阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第44号
井川町の振興計画策定に関する諸課題について

地域問題班(地域問題研究会)

 中嶋信1)・三井篤1)・出口竜也1)・

 上原克之1)

1.はじめに
 井川町は、明治期には刻み煙草産業で繁栄した地域だが、時代の移り変わりとともに地域産業の姿は変貌(ぼう)し続けてきた。伝統的な農林業に加え、木材加工業や縫製業などの製造業も展開されて、おだやかな山村地域の経済構造を形作ってきた。ただし、高度経済成長期(1955〜73年)以降は地域産業の動揺が激しく、中核となる産業は弱体化しつつある。井川町は1997年に「総合計画」策定の基礎資料収集のため「井川町の町づくりのための住民意識調査」を実施した(2)。その結果から「町のにぎわいや買い物の楽しさ」に対する町民の満足度合いを確認できる。「満足」「やや満足」の回答が合わせて3.4%にとどまるのに対して「やや不満」が28.9%、「不満」が39.3%におよんでいる。地域経済のあり方に対する町民の不満や状況改革への願いが、この調査結果にストレートに表現されている。いうまでもなく、この事実をふまえ、井川町は全町規模でその打開方策の検討を進めている。その成果は1998年に策定される「井川町総合計画」に組み込まれるはずである。今後は基本構想や基本計画が示されて、その実施計画の論議が進められる予定である。以下に、その論議の資料として、われわれの調査の一端を紹介する。

2.地域社会の特徴
 井川町は昭和34(1959)年4月に、辻町(旧井川村)と井内谷村との合併によって発足した。旧井内谷村は四国山地の腕山(かいなやま)等に囲まれた山村である。辻町は吉野川中流の南岸と井内谷川開口部のわずかの平地と傾斜地に展開している。井川町は「水とみどりと温かさにつつまれた交流拠点」づくりを基本目標に掲げているが(3)、それを体現する自然環境に立地している。1960年の国勢調査人口は9,257人で、国道32号と192号、JR徳島線と土讃線が交差する交通上の要地に位置するが、平地の不足などから産業の集積を十分に果たすことができず、町住人口は減少し続けてきた。1995年の国勢調査結果では5,580人で、町の新発足から約4割の減少を招いたことになる。1998年には四国縦貫道路の井川池田インターチェンジが開設され、外部環境は大きく変動することから、地域社会にはいっそう大きな変動が見込まれている。
 大きな状況変化に効果的に対応するには地域社会構造の分析が不可欠である。井川町は地方自治法に基づく第四次長期計画(1998〜2007年)(以下:「新総合計画」)の策定途上にあり、社会統計に関する基礎分析が間もなく提示されるはずである。また、「新総合計画」に先行する課題別計画の中でも、検討がなされている。そこで、人口や産業の動向に関する分析はこれらの文書によることとして大幅に省略し、ここではその論点にかかわるいくつかの事項を考察するにとどめよう。
 第1は井川町の過疎化にかかわる見通しである。1973年に国道192号線が開通した折には、縫製や漆器工場、自動車修理工場などが相次いで設置されて、世帯数の増加を招いた経過があるが、これは例外的現象であり、離農転出や卒業を契機とする町外への就職などで人口は減り続けてきた。日本経済の高度成長期(1955〜73年)には労働力流動化政策が推進されて工業化地域への人口集中が激しく進んだが、1970年代後半以降は人口の地域間移動は沈静化しつつある。だが、井川町では依然として過疎化が進行中である。
 地域人口の動態は自然増減(出生数マイナス死亡数)と社会増減(転入数マイナス転出数)とで構成される。ただし就業機会の少ない農村部では、転出者は主に若年者であり、退職Uターン人口は高齢者が主となる。この結果、出産年齢に当たる人口は少なく、高齢者が多いために死亡率は高くなる。つまり両者は全く別々のものではなく、社会増減が近未来の自然増減を規定するという関係にある。井川町においても、積年の若年層流出の結果として年齢構成が高齢化しており、自然増減の基調はマイナスで推移している。
 最近20年余の期間の人口動態に関する指標を図1に示す。ここでは住民台帳をもとに、各年次の1年間の変動数を期首である1月1日の推定住民人口で除した千分比をグラフで示している。たとえば1996年の場合は、出生比率:8.11(パーミル・以下略)、死亡比率:10.81、転入比率:33.51、転出比率:44.14である。それぞれの差である、自然変動率:マイナス2.70、社会変動率:マイナス10.63、およびその合計値:マイナス13.33が図上のドットで示されている。年ごとの揺れはあるが、おおむね安定したマイナス基調を確認できる。1977〜96年の間では町人口は平均年率10.98パーミルで減少し続けている。なお、自然変動はほぼ横ばいであるのに対して社会変動の揺れが激しいこと、全体の人口変動が社会変動に強く規定されていることをこの図から読みとることができる。外部の環境変化の影響を受けやすい人口構造であるといえよう。

