阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第45号
穴吹町の民家

民家班

(日本建築学会四国支部徳島支所)   

 酒巻芳保1)・東久美子2)・

 阿部純子2)・植村成樹3)・

 高田哲生4)・田渕功三5)・

 田村栄二6)・根岸徳美3)・

 林茂樹2)・速水可次7)・姫野信明8)・

 本田圭一9)

1.はじめに
 穴吹町は、四国一の清流といわれる穴吹川が吉野川に合流する、吉野川中流域に発達した商業地を中心に、吉野川三大中州の一つである舞中島の水田地、穴吹川上流の山間地を擁した、変化に富んだ地勢を持つ町である。
 今回の調査では、商業地部分は吉野川の水運を生かした藍(あい)の集散地として発達してきたことから、民家の中にその繁栄の姿を見ることができるのではと期待された。また、舞中島の農業地域では、過去度重なる洪水の被害に見舞われながらも、これにより堆積する養分に富んだ土を生かした藍栽培が発達し、徳島の中でも比較的近年までその栽培が盛んであった地域であり、民家の中にも藍栽培関連のしつらえや、洪水と戦ってきた住民の知恵の集積を見たいと考えた。さらに、山間地域の民家には、急斜面にへばり付くように建つ、徳島の西部に共通の散居村形式や、奥行きの狭い土地に対応した間取りの特徴を把握したいと考えた。
 調査は7月28日の結団式の後、まず穴吹町全域の概観調査で調査対象の絞り込みを行い、8月1日、2日の両日に2〜3班に分かれて、各々の民家の詳細調査を行った。調査方法は、ヒアリング、実測(配置、間取り、矩計(かなばかり))、写真撮影を同時進行で行い、ヒアリング調査からはその家柄、生活の変遷などを、実測調査、写真撮影では現在の姿を詳しく記録することによって、民家の成立背景や時間経過を含めて実態を総合的にとらえる事ができるよう努めた。その間、調査に快く応じていただいた町民の皆様には、深く謝意を表するものである。(酒巻)

2.穴吹町の調査民家一覧(図1)
 「山」の民家については、できるだけ様々な谷筋、敷地の向きの事例を収集するように努めたが、調査への協力が得られないケースもあり、多少の偏りを示している。
 「川」の民家についても、調査協力が得られず断念した民家もあり、サンプル数は少なくなっている。
 また、「まち」の民家のサンプル数が少ないのは、主に建て替えが進んでいて、絶対数が少ないためである。
 しかし、各地域の代表的民家事例は収集できたものと考える。


 「山」の民家  1  中山 藤夫 家  古宮字内田306番地
         2  中山 由太 家  古宮字内田3番地
         3  田中 定枝 家  古宮字喜来155番地
         4  武田ミヤ子 家  口山字調子野423番地
         5  大石 定雄 家  口山字猿飼127番地
         6  大舘  桂 家  口山字淵名156番地
         7  緒方 忠亮 家  古宮字半平568番地
 「川」の民家  8  原田 俊彦 家  三島字舞中島1771番地
         9  吉田 盛行 家  三島字舞中島1476番地
 「まち」の民家 10  一森  登 家  穴吹字辻31番地
         11  佐藤 宏史 家  穴吹字平ノ内1番地

3.穴吹町の民家
 1)「山」の民家
  (1)中山 藤夫 家  古宮字内田306番地
 当家は穴吹町の中でも、最も山深い内田の南斜面に位置している。屋敷構えは山岳部の民家に多く見られるように等高線に沿って細長く、谷側に石垣を積み、地盤を造っている。東側から、お墓、納屋、離れ、浴室・便所、主屋と並べて建てられている(図2)。東の道路から、離れの下を通り庭に上がってゆくが、離れの外壁は、白い漆喰(しっくい)と黒い板張りで、この対比がとても美しい(図3)。


