阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第44号
「ごんじゅはん」史話

郷土班(阿波郷土会)  真貝宣光

1.はじめに
 今度の総合学術調査に参加するにあたり、井川町の住民が吉野川とどの様なかかわりを持ち生活していたか、という事を調査テーマに選定した。川と住民といえば、まず渡し船、運送を中心とした舟運ということになるが、舟運は他の調査班に取り組む方がおられるので、私は川魚漁と土佐流材を中心に調査を進めてみたが、期待していた某家の古文書を拝見する事が叶(かな)わず、報告の基礎となりうる古文書に接する機会を得ることが出来なかった。今回の報告は井川町須賀地区に祀(まつ)られている「ごんじゅはん」の義民伝承にしぼり、吉野川における土佐流材との関わりのなかで検証を試みたいと思う。

2.ごんじゅはん
 「ごんじゅはん」とは須賀地区の川西正一氏宅の前に祀られている小祠(し)(図1、図2)で、「ごんじゅさん」「ごんじごはん」とも呼ばれている。祠(ほこら)の内部に平成元年に設置された説明板があり、それには「ごんじごはんの由来」(口伝)として次の様に書かれている。

 元禄二年(1689)須賀の在所は過密の集落であった。家はすべて藁葺で母屋納屋を併せて三十五六棟もあった。或る春の風の強い日、子供の火遊びから出火して瞬く間に火の海となり一軒残らず燃え尽きた。それでも村人は掘立小屋に雨露を凌ぎ一生懸命働いた。その年の夏、大雨の降る事三日、吉野川は未曾有の大洪水となり川上より流木が夥しく漂着した。村人は此時とばかり流木を拾い神の恵とお森の社の下に集め社の椋の木の枝を切ってこの流木を隠した。人々はこの流木で家の再建を夢みていたのも束の間、四五日後には役人の臨検を受け、発覚するところとなり村人の男子がすべてお縄となった。取り調べが始まると権兵衛が全て私の指示により流木を運び隠したもので、村の者達には罪はない、私一人の責任であると云い張り、その罪を一人で背負いその年の十二月初めに処刑されることとなった。是れを察知した弟の十之助は兄権兵衛の子を連れ何処ともなく出奔していった。役人は村人全員で流木を隠したことを知りながら黙認するとともに、権兵衛の義心に感服し各戸に杉丸太五本宛与えた。此杉材は各戸が家の人目につくところの柱にしたと云う、同時に権兵衛の行為に感泣し、その遺徳を永久に慕い、このところに神として祀った。この「ごんじごはん」は権兵衛の「権」と、弟十之助の「十」をとって「権十権現」と名付けた。これをもじって「ごんじごはん」となったとも推察される。
 この伝承に関係するものとして、大正12年(1923)に刊行された『三好郡誌』は「土佐材木と両国追放」と小題して、西井川の内田政俸氏所蔵の指出張を引用し、次の様に記している。
 元禄年間池田町の権兵衛が土佐材木を窃取したので多くの連累者を出して夫々両国追放を仰付けられた俤は、文化十年棟付改に際して西井川村庄屋長柄甚蔵及び五人与から指出した延宝二年棟付改以降同村を離れた人別指出帳に次の如きものが見えて居る。
  ─壱人  百姓五人与 庄兵衛
 此者延宝二年棟附御帳附之処元禄二巳年土州御材木池田町権兵衛盗取忍め候を伜共並に召仕之者持運び仕候に付右伜共御追放被仰付庄兵衛義も持運びは不仕候へども乍存右様持運を候義に相当り右依不埒に右同巳年御両国御追放被仰付候
  ─壱人  庄兵衛子 権太郎
  ─壱人  同人子松之亟事 平六
 此者共延宝二年棟付御帳附に候処土州御材木池田町権兵衛盗取忍め候を持運び候依不埒元禄二巳年御両国御追放被仰付候
 以上の左書と同一で然も同時に両国追放の身となった面々には、西井川村内で百姓甚右衛門 百姓助八子傳事甚七 次郎事半七、百姓久左衛門抔の面々である。此等は一村内の者共許であるが、尚此地にも多くの連累者があったであろうと思う、又窃盗の岸本権兵衛はより以上の重科に処せられた事であろうと推想する。
 以上は『三好郡誌』にある権兵衛土佐材木盗取事件に関する記述を、明らかな誤植を補正し全文引用したものであるが、この記述により元禄2年(1689)に池田町の権兵衛が吉野川を流されていた土佐御材木を盗取した事、その事件に西井川村の人々が関係しており、村役人である五人組を務める庄兵衛ほか、6人以上の者が両国追放の処分を受けたことがわかる。両国追放とは徳島藩領である阿波・淡路の両国から追放し、足を踏み入れる事が計されないという重科であり、より軽い刑に服したものも相当数あったと考えられる。
 では主犯とされる池田町の権兵衛とは、いかなる出自を持つ人物なのであろうか。

