阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第44号
井川町の自然環境と生活・産業 −その地域性−

地理班(徳島地理学会)

   井上隆1)・板東正幸2)・萩原八郎3)               

   平井松午4)・横畠康吉5)

1.はじめに
 地理班では、井川町の地域性を明らかにするため、その位置と自然環境をふまえながら、人口の推移、地域産業社会の特色、農業構造の変化、内水面漁業、および生活用水の5項目について調査を行った。井川町は徳島県西部にあって過疎化の進行している町村の一つである。まず、町人口総数の推移、および町内の地区別人口の推移を見ることによって、同町の人口変動の地域特性がわかると考えられる。次に井川町の産業全体を概観し、とくに同町の重要な産業である農業に関して、時代とともに生産物がいかに変化してきているかを見れば、そこに同町の地域的な問題が反映されていることに気が付く。そして、吉野川を主漁場とした内水面漁業、さらには生活用水を中心に町内の給排水システムを見ることを通して、同町の生活が吉野川や谷筋の河川といかに結びついているか、という地域性を明らかにできると考えるものである。
 ところで、町名の「井川」という名称の由来については、角川地名辞典によれば「中世の荘園名による」とされており、町を紹介する資料には「井河・湯川・猪ノ川などが語源と考えられ、吉野川と四国山地、阿讃山脈に囲まれた町ということで名づけられたと思われる」と記載されている。このように、人物や歴史的事件などではなく、自然環境や風土にちなんだ「井川」という町名には、水とゆかりの深いここの土地柄が表現されていることがわかる。
 さて、井川町の位置は、徳島県西部の中心である池田町の東に隣接しているが、県の政治経済の中心である徳島市からは西へ約70km 離れている。四国全体としては中央部に近く、北は香川県へ、南は祖谷方面に通じる場所にあり、四国縦貫道の池田・井川インターチェンジの建設も予定されていることから「心のジャンクション井川」がキャッチフレーズになっている。このように、県西の人口過疎の町というネガティブな面と、吉野川沿いの交通の要地というポジティブな面の両面をもった位置にある。
 井川町は、吉野川沿岸の最も低い場所で海抜高度約80m、井川スキー場腕山のある南の山地で約1200m と標高差が大きく、町内で吉野川に流れ込む三つの主要河川によって(西から)里川、三樫尾、井内の三つの谷によって基本的な地形単位が形成されている。『井川町誌』(1982)によれば、吉野川に沿った平野部に町役場(海抜高度83m)など町の中心部が広がっているが、海抜高度100m 未満の町域は全体の4.7%であり、平地の面積は非常に限られ、大部分が山間部の斜面という地形を呈している。町内の主な集落は吉野川沿岸平野部の海抜高度100m 前後から各谷に沿った高度700m 程度までの間に分布しており、気候はやや内陸性で、月平均気温の年較差は徳島市における約22℃と比べて2℃ほど大きく、年間降水量は1500〜1800mm 程度であるが、北の低地部から南の高地部に向かって増加傾向を示す。

2.井川町の人口
 国勢調査が開始された1920(大正9)年以降における井川町の人口推移をみると(図1)、戦前期および第二次大戦直後の1950年代までは徳島県とほぼ同じ傾向を示すものの、高度経済成長期以降における人口減少が顕著である。1955年に10,437人を数えた井川町の人口は、1960年には9,257人、1970年には7,186人となり、1995年には5,580人(1997年11月の推計人口は5,415人)にまで減少し、ピーク時に比してほぼ半減状態を示している。

 とくに人口減少が著しいのが、旧井内谷村域を中心とした山間部である。図2は、人口減少がやや緩やかになる1975〜97年における地区別の人口推移を示したものであるが、井内地区の場合、1975年に3,040人を数えた人口は1997年には2,015人となり、この22年間だけでもほぼ3分の2までに減少している。表1は、同様に1975年人口に対する1997年の集落別人口の比率を示したものであるが、里川本村・岩坂・里川西・大久保などのように、井内地区においてもとくに標高が高く、町内において周辺(奥)に位置する集落ほど人口減少が著しいといえる。

