阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第44号
井川町の伝説

史学班(徳島史学会)  湯浅安夫

1.井川町の伝説とその特色
 伝説はその土地の風土や歴史を反映し、興味深いものが多くある。井川町にも、井川町民の生活基盤である地形などの自然環境や、今までの歩みを反映した伝説が多い。井川町にはどんな伝説があるのか、その伝説は他町村に比較してどのような特色があるのかといった点について、調査結果を述べてみたい。
 井川町は三好郡の中央、そして四国のほぼ中央に位置するといえる。東西に細長くのびた吉野川沖積平野の西端に西井川などの狭い平野があり、その他はほとんどが山地という山地の多い町で、その山地に黒川谷、中村谷、井内谷の三つの谷がほぼ南北に流れて吉野川に注ぐ。なかでも井内谷は町の中央にあって、その支流は山間を縦横に流れている。
 以上の様に山地や谷川の多い、変化にとんだ豊かな自然環境と、歴史が古く遺跡も多い土地なのでたくさんの伝説が生み出されている。
 県下では四国八十八か所の札所を中心に、弘法大師の徳を伝える弘法伝説が各地に伝えられている。井川町に札所はないが、山深い地形が仏法の修業地にふさわしい故か、弘法伝説も多い。また、源平合戦に敗れた安徳帝を奉じた平家の残党が、祖谷山に逃れたとき井内谷を通ったという平家伝説がある。時代は下って南北朝の争乱時代に、平坦(たん)部を制圧した北朝の細川氏に対抗して、山間部の武士が連絡しあい、吉野の南朝に味方して活躍した阿波山岳武士の拠点と伝えられる新田氏の八ツ石城跡や、その伝承もある。
 それらの伝説を収集し、一覧表にしてみると、他町村の伝説と比較した井川町の伝説の特色の一端がわかる(表1)。そこで井川町の伝説の特色をまとめてみると、まず第一に伝説の種類が豊かで数も多いことである。今度の調査ではその数90をこえる多くの伝説があった。井川町と境を接する祖谷は、秘境として全国的に有名で、平家落人伝説など伝説の宝庫ともいえるが、井川町もそれに劣らない宝庫といえるのではなかろうか。またその祖谷とは種々の交流があり、伝説においても祖谷の平家伝説の流れをくんだ平家伝説が伝えられている。井川町の伝説の特色の第二として、祖谷の伝説の影響がみられるという事をあげてよいと思う。昔から井内谷は秘境祖谷の入り口で、種々の物資や文化が秘境に流れ込む玄関口の役割を果たしてきたので、祖谷の伝説が井内谷に影響を与えたのか、井内谷の伝説が祖谷に流入したのか、いずれにしても両地方が影響しあったことが十分考えられる。さらに井川町の伝説の第三の特色として、前述したように阿波山岳武士の拠点であったと伝えられる新田氏の八ツ石城の伝説が、史実のごとく伝えられていることがある。山頂の城跡には立派な石碑や標識が立てられ、舗装道路も通じている。その上、県下山間部に多い新田神社の本元とも言える立派な神社が存在する。史実の程はわからないが、新田氏信仰の拠点とはいえるようである。新田氏にまつわる種々の言い伝えは、井川町の伝説の特色の一つとしてとりあげておきたい。

2.伝説の分類
 井川町の伝説は、「井内谷村誌」「井川町誌」などに収集されているが、特に、山下待夫著「辻風土記」には、伝説を含む庶民の昔の生活が詳しく記録されている。それらを参考にし、多くの方々からも面白い貴重な話を収集することができた。ご多忙の中、貴重な時間をさいて語って頂いたり、関係ある遺跡を案内して下さった方々に感謝する。
 井川町に伝わる伝説を分類し、一覧表にしたのが表1である。