 今後の人口推移を予測することには慎重であるべきだろう。ただし、現状のまま推移するなら、人口の自然変動はよりマイナスの傾向を強めることは明らかである。出産年齢人口が縮小しているのに対して高齢者比率が増加していることがその理由である。また、社会変動についても、地域内での人口吸引力の高まりがないなら、高速交通体系の整備などの外部環境の変化が人口流出を加速させることが予測される。これらを傍観するなら地域社会の分解を招くことは必至である。過疎・過密問題は基本的には国土政策のあり方にかかわることであるが、新しい全国総合開発計画の策定論議の中では「地域が自らの選択と責任で地域づくりを行うことが要請される時代」という共通認識が深まってきたことから(4)、自治体の独自政策を強力に展開することが求められるのである。
 地域社会の特徴の第2は、広域的な生活圏が形作られていることである。地域振興に関する計画は通常は市町村単位で策定される。ところが、住民の生産や生活は行政区画内で行われるとは限られない。町外への通勤・通学、あるいはその逆の町外からの通勤・通学などは日常的に経験するところである。1995年の国勢調査の結果に基づいて、三好郡の就業人口および常住地・従業地との関係を表1に示す。居住地に即して各町村の就業人口を確認した上で、従業地を比較している。上段は実数で、下段は町村別就業人口に対する割合を記載している。

 井川町の場合、就業している町民は2,508人である。そのうち1,195人は三好郡を中心に町外で従業している。逆に町外から井川町に従業に来る者は580人である。昼間人口が常住人口を下回る流出超過状態にあることが分かる(5)。さらに注意すべきことは、就業の場を町外に求める者の割合で比較すると、井川町が47.6%と三好郡の中でも群を抜いて高いことである。1990年の数値(6)との比較も可能だが、その状況はやや強まる状況にある。この値からは、井川町に住みながら町内に就業の場が得られないケース、町外で居住・勤務していたが住居を井川町に求めたケース、などが多数存在することを想定できる。そのことの是非を問うことは意味が薄い。肝要なことは、井川町住民は、周辺町村より広域的な生活圏域を形成しているという事実である。
 新興ベッドタウンを抱える地域では、「にわか住民」が多いためにコミュニティへの帰属意識が弱く、地域の美化・清掃など、生活環境を改善する提案への反応が低いことが知られている。また、昼間の就業先が広域かつ多様であるため、地域産業振興に関する自治体の提案に対する関心も概して低いものにとどまらざるを得ない。伝統的共同社会のように地域住民というアイデンティティに立脚して、地域づくりやそれへの住民参加を提起する方式はおのずから有効性に欠けるのである。広域的な生活圏が既に形成されている場合には、住民の階層性や不均質性を前提にした対応が必要とされる。井川町の振興計画の策定に際しても、この点の留意が必要といえよう。
 また現に広域化しているという事実に立つなら、行政対応においても三好郡全体を広域圏として想定し、その中での分業(住み分け)を考えるなどの発想が求められよう。後述するように、商業については阿波池田町、三加茂町が、工業については三好町、三野町がすでに先行して集積を形成している。井川町内でこれをしのぐ産業を形成することは、およそ非現実的である。広域的地域分業を前提にして、それを補強するかたちで産業振興を構想することが、三好郡全体のさらなる発展にとってはプラスに寄与するのではないか。