 他方、井川町の中心地区をなしてきた辻地区の人口も逓減傾向にある。辻地区では、本町・坂町などのように市街地中心部での人口減少が著しい。辻市街地は、明治〜大正期の煙草(たばこ)製造業で発展したが、現在の国道193号からはずれ、車の通行にも支障をきたすほど道路が狭く、また限られた平地に家屋が密集していることも、人口減少に拍車をかけているといえる。
 これに対して、西井川地区の人口は横ばい、もしくは微増の傾向にある。西井川地区には、JR徳島本線がJR土讃線と交わる辻駅があり、国道193号も縦貫している交通条件のよさから、人口増加をみている。集落別の人口増減状況をみても(表1)、井川町内において人口が増加しているのは、この西井川地区に立地する集落や住宅団地である。西井川地区には、四国縦貫道の池田・井川インターチェンジの建設も進められており、井川町内におけるこの地区への人口重心のシフトは今後も続くものと予想される。

 こうした山間部を中心とした人口減少は、徳島県内の他の町村にも共通する現象であるが、かかる人口減少にともなって人口高齢化も顕著となってきている。図3・4は、1960年および1995年における井川町の年齢別人口構成を示したものである。1960年には人口(9,257人)の37.5%(3,471人)を14歳以下人口が占めたのに対し、1995年にはその割合は15.1%までに減少するとともに、65歳以上の高齢人口が26.8%を占めるにまで至っている。全国平均を10年以上回っているといわれる徳島県の65歳以上人口比率が18.9%であるので、井川町の人口高齢化はさらに進んでいるといえる。

3.井川町の地域産業社会の特色
 1)井川町の就業人口と就業地
 地域産業就業者の基本的パターンは、地域社会の産業経済が高度化するにしたがい、第一次産業から第二次産業、さらに第三次産業へと比重を増すのが産業社会発展の法則である。井川町ではどうなっているのか、その特徴点を、日本の経済発展のターニングポイントといわれた1960年を5年過ぎた1965年以降の変化について検討する。
 井川町の産業別就業者の変化を見ると(表2)、1965年の就業者数3,760人のうち第一次産業就業者は53.8%、第二次産業就業者は17.7%、第三次産業就業者は28.4%となって、就業人口構成上第一次産業に高く依存していた。1995年になると1965年に比べ就業者総数で1,252人(33.3%)減少して2,508人となった。第一次産業就業者10.2%、第二次産業就業者38.1%、第三次産業就業者51.4%となり、産業社会発展の法則にしたがっている。この井川町の産業別就業者の状況は、徳島県平均に類似し、全国平均にも近い数値となっている。このように1965年以降就業者総数を漸減させており、産業別就業者数では、農林業就業者の極端な減少と、製造業、商業部門の相対的な増加を見せたのが特徴的である。

 製造業、商業部門への就業者比率を増加させた井川町であるが、産業就業者の実態から見る限りにおいて、産業社会を発展させたのは、町内産業の就業条件を高めてのものではなく、むしろ町外産業への強い就業依存度をともなっての変化のように見受けられる。そのことは、表3に見るように井川町の自町就業者率、他市町村就業者率に示されている。1990年における就業者数は2,698人で、町人口5,865人に占める就業者率は46.0%である。就業者2,698人のうち、自町内就業者は1,445人、他市町村就業者は1,253人で、その比率は53.6%対46.4%となり、自町内常住労働者の半数近くが他市町村に就業依存していることから理解される。流出先と流出率は、三好郡内の中心都市池田町21.6%(584人)、県外(主に高松市)8.6%(232人)、三加茂町4.9%(133人)、美馬郡内2.5%(68人)などの順となっている。このように井川町は池田町を中心に近隣町域と香川県高松市などに労働力を流出させている。一方、井川町内への流入労働力は、池田町(264人)・三加茂町(126人)・三好町(100人)・三野町(25人)など近隣町村から500人を超える労働力を吸収している。

