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1.はじめに 昭和62年(1987)10月に刊行された「穴吹町誌」の編集を、少しではあるがお手伝いした一人として、今回の穴吹町の学術調査に参加できたことは、旧知に再会したような、何かしらなつかしさを感じる体験であった。町誌編集時に考え残したことも数多いが、ここでは「熊野那智大社文書」に登場する那智山の御師(おし)・中畠三位法橋頼慶(「なかばたけさんみほっきょう、らいぎょう」と読むか)を中心に、中世の穴吹地方の熊野信仰について考えてみたい。
2.「熊野那智大社文書」にみえる頼慶 中世の熊野三山が御師を抱え、御師はまた全国各地の先達(せんだつ)を傘下に収め、先達は檀那(だんな)たちを引率して熊野に参詣(さんけい)するという、熊野信仰に関する全国的なネットワークがあったことはよく知られている。これら先達は、現在でも、たとえば「四国八十八ケ所」の札所巡り、すなわち遍路にみられるように、一種の旅行代理店あるいは添乗員のような役割をはたした。那智山の頼慶はそうした先達・檀那を本山で迎え、宿泊や参拝等の一切の世話をする御師だったのである。 頼慶は、何かしら経済的問題が生じたのであろう、応永12年(1405)7月2日、「中畠重代の阿波国旦那(だんな)」を担保として、「三ケ月中」の間、「五百文」を借りた(同文書、一〇四借銭状、以下同じ)。貸し主は、同文書の裏書きによれば、おそらくは「小坂之かり屋方」、すなわち後述の「色川小坂 三郎左衛門」であったと思われる。月100文につき5文の利息(五文子)であった。応永14年(1407)2月10日には、頼慶はさらに嫡子丑法師丸とともに、「甲斐国先達・旦那」を北院下の瀧蔵坊に10貫文で永代売り渡した(一一三旦那売券)。ただし、12年のうちならば、20貫文で買い戻せるという条件つきであった。 応永15年(1408)3月21日には、「中畠ちうたいそうてんのあわのくにあなふきのかつさのあさりか門弟ひきたんな」(重代相伝の阿波国穴吹の上総阿闍梨(あじゃり)が門弟引旦那)を担保としておなじく「小坂三郎(左衛門)」から「九月中」まで五文子で借用している(同文書、一二二借銭状)。同年10月20日には前記「阿波国穴吹之旦那」を5貫600文で「なかくうりわたす」(永く売り渡す)ことになった(同文書、一二五旦那売券)。3月から10月までのべ8か月間の利子1貫600文であることを考えれば、そのまま質流れになってしまったのである(「穴吹町誌」参照)。 その後、頼慶の経済的困窮はいよいよつのったのであろう、応永16年(1409)4月23日には、ついに頼慶父子は「中院民部僧都自弁海重代相伝」(「中院民部僧都の弁海より重代相伝」の意か)の寺地を、「証道坊」に7貫文で永代売り払ってしまったのである(同文書、一三五坊地売券)。この寺地は、御師としての頼慶の那智山における活動拠点であり、いわば最後の砦(とりで)とみなしうる。頼慶の経済的没落は明らかである。寺地をのぞけば、頼慶が最後まで固執した「阿波国穴吹之旦那」は頼慶の御師経営にとって重要な位置を占めていたことがうかがわれる。その後、享徳4年(1455)5月8日、「色川小坂 三郎左衛門」は、頼慶から買得した「阿波国穴吹之旦那」を5貫200文で実報院に売り払った(同文書、三三九旦那売券)。