3.地域振興計画の重要性
 農村地域の産業の空洞化の急進や、高齢化による産業の担い手の不足など、悲観的材料にこと欠かないが、こうした状況を打開することが地方自治体の重要な課題である。とりわけ中央政府が「小さな政府」を標榜(ひょうぼう)し、地方圏振興の責任を地方行政体に預ける状況の下では、町村が地域振興の戦略と戦術を展開すること、とりわけ地域社会の土台である産業振興の独自の計画を推進することが必要である。従来は、自治体の産業政策は国や県の事業を導入することとほぼ同義で、インフラ整備の上で民間企業の誘致を図るという図式が一般的であった。しかし、民間企業が多国籍化を基本戦略とし、国が支出削減を唱える段階には、外部の資金やノウハウの誘致に多くを期待する戦略は無力といってよい。加えて、井川町は平地面積が狭く、土地単価が高いという地域振興計画上の重要な問題を抱えている。したがって、製造業が発展しにくい状況を構造的に保有しているといってよい。近年に縫製工場(トンボ・ソーイング)などの新たな立地が見られたものの、今後のさらなる展開を期待することは極めて困難に思われる。いわば産業誘致型の計画を積極的に乗り越える段階である。それに代わる地域振興の理念としては「内発的発展」方式が既に提示されている(7)。そのコンセプトは〔地域の人材・資源を活かし、地域の環境を守りながら、地域住民のための快適な職場をつくる〕と表現できる。井川町の「新総合計画」策定の過程でその具体化が図られるべきであろう。
 ここで地場企業の動向が注目されるが、われわれの調査結果からは、地場の既存業者による大きな業務拡張の予定は見込まれなかった。もちろん、いくつかの模索(例:芳水酒造については、休耕田を利用した酒米づくりや、杜氏(とうじ)による職人経営からマニュアルによる近代経営への転換を模索する、などのチャレンジが行われつつある。島尾菓子店は、伝統的なオイノコ行事に依拠した商品を開発し、インターネットを通じた販売を進めている)は確認されたが、こうした新しい試みが他の業者に波及し、町全体が活性化に向かうような雰囲気は未形成といえよう。
 井川町内の産業振興上の新たな動きとして注目されることは、住民グループの取り組みが活発化していることである。「ウェスト・ビッグ・ファミリー」などの住民グループは、ジャンボ門松や大提灯(ちょうちん)、「かいなっこ」キャンペーンなど、手作りの地域おこし運動の企画を相次いで成功させている。また「21世紀の井川町の姿とその実現のために」をテーマに「井川町まちづくりトーク」が3回催されて、地域づくりへの住民の提言が集約されている。住民が主体となった地域おこし運動のモデル地域である、上勝町に学ぶなどして、自生的に展開されていた地域づくり運動が水準の向上を図りつつあることは、内発的発展の受容基盤が整備されつつあることを意味する。これらの自発的なエネルギーが効果的に発揮されるために町全体の戦略提示が急がれるべきである。
 次に注目されることは、町役場が地域振興計画策定で主導性を積極的に発揮しつつあることである。平成8年度には「井川町グリーン・ツーリズムモデル整備構想」「井川町住宅マスタープラン」に関する報告書(8)が提出されている。これらは交流人口および定住人口の拡大を積極的に図ろうとする長期構想の一環となるが、新しい井川町をつくる戦略の準備が進んでいる。それは基本戦略だけでなく、地域づくりの推進方法でも新しい試みを伴っている。1997年に相次いで取り組まれた「住民意識調査」「中学生アンケート」「井川町出前役場」(9)などはその現れである。住民参加を高める形で、状況変革に向けての組織的取り組みが進んでいる。
 このような町内の新たな動きは、新総合計画の策定や推進の可能性を広げるものといえよう。ただし、これらを過大に評価することもまた適当でない。たとえぱ「住民意識調査」
の回収率は約半数にとどまった。また、1997年に実施された「まちづくりトーク」も限定された担い手による一過的な取り組みという性格が濃厚である。地域づくりに向けての住民エネルギーの発揮という点ではいまだ端緒的な段階であり、いっそうの意欲喚起や運動の組織化などの課題が残されているのである。さらに交流人口や定住人口を拡大する構想については、構想は印刷物の形を取っているにもかかわらず、役場内でも趣旨が十分周知された状況とは言い難い。肝心の議会や住民による合意形成は今後の取り組みにかかっているなど、これも端緒的段階にある。地域振興に関するこれらの新たな動きを、強化・定着させることが求められている。