 屋号は「ワラベノヘヤ」といい、ワラベノは蕨野(わらびの)を示している。家紋は「キリノシモン」で、家系図も所蔵されている。主屋の建築年は、明治30年(1897)とのことである。
 主屋の屋根は草葺(ぶ)きであるが、現在はトタンの小波板で覆われている(図4)。また、オブタもトタンの小波板葺きである。間取りは平入り右勝手の「中ネマ三間取り」であるが、「ネマ」の部分を半間北側に突出させている(図5)。「オクノマ」は現在床を張っているが、昔は土間だったそうである。「ザシキ」の西側に少し増築して部屋を取っているが、昔は収納だけだったと考えられ、後述の中山由太家の造りとよく似ていたのではないかと考えられる。(高田)

  (2)中山 由太 家  古宮字内田3番地
 当家は、前述の中山藤夫家と同じ山腹を、少し登ったところにある。やはり典型的な山岳部の民家の屋敷構えで、前面に深い谷を見下ろし、背面に山が迫る(図6、7)。屋号は「ナカ」といい、集落の中という意味らしい。宗教は神道で、屋敷神に南光院という山伏を祀(まつ)っている。
 主屋は、1850年ごろに建てられたという事であるが、現在は西側に増築をしたり、建具をアルミに替えたりして、かなり手を加えられている。主屋の草葺き屋根は、昭和初期に葺(ふ)き替えをして、昭和50年代には鉄板で覆われたという事である。オブタはなく、軒裏は草葺きのままになっており、比較的状態は良い(図8)。間取りは、平入り左勝手の「中ネマ三間取り」であるが、「ネマ」の上(中二階)を収納として使っていたそうである(図9)。
 昔、「オクノマ」は土間で、「オモテ」と「ザシキ」にはイロリがあり、天井は「竹スノコ天井」だったそうである。現在でも、柱、梁(はり)、板戸などは、重く黒光りしており、当時を物語る趣深い内観となっている。(高田)

  (3)田中 定枝 家  古宮字喜来155番地
 喜来集落の車返から、杉木立の中の急な石段を上る。尾根後(じり)の開けたところにお堂があり、これよりさらに一筋小道を上ったところに当家はある。代々農家の家系で、寛永(1624〜44)や嘉永(1848〜54)を刻んだ墓がある。屋号は「オカタ」。家紋は「キリノトウ」。こんにゃくや麦、雑穀、みつまた、タバコをつくっていた。南斜面の青石積み段状敷地に、二層の「ハナレ」「ナヤ」「ベンジョ」「オモヤ」「ハナレ」が並び建つ(図10)。庭先は土地の不足を補うため、ヤマトをつくり、ハデをたてる(図11)。以前の主屋は、1800年ごろに建築され、明治以前に焼失した(葬式の夜に子どもがワラをとりにいって、持っていた提灯(ちょうちん)の火が燃え移ったといわれる)。現在の主屋は 1883〜4年の建築(図12)。当初オブタはなく、茅(かや)の丸葺きであった。1951〜1952年ごろにオブタを増築。1991年ごろ、茅葺きをトタンで巻いた。かつて茅の葺替(ふきかえ)は集落の共同作業で行われ、40人位が3日間かかった(終戦直後の喜来の集落は約40戸である)。「喰違(くいちがい)四間取り」(図13)で、土間には天井がなく、小屋組が見える。土間奥は改造されているが、かつて、イロリやオクド、みつまたを蒸す釜(かま)・コシキがあった。「ナカノマ(オリマ)」は釿(ちょうな)はつりの梁・丸太根太が見え、スナコ天井になっている(図14)。小屋裏は7〜8尺の高さがあり、こんにゃく玉を保存したり、茅やタバコを置いた。かつて二間半角の板敷の真ん中にイロリがあり、1938年にお堂が建てられるまでは、集落の人が集まって踊ったりしていた。「シモザシキ」「オクザシキ」はいずれも畳敷に竿縁(さおぶち)天井である。(植村)

