の繁栄のために、神的山を聖域として樹木を依代(よりしろ)として立て、天から神を招き神饌(しんせん)を供えて、一族の長が祝詞(のりと)を捧げて春のとしごいや秋の収穫の祭りを行った。そしてその聖域と他とを区別するため、河原石で磐境(いわさか)が築かれた。その後、社殿が建てられて白人宮となり、源家からの寄進地もあり、広大な社殿を有するようになると、一族75人の人々は、武装して社領の防衛や神社の守りにあたるようになった。その75人の人々を「宮人」(みょうど又はしょうど)と呼ぶようになり、社会的にも経済的にも特権的地歩を拡大していった。白人宮の祭りもほとんどこの宮人の手で行われていて、宮人の家の屋号は神主、禰宜(ねぎ)である。神輿なども75人の子孫以外は触れることができない。 藩政時代はその支配の妨げになるため、宮人の武装は解かれ、広大な社領は没収された。 宮人たちは自らの姿を像に刻んで社殿に侍(はべ)らすことにし、平常は百姓として農業に従事するようになった。百姓となった宮人たちは、汚いものや不浄のものには絶対触れず、神事にはあらかじめ斎戒沐浴(さいかいりんよく)して奉仕した。また武器は各家におかないで、宮人の頭の家の長持ちに入れるようにした。いつか頭の首野の南郷家にあった武器が火災で焼けた事があったそうである。また宮人は平家の落人であったという伝説もある。 (山下宗市さん〔83歳〕談) 5)百々(どんど)の滝 三谷に「百々(どんど)の滝」という美しい滝がある。ここには昔から滝の主、七つの頭をもつ大蛇がすんでいるといわれている。ある年の夏の日照りに、滝の前で大きな雨乞い祭りがあった。修験者は護摩(ごま)をたき呪文(じゅもん)を唱え、僧は経文をよんで竜神に祈った。男は踊り女は舞をまった。そんなとき滝壼(つぼ)に供えてあった酒樽(だる)が突然水中に引き込まれた。一天にわかにかきくもり、稲妻、雷鳴とともにものすごい大雨が降った。幾日かたって岩津の渕に空樽が一つ浮かびあがった。「百々の滝と岩津の間には大蛇の通る穴がある」といわれているのはまことだったと、今更のごとく人々は驚いたりあきれたりしたという。(三谷英二さん〔68歳〕談)
参考文献 穴吹町誌編さん委員会編(1987)穴吹町誌 穴吹町 三宅久太郎著(1932)郷土読本 口山村教育委員会 三木近太郎著(1954)古宮村誌 古宮村郷土研究会 緒方勝茂著(1998)消えゆく古里 教育出版センター 徳島県老人クラブ連合会編(1988)阿波の語りべ 徳島県老人クラブ連合会 横山春陽著(1980)阿波伝説集 歴史図書社 藤澤衛彦著(1919)日本伝説叢書阿波の巻 日本伝説叢書刊行 武田 明・守川慎一郎著(1977)阿波の伝説 角川書店 |