阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第44号
井内谷三社宮の祭礼について

民俗班(徳島民俗学会)

      岡島隆夫・高橋晋一2)

1.井内谷と三社宮について
 三好郡井川町井内谷では、字馬場に鎮座する馬岡新田(うまおかにった)神社(旧郷社)、隣接する八幡神社(旧村社)、約300m 北にある武大(たけお)神社(旧村社)の三社を合わせて「三社宮」と称している。この三社はともに旧井内谷村全域の氏神で、毎年11月2・3日の両日には三社合同の秋祭り(三社宮秋季大祭)が古式ゆかしく行われている。本稿の目的は、この三社宮秋季大祭の概要を報告するとともに、同祭礼の特質を明らかにすることにある。
 なお本稿で用いたデータは、平成9年11月2日に行った三社宮総代・藤川斎氏からの聞書き、および7月24・25日、11月2・3日に行った現地調査に基づくものである。

2.祭祀(さいし)組織
 三社宮の祭礼行事は、「頭屋(とうや)組」が中心となって行われる。現在、井内谷の頭屋組は次の6組に分かれている。
  奥組の東…馬場、平、岩坂、桜、知行の各集落
  奥組の西…荒倉、駒倉、下影、野住(上・下)の各集落
  中組の東…大久保、下久保、馬路、倉石、松舟、向の各集落
  中組の西…坊、中津、吉木、上西ノ浦、下西ノ浦の各集落
  下組の東…流堂、吹(上・下)、正夫(上・下)、大森の各集落
  下組の西…杉ノ木、尾越、段地、安田、三樫尾の各集落
 頭屋組は東西が一つのセットとなっており、奥(東西)・中(東西)・下(東西)の順に3年で一巡する(平成9年度は奥組が頭屋)。各頭屋組はそれぞれ5、6集落で構成されており、その中の一つの集落が輪番で頭屋に当たる。実際に自分の集落に頭屋が回ってくるのは十数年に一度であり、地域住民は頭屋に当たることを栄誉としている。しかし近年過疎化が進み単独で奉仕できない地域(集落)もあり、隣接地域と合併したり、他村へ出ている者を祭礼に呼び寄せたりしているところもある。頭屋組からは正頭人2名(東西各1名)、副頭人2名(東西各1名)、天狗(てんぐ)(猿田彦)1名、宰領1名、炊事人6名(東西各3名)の計12名の「お役」を出す。
 氏子総代は上記地域の氏子全体から徳望のあつい人が選ばれる(定員10名)。うち3名を責任役員とし、任期は3年であるが、再任を妨げない。氏子総代は宮司を助けて三社の維持経営に当たり、例大祭の際には氏子を代表して玉串(たまぐし)を奉奠(ほうてん)したり、「お旅」(神輿(みこし)渡御)のお供をしたりする。

3.祭りの過程
 1)準備
 10月23日、宮司・前年度頭人・当該年度頭人が馬岡新田神社に参集、「お頭渡し」(頭屋の引き継ぎ)が行われる。次いで当該年度の「三社宮秋季例大祭」の予算(三社宮の秋祭りの祭礼費)の「宮割り」を行い、例大祭に必要な物資などを発注する。祭礼費は三社宮の氏子650戸(かつては900戸あったが、過疎のため減少)が寄進する。
 10月31日、井内谷長寿クラブの会員(約50名)が、三社の境内や町内の要所に祭礼幟(のぼり)を立て、馬場地区の道沿いにしめ飾りを張る。また、この日までに卯(う)の刻祭りで使用する弓矢や的を作る。これらの準備作業は、昭和58年まで馬岡新田神社のお膝元(ひざもと)である馬場地区の人たちが行っていた。祭礼幟は電柱のような巨大な鉄柱に吊(つ)り上げた大幟で、それぞれ白地に「万事感謝」「報本反始」「皇運隆昌」などと大書してある。
 11月1日、お役の参籠(さんろう)。16時、東西正頭人2名・宰領1名・東西炊事人2名の計5名が馬岡新田神社境内西にある社務所へ参籠、祭礼について協議する(夜はそのまま社務所に泊まる)。翌朝、さらにその他のお役7名も参籠に加わり、3日の大祭終了後の「ロウヤブリ」まで、社務所(写真1)を拠点として諸祭儀を執り行う。社務所前には忌竹(いみだけ)(青笹(ざさ))2本が約2m 幅で立てられ、その上部にしめ縄を引き渡し、清浄の標識とする。お役はここをくぐって神事に出る。かつては、お役に当たった者は井内谷川に入って水垢離(みずごり)を取っていたという。