3.穴吹の先達・檀那 「熊野那智大社文書」にみえる穴吹の先達は、上記の上総阿闍梨であり、上総はまた門弟すなわち弟子たちを有する、かなり実力のある先達であったとみられる。頼慶が最後まで上総の檀那たちを売ろうとしなかったのは、そのためもあろう。康正2年(1456)9月27日には、先達の「阿州美與(馬カ)郡於穴吹庄小山民部(小山民部賓寿)」が、門弟や檀那である「おしま(小島カ)大しけまつ藤原宗次、穴吹□(庄カ)密厳坊浄明」などを率いて熊野に参詣している(「紀伊国三里郷二階堂氏所蔵文書」、「阿波国徴古雑抄」所収)。小山民部と上総の関係は不明であるが、おそらくは別人であり、それぞれに門弟・檀那を率いる競合関係にあったのではなかろうか。また、藤原宗次は檀那の一人とみられるが、おそらくは武士身分のものではなかろうか。 応永12年11月15日付けの文書に阿波国の檀那として「ゆき七ろう・同ゆきの一族」の名がみえる(同文書、一〇七旦那売券)。これは海部郡の武士由岐氏のこととみられる。また、永享7年(1435)9月には、檀那である伊勢国司「北畠殿一家」を13貫文で永代売り渡した売券も残っている(同文書、二五一旦那売券)。信仰の程度もあろうが、上総の抱えていた穴吹の檀那たちも、北畠氏や由岐氏と同じ武士身分であり、檀那売買の対象としても、さほど劣ることのない価値をもっていたといえるのではなかろうか。また、当時の穴吹では少なくとも二組の先達グループが活発に活動していた。穴吹の地域には、その活動を支える経済的基盤があったとみられるが、それは当地が細川氏の所領であったことと無縁ではあるまい。 応永7年(1400)8月24日、細川頼長は、父であり、かつての阿波守護であった頼有からの所領を幕府から安堵(ど)されているが(「細川家文書」)、そのなかに「穴吹山半分」が含まれる。頼長をはじめとする和泉守護家の細川氏の関係者、あるいは代官などが当地に派遣されていたことが想定され、これらの人々が檀那のうちの中心的存在ではなかったかと老えられる。
4.熊野信仰と弘法大師信仰 中世にあれほど盛んであった熊野信仰は、近世になると衰えをみせる。四国でこれにとって代わったのが、四国遍路といえよう。注目されるのは、中世の阿波国の熊野先達のうちに、「四国八十八ヶ所」の札所の寺院が含まれることである。第22番札所平等寺(同文書、三二〇旦那売券)、同23番薬王寺がそれで、「葛奥之道賢」(同上)の「葛奥」も「勝浦奥」のこととすれば、同21番鶴林寺とみてよいのではなかろうか。紀伊熊野に近い紀伊水道に面した阿波東海岸沿いの札所が先達に組織されていたのである。 さらに注目されるのは、前記の応永15年3月21付けの「借銭状」である。この日は御正御影供、すなわち弘法大師空海の祥月命日にあたる。わざわざ借銭の日付にこの日が選ばれたのには意味があるとみるべきで、借り主である頼慶の弘法大師信仰を物語っていよう。 また、この信仰は一人頼慶のものであるばかりではなく、その傘下にある穴吹の上総阿闍梨やその門弟・檀那のものでもあったろう。従来、四国遍路に色濃く残る熊野信仰について多くのことが論じられてきた。今後は人を媒介とした両者の関係を含め、考察を深めるべきであろう。近世の四国遍路盛行の前段階としての、中世の熊野の御師・先達・檀那たちの弘法大師信仰は、その点で注目すべき事柄といえよう。
5.おわりに なぜ熊野信仰が四国遍路の信仰に代わるのか、以前からこのテーマに興味を持ち続けてきた。ただ、今回は時間不足で、中途半端な考えを開陳したにとどまった。すべては今後に待ちたい。また、穴吹町職員で町誌の事務局におられた緒方俊仁氏から、今回調査の依頼を受けた件もあったが、準備不足で果たせなかった。これもまた、今後の課題として取り組んで行きたい。緒方氏をはじめとする関係者各位に不手際をおわびするとともに、お許しをいただきたい。
参考文献 『阿波国徴古雑抄』(日本歴史地理学会・大正2年3月) 『熊野那智大社文書一』(永島福太郎ほか校訂・続群書類従完成会・昭和46年7月)
1)四国大学文学部 |