  (4)武田ミヤ子 家  口山字調子野423番地
 当家は、穴吹川の支流、調子野谷川沿いに位置する。屋敷は川に向かって南面し、周囲の田地より2m 程青石を積んで地盤を高くしている(図15)。細長い敷地に新屋、主屋、納屋、便所、離屋(はなれや)が並ぶ(図16)。新屋のある位置には、最近まで牛小屋があり、二階にはワラを置いていた。離屋は昭和55年(1980)ごろ、タバコ乾燥小屋を改造したそうである。屋号は「トコンノウエ」。昭和40年(1965)ごろまでタバコを作り、養蚕も行っていた。
 主屋の建築年は、家人によると、18世紀後期。四方オブタの下屋造で、桁行(けたゆき)七間半と広く、部屋数も多い(図17)。床高1.17m、軒高3.94m と高く、風格のある構えである(図18)。屋根は茅と麦ワラで葺(ふ)いているが、昭和50年(1975)ごろにトタンで巻いた。「スイジバ」は、その時に増築。以前はその場所に庇(ひさし)をかけ、クドがあったそうである。「ニワ」と「イロリノマ」には天井がなく、小屋組が見える。「オモテ」と「オク」はスノコ天井(図19)、他の部屋は竿縁天井である。「ザシキ」が妻側に開いているのが特徴的であるが(図20)、町内の比較的大きな「山」の民家によく見られた。主屋の一部と納屋の壁にひしぎ竹が張られている(図21)。(根岸)

  (5)大石 定雄 家  穴吹町口山字猿飼127
 大石家は山間部北斜面に在る猿飼の集落の上部、新田神社近くにある。猿飼は30戸ほどの集落であったが、現在住むのは12戸で、住民の共同所有だった山も分配され、個人所有となっている。敷地は車道のカーブ地点から等高線に沿って西に入る。入ったすぐ左山側の墓地には、古い墓石も十数基寄せられている。当家は農家で、屋号は「引地」、家紋は「丸中の木」、屋敷神は「オフナトサン」を祀る。主屋は間口七間、奥行き三間半、右勝手「四間取り」の改造型であろう(図22)。「ベンジョ」が前面中央にあり、剣山系民家の特徴を示す(図23)。茅葺き寄棟屋根は昭和50年ごろトタンで覆った。主屋と東の納屋、西隣の緒方家の3棟の銀色塗装のトタン屋根が横に並び、遠くからでも視認出来る(図24)。
 柱材は栗(くり)や杉で檜(ひのき)は一切使用せず、主に桜とホウソの木(ナラ)の白太を斫(はつ)り、赤身だけにして弓なりの材をそのまま使用している(図25)。それは堅くて、改造時に大工の鋸(のこぎり)の歯が立たなかったほどであった。また、釿(手斧)仕上げなどから建築年が古いことが推察される。当主の亡祖父の話では、かつて「オモテノマ」の床は竹簀(たけす)、「ザシキ」は板間に筵(むしろ)敷きだったそうで、客事だけに使用していたが、一時蚕を飼っており、場所の足りないときは「オモテノマ」まで蚕棚を作っていた。
 すすけていた棟札を、「解読する」と寺の住職が持ち帰り、薬品で洗ったが字が薄くなり読めなかったそうで、そのまま寺から返っていない。建築は1750年以前と推測される。
 東のナヤは明治初年ごろの建築で、昭和30年(1955)ごろ建て替えられた風呂(ふろ)棟が東に付いている。水は、昔は共同のイズミから得たが、今は個人で引いた谷水の水道となっている。(林)

  (6)大舘  桂 家  穴吹町口山字淵名156番地
 南北朝時代に当地に来た新田家の一族が先祖といわれ、周辺には新田神社が多い。屋号
は「上屋敷」、家紋は「五瓜(ごり)に四目菱(よつめびし)」。かつては18軒あった大舘姓も、現在は9軒に減っている。すべて家紋は同じで、当家の下にあった庄屋の「大舘」も今は無い。
 江戸時代には藍作をし、その後阿波葉タバコを昭和60年ごろまで生産していた。タバコは天日干しの後、主屋の屋根裏につり、イロリの煙で茅葺き屋根とともに乾燥させた。主屋の東に並ぶムシヤは、下から火をたき屋根上部の煙出しから排気する構造をもち、タバコを蒸した。現在ムシヤは内部が改装されて物置になっている。
 屋敷は、標高440m 程の北斜面にあり、東から倉庫、ムシヤ、主屋・カマヤ・フロ、ハナレ、牛屋、少し離れてキナヤ(木納屋)が並んでいる(図26)。
 北入り右勝手の主屋は「四間取り」で、外壁から半間入った本桁から奥行三間×間口六
間を有し、当地では「サブロク」と呼ばれている(図27)。井川町の「六8帖(むはちじょう)」とは違い、「オモテ」が12帖半あるなど、あまり規則的ではない。「オモテ」は竹の天井の上に塗り土を置いたヤマト天井である。建築は1800年ごろといわれるが、大黒柱の存在から実際はもう少し新しいと思われる。草が生え、こけむした屋根が印象的である(図28)。
 現在、飲み水は谷(イズミ)からホースで引いてきて、カメ(昔は「ドウケ」と呼んでいた)にためているが、かつては体の前後に桶(おけ)を「カタイデ」水を運んできていた。 (阿部・東)

