阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第44号
井川町における婚姻儀礼

民俗班(徳島民俗学会) 澤田順子

1.はじめに
 井川町は吉野川の南岸に位置し、交通の要所として栄え、葉たばこの産地であった。
 結婚の形態は戦前と戦後、現在と大きく違ってきている。今70代、80代の人たちは、自分の結婚はほとんど親任せで、当人たちは言われるままに式を行っていたため、細かい点になると記憶が定かでない。息子や娘の嫁取り、嫁入りの状況の方が思い出されるようだ。孫の代になると、ホテルとか専門の結婚式場で行うので、結婚式はどこも同じような内容になってきている。
 ここでは、記憶からも消えようとしている、かつての婚姻儀礼について、井内、辻、里川、西井川在住の方から聞き取り調査をした結果を報告する。昭和初期から30年代くらいを中心に、当人の体験と当時の様子を伝え聞いた話とを織り交ぜて書くことにした。

2.結婚に至るまで
 1)結婚の条件
 各地域とも、ほとんどが見合い結婚で、家の格とか釣り合いを大切にし、親の薦めによって決めるのが普通だった。家の事情を良く知っている仲人(商売仲人)が話を持ってくるか、親類同士が多い。「いとこ同士は肌ぬくい」とか「おいとこのはなぬぐい」といって、内情のよく分かったいとこ同士の結婚も多い。話を聞いた方の中にも、いとこ夫婦であったり、祖父母、両親と二代続いていとこ同士という人もあった。だが、母方のいとこはよいが、父方のいとこはだめということである。
 ヨバイなどについては、「そんな話はあんまり聞かんな、昔にはあったらしいけんどな。祭りとか盆踊りの時なんぞにな」ということだ。『井内谷村史』には「昔は祭礼、盆踊り等の集合の際、男女相選み相結婚せし風習あり…」とあり、また『辻風土記』にも「明治23年ごろまでの盆踊りが盛んだったころ、若者たちの出会いもあり、男の家に女房として入り込む『張り込み』や娘を盗み出す『嫁取り』もあった」と書かれている。
 2)通婚圏

 通婚圏は近隣ということである。せいぜい加茂辺りまでで、遠くから嫁にくるのは少なかった。
 3)聞き合わせ
 仲人が持ってきた話の場合、釣書や写真で相手を知り、相手の家の近くの人に内情を聞く。親類の場合はその必要がない。
 4)見合い
 娘の家で見合いをする。見合いは、ほとんど結婚話が決まってから行う。
 仲人と若者が行き、お茶を出す娘を見るが、下を向いているし、ランプの灯では薄暗くて見えなかった。若者が結婚の承諾を意志表示する方法は、地域によっても違っていたようである。 ・お茶を飲んだら承諾 ・お吸い物に卵が入っていてそれを食べたら承諾(「卵吸いもん食うたか」と聞かれた) ・気に入らなかったら吸い物のふたを取らない。その間、娘は食べてくれるかどうか見ている。
 ここで話が決まると結納の日を決める。
 5)結納
 正装した仲人と婿と親が「熨斗(のし)入れ」(結納)をする。目録は結構に(きちんと)書く。奥に持って入って熨斗の中を見て受書を、これも結構に書き、渡す。熨斗は三宝に載せ飾る。お膳(ぜん)の準備がして有り、尾頭付きの魚、おこわ(固い)、おもち(ねばる)、うどん(長い)など、ご馳走(ちそう)に並ぶものにもいわれがある。結納の儀式が終わるといよいよ結婚式の日を決める。足入れのような風習は聞いたことがないということである。
 6)荷送り 花嫁道具
 式の3日くらい前の日柄の良い日に、嫁の家から婿の家へ荷送りをする。荷送りは宰領(さいりょう)人(叔父など)が取り仕切った。箪笥(たんす)、鏡台などに定紋入りの布をかけ、荷車に乗せ、「寿」と書いた紙を張り付けて行った。人足は近所や親類の人で伊勢節を歌った。嫁さんの支度を飾ったり、近所の人が来て引き出しをあけて中を見たりしたところもある。