 三好郡内5町に限定して見た場合に自町内就業率の高いのは、都市機能が集積し中心地を持つ池田町(80.3%)、商業機能の高い三加茂町(70.0%)となっており、同時に、近隣地域からの労働力の吸収率も高い。
 以上、就業者の自町内滞留は低率で、流出・流入は相対的にやや高率である実態をみた。次項では、井川町の農業粗生産額、工業製造品出荷額、商業年間販売額の状況から町内産業の生産性について見ることにする。
 2)井川町の産業の生産性の特色
 井川町の第一次産業の中心は、農業である。農業の生産性を農業粗生産額でみると表4に示すとおり、井川町の4億8千万円は井川町を含めた近隣5町の平均11億円に対し極めて低位の水準にある。農家一戸当たりの生産農業所得においても井川町は28万1千円で、山間農業地域平均の56万8千円、徳島県平均の125万9千円と比べ著しく低い状況にある。農業専従者換算一人当たりの生産農業所得について見た場合も山間地農業地域平均の67万円、徳島県平均の160万9千円に比べ、井川町の33万8千円は極めて低位にある。

 工業製造品出荷額は18億円で、徳島県の製造品出荷額1兆4千653億円の0.12%である。近隣町村との平均工業製造品出荷額71億3千万円との比較において見た場合に、平均以下の値となる三加茂町(40億5千万円、0.28%)、三好町(60億3千万円、0.41%)などよりも低いものとなっている。
 商業年間販売額は48億1千万円で、徳島県の商業年間販売額2兆204億円の0.24%である。近隣町域との比較では、近隣地域の平均が129億8千万円となり、三野町の37億6千万円(0.19%)を上回っているものの三好町(67億4千万円、0.33%)、三加茂町(120億4千万円、0.6%)を下回っている。
 また、各産業合計生産高の5町平均額は212億1千万円となり、県西部の中心地機能をもつ池田町が首位で、井川町は最も低い70億9千万円となっている。
 このように井川町産業の生産額を農業、工業、商業、各産業合計生産額別に、近隣4町及び近隣地域の平均金額と比較してみたが、井川町で最も高い生産額となる商業も、三野町の上位に位置づけられるものの、農業と工業においてとくに低いのが実態である。このことは、井川町が水田率24.7%で、平地の極めて少ない中間農業地域畑地型に属し、傾斜度が8度以上の畑地が大半を占める地域産業経営環境にあるなど、地形的束縛条件から制約された産業活動とならざるをえないという宿命を負っていることが、大きな要因である。

4.井川町の農業構造の変化
 井川町の農業構造の変化を、主に昭和45(1970)年以降で見てみる。分析の視点としては三好郡8町村のうち井川町を含めて三好町、三加茂町、三野町の4町をとりあげ、比較しながら井川町の農業構造の変化をとらえることにする。これらの4町に絞ったのは次のような理由による。一つには、井川町(南岸)と三好町(北岸)、三加茂町(南岸)と三野町(北岸)というふうにこれらの4町は互いに吉野川を挟んで向かい合っているからであり、二つ目には、吉野川の南岸と北岸では中央構造線を境にして地質が異なっているとはいえ、互いに向かい合う2町が地形的に似ているからである。すなわち、井川町と三好町は吉野川に面した僅かな平坦(たん)部と、吉野川に注ぐ小河川の谷間に集落や農地が展開している一方、三加茂町と三野町は吉野川の氾濫(はんらん)原として形成された広い平野部に農地や都市的土地利用などが見られるからである。
 1)販売金額第1位の農家数より見た井川町の農業構造の変化
 日本の農業は、高度経済成長が軌道に乗る昭和40(1965)年代に入ると、大きく変化してくる。その変化は農産物に顕著に現れ、都市向けの野菜栽培や畜産業などが盛んになってくる。
 さて、表5の工芸作物は主に葉たばこをさしている。葉たばこや養蚕などは、出荷時間が勝負となる都市向けの農作物ではなく、いわば伝統的な商品作物である。井川町では、販売金額第1位の農家数においては、昭和60(1985)年になっても工芸作物が1位を占めている。同じように、吉野川北岸の三野町、三好町においても、1位ではないが、工芸作物が顔を出している。しかし、当時の現地調査によれば、同じ葉たばこでも種類が異なっており、三野町、三好町では黄色種が栽培の中心になっている一方、井川町では江戸時代から伝統的に栽培されてきた「阿波葉」が変わらず栽培されている。それでは、いつごろから井川町の農業は変化してきたのだろうか。次にそれを見てみる。