4.交流事業戦略の可能性
 定住人口を増大させる構想については、新しい全国総合開発計画でも重点を置かれており、異論の余地の少ないところであるので、交流事業の拡大戦略についてその可能性を検討しよう。余暇・観光事業の展開によって集客能力を高め、地域経済の浮揚を実現しようとする取り組みが、1980年代後半以降各地で進められている。後発的ながら、井川町においても、近年の新規事業の重点はこの領域に向けられている。
 1994年に井内大久保地区に設けられた「メイト文化村」はその一つである。都市住民との交流拠点として、公園・体験農園・研修棟および別荘群が組み込まれた7029平方メートルのエリアが整備されている。三好郡産の杉を用いたログハウスは、背景の森林ともマッチして、景観上も「みどりとあたたかさ」を演出しており、「心のジャンクション井川」を特徴づける特色ある施設といえよう。関連雇用を8名確保し、町外からの知識・技術の支援態勢が期待されるなど、既にいくつかの可能性を示している。ただし、施設の稼働率や町内への定着では今後に課題を残しており、「メイト文化村」の評価は、高速交通体系が整備された後のソフト事業の展開にかかっているといってよい。
 最大の集客力が見込まれるのは腕山(1,175m)の施設群である。腕山スキー場は、中瀧嘉吉氏によって昭和2(1927)年に開設された。四国最初の取り組みで、建設はまさに「開拓」なみの作業だった。昭和5(1930)年に、オンドル式ヒュッテを建て「中瀧食堂」を開いた後も、氏はスキー場改善に努力を惜しまなかった。その後、県体育協会から井川町に管理が移り、町民一体となっての腕山開発が進行した。そして、平成9年、大規模なリニューアルを実施した。創設者の功績をたたえる「中瀧嘉吉顕彰碑」も建てられている。
 1997年12月6日にオープンした腕山スキー場の概要は以下の通りである。
  標高:1,083〜1,175m(標高差:92m)
  上・中・初級向けの3コース(平均幅:20m・最大幅:111m)
  毎時運送量:1,542人のトリプルリフト(400m)
  人工造雪機(製氷能力50t/日)・圧雪車などを装備
  センターハウス(レストラン、売店、レンタル・ロッカー、管理事務所など)
 北側に面したゲレンデの雪は良質で、遠方には瀬戸内海の島々が広がり、滑りながらすばらしい感動の世界を味わえる施設といえよう。四国に立地することから狭小施設であることは宿命的であるが、気の合う仲間同士や家族連れが楽しい一日を過ごす手近な施設として、利用者の期待を担っていくことと思われる。周辺にはマウンテンバイク用施設や散策コースなど、夏の利用を配慮した公園整備の計画もある。井川町の境界の稜(りょう)線を一巡するような壮大な構想(冬のクロス・カントリー・コース、夏のリフレッシュ・コースなど)が順次具体化されるなら、腕山が通年型リゾートの拠点に成長する可能性を有している。
 現時点の最大のネックはアクセス条件にある。入り口に当たる井川町辻からは12km(所要時間:通常40分)を要し、徳島市からゲレンデまでは国道192号線経由で80km=所要時間2時間10分を要する。さらに現時点では大型バスは通行が不能であり、団体客の誘致もままならない状況にある。道路改良は着手されているが、そのネックが解決された後には施設それ自体の収容力の限界がネックとなる可能性がある。腕山スキー場を交流拠点に位置づけるとするなら、少なくとも町内一円を活用するような施設整備計画を早急に策定することが必要であろう。多美パイロットファームや放牧場など、現有施設をグリーン・ツーリズム用の施設と位置づけて、機能の向上をはかること、自然や文化など地域資源の見直しを行うこと、などが予定されている。多様な資源を結ぶアクセス条件を整えることで、井川町全体を交流人口の受け皿とすることは可能であろう。さらにそれが徳島県西部の広域観光と結合されることで実現性はより高まるだろう。井川町は1979年にアメリカ合衆国ワシントン州のタクイラ市と姉妹都市提携を結んでおり、中学生を中心に500人ほどが相互の派遣交流を経験している。受け入れはともにホームステイでなされており、井川町民は国際的な交流事業の実績を有していることから、新たな交流事業を受け入れる主体的条件も豊かと判断できる。
 ただし、グリーン・ツーリズムが事業として定着する最大の条件は、農山村それ自体が豊かであることにある。井川町のグリーン・ツーリズム構想資料の中にも「井川町の農山村型のライフスタイルを主張していく」(10)と述べられるところである。住民が自然と共生する生活を楽しみ、互いを思いやる人情豊かな社会関係を保ち、訪問者をゆったりと迎え入れるゆとりある暮らしが、町内全域で実際に営まれていなければならない。類似の構想が各地で推進されており、井川町の交流事業の優位性を確保するためには高速交通体系と結合されるという条件だけでは不十分なのである。