3.権兵衛の出自
 紹介した『三好郡誌』は権兵衛の事を池田町の権兵衛とも岸本権兵衛とも記しているが、地元に真鍋屋権兵衛という町人名を名乗っていたという伝承が残っている事から、当時姓は許されていなかったが、本姓は真鍋であろうと推測される。『三好郡誌』が岸本権兵衛としているのは、岸ノ本に住んでいた権兵衛を意味するものと考えられるが、須賀地区には権兵衛は岸の下に住んでいたとの言い伝えがある。地名では下をモトと読むケースもあるが、どうして岸本としたかの経緯は明らかに出来ない。
 池田町棟付帳等により真鍋家の略系図を作製すると次のようになる。

 権兵衛は明暦4年(1658)の棟付帳に記載されている又左衛門の子であり、延宝2年(1674)の棟付帳にある長助の弟である。両棟付帳から又左衛門家、長助家に関する記載を転載するが、高井武兵衛家については、長助が酒屋を家業としていた事を立証する記述があるので付記しておく。

 ・明暦4年池田町棟付帳より
  高弐拾七石五斗
  一壱家  池田町    又左衛門  歳五拾七
   壱人 又左衛門子   弥次兵衛  同弐拾五
   壱人 弥次兵衛弟   長助    同 七ツ
   壱人 長助弟     八蔵    同 五ツ
   壱人 八蔵弟     兵衛太郎  同 三ツ
   壱人 兵衛太郎弟   十     同 壱ツ
   壱人 又左衛門内下人 源次郎   同三拾六
   壱人 源次郎子    松善    同 弐ツ
   壱人 又左衛門内下人 とへ    同 九ツ
   壱人 又左衛門内下人 とら    同弐拾壱
 ・延宝2年池田町棟付帳より
  高三拾四石七斗壱升五合
  一壱家         長助    歳弐拾四
   壱人 長介子     孫太郎   同 三ツ
   壱人 同人弟     伊兵衛   同弐拾弐
   壱人 伊兵衛弟    兵衛太郎  同弐拾
   壱人 兵衛太郎弟   十之助   同拾八
   壱人         小一兵衛  同弐拾八
    此者万治元年ニ馬路村より長助兄夫左衛門養子ニ仕申候所ニ寛文七年ニ夫左衛門相果申ニ付弟長助方ニ居申候
   壱人 小一兵衛子   太郎次郎  歳 壱ツ
   壱人 長助下人    源次郎   同五拾三
   壱人 源次郎子    松若    同拾九
  一壱家  酒や     高井武兵衛 歳弐拾壱
    此者中村美作様牢人高井伊右衛門と申者之子ニ而 山川十左衛門様ニ奉公仕居申 三年以前ニ池田町ヘ罷越酒屋長助世伜孫太郎養子分ニ仕酒造居申候

 両棟付帳の記載内容から、又左衛門、長助ともに下人を抱えている事、長助は農業と酒造業の兼営である事。権兵衛事兵衛太郎は明暦元年(1655)の生まれ、第十事十之助は同3年の生まれである事等が確認できる。では又左衛門の27石5斗、長助の34石7斗1升5合という持高は、池田町内ではどのような位置を占めていたのであろうか。両棟付帳より持高の上位者を一覧にしたのが表1表2である。
 表1は5石以上の持高の家、表2は持高上位10人を抽出したものであるが、又左衛門、長助ともに池田町では突出した持高であり、真鍋家は酒造業、大百姓として町内一富裕な家であったと推測される。又左衛門を父、長助を兄として育った権兵衛は、土佐御材木を盗取隠匿しなければならないような経済状況にはなかったと考えられるのである。