 2)農業粗生産額より見た井川町の農業
 表6は平成2(1990)年と平成7(1995)年の4町の農業粗生産額より見た上位5位までの農産物(畜産などを含む)を表わしたものである。井川町では、平成2年にはブロイラーが全体の42.4%で、2位の米(9.7%)を大きく引き離し、井川町の農業は急速にブロイラーに特化したといえよう。同じような傾向は、三野町、三好町においても見られる。このようなブロイラーへの特化は、これらの町では平坦部よりも山間部において顕著に見られる。いわば傾斜地の小規模農業の打開策として、ブロイラーが登場したと考えられる。

 ところが、そのブロイラーも平成7年になると、その地位が低下している。そして、ブロイラーに変わって、平成7年にはわずかながら「なす」や「ゆず」の栽培が台頭してきている。この傾向は表7に掲載した4町すべてにわたって見られる。

 3)土地利用から見た井川町の農業
 表7は耕地を水田と畑に分け、それぞれの耕地面積が昭和45(1970)年以降、どのように変化してきたかを表したものである。現地調査と、4町の地形的な条件とを考えると、水田はほぼ平坦部に、畑は山間部に分布していると考えてよい。

 昭和45年以後の耕地面積の変化を見ると、水田、畑ともに4町の中では井川町において最も減少が著しく、昭和45年を100とすると、25年後の平成7年には水田が52.9%に、畑は53.4%に減少している。これは、昭和45年当時のほぼ半分の耕地面積になったことになる。また、三加茂町、三野町、三好町においては、いずれも水田より畑の減少のほうが著しいのに対し、井川町では畑よりも水田の減少のほうが激しい。井川町の土地利用の様子を見ると、水田の多くは、山間部であれば棚田的なもので、吉野川に面する平坦部でも、小規模な水田が多いと推測される。これは、平成7年の水田の土地利用率を見ると、井川町だけが100%を切って90.5%となっていることからも考えられる。他の3町では、三好町の100.4%を除くと、三加茂町と三野町では水田の利用率が120%を超えている。つまり、平坦部の水田を巧みに利用した農業が展開されているといえる。

 4)井川町の農業の変化と今日の課題
 県西部の農業は、農作物の土地利用状況をみると、地形と交通条件に大きく左右されていることが見えてくる。農作物の分布においては、吉野川に面する平坦部と、吉野川に注ぐ小さな支流域の山間部では明確に違っていた。昭和40年代前半までは、吉野川北岸の山間部も、南岸の山間部も葉たばこ栽培が主流を占めていた。とりわけ、井川町の山間部の農家は、山間傾斜地での畑作物として、長く葉たばこに依存していた。
 ところで、葉たばこでも「阿波葉」栽培農家は、一般的に所有耕地面積が小さく、井川町ではそれが典型的に見られた。したがって、阿波葉に対する需要が激減する中で、葉たばこに代わる付加価値の高い農産物を見いだせなかったようである。これは、昭和45年以降における水田、畑の激減に現れている。
 昭和50(1975)年代になるとブロイラーが急激に伸びて、井川町を代表する農産物になった。しかし、これも頭打ちの状況にある。最近では、わずかながら都市向けの近郊農業的な野菜栽培が盛んになってきているが、これもまだ栽培団地を形成するまでには至っていないようである。