 2)武大神社・八幡神社例大祭
 三社宮大祭の特色の一つは、三つの神社の祭りがセット(一連のシークェンス)になって、一つの大きな祭礼を形作っているという点にある。まず、11月2日午後より武大神社・八幡神社の例大祭、翌3日には、早朝の武大神社での「卯の刻祭り」を挟み、午前11時から馬岡新田神社の例大祭があり、最後に三社の神霊を乗せた神輿の御旅所渡御(ダンジリや鳥毛などの行列が供奉(ぐぶ))が行われるという流れになっている。
 11月2日午後、武大神社・八幡神社例大祭。14時、宮司以下お役の者はそれぞれ手水(てみず)をし、社務所前に列立する。天狗は猿田彦の装束を着け、高下駄(げた)に天狗の面、大麻(おおぬさ)(紅白の紙垂を付けた長さ3m の大榊(さかき))と太刀を持つ。東西正副頭人4名は裃(かみしも)姿で白足袋に草履を履き、長さ約2m のザイ(指揮棒)を持つ。天狗・東西正副頭人・宮司・総代の順に隊列を組み、一同、武大神社へ向かう(写真2)。

 14時10分、武大神社に到着。一同社殿内に参進、所定の位置に着座。引き続き武大神社例大祭(神事)。神事の次第は修祓(しゅばつ)、祝詞奏上、総代祈願詞奏上、玉串拝礼の順。例大祭終了(14時40分)後、一同列次を組んで武大神社を出発、八幡神社へ向かう。
 14時50分、八幡神社に到着。一同社殿内に参進、所定の位置に着座。引き続き八幡神社例大祭(次第は武大神社と同じ)。例大祭終了(15時15分)後、一同列次を組んで八幡神社を出発、社務所に帰着。16時より社務所で直会(なおらい)が行われる。このように、祭り初日の行事は宮司とお役の者による神事のみであり、終始厳粛な雰囲気の中で行われる。
 3)卯の刻祭り
 祭り二日目の11月3日早朝、宮司とお役の者により、武大神社境内で「卯の刻祭り」が行われる。午前4時より社務所で一同雑炊を食した後、5時、天狗、東西正副頭人、宮司、総代・世話人の順に、夜道を割竹のタイマツで照らしながら武大神社へ向かう。5時10分、武大神社に到着。宮司お役一同は社殿に入り着座、卯の刻祭りを行う旨を神前に奉告する(修祓、大祓(おおはらえ)詞奏上、祝詞奏上、太鼓)。世話人は境内でかがり火を焚く。
 5時20分より卯の刻祭り。一同かがり火の前に整列。総代が太鼓を一つ打ち鳴らす度に世話人が榊葉で数取りをし、25回を数えたところで東の正頭人が境内中央に進み、弓に矢をつがえ、社殿横にしつらえた的を射る(写真3)。続いて同様に25回を数えたところで西の正頭人、さらに25回を数えたところで東の副頭人が矢を射る。最後に社殿内で太鼓を打ち鳴らし、参加者一同お神酒とお御供(ごく)(お供えしたご飯)をいただき、社務所に引き上げる。

