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1.はじめに 安政6年(1859)10月の、いわゆる安政の大獄以来、幕府と反幕府勢力との対立はいよいよ深まり、尊皇攘夷(そんのうじょうい)の掛声は急激に高まった。明治維新の幕開けが始まったのである。 文久年間(1861〜4)はわずか3か年であるが、皇妹和宮親子内親王が将軍家茂に降嫁されたことを始め、寺田屋騒動や生麦事件、長州藩による外国船砲撃など、幕末の激動期を物語る歴史上の大事件が多く発生した時期である。幕府は、蛤御門の変(1864)以降反撃に転じる。同年8月、各藩に対して出兵命令を出し、長州へ出撃をさせた。徳島藩では藩主斎裕が、淡路防衛に専念したい、と幕府に申し出たが許されず、世子茂韶を将とし、稲田稙誠を先鋒として出陣した。 しかし、外国の下関砲撃で危機に立っていた長州藩が、戦況不利とみて降伏、恭順の意を表したので、戦わずして途中から引揚げることになった。 以下に紹介する「長州海陸日用記」は、稲田家士緒方桂(2)が、元治元年(1864)11月に、第一回長州征伐に出兵した時の日誌である。出発当初から勝利のムードに酔っていたのか、道中まことにのんびりした雰囲気を漂わす出兵記録となっている。なぜにのんびりした遊山的従軍になったのか、「増補稲田家昔物語」(3)には、次のように記されており、そのあたりの事情が理解できる。 「稲田家もとより薩長と意思通じ、為に州本益習館と山県狂介、桂小五郎、西郷吉之助等、来淡氏過(ママ)を相励し、(中略)征長は、単に徳島藩主に代り出陣したるものでなく、稲田家は昔より戦と言へば徳島藩中先登するの家柄とて、稲田稙誠大将として出発、参謀は稲田家臣田村量平なりしも、其実征討の意なきにより、途中は遊山に出かけたる体度にて各所に立寄り、更に船を南に迂回して讃岐沖に漂わせ、征長の状勢を窺わして、征長引揚げと決するや直ちに徳島を経て帰国したるなり、この出陣に最初よりこうなるべきを予知せしなるべし、今其の征長日誌を見て思い知らるべし。」
2.長州海陸日用記 次ぺージの史料は、元治元年11月9日、命令を受けた緒方桂が、下組分代官役、甲藤野右衛門ほか1名にあてたものである。日誌の第1ぺージは、この覚え書から始まる。 十一月九日於会所ニ御軍令御軍帳拝上被仰付御請書左之通リ 御請書之覚 今般御軍令御軍帳拝上被仰付奉畏、此段御請書申上候 已上 子十一月九日 緒方 桂 甲藤 野右衛門 殿 柏木 久左衛門 殿 夜、五ツ時飛脚到着、拝上夫■用意、組子共小家共々右之通候ニ付、何時事之程も難計候間、何レ非常ニ相心得用意罷在候様、相達候事 日記は表紙とも33枚の和綴(とじ)で、77日間の出兵記録である。以下要約して抽出する。

3.おわりに 単なる日記の紹介に終わったのは、紙数の都合とはいえ残念である。総大将稲田稙誠以下の大船団と、500人余の大兵隊(御軍事諸扣による)を擁しての費用は相当なものであり、なぜに膨大な戦費を投じてまで出動の要があったのか、またその財源研究など、徳島本藩とのからみも含めて調査し、追求してみたい。

註 2)緒方 桂(かつら) 半平山村庄屋(嘉永5年(1852)名跡相続)。 またの名を義之、庄屋時代(嘉永〜明治)陽一郎ともいった(稲田家御家中筋目書)。 3)増補稲田家昔物語:市村・平野義貞著、発行人・稲田広(昭和29) 4)三田■馬・内藤弥兵衛・七條弥三右衛門:益習館の俊才で、勤皇活動家と評されている。 5)御軍事諸扣:緒方桂・元治元年十月、稲田九郎兵衛の御軍令、御軍役などの控帳。 |