  (7)緒方 忠亮 家  古宮字半平568番地
 緒方家は、穴吹川上流、木屋平村近くの南向き山麓(ろく)に位置している。代々庄屋を務めており、脇町の稲田家とも1585年からかかわっていたことが古文書に記されている。
 明治までは禄高(ろくだか)による生活であり、以後は林業、たばこや養蚕業を営んできた。屋号は「土井」、家紋は「丸に三角」で、この家紋は八幡神社にも彫られている。
 屋敷内には、主屋のほかに長屋門があり(図29)、現存する主屋は、明治7年(1874)ごろに建替えられたもので、1950年後半に屋根の葺替え、1973年に茅葺きの上にトタンを巻いている(図30)。また、長屋門の建設年代はわかっていないが、主屋より古い。扉や金具が大きく社寺の門にも匹敵するが、屋根の茅葺きが撤去され、トタン葺きになっているのが残念である(図31)。
 間取りは、庄屋としての仕事や接客としての「ゲンカン」「チョウバ」「ザシキ」、住まいとしての「ナカノマ」や「オクノマ」など9部屋と、通りニワを持つ大きな家である。家の者が使用する東の「ゲンカン」の上には、梯子で登り降りして使用する女中部屋があり、「ナカノマ」上の中二階は物置として使用されている(図32)。 (速水)

 2)「川」の民家
  (8)原田 俊彦 家  三島字舞中島1771番地
 先祖は川北の武家であったが、戦いに敗れて当地に来たという。 養蚕業も一時営んでおり、その時に「ミセ」に蚕棚をしつらえ、風通しをよくするために、部屋の中央に屋根裏に抜ける開閉式の通気口を設けている(図33)。最盛時には藍を農家から買い取り、まとめて京都に卸していたという。
 建築年は明治初年ごろで、最初から左奥側(北側)に切妻の屋根を掛け、ワラ葺き寄棟屋根と組み合わせていて、この切妻屋根には大型の煙出しを設けている(図34)。建物全体に改造は少なく、建築当時の姿をよく残しているが、オクドは撤去されている。
 現在、ワラ葺き屋根はトタンで覆われているが、これは昭和初期に行ったもので、付近では最も早かったという。
 元々、栽培していた小麦のワラしか使えなかったので頻繁に葺き替えていたが、手間が掛かり過ぎるのでいち早くトタンで覆ったのであろうという事であった。
 外観は農家的であるが、間取りは「ミセ」があるなど商家的な内容を持っている(図35、38)。
 大きな敷地には立派な門も残っているが、建築年は不明である。家人によると主屋よりずっと古いという(図36)。洪水に備えて敷地全体を110cm 程度、主屋の床は更に80cm 程度上げているが、大正時代に床上30cm、昭和29年(1954)には60cm の浸水に見舞われていて、その水跡が今でもはっきりと残っている(図37)。(姫野)