4.土佐流材
 上方商人からの借銀が米10万石の代銀にも相当する銀2千貫にも達した高知藩は、野中玄蕃らが中心となり、「元和改革」とよばれる藩政改革を実施した。その根幹は白髪山(高知県長岡郡本山町)などの材木を伐採して大坂市場に送り、売却代金を藩庫に収め、悪化した藩財政を立て直すことにあった。そして元和8年(1624)から、白髪山で伐採された材木が吉野川に流され、撫養で集材され、大坂に向け舟積みされる様になった。これを受け、徳島藩では吉野川流材扱い方に関する法令を出す等対処している。高知藩から納入される一割の津口(関税)、流材に伴う雇用の創出と経済効果、流材関係者に謝礼として贈られる色紙、鰹(かつお)節等の土佐特産物、等々は徳島藩、沿川住民にとり有益であり、藩も土佐材の吉野川流送に対し、好意的、積極的な対応を行ったのである。しかし18世紀後半になると嶺(れい)北地域での伐採の広がりが山を荒廃させ、洪水を助長し、かつ流材が沿川村々に大被害を与える様になった事から、国の災害に相成る次第とする徳島藩の申し入れにより、天明8年(1788)に、徳島・高知両藩の間で吉野川流材を全面的に禁止する協定が結ばれた。以後、土佐材木の吉野川流送は原則として禁止されたが、権兵衛事件の起こった元禄期は、嶺北地域で伐採された桧(ひのき)・杉・栂(つが)・樅(もみ)などの吉野川流送が盛んに行われていた時期である。当時の取締まり、流材等の状況を知ることができる古文書を3点紹介する。
史料(1)
   覚
一、新敷材木不寄大小、何も土佐殿の材木にて候間、得其意下々法度堅申付事
一、古来之分は書付木印有之共、不残付立可上候事
一、野木坪木は今比に付託其帳郡奉行被相渡一紙目録計我等かたへ可上候事
一、自然不寄大小材木取隠候はば、有来過怠堅可申付候事、何も無油断被入念肝要候事
   寛永元七月廿六日  宗一(御印)
   (1624)  里村権左衛門どのへ
史料(2)
   覚
一、今度従土州御役材木吉野川筋御出候条、大水出候ハゝ不依何時近村庄屋百姓共召連罷出不取流様肝煎可申候、不及言常々御法度之通諸木取隠者於在之ハ忽曲事ニ可被仰付之旨堅可相守者也
   寛文十三年八月廿五日  森 久兵衛
   (1673)  立木伝左衛門
         岩田関右衛門
史料(3)
   阿州撫養浦ヘ御材木流申覚
一、去極月五日御国境流出、当正月廿一日ニ御材木不残撫養浦江参着、同廿八日限ニ御分一被召上相済
一、木高二万五百本
  内 一万八千五拾九本 有木  二千四百四拾一本 川筋ニ而不足分
一、水出御材木流レ申時分、吉野川筋池田村御代官知行三百石之由、宮川伝右衛門殿川筋にて御材木取隠不申候様こと度々触状等御遣、自分ニも川江被出別而肝煎被申候、并川筋庄屋之内足代村弥六兵衛・岩津村介右衛門、撫養浦三郎左衛門勝レ肝煎申候
一、賀嶋主水殿より手樽一斗五升入ニ干小鯛三拾枚一折被下候、以上
   辰二月九日 近藤彦右衛門
   (1676)
 史料(1)、史料(2)は徳島藩の法令であり、史料(3)は土佐側の報告書である。これらの古文書から徳島藩の土佐流材に対する好意的な対応がよみとれ、かつ材木を盗取るものには厳しい処置で臨んでいた事がわかる。この様に度々の触書きで戒められていた土佐御材木の盗取、それも大規模な盗取事件が西井川村の須賀地区で発生したのである。

