阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第44号
井川町の峠道

民俗班(徳島民俗学会)  橘禎男

1.はじめに
 井川町は、面積の80パーセント近くが山林である。町誌によると、59ある集落の内標高200m 以上にある集落が36で、大半が山間地であることを示している。吉野川に面した北側を除き、池田町と接する西側、西祖谷山村と接する南側、三加茂町と接する東側は城ノ丸、日ノ丸山など1,000m を超す高い山を含む山地で囲まれている。
 交通路としては、吉野川に沿って国道192号とJR徳島線が東西に延びており、また辻から県道が井内谷川に沿って南に延び、野住で分岐して町境を越え池田町や西祖谷山村に通じている。井川町の新しい地図を見るとわかるが、近年道路の新設と改良が進み、集落間を網の目のように車道が延びている。このように交通路が整備される以前は、どんな道を通って人の往来や物資の交易が行われていたのであろうか。
 徒歩が主な交通手段であった時代の峠道に焦点をあてて、そのルートと現状、そこに残る石造物を明らかにすることを目的として今回の調査をした。現地調査は、平成9年7月25日から11月3日までの間の11日間である。

2.井川町の主な峠(図1)

 1)水ノ口峠(1116m)
 国土地理院の地形図に名前の出ている唯一の峠で、井川町井内谷と西祖谷山村小祖谷を結ぶ。井内谷側の道は峠で二つに分かれており、一つは旧祖谷街道といわれ、日ノ丸山の北西面を巻いて桜と岩坂の集落に通じる。両地区は小祖谷と縁組みも多く50年位前まではこのルートを通じて交流があった。現在この道は廃道となっており、近くに作業道ができている。
 他の一つは、峠と知行を結ぶもので明治30年(1897)ごろにできた。祖谷へ讃岐の米や塩が運ばれたり、また祖谷の煙草(たばこ)の搬出路として重要な路線であった。さらに、大正8年(1919)から昭和6年(1931)まで、水ノ口峠で製造された凍り豆腐用の大豆や製品の搬送路としても利用された。「峠には丁場が五つあって、50人くらいの人が働いていた。すべて井内谷の人であった。足に足袋、わらじ、はなもじ、かんじきなどをつけて、天秤(てんびん)棒で2斗(30kg)の大豆を担いで上った」と知行の向井好男氏(87歳)が話してくれた。このルートは、辻の浜で吉野川の舟運と連絡し、また川を渡り昼間を経て打越峠を越え、東山峠から讃岐の塩入につながる物資の輸送ルートでもあった。したがって知行から峠までの道は旧祖谷街道に比べて道幅が広く、牛馬も通行可能であった。昭和52年小祖谷に通ずる林道が開通したため利用されなくなったが、杉林の中に道は残っている。

 峠の北西400m の「馬まくれ場」には通行の安全を祈る地蔵尊(図2)が立っている。また峠の西祖谷山村側には、「文化元年三月廿一日 地福寺 朝念法印」の銘のある弘法大師の石像(図3)が祀(まつ)られている。地福寺の第6代住職であった朝念が、水ノ口峠に石仏を立てたことからもこの峠の重要さがわかる。この大師像は、所在場所は西祖谷山村で小祖谷の人の手で祀られているが、銘文からみても井川町の記録に入れておくべきものであろう。

 2)日ノ丸峠(1100m)(図4)

 日ノ丸山と城ノ丸の鞍部(あんぶ)にある。井川町桜と東祖谷山村深渕を結び、落合峠を経て祖谷に入るルートであった。平安時代の開基といわれる地福寺は、祖谷十三名を檀家(だんか)に持ち祖谷と深いつながりがある。見の越にある円福寺は井内谷の地福寺の住職が兼任しており、剣山へ行くときはこの峠を通っていたらしい。現住職の宮内義典氏(60歳)は、小学校の時祖父に連れられて、この峠を越えて円福寺へ行ったことがあるという。
 町内で最も高い山である日ノ丸山の中腹に「坊の久保」という土地がある。ここには江戸時代の初めまで現在の地福寺の前身の「持福寺」があったといわれる。
 文治元年(1185)、屋島の戦いに敗れた平家は、平国盛率いる一行が讃岐山脈を越えて井内谷に入り、持福寺に逗留(とうりゅう)したといわれている。寺に残る平家の赤旗や国盛の父教盛の位牌(いはい)、安徳天皇の乗馬の鞍(くら)を置いたという鞍掛岩など、井内谷に残っている平家伝説は大変興味をひく。一行は、井内谷からどの峠を越えて祖谷に入ったのだろうか。昔の道は、沢筋よりも展望の良い尾根を通っていたこと、祖谷に残る平家伝説の多くが集中している大枝、栗枝渡、奥の井などの集落が、水ノ口峠から南に延びた線上にあることなどから、一行は水ノ口峠を越えて寒峰に至り、寒峰峠を経て祖谷に入ったのではないかと思われる。
 桜の山川芳幸氏(72歳)の案内で訪れた坊の久保は、標高約820m で、周りを杉の植林地に囲まれたかなり広い平坦(へいたん)地で、ミズナラやヤマザクラなどの茂る自然林であった(図5)。