  (9)吉田 盛行 家  三島字舞中島1476番地
 舞中島の中央部のやや西側に位置する。当主は3代続く教師であるが、現在はここに住んでいない。それ以前は代々舞中島の農家で、藍をつくっていたが、昭和初期には養蚕が中心になり、昭和30年前後からは米作に替わった。屋敷には昭和8年(1933)建築の主屋が南面して建てられ、その西側には、ネドコ、蔵、ハナレが並んでいる。屋敷の道路を挟んだ西側には当家所有の竹林があり、洪水時に流木などから屋敷を守ったといわれる。
 屋敷全体の地盤が周囲の道路から上げられているが、「六間取り」に通り庭(土間)がついた主屋(図39)の土間は、その地盤面から高くされ、座敷の床は更に高い(図40)。この造りは、単に洪水だけを意識したものではなく、建築当時の稼業であった養蚕への配慮の方が強いといわれる。座敷6部屋ともイロリがあり、蚕のために火をたいた。蚕は各部屋に2間の棚を置き、「エビラ」と呼ぶ竹製の囲いにコモを敷いたものを重ねて、その上で飼った。北側の風呂は昭和40年(1965)ごろ増築し、「キタノマ」は昭和45年(1970)ごろ天井を張るなど内部を改造した。土間のオクドサンは現在でも煮炊きに使っており、昭和30年(1955)ごろにタイルを貼(は)った。「ナカノマ」と「オク」の間の廊下は、養蚕時に各部屋に行き来しやすいための工夫である。
 蔵とネドコの建築年は不明。ただ主屋よりも古い(図41)。ネドコの二階の床は土で固めてあり、その上で藍作業をした。ハナレは昭和3年(1928)ごろの建築で、完成後、家族が移り住み、主屋を建て替えた。主屋の完成後、祖父と祖母がハナレに住んだという。ハナレは、主屋より更に高い石垣の上に建てられている。便所はあるが炊事施設はなく、洪水時に生活したという「水屋造り」とはいえない。屋敷全体が高くあげられ、主屋やハナレが高い石垣の上に建てられた形態は洪水を意識したもので、舞中島の地形とともに、徳島県でも他に例の少ない民家類型といえる。(田村)

  3)「まち」の民家
  (10)一森  登 家  穴吹字辻31番地
 屋敷は、伊予街道と木屋平街道の交差する場所に位置し、水運の要所でもあった。先祖は阿波町から移住したことが、阿波町谷島の明王院過去帳に記されている。代々の農家であり、藍のすくも造りを専業として、現在も藍の寝床が原形を留めている(図42)。今の当主で6代目になり、屋号は「カネト」で、家紋は「ツタ」を表し、屋敷神は「おたちさん」が祀られている。
 主屋は東向きで、北側に藍の寝床と納屋が直線に並んだ配置となっている。納屋は現在鉄骨造に建替えられている。主屋は明治12年(1979)3月に上棟(棟札現存)した。二階小屋組は登り組工法(図43)で、下屋は四方屋根であったが、南西部の増築の為に原形はとどめていない(図44)。「ゲンカンドマ」より左方向に、「ナカノマ」「オモテノマ」と続いて内縁に至る。「オモテノマ」は本床と書院があり、栂普請(つがぶしん)といわれるぜいたくな造作が見受けられる。「ゲンカンドマ」より奥に向かって格子戸を通り、「ダイドコロ」「オクノマ」と各室が並んでいる。二階は一部、子供室に改造されているが、他の部分は原形のままで物置に使われている(図45)。
 度重なる穴吹川のはんらんで被災しており、「ゲンカンドマ」の天井には、被災時に使う二階に通じる開口が設けてある。また、壁も洪水跡を隠すように板張りにして、意匠での配慮が見受けられる。(田渕)

  (11)佐藤 宏史 家  穴吹字平ノ内1番地
 当家は地元で長年造り酒屋を営んできた家柄で、大きな敷地を有し、平成5年(1993)ごろまで営業してきたが、橋と取付道路新設のために酒蔵を取り壊すことになり、これをきっかけに廃業した。屋号は「サドヤ」、家紋は「マルナカノキ」。
 取り壊された酒蔵は、大型で数棟に分かれた堂々たるものであったそうである。その中で最も新しかった酒蔵(これは、今の主屋と同年に建築されたもの)の鬼瓦(がわら)が新しい庭の一角に残されている。撤去された酒蔵や精米所を除いた敷地も依然広く、改造されてはいるが、蔵も2棟残っている(図46)。
 主屋は大型の木造二階建て入母屋形式で、南西隅の切妻屋根の上には入母屋屋根の凝った煙出しが載っている。特に古いという建物ではないが、おおらかな感じを与える住宅で、家人によると建設年は大正元年(1911)ごろとのことである(図48)。
 「ゲンカン」は建物東側中央に位置し、南東、東、北側には下屋が回り、主に西側に増改築が繰り返されてきている(図47)。
 「ツギノマ」と「カミノマ」の間の欄間や釘(くぎ)隠しなどの金物の細工が立派であることや、来客専用の便所や風呂があることなど、繁栄をしのばせる間取りとなっている。
 その意味で、「チョウバ」とその出入口が南寄りに別にあったり(今はこれが玄関として使われている)、二階部分の北半分が「見せかけ」になっているなど、町屋としては特殊解ではあるが、穴吹町の商業の繁栄を示す貴重な文化的財産と言えるだろう。(本田)