5.権兵衛の処罰
 先に紹介した「ごんじごはん由来」に記されている内容は口伝とあり、すべてが正しく伝承されているとは思わないが、『三好郡誌』にある様に元禄2年に権兵衛らによる土佐御材木盗取事件があった事は事実である。「由来」には「その罪を一人で背負い……云々」との説明があるが、重科に属する両国追放者が多人数出ている事が『三好郡誌』所載の史料により確認できる事から、少し事実と異なるようである。では『三好郡誌』が「権兵衛はより以上の重科に処せられた事であろうと推想する」と記した権兵衛は、どの様な処罰を受けたのであろうか。文化の棟付改めの時作製されたと考えられる「長助先祖代続」は、真鍋家歴代の死亡年月日、別家状況等を書きあげたものであるが、その中に次の様な注目すべき記述(図3)がある。

 この史料により、権兵衛は不届きな事をして元禄2年12月5日に死罪に処せられた事が確認でき、弟の十之助についても同じ年に出奔(しゅっぽん)し、以来行方不明となっている旨が記されている。「不届これ有」とは『三好郡誌』の掲載史料から「土州御材木盗取忍」である事は明らかであり、元禄2年での権兵衛の年齢は35歳、弟十之助は33歳である。また十之助の出奔も元禄2年とある事から、兄権兵衛の事件に絡むものとみて間違いはないであろう。十之助も出奔以来二度と池田の土を踏む事はなかった様で、文化13年(1816)に清帳された『池田町棟付人数御改帳』末尾にある走人名面に「一、壱人 兵衛太郎弟 十之助 此者先年出奔仕候」と記載されている。
 そこで「ごんじゅはん」の名称についてであるが、「由来」の終わりに記されている権兵衛の権と、十之助の十を合わせて「権十はん」と名付けたとの推測は、ある程度首肯できるものである。しかし、現在「ごんじゅはん」の祠には神殿二座が祀られており、向かって右側の神殿には「斎奉 権神宮」、左側の神殿には「斎奉 若宮神社」と墨書された比
 ■ 長助 此者延宝二年御帳付ニ而正徳五未年八月八日病死
   長助弟
 死 伊兵衛 此者右御帳付ニ而病身ニ而妻帯等不仕獨身ニ而享保十七子年二月二日病死
   伊兵衛弟
 ■ 兵太郎 後権兵衛と改、此者同御帳付ニ而同家に居申内、不届有之元禄二巳年十二月五日死罪ニ被仰付候
   兵太郎弟
 ■ 十之助 此者同御帳付ニ候処、元禄二年出奔仕行衛相知不申候

較的新しい木札が、ご神体として収められている。「ごんじゅはん」は右側の権神宮を指すと思われるが、あるいは「権神(ごんじん)さん」が「ごんじゅさん」「ごんじゅはん」と訛(なま)ったものとも考えられる。いずれにしても権兵衛を神として祀った事は間違いのないところであり、「由来」にある「全て私の指示により流木を運び隠したもので、村の者達に罪はない、私一人の責任であると言い張り……」という伝承は、事実、あるいは事実に近いものであり、一身を投げ打ち村人をかばおうとしたのであろう。権兵衛の犯した罪は土佐材木の盗取、今風に言うと窃盗・拾得物隠匿の罪に当たるが、村人の困難を見かねての義心から出たものであり、被れるだけの罪を被り刑死したのであろう。それ故にこそ死後神として祀られ、以来310年を経た今日まで、恩人として地域住民から崇(あが)め奉られているものと思われる。

6.おわりに
 以上、「ごんじゅはん」の義民伝承につき、管見し得た古文書等から検証を行った。伝承を文献資料により裏付けし、その当否を確認する事は通常容易な事ではない。特に三百年も以前のことともなれば、史料的制約もあり、なおさらである。今回は幸いにして関係史料に恵まれ、権兵衛の出自、罪状、処刑日等を確認する事が出来たが、流材窃取の月日、須賀地区の大火の年月等を確認する事は出来なかった。
 近年、吉野川に関する歴史・文化等が注目を浴びはじめ、さまざまな史話が発掘されている。当地の「ごんじゅはん」は、吉野川歴史研究の上で大きなウエイトを占める土佐流材にかかわる沿川住民の美談であり、顕彰に値するものである。現在、図4にみられるように祠・神殿ともに損傷が激しい。祠・神殿を改築あるいは修築し、積極的に顕彰される事を地元の方々にお願いしたい。
 当調査に際し、地元須賀地区在住の川西栄氏より数々のご教示、資料の提供を賜った。記して感謝申し上げる次第である。


徳島県立図書館