5.地域林業を育てる環境づくり
 豊かな山村を支える重要な要素は林業の活性化である。上述の交流事業の展開にとっても、地域内の重要な産業のひとつである林業を再建することは重要である。住民合意のもとでその対策を図る必要がある。森林整備や担い手育成、木材需要の開発などが既に取り組まれているところであるが、ここではそれらの施策展開に対して環境を整備する事項についてふれよう。林業の冷え込みをカバーするには、林業の役割に対する理解を広め、林業関連産業を育てることが不可欠である。次のような事業例を検討すべきであろう。
  1 木造施設の推進
 ゲレンデで冷えた身体を暖めてくれるセンターハウスは、木のぬくもりを感じるログハウス風の建物で、丸太の柱には井川町の杉が使われている。このログハウス風センターハウスのように、地域に建設される施設に、地域の資源、地域の技術を活用していくことが肝要である。またそのことにより新たな市場や関連産業を生み出すことが可能になる。
  2 下草刈り、間伐の推進
 若手グループによるチャレンジ林業クラブが誕生し、活動を開始している。将来の木材生産にとっての下草刈り、間伐推進の重要性はいうまでもない。さらに井川町内のグリーン・ツーリズムが、単に林業の活性化という視点だけでなく、町内の美化運動という視点からもその重要性が浮かび上がってくるものと思われる。一般住民や若者が林業体験によって林業の意義を理解するような企画を組み込むことは可能であろう。
  3 小物、土産物の製品開発
 腕山スキー場のオープンに向けて、木製の各種小物、土産品の開発が行われてきた。それらの成果がセンターハウスに展示即売されており、また、訪れるスキー客のために町民手作りの案内板が随所に配置されている。直接的な販売収益の効果だけでなく、こうした努力、開発姿勢が新しい地域産業を誘発するものと思われる。
  4 森林環境の効果的活用
 近年、地球環境問題への関心が高まってきており、熱帯雨林の利用から、日本国内の森林機能の活性化へと意識がシフトしてきている。技術的には、多面的な展開が可能になってきているが、問題は地域林業の「心の空洞化」である。阪神大震災のボランティア活動が契機となって、三好郡8カ町村と大学生協連との人間的絆(きずな)(Human Network)によって浮上してきた「大学の森」の構想を、井川町に位置づけようとの動きがみられる。将来的には、国際森林大学の「森林環境学」体験実習の場として位置づけることも可能である。
 森林環境は自然豊かな憩いの場(野鳥、野花、etc.)でもある。その条件を生かして、井川町に「自然共生型のサテライトオフィス」を面として整備することも考えられる。オフィスには、ISDN 回線(INS64)を導入し、インターネットへの高速アクセスも可能にする。また、パソコンや周辺機器、電話やファックスなど、オフィスワークに必要な設備は十分設置されるように計画する。近くには、腕山スキー場、メイト文化村、オートキャンプ場などが点在しており、またオフィスの近くには渓流が流れ、魚釣り等でリフレッシュしながら仕事をすすめることができる施設である。心身共にリフレッシュできる環境のもとで数日間滞在し、本来業務と同時に山村での仕事を体験することで、恒常的な都市と山村の交流を実現させ、山村を活性化させる。