 平成4年までの卯の刻祭りは、馬(「頭屋馬」と呼ぶ。写真4)1頭に乗り子を乗せ、馬子が馬を75回ひき回し、この間馬上の乗り子が25回ごとに計3本の矢を射るという形を取っていた。さらに続いて「曳(ひ)き馬」と称して馬岡新田神社の前の馬場を二筋半(2往復半)往復し、最後に馬岡新田神社拝殿前庭に東西正副頭人が馬を引き立てて整列、拝礼して行事を終えていた。馬がいなくなって、祭りは現在のような形に変わった。
 卯の刻祭りの持つ意味は明らかではないが、他地域に伝わる御弓神事の例と照らし合わせて考えると、元々は地域社会の祓(はら)い(浄化)もしくは五穀豊穣(ほうじょう)・無病息災を祈念して行われていたものと考えられる。また、特に卯の刻という時間を選んで行事が行われる理由は、一つには、夜明け前のこの時間帯はいわば夜と昼の境界の時間に相当し、その両義的性格ゆえに聖性が高いとみなされたことによるものであろう。
 4)馬岡新田神社例大祭
 祭り二日目、祭りの舞台は武大神社・八幡神社から馬岡新田神社へと移る。11時、宮司、祭員(助勤神職)、氏子総代4名、天狗、東西正副頭人4名、神輿かき12名、弓持ち(吹(ふき)の白楽神社から来る)2名が社殿へ参進、所定の位置に着座する。引き続き馬岡新田神社例大祭の神事。次第は修祓、宮司一拝、献饌(けんせん)、宮司祝詞奏上、総代祈願詞奏上、玉串拝礼、宮司一拝、宮司挨拶(あいさつ)の順。例大祭終了(11時40分)後、直会となる。
 5)三社宮神幸祭(お旅)
 13時より御霊遷(みたまうつ)しの儀。宮司以下お役の者が社務所より馬岡新田神社社殿へ参進、所定の位置に着座する。神輿が拝殿中央に据えられ、拝殿前には長刀(なぎなた)2、鳥毛12(鳥毛1本に2名が付き、計24名)が威儀を正して居並ぶ。修祓、宮司一拝、祝詞奏上の後、宮司が本殿内に参入、御霊代を神輿に奉遷する。祭員は警蹕(けいひつ)(オーという声)をかけ、この間太鼓が打ち鳴らされる。
 13時30分、神幸(神輿の御旅所渡御。「お旅」とも言う)開始。東西正副頭人4名が拝殿向拝に並んで着座、東正頭人がお旅を始める旨の口上を述べる。お旅の列次は先頭人2(ザイを持つ)、ダンジリ2台、天狗、長刀(露払い役)2、鳥毛12(24名)、御弓2、金幣、神輿(頭屋組から東西各6名のかき手が出る)、太鼓1(2名で持つ)、神職2(宮司、祭員)、氏子総代4、後頭人2(ザイを持つ)の順。この渡御行列のことを「大名行列」とも言う。

 馬岡新田神社の神霊を乗せた神輿(写真5)は、神社正面の石段を下り、馬場(神社前を南北に走る約200m の直線道路。現在の県道)の北詰めまで進んで止まり、宮司の祝詞奏上、祭員の警蹕とともに武大神社の神霊を神輿に迎える。続いて神輿は神幸行列とともに御旅所方面へ向かい、途中八幡神社の前で止まり、宮司の祝詞奏上、祭員の警蹕とともに、今度は八幡神社の神霊を神輿に乗せる。このようにして三社の神霊を順に神輿に遷していく(武大神社・八幡神社の御霊遷しが社殿に参入せずに行なわれるという点は注目すべきである。ただしこれが通常の御霊遷しの簡略形であるか、それとも古い形を残したものであるかは速断しかねる)。三社の神霊を乗せた神輿と神幸行列は、氏子ら大勢が見守る中、馬場を賑(にぎ)々しく練りながら御旅所に向かう。かつては頭屋馬5頭が乗り子を乗せて神輿のお供をしていたというが(参考文献1および2)、農耕・運搬用として活躍していた馬が次第に地域にいなくなり、頭屋馬の供奉は数年前から中止されている。

 神幸行列の「花」がダンジリ(写真6)と鳥毛のお練り(写真7)である。ダンジリは宮奥(平・馬場・知行・桜)、東(向・倉石・松舟)、梶内(中津・坊)、吉木・杉ノ木の四つのダンジリ組が交代(一つの組は2年連続)で引く。平成9年度は梶内と吉木・杉ノ木が当番であった。ダンジリは11月2日に馬岡新田神社境内の倉庫から引き出し、当番の組のところで飾り付けをし、3日のお旅開始前までに再び神社まで引いて行く。打ち子はかつては地区の男児(小学生)5名と決まっていたが、近年は子供が少なくなり、女児も参加している。打ち子は華やかな衣装を身に着け化粧をして乗り込み、大太鼓1、小太鼓2、鉦(かね)2を分担して打つ。ダンジリはそれぞれの地区の若者や子供・打ち子の家族らが引き、お旅の先頭を、楽を奏でながら2台続いて進む。
 鳥毛は12本、練り人24名(2名で1組)で構成され、宮奥、西ノ浦から各6本12名が参加する。かつては鳥毛18本、練り人36名であった。練り人は長さ約3.5m の鳥毛を慣れた動作で相手に投げ渡しながら、道中を進んでいく。
 14時15分、神輿が御旅所(「神事場」とも言う)に到着。神輿かきは忌竹としめ縄で囲まれた石積みの台上に神輿を据える。神輿の周囲に矛・弓などの威儀物を立て並べ、辛櫃(からびつ)に入れて運ばれて来た神饌を神前に供えた後、御旅所祭が始まる(写真8)。神事は修祓、宮司一拝、宮司祝詞奏上、玉串拝礼、幣(へい)振り(宮司が金幣で参集者一同を祓う)、宮司一拝の順。終了後、一同、お神酒・お御供を拝戴(はいたい)する。