4.明治期の民家資料−明治17年美馬郡東口山・西口山村家屋図面届
 明治17年(1884)家屋図面は、現在鳥井正夫氏(口山字仕出原164)が所有しており、かつて脇町の吉川徳智氏(元教員・脇町劇場所有者)の家の襖(ふすま)の下張りに使われていた。口山村の分は地元の人が管理した方がいいと、教え子だった鳥井氏に託したものである。
 内容は軍隊が有事に兵隊の宿舎にするため、各民家の間取り(揚げ床部のみで、土間のニワを除く)と、家族の人数とそれによる必要寝所の坪数、徴発できる部屋の坪数を調査したものと推測される。提出先は「美馬郡東・西口山戸長 西岡徳通 宛」で、各所帯主名で提出した体裁となっているが、筆跡から役所の人間が作成した書類に住人が署名押印したものとみられる。全83件の図面のうち、間取りがないのが5件、間取りはあるが徴発坪数などのデータがないのが1件、間取りもデータもないのが1件であった。
 住所と氏名はほぼ判別できたが、現在の住所・家屋とは照合が困難である。部屋数はデータ全77件のうち、1部屋7件、2部屋21件、3部屋9件、4部屋36件、5部屋1件、6部屋3件で、4部屋と2部屋の家屋が多い。4部屋36件のうち田の字プランは33件で、明治17年当時には田の字四間取りプランが完成されて、普通の家屋でも当たり前に用いられていたのであろう。
 総坪数で最も大きいのが武田松太郎家の四間取り21.5坪で(図49)、次いで武田吉兵衛家の六間取り20坪(図50)である。最小家屋として、一部屋3坪が2件ある。平均坪数は10.3坪/件である。家族数は平均5.5人/件。最大は前述の武田吉兵衛家の12人で、次いで荒尾完之太家(図51)の11人である。徴発坪数では、家族1人の寝所を0.5坪/人としているのが、全81件中65件ある。有事の際には、普通の家族は単純に一人畳一帖に寝て残りの部屋を兵隊に供出する、それぞれ事情のある家庭は一律の基準を適用しない、ということであろう。(田村)