6.商業活動の再編成
 商業についても井川町は周辺町村と比較して大きく後れをとっているようである。辻地区、井内地区ともに近隣型商店が中心で構成されている。池田町(ジャスコ)、三加茂町(マルナカ)にはすでに大型店が展開しており、井川町住民もまとまった買い物についてはこうした店舗に車で向かう慣行が定着していて、購買力の流出が着実に進んでいる様子がうかがえた。徳島県商工労働部経営金融課による商業診断(11)によっても、1996年の時点で地元購買率は16.8%という低率にとどまっている。買い物出向では池田町に32.7、三加茂町に25.8%の流出があり、周辺の大型店の集客がその主因である。地域商業にとって憂慮されることは購買力の流出が高まっているという事実である。同調査によれば町内購買率は、1982年:67.7、89年:31.1%であった。乗用車の普及と共に買い物行動圏が広域化し、それへの対応が遅れた旧開型商店街の地位が沈下したことになる。
 こうした動きに対応した経営改善のための諸方策も、現在のところ具体案として提示されているわけではない。上掲調査では商業経営者に対するアンケート調査も行われたが、経営改善の対策としては「特に対策なし」の回答が67.4%、お店の将来については「現状のまま」の回答が72.0%におよんでいる。個別店舗の経営力の弱さと、商店街の活性化に向けての独自の共同戦略の欠落とが重なり、沈滞状況が今後も続くおそれがある。商業街区の様相は町全体の雰囲気を印象づける。地域商業核を整備し「心のジャンクション井川」にふさわしい街区再編が求められよう。ただし、大型店舗の町内における新規の出店は、地形上も市場規模を勘案しても極めて困難であるように思われる。既存の商店街区の集積を活用した再活性化が辻地区、辻駅前地区、井内地区、西井川地区すべてに望まれる。既存店舗の連携による共同駐車場の確保や、共同店舗の建設による新たな商業集積の形成などの対策が、辻地区には特に緊要のように思われる。ただし集積の経済から考えると、ありきたりの品ぞろえでは池田、三加茂の大型店舗と競争するのは困難であろう。地元ならではの利便性と親近性を強調すると同時に、何らかの基準で独自性を打ち出し、集客できるような品ぞろえを、既存店舗間で連携し、提案することが重要であろう。たとえば、この店でしか手に入らない魅力的な商品を各店一品は用意し、「一店一品」運動を商店街単位で展開し、消費者にアピールするなどという方法などが考えられる。

7.自治体職員の役割
 地方分権推進法が制定され、地方分権が具体的な政治日程に上っている今日、近い将来において市町村レベルでも多くの権限が配分され、大幅な政策形成が市町村自治体に委(ゆだ)ねられるようになることは確実である。今後、このような状況においては、自治体間の「力量」の差が行政サービスの結果に明確に現れることとなる。特に小規模自治体はただでさえ職員数が少なく、一人ひとりの職員の当該自治体に果たす役割が大きい上に、政策形成権限の増大という要素が加えられることによって、自治体職員には今まで以上の意識改革が求められることは必至であろう。これまでの自治体職員(あるいは公務員一般)の一般的な職務意識としては、厳格な権限の配分に基づく責任主義、減点主義の勤務評価等から、どうしても事なかれ主義、消極性が目立っていたことは否定できない。しかし、このような意識では、とてもこれからの地方分権時代には対応できないであろう。
 地方分権時代の基礎自治体職員は、まず、行政マン(ウーマン)としての専門性、プロ意識をもつことが必要である。住民の立場に立ち、住民のために行動すること、これがその基本となる。さらに、社会状況の変化を的確につかみ、これに対応するために創意工夫をする積極的な創造的精神が必要である。ここで大切なのは、住民を「指導」するのではなく、住民の意思を認識し、住民の意思を実現するための知恵・アイデアを、「プロ」としての立場から具体的に「提言」する姿勢である。これまで述べたように、井川町の新総合計画の策定・推進では多くの課題がある。町内での論議を活発に進め、実施に向けての町民合意を形成していく上では、自治体職員が専門性を積極的に発揮することが重要である。
 このために必要な具体的な取り組みとしては、まず第一に、住民意思・住民のニーズを知るための情報の収集・分析である。通常、アンケート調査等がなされるが、インターネット、ファックス通信などの最新の情報システムを利用してリアルタイムでの情報収集などもよい。また、地域活動のリーダー等から直接話を聞くことなども効果的である。第二に、このようにして得られた各種の情報から具体的な政策を形成できるような、政策提言能力を養うことである。小さな行政体の場合は人事が停滞的となりがちで、人材育成の環境は十分とは言い難い。この点を克服するためには、日常的に住民、学識経験者等と政策研究会を行うことなどが考えられる。また、同様の問題を抱える隣接地域自治体職員とも研究会を行い、政策提言能力を互いに切磋琢磨(せっさたくま)することも役立つ。これまでのように国、県に「従う行政」から、国、県に対して論争を挑める理論的な力量を獲得するようにならなければ、今後の地方分権の時代には対応することができないといえる。