 続いて神輿の前で、「ウジミセ(氏見せ)」と呼ばれる、この一年間に生まれた赤ちゃんの氏子入りの神事が行なわれる。母親に抱かれた産着姿の赤ちゃん10名が宮司による「初宮」の祈祷(きとう)を受け、金幣で恩頼(みたまのふゆ=神の御加護)をいただく。
 15時5分、還幸(お入り)。御旅所での神事を終え、神幸行列が馬場を引き返す。鳥毛が練り、神輿が勇み、行列は短い道程を時間をかけてゆっくりと進んでいく。
 帰りは、行きとまったく逆の順序で、神輿に乗せた三柱の神霊をそれぞれの神社に還(かえ)していく。まず八幡神社前で神輿を止め、宮司が祝詞を奏し、祭員の警蹕とともに八幡神社の神霊を神輿から神社に還す。続いて神輿は馬場の北詰めまで進み、同様のやり方で武大神社の神霊を神社に還す(写真9)。最後に馬岡新田神社の神霊(御霊代)だけを乗せた神輿が、馬岡新田神社の石段を上っていく。

 16時、神輿が馬岡新田神社に到着。一同社殿に参進、着座。太鼓が打ち鳴らされ、祭員が警蹕をかける中、宮司が神輿から御霊代を本殿に奉遷する。宮司による祝詞奏上、一同拝礼。引き続き東西正副頭人4名が拝殿向拝に並び、頭人代表による「お旅」無事終了とお役の人々へのねぎらいの口上があり、16時10分、祭礼の全過程が終了する。
 この後、速やかに後片付けに入る。神輿は神輿倉(社殿内)へ、ダンジリは社殿西側のダンジリ倉庫へ納められる。祭礼幟やしめ飾りの取り外し作業は、翌4日に井内谷長寿クラブによって行なわれる。
 6)ロウヤブリ
 11月3日18時より、社務所にてお役の人たちを慰労する酒宴が開かれる(東西正副頭人、天狗、宮司、総代世話人などが参加)。これを「ロウヤブリ」と言う。本義はおそらく「籠破り(=参籠を解く)」ではないかと思われる。

4.まとめ
 以上見てきたように、井内谷三社宮の祭礼は、生業形態・交通手段の変化や過疎による人口減少の影響により、細部に変化は見られるものの、祭儀・祝祭の両面で依然古式をよく残した祭礼であると言える。特に注目されるのは、お役の参籠に象徴されるように今なお物忌み=「籠(こも)り」の要素が強く見られることである。社務所は精進屋(籠り屋)そのものであり、お役の者は祭り終了=ロウヤブリまでここに籠り、清浄な別火で煮炊きしたものを食し、斎戒する。かつては水垢離も行われていたと言う。柳田国男によれば、このような夜を徹しての精進潔斎のお籠りこそ、祭りの本来の姿なのである(参考文献3)。また、他地域に見られない特色ある行事として卯の刻祭りがあるが、これも祓い=浄化の古い形態の一つと見るべきであろう。
 井内谷三社宮の祭礼と言えば、これまで華やかな祝祭の部分=「大名行列」ばかりが注目を集めてきた。しかし祭りの重要な本質はむしろこのような目立たない祭儀の部分にあるのであり、その点にこそ祭りのアーキタイプ(祖型)を伝える要素を多く見いだすことができるのである。

 参考文献
1.阿佐宇治郎編『井内谷村誌』井内谷村役場、1953年。
2.西井治夫編『井川町誌』井川町役場、1982年。
3.柳田国男『日本の祭』(定本柳田国男集 第10巻)筑摩書房、1962年。

2)徳島大学総合科学部


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