5.井川町における内水面漁業
 吉野川は豊かな水産資源に恵まれ、下流部においては、シラスウナギ漁、中・上流部におけるアユ漁において多くの川漁師が生計を立ててきた。ここでは、井川町における漁業をとりあげ、三好河川漁業協同組合辻・井内支部の事例を中心に考察を進めたい。特に川漁師の実態と、遊漁との調整などの面からも検討していきたい。
 1)吉野川の漁業と特徴
 吉野川には7漁業協同組合があり、三好・美馬郡においては、上流部より「吉野川上流漁業協同組合」、「三好河川漁業協同組合」、「西部漁業協同組合」の3漁業組合が生産を行っている。三好河川漁業協同組合の漁獲量は表8のごとくアユが最大の漁獲量を構成している。また、漁獲量も近年増加してきているが、これはアユの放流事業が効果を上げてきているためと考えられる。

 (1)魚類
 吉野川の漁業は、図5に示したように年間を通じて行われており、夏のアユ、冬のハエが主要な魚種である。近年自然環境が悪化し、水質汚濁が進み、特に、底もののカニ・ドジョウ等の資源の減少が見られている。山間部での、ブロイラー・ブタ等畜産の産業廃水による影響が考えられている。

 (2)漁法
 漁舟による「網」での漁獲が中心である。漁舟は大きく分けて2種類存在する。写真1に示した「土佐舟」と写真2に示した「カンドリ舟」である。


 土佐舟は上流部を中心として使用されており、カンドリ舟より小型で「波」に強いという特色を持っている。昭和30(1955)年代まではハコメガネを使用し魚を漁獲していたが、池田ダムが完成したことによって急流がなくなり、より大型化し安定したカンドリ舟が使用されるようになってきた。昭和30年代には、舟大工が年間15隻程度完成させていた。
 カンドリ舟は下流部に多く見られる舟であり、安定性が良く遊漁者にも容易に乗りこなせるという良さがある。経済面においても、木造の土佐舟は約35万円であるのに対して、カンドリ舟は木造では約40万円であるが、グラスファイバー製では約25万円と安価に手に入り、しかもメンテナンスが簡単であることから、グラスファイバー舟が急速に広がっている。舟大工の減少と高齢化、舟クギの入手難などの問題が生じてきており、現在は井川町においても2種類の漁舟が混在しているが、将来的には土佐舟は池田ダムより上流部のみに見られるようになるのではないかと思われる。
 (3)漁業形態
 昭和40(1965)年ごろまでは専業の川漁師が存在したが、現在は漁獲高の減少により副業経営を行っている。表9は、辻地区、井内谷地区の漁業組合員の聞き取り調査の結果であるが、専業者は存在せず、すべて副業である。出荷は、口コミによる個人向けの出荷が中心である。アユに関しては、池田町の「池田水産市場」が吉野川上流域の川漁師から集荷し、高級料理店を中心に出荷している。ハエについては、三好町のK氏が集荷し、1日600串(くし)ほど(1串に5尾程度刺して焼き)生産しており、1串当たり70〜100円で郵パックを利用して出荷している。

 2)内水面漁業振興の課題
 内水面漁業は、漁業協同組合が中心となって漁業権の管理および増殖などを行っており、井川町においては、三好河川漁業協同組合辻支部、井内支部が存在する。辻支部は、吉野川に面し、組合員155名(約70名が川漁師)を数える。井内支部は井内谷川を中心とし、アユ・アメゴの放流等を行い、出荷よりも遊漁者的な側面が強く現れている。
 内水面漁業振興における第一の課題として、釣り人口の増加による漁師との共存問題がさらに生じてくると考えられる。インターチェンジの設置によりレジャー客の増加が予想されるため、パーキングスペースの設置、漁場の分離等を企画する必要があろう。
 第二の課題として、天然川魚の貴重さをアピールし、専業の川漁師の復活を図る必要があろう。漁獲高の減少により困難を伴うが、現状のままでは、遊漁者的な側面が今以上に強く現れることとなり、内水面の管理・増殖が困難になると考えられる。