 3)野住峠(708m)(図6)

 今回取り上げた四つの峠の中で、集落に最も近い。峠には大師堂があり、中に「天保十六年三月二一日建」の銘のある大師石仏(図7)がある。お堂の前には、野住の人々が寄進した「南無大師遍照金剛」と染めた赤い幟(のぼり)が立ち並び、大師信仰が強く息づいていることがわかる。井川町野住と池田町の正夫や漆川を結ぶ峠で、両地区は縁組みも多く、峠を往来して交流があった。

 この峠で特筆すべきは、阿賀文益と多田源治郎という二人の寺子屋師匠の頌徳(しょうとく)碑(図8)が立っていることで、藩政期の教育を知る上で貴重な資料である。なお、井川町の寺子屋については、町誌をはじめ他の文献に詳しく述べられている。

 4)鷹指場越(830m)
 井川町の西ノ浦と里川を結ぶ峠。両地区は交流が深く里川東は戦後13戸あったが、その内西ノ浦から嫁いできた家が6戸あったという。この峠を案内してくれた里川東の上笹浅一氏(74歳)もその内の1戸である。峠一帯は昭和30年代までカヤの採取場であったが、現在は杉や檜(ひのき)の植林地になっており、一部に自然林も残っている。
 このルートは借耕牛(かりこうし)の道としても使われ、「昭和30年代まで池田町影野、大平方面からも讃岐への米稼ぎの牛が引かれていった」と上笹浅一氏が話してくれた。
 この峠の南面の道沿いに不動尊が残っている。一つは西ノ浦の神田安太郎氏宅から北西に500m 上った所で、「寛政七年六月二八日」の銘があり、立派なおかまごの中に鎮座している(図9)。他の2体は八ツ石城跡の南西100m の道沿いにあり、2体の内の古い1体は上記と同じ建立年月日である(図10)。峠道に不動尊が立っているのは、この道が集落に比較的近いにかかわらず危険な場所とされていたからであろう。
 また峠から北500m のササビザコという場所には熊(くま)の墓がある(図11)。高さ30.5cm の砂岩製で、中央に「くま」と平仮名で彫り、「明治廿年四月七日上笹作蔵」の銘がある。作蔵は里川東の上笹鉄男氏(67歳)の先祖である。


 辻風土記には「明治初年頃までは、いのしし、しか、くまなどが出ていたという」とあるので、この山地には明治初期まで熊がすんでいて、熊猟が行われていたことがわかる。
 熊の生息にはブナ、ミズナラ、カシなどの大木があって、でんぷん質の木の実が落ちる原生林がないといけないので、この墓から当時のこの山の自然環境を推察することもできる。熊の墓は、県内では西祖谷山村坂瀬に1例報告されているだけで、今回の発見で2例目となり、山村民俗研究上貴重な資料となろう。

3.峠の保存と活用
 今回歩いた峠の中で、日ノ丸峠だけは杉の植林で昔の面影が全く消えてしまっていた。しかし残りの三つの峠は石造物も多く、地域の人々の暮らしの中で担ってきた大切な役割を物語ってくれているように思った。
 時代は、速くて便利な車社会へと変わり、車道の整備は急ピッチで進んでいるが、今日の繁栄の礎を築いてくれた先人たちの汗と涙のしみこんだ古い峠道を、消えるに任せるのでなく、もっと大切にしたいものである。それは、次代を担う子供たちの心を豊かにするためにも欠かせないことであろう。
 町教育委員会の作成になる「井川町の文化財」や「ふるさと探訪のしおり〜歩くコースを探る〜」は、文化財の調査や保存に取り組む町の姿勢を示しており、今回の調査に際しても大変役立った。それぞれのテーマを設けてコースをつくっているが、歩いてまわりやすいようにコースを組んで、もう少し詳細な地図を付ければ、わかりやすく便利となるだろう。「地区別コース試案」とあるので、改訂される次版を期待したい。

4.おわりに
 今回の調査に際して、多くのご教示を賜りました地元井川町の吉岡浅一、宮内義典、向井好男、大西重年、上笹浅一、山川芳幸、八藤秋美の各氏に深く感謝いたします。

 参考文献
西川治夫編『井川町誌』井川町役場、昭和57年
阿佐宇治郎編『井内谷村誌』井内谷村役場、昭和28年
井川町の文化財編集委員会編『井川町の文化財』井川町教育委員会、平成4年
山下待夫著『辻風土記』水石社、昭和10年
徳島県郷土文化会館民俗文化財集編集委員会編『阿波の石造民俗』徳島県郷土文化会館、平成6年
西祖谷山村史編纂委員会編『西祖谷山村史』西祖谷山村、昭和60年
東祖谷山村誌編集委員会編『東祖谷山村誌』東祖谷山村、昭和53年


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