8.まとめにかえて
 地域の生産と生活の活性化は住民共通の願いである。井川町においてもそのための真摯(し)な取り組みが進められていることを、われわれは調査で確認し、多くの示唆を受けた。町の産業と社会を取り巻く環境は大きく変動しており、井川町はその理解に立って、新たな地域づくり戦略を検討中である。われわれの調査は、当初は「井川町の産業構造の変遷と再編成のための課題」をテーマとしていたが、新総合計画の策定作業が進行中であることをふまえて、それへの参考資料を提示するように報告を編集した。
 この調査を通じて、井川町役場や教育委員会、徳島県の出先機関を始め、多くの機関・個人のご協力を頂戴した。ご多忙の中、われわれの身勝手な注文に極めて好意的に対処していただいたことに、末尾ながら深く感謝申し上げる。この報告書がこれらのご協力に十分こたえていないという批判があろうかと考えるが、この報告をひとつの素材として率直な意見交換が図られることを願っている。われわれはそのような交流を通じながら、地域の実践的要求に応える研究を継続していく所存である。
 この報告書は4名の参加者の素稿と討論をもとに調査班長・中嶋が編集した。また、徳島大学総合科学部内に事務局を置く「地域問題研究会」(代表・三井篤)において、調査課題や資料などの検討を行った。

 文献等
 2)「井川町のまちづくりのための住民意識調査」(第1次集計結果・1997年9月)による。井川町に居住する16歳以上の男女1000名を対象とするアンケート調査。井川町の印象、生活に対する考え方、町の将来像などに関する回答が集計されている。
 3)井川町「井川町総合計画」(1990年3月)
 4)国土審議会『21世紀の国土のグランドデザイン』(1995年12月)、10頁。
 5)このほかに就学人口の地域間移動を考慮すべきである。町内には辻高校があり、町外からの就学者数は町外に出る就学者数を200人ほど上回っているが、全体の昼間人口が常住人口より少ないという関係には変わりない。
 6)井川町『井川町住宅マスタープラン策定報告書』(1997年3月)、16頁。
 7)「内発的発展」方式は宮本憲一『現代の都市と農村』(日本放送出版協会、1982年)の提起による。農山村の振興に関わる最近の研究では、保母武彦『内発的発展と日本の農山村』(岩波書店、1996年)がある。
 8)『井川町グリーン・ツーリズムモデル構想策定事業支援活動報告書』平成8年度。住宅マスタープランについては前掲。
 9)いずれも井川町企画財政課が実施し、結果を内部資料としてとりまとめている。
 10)前掲「グリーン・ツーリズム構想」、17頁。
 11)徳島県商工労働部経営金融課・井川町・井川町商工会『地域中小企業診断指針作成調査事業報告書(井川町)』(1997年3月)。

1)徳島大学総合科学部


徳島県立図書館