6.給排水システムと水利用
 井川町は吉野川の南岸に位置しており、地形制約上、町域からの排水は最終的にこの川に流出していることからも、吉野川とは切っても切れない密接な関係にある。しかしながら、同町におけるこの川の表流水の利用は限定的であり、田植えの時期に中村・野津後地区における農業用水として三好大阪生コンクリート工業の敷地付近で吉野川の表流水および伏流水を取水しているが、町民の生活用水の主要水源は谷の表流水および地下水であることから、水利用の視点からみた井川町の生活は、吉野川よりむしろ谷の河川とのかかわりのほうが強い。
 1)給水について
 生活用水については、谷川の表流水を水源とする井内簡易水道、辻簡易水道、西井川簡易水道の三つの町営簡易水道がほぼ平坦部のそれぞれ比較的人口密度の高い地域に普及しており、その他の山の地域などでは町営水道によらない自己給水を行っている。自己給水には組合組織による水道と各戸独自のものがあり、組合組織による水道には、「井川スキー場腕山」付近から取水して八ツ石城跡付近の貯水槽を経由して野住、西浦、色原、北地方面に給水するような大規模なものもある。このような水道は、一般に谷川の清浄な表流水を水源として塩化ビニール管などで自然流下によって導水するもので、浮遊物を沈殿させる程度の処置でとくに殺菌処理は行わず、貯水槽を経由して組合加盟各戸に給水している。
 ここで昭和35(1960)年にできた三安水道組合の水道システムの事例を紹介すると、三樫尾谷川上流部の表流水を取水し3600m に及ぶ塩化ビニール製の導水管によって三樫尾地区と安田地区の間の尾根上にある貯水槽まで導水し、そこから安田地区の8軒、三樫尾地区の5軒、そして落倉地区の5軒(平成9年9月現在)に給水している。この水道組合では毎年9月の第1日曜日に朝から組合員たちが総出で水源地から貯水槽までを点検し、大掃除を行っている。写真3は谷川に設けた取水地点の堰(せき)、写真4は取水直後に水中の浮遊物を沈殿させて上澄みの水を得るためのコンクリート製沈殿槽と3連につないだタンク(200リットル、500リットル、500リットル)、写真5は塩ビ管のつなぎ目を点検している様子である。取水施設や導水管などの普段の管理については、当番制で定期的に点検を行っており、ときには上記のような協同作業をしたり、話し合いのために集まったりして生活に不可欠な水道を維持することを通じて地域住民の連帯的な交流が行われている。


 以前と比べると谷川の水量は減少し、生活様式の近代化によって1人あたりの水使用量は増加しているが、人口はむしろ減少してきているため、今日まで深刻な水不足の状況に至っていないというのが井川町の現状であろう。谷筋から上っていくと生活の利便性は悪くなるにもかかわらず、そのような山の生活を住民が良いと感じている理由の一つに、きれいで豊富な水の存在が挙げられる。組合の水道ができたことによって蛇口をひねるだけで十分に水が得られるようになり水の利便性が増している家が多い一方で、駒倉地区ではあえて組合の水道を引かない事例も見られるように、従来どおり、各戸独自の給水のみでとくに不自由なく生活している家もある。また、水道ができてからも各自の水源をそのまま維持している事例も多い。
 2)排水について
 一方、排水については、現在まで(し尿単独および合併)浄化槽が部分的に普及している以外、排水処理はほとんど行われていない。将来構想としては、比較的人口が集中している吉野川沿岸地域に対しては特定環境保全公共下水道(市街化区域外を対象とする中小規模の下水道)が、井内谷地区には農業集落排水事業(農水省の補助による下水道)が計画されている。
 その一方で、平成5年度以降、補助事業によって合併浄化槽が普及しつつあり、町役場厚生課によれば、平成8年度までの4年間に一般家庭43戸および事業所等10カ所に合併浄化槽が設置され、その後も補助金の年度予算枠を超える設置申請が出されている。
 このように、将来的には比較的人口の集中したところには最終排水処理場につながる下水道、それ以外では合併浄化槽による排水処理構想があるが、当分の間は未処理の生活排水などが河川に流れ込む状況が続く。町内の簡易水道の水源が河川表流水であることから、水道原水の汚染が懸念されるが、河川への排水による汚濁負荷は、まだ深刻な状態にまで至っていない。水循環の観点から、水源地より上流部ではもちろんのこと、吉野川流域に立地する町の責務として、吉野川の表流水を取水している下流域の市町村のためにも排水処理はきちんと行うべきである。さらに井川町の場合は、きれいな水は町のアイデンティティーと密接にかかわっており、今後の地域開発においても重要な意味を持つはずである。