5.まとめ
 今年度調査対象の穴吹町は、対岸の脇町と並んで、藍の産地あるいは集散地として栄えてきた町である。その一方で、吉野川沿いの地域を除く大部分が山間地であり、一部の家を除き、全体的に地勢的にも経済的にも厳しい生活を強いられてきた地域でもある。それゆえ、前述したような「山」「川」「まち」に分けて、各地域の民家の特性を明らかにしたいという私たちの調査目的は、調査時間の限界によるサンプル数の偏りという問題はあるものの、ほぼ達成されたと言える。
 調査を通して穴吹町全体を概観してみると、古い民家は「山」に多く残っているが、この相当数が空き家になりつつあるという現実と、その家々を継ぐ若い世代が、「川」の民家のある舞中島地区の新興住宅地に多く移転しているという事実が目に付く。また、脇町などと較べると裕福な家が多かったせいか、「まち」の民家に古いものが少なく、かなりの部分が建て替わっているということも判明した。これは脇町が、藍関連の産業の衰退が早かったためにかなりの町屋が残ったのと対照的である。更に、舞中島に新しく建ちつつある家の大部分は、舞中島周囲に堤防が築かれてから出現したものであり、もはや洪水に備える心構えは忘れられようとしている。これらの変化を考えると、古い民家を残すということが、文化を伝える財産として大切であることが痛感される。
 まず、「山」の民家の調査結果については、古い民家が多く残っているため、どうしてもサンプル数が多くなっているが、実際には倍する数の民家が空き家となっている。調査前には、徳島西部の山間地に多い散居村形式の集落が多いのかと考えていたが、実際には三好郡辺りより山の傾斜が強く、散居村が成立する範囲を超えているようである。実際に散居村形式が見られたのは、宮内の半平地区など一部であった。大部分は、最少2戸程度から数戸が、立地可能な地形の場所に集落を造る形である。それだけ居住可能な敷地を得ることが難しい、厳しい山地であることが理解できる。
 当然、住居の配置は奥行きの狭い敷地に線上に並べる形となり、住居自体も奥行きが浅く、部屋を線上に並べる「中ネマ三間取り」が代表的な間取りとなっている。前年に調査した井川町が、葉タバコ栽培などで裕福な時代があり、「六8帖」などと呼ばれる比較的大型の住居が見られたのに比して、山の傾斜だけでなく、生活でも厳しい環境に置かれてきたと思われる。
 一方「川」の民家は、洪水に見舞われながらもその恩恵もあり、比較的大きな構えの屋敷が目立つ。各民家の報告に詳しいように、敷地全体に石垣を築いてかさ上げをすると共に、各建物も石垣を造ったり床の高さを上げるなどの方法で、徹底した洪水対策を施している。特に、吉田家では非常に高い石垣を積んでハナレを造り(この建物には便所まで設置している)、長良川地方に見られるような水屋の役割を果たしてきたしつらえも見ることができた。このような工夫をしても、舞中島は床上浸水を度々経験してきていたが、昭和52年(1977)に築堤工事が完了し、洪水の危険から開放されることになり、その結果として、民家の持つ様々な工夫が忘れられ、前述したように心構えまでなくなっていくことは、残念なことである。
 他方、「まち」の民家については、今回の調査でもう少しサンプルを得られるのではないかと考えていたが、いわゆる古い町屋が意外と少ないことに驚かされることになった。穴吹川が吉野川に合流するポイントに穴吹の「まち」は発達し、藍の集散地として、また藍関連の産業の地として栄えたが、脇町のように商家が昔のままに残ることはなかった。その原因には、付近の「まち」と較べて経済の衰退が極端に進まず、古い家の建て替えが進んだことが考えられるが、その結果、民家調査にとってはサンプルの確保に悩まされることとなった。
 その中で、一森家、佐藤家の調査を行えたことは幸運であったと言えよう。一森家は藍のすくも造りを、佐藤家は酒造業を営んできた家であり、いずれもその繁栄を物語る立派な造りを持っている。佐藤家では道路新設のために伝統ある酒蔵はすでになく、今回調査した主屋も建て替えの話があると聞いている。
 また、これは番外編ともいえるが、明治期の民家の規模や形をうかがうことのできる資料―明治17年美馬郡東口山・西口山村家屋図面届―を見る事ができたことは、今回の調査の成果のひとつと言える。非常時の軍隊への部屋の供出という、現在では考えられないような必要性の中で作られた資料であるが、住居の規模や形を知る上で貴重なものである。我々の調査では概要を知ることが精いっぱいで、実際の住居との照合などは行えなかったが、今後、町などによって、綿密な調査が行われることを期待する。この資料を見せていただいた鳥井正夫氏には、この場を借りて感謝申し上げる。
 この様な調査結果を踏まえつつ思い知ることは、例え個人の持ち物である1軒の家であっても、その在り様に社会的文化的経済的側面が色濃く反映されているという、全く当たり前でありながら、普段なかなか実感しない事実である。「山」の民家に空き家が増え、「川」の民家の工夫が忘れられ、「まち」の民家が取り壊されてきた穴吹町の現状を考えるとき、保全だけが唯一の方策ではないが、何らかの文化財として古い民家を生かすことを、現代の新しい価値の源泉として考える時に来ているのではないだろうか。(本田)

参考資料
「明治17年美馬郡東口山・西口山村家屋図面届」鳥井正夫氏所蔵

1)徳島県建築士会 2)林建築事務所 3)UN建築研究所
4)高田建築設計 5)(株)マックス設計 6)穴吹カレッジ
7)剛建築事務所 8)(株)建設材料試験所 9)第二工房


徳島県立図書館