3.婚礼
 1)婿入
 話を聞いた人の中で婚礼の当日婿入りをしたという人や、しなかったという人があり、当日しない人の方が多かった。婚礼後、里帰りの時という人もあった。当日の人の話によると、仲人と花婿が花嫁の家に行き、お昼のご馳走になった。花婿はご馳走になった後、黙って逃げて帰ってくる。これを「婿の食い逃げ」と言ったそうだ。(西井川)
 2)花嫁支度
 髪結いさんに前日から髪を結ってもらった(宵髪(よいがみ))。自分の髪で高島田に角かくしをした。髪結いさんは、本客として花嫁に付き添った。黒の裾(すそ)模様、昭和も30年代になると打ち掛けを着る人もある。乗り物のない時代は仲人を先頭に行列を作って歩いて行った。たいていは近くまで乗り物に乗って、後は歩いてということだった。
 花嫁と花嫁が道で出会ったときは、手にしたタカラバチ(竹の皮で編んだ笠(かさ))をお互いにほった(捨てた)。蛇の目傘は道具として持っていった(蛇の目傘を捨てる説もある)。履き物は表うちの草履、雨天では雨下駄を途中で履き替えたのではないかという。嫁入りは大抵夕方から夜にかけてだったので、提灯(ちょうちん)をさげて行った。
 3)サカムカエ
 たばこが隆盛の時は景気が良く、結婚式も派手だったようである。花婿の家で飲んでいた前客(地区の人など)や親類の人たちが、つじ(曲がり角)まで花嫁を迎えに行く。芸者が三味線を弾き、太鼓を鳴らし、伊勢節をうたってにぎやかに迎える。用意していった肴(さかな)のスルメ・コンブ・イリコ(かつお)の三種を懐紙に取り、銚子(ちょうし)に入れていった酒を代表者(仲人・親類の代表)が一つ重の杯で飲み交わし、後は阿波踊りで一気にオドリコミをした。迎えの人はそろいのタオル(ピンク、黄色、青)を首に巻く。花嫁を花婿の家の前まで送ると前客は解散する。その間、花婿は家で待っている。
 4)花嫁の作法
 花嫁はよい(婚礼の前夜)に両親にあいさつを済ませる。花嫁は姑(しゅうとめ)、または仲人に手を引かれ、カマヤ(台所)から家に入る。養子婿の場合は玄関から入る。まず仏壇の前に座り、ご先祖を拝む。
 5)かための杯
 奥の間で三三九度の儀式を行う。あらかじめ両方の親族の中で、小学校2〜3年生くらいの男の子と女の子をお酌人に決めておく(オンチョウ・メンチョウ・・雄蝶雌蝶)。仲人を立会人として夫婦(ミヨト)の固めの杯をする。ここでもスルメ・コンブ・イリコが肴として渡される。式が終わると、新夫婦そろって本客の待つザシキの宴会の席に着く。オチツキのお茶を飲んでから、身内の紹介をし、杯をする。

4.披露宴
 1)本客
 両家の客の人数をそれぞれ奇数に合わせる(片方7人など)。婚礼の宴会の費用は、花婿側がすべてをもった。会場も個人の家なので人数に制限があり、宴会の回数が増えた。
披露宴は部屋の広さなど、各家の状況に合わせ工夫していたようである。料理人を雇って、近所の人が手伝ったり、料理屋に頼んだりした。本客には十分に飲んで次の朝まで居てもらわなければ恥をかくと、盛んにもてなした。鳥が鳴くまで酒宴は続き、トリノサカズキ(大きな赤い塗りの杯で武蔵(むさし)と言う・・井内谷村史)を回し、高砂などを謡(うた)ってお開きになった。
 2)二日目から
 朝から友達などを呼び、また宴会が続く。花嫁は手伝いをする。三日めも宴会が続くこともあった。近くの子供たちが、「嫁さん菓子をちょうだい」とやってくる。ふやき、キャラメル、ノート、鉛筆などをあげた。
 「部屋見舞い」といって嫁の実家が様子を見に来る。仲人が「ネダウカガイ」をする。
 3)歩き初め
 姑に連れられ、嫁と母親が付いて地区内に品物を持ってあいさつに行く(ふろしきなど)。養子の場合は父親が付いて行く。
 4)里帰り
 花嫁と花婿が花嫁の家に行く。三日目とか五日目とか、お客の招待の状態によって違う。
 5)次男以下の婚礼
 次男、三男の時も同様な婚礼が行われるが、お客を呼ぶ範囲が小さくなる。

5.おわりに
 嫁は行事が終わると婚家の人となり、一家の労働力としてばかりでなく、舅(しゅうと)や姑に仕え、夫に仕え、子育てをする。小姑もたくさんいるとその世話もしなければならなかった。たばこの耕作の盛んなときは仕事もきつかったようである。一家の財布はずっと姑が握り、婿も収入はすべて親に渡していた。トセイができるようになるまでと言われ、辛抱していたそうである。
 今ではこのような婚礼は行われなくなってしまった。書き残さなければ、消えてしまうと感じた。サカムカエなどおおらかで楽しい風習である。
 本調査にご協力くださった下記の方々に、心よりお礼を申し上げます。
 井内 西井治夫氏(大正7年生)、西井ヨシ子氏(大正8年生)、杉の木 佐藤栄一氏(昭和6年生)、辻 吉岡員代氏(大正6年生)、里川西 宮本進氏(大正10年生)、西井川 山下福義氏(昭和4年生)、矢野マスエ氏(昭和2年生)、三好政江氏(昭和11年生)。

参考文献
『井内谷村史』阿佐宇治郎編,井内谷村役場発行.昭和28年11月3日.
『井川町誌』西井治夫編,井川町役場発行.昭和57年3月31日.
『辻風土記』山下待夫著,水石社発行.昭和10年1月20日.


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