7.さいごに
 これまで見てきたように、人口、地域産業社会、農業、漁業、給排水の各項目について、次のような内容が述べられた。
 井川町の現在の人口は、1万人以上の人口を有していた1950年代のほぼ半分にまで減少しており、これに伴って高齢化も顕著になってきている。また、辻・西井川・井内の3地区に分けてみると、最も人口減少の著しいのは山間部を広く含む井内地区であり、町の人口の重心は交通条件のよい西井川地区へシフトしている。
 井川町の地域産業社会は、かつて50%以上を占めていた第一次産業就業率が約10%にまで低下して徳島県および全国平均に近くなってきている一方、自町外への就業率が50%以上と高く、他地域、とくに池田町など周辺地域に強く依存している。
 井川町の農業は、江戸時代以来の阿波葉の葉たばこの栽培が昭和末ごろまである程度盛んであったが、現在ではほとんど見られなくなった。昭和50年代以降、ブロイラーが急速に盛んになり、さらに最近では野菜栽培も台頭してきているが、栽培団地を形成するまでには至っていない。井川町の農業における困難は、田畑の面積がかつての半分程度にまで減少していることにも現れている。
 井川町では、吉野川を主な漁場としてアユを中心とした内水面漁業が見られ、漁業協同組合によって内水面の管理などが行われている。しかし、川漁師たちは専業からすでに副業の形態になっており、今後吉野川および井内谷川を中心とした内水面漁業を振興していくためには克服すべき様々な課題がある。
 井川町の生活用水の主な水源は谷の河川の表流水であり、その意味では井川町の生活は吉野川より谷の河川と密接に結びついている。全般的に井川町はきれいな水に恵まれているが、もし開発などによって現在以上に水需要が増加した場合、対策を講じないと水量の調達ばかりでなく、汚濁負荷による水質悪化の問題も顕在化するであろう。
 井川町の典型的な風土を言い表して「丘に水あり、谷に風あり」という言葉が伝わっている。これは、水が不足しそうに思われる岩場の丘にも、谷筋の河川があるためにきれいな水が流れており、風が弱そうに思われる谷にも地形上風が集まって強く吹くことがあるというものである。井川町は地形的には平地にあまり恵まれていないが、比較的水に恵まれており、山がちな地形や水などの自然条件をうまく利用して農業を中心にした諸産業が展開してきた。ロケーションからすれば、徳島県の経済的中心地から西に遠く離れており、県西部の中心都市である池田町との地域的なつながりが強い一方、吉野川沿いの交通の要地にあって、今後の地域開発が期待されている。井川町発展の方向性はけっして都会型ではないと思われるところ、井川町らしさ ―ここでは周辺地域との経済的相互依存関係や水資源をうまく利用した生活や産業活動など― を大切にして、それを失わないようにするばかりでなく、むしろそれを生かす方向での地域開発が望まれる。
 最後に、本調査にご協力くださった井川町役場ほか関係者の皆さんに心から感謝の意を表します。なお、本稿の執筆は、2を平井、3を横畠、4を井上、5を板東、1、6、7を萩原が担当した。

1)一宇村一宇中学校  2)北島町北島中学校  3)四国大学
4)徳島大学総合科学部  5)四国大学


徳島県立図書館