3.伝説の紹介
 1)多美山の穴禅定
 岩坂の多美山山頂南に「多比大師」と呼ばれる弘法大師をまつるお堂があり、この付近には弘法大師にまつわる伝説が多い。
 かつてここで弘法大師が修業し、ここが気に入って道場にしようとしたが、道場にするにはその近辺に88の谷がいるので探したが、二つの谷が足りずあきらめた。後で「おそ谷」
「から谷」という二つの谷が出てきたと伝えられる。弘法大師の「腰かけ岩」とか「座禅岩」という岩があり、「穴禅定」という洞穴もあり、行場になっていて、あちこちの岩に仏さんを祀(まつ)ってある。お堂の近くに「御来光の滝」という滝があり、朝日がさすと美しい虹(にじ)ができる。この近くに大師が粟(あわ)、稗(ひえ)などをついて食べた石臼(うす)といわれるものがある。滝水がおちて岩がくぼんだものである。
 大師は多美山の木材を切り出して、讃岐の本山寺(70番札所)へ運び、本堂を一夜で建てたので一夜づくりの本堂といわれる。その時、柱を一本落としたがそのまま建てた。落とした柱で刻まれた仏像が本山寺にまつられているそうである。
 多比大師から2km 位南に三渕という渕があった。ここに大蛇が住んでいて、付近の人に危害を加えることがあった。大師がそれを聞いて大蛇を封じこめたという岩屋があった。今はその岩屋も渕も、松尾川のダムの底になっている。 (向井好男さん〔87歳〕談)
 2)すえた餅
 池田町との境に「末」という所がある。昔、弘法大師がこの地に立ち寄ったのは正月であった。腹が減って餅を一つ所望したが、どの家も「餅はすえている(腐っている)ので、あげても食べられません」と断った。大師は「この寒空にすえたりとは。さてさて困ったのう」と、ひょう然と立ち去った。不思議なことに、付近一帯の餅は本当にすえていた。その後正月の餅は腐敗して食べられないので、どの家も餅をつかない習慣となり、今日に及んでいて、大師の戒めだと恐れていた。
 なお、「末」という地名もこういういわれよりきていると言われている。 (「辻風土記」)
 3)平国盛と地福寺
 屋島の合戦に敗れた平家一門の平国盛は、安徳天皇を守護して地福寺にきて、しばらく滞在し、祖谷山へおちのびて行ったと伝えられる。そのことについては、地福寺に次のような記録がある。
 地福寺記録(年代不祥)「寿永の頃讃岐八島合戦の時門脇中納言次男平国盛 安徳天皇を守護仕り当寺まで落来り其後祖谷山へ入山仕候依て右の御方を当谷氏神馬岡大明神と勧請申伝也、則今に至るも阿佐名不残猶寺檀家に罷成尤奥祖谷阿佐名氏神も馬岡大明神と勧請罷在候又前祖谷小祖谷名氏神も同断勧請………」 (「井内谷村誌」)
 4)新田義治と八ツ石城
 井内谷にあったと伝えられる八ツ石城は、新田式部大輔左衛門佐義治の築いたもので、その子孫八代150余年間、阿波における新田氏の根拠地であったと伝えられる。
 新田義治は、新田義貞の弟脇屋義助の長子で、早くから父に従い各地の戦いに参加していた。天授元年(1375)のころ、東北の戦いに敗れた義治は、父脇屋義助が大将軍であった四国地方にむかい、父が伊予で病死した事を知ったので阿波の当地に潜入した。持福寺(地福寺)に仮偶し、後新田の森に住居を構え、山岳武士と力を合わせて八ツ石城を築き、最後まで南朝のために戦ったと伝えられている。
 八ツ石城は、南北朝時代の山城で、河内の千早城を見倣った城ともいわれ、県下で最も代表的な山城跡といわれる。前方が急傾斜で、頂近くに三段の空堀がつくられ、各段の間には塀柵(さく)や逆茂木が設けられ、後方は山腹の集落と連絡している。 (「井内谷村誌」)
 5)義民真鍋屋権平
 元禄の頃、西井川村の岸ノ下に真鍋屋権平という御蔵商人がいた。ある年の7月上旬、子供の火遊びから12軒ほどの集落がみんな焼けるという大火災があった。そんな時、台風がきて吉野川の大洪水に、土佐から材木がたくさん流れてきた。火災にあった人々は、この流木を隠しておいて家を建てようと相談した。真鍋屋権平もその話に加わり、その指示で材木を集め、椋(むく)の木の枝を覆いにして木材を隠した。4〜5日して水もひき、流木の調査に、土地の庄屋長江甚蔵の案内で土佐、阿波の役人がやってきた。権平は人々に「この木材を隠したのは、権平の指示で権平の商売の為にやった、私たちは関係ありません」と言えと念をおして忠告し、権平は一人で罪を被り処刑された。
 権平には十之助という弟があって、兄の処刑をみこして権平の子をつれて逃げた。須賀という所に「権十さん」と呼ばれる墓があるが、大きいのが権平、小さいのは十之助の墓だそうである。なお、土佐の役人は火災にあった人に同情して、材木を二本ずつ各家にくれた。貰った家は感謝の気持を表すため、くれた材木を家の前の人目につくところに使ったと伝えられている。 (川西 栄さん〔77歳〕談)

 参考文献
阿佐宇治郎編(1953) 井内谷村誌.井内谷村役場.
西川治夫編(1982) 井川町誌.井川町役場.
山下待夫(1935) 辻風土記.水石社.
徳島県老人クラブ連合会編(1988) 阿波の語りべ.徳島県老人クラブ連合会.
藤澤衛彦(1919) 日本傳説叢書 阿波の巻.日本傳説叢書刊行會.
横山春陽(1980) 阿波伝説集.歴史図書社.
武田 明編著(1972) 四国路の伝説.第一法規出版.
武田 明・守川慎一郎(1977) 阿波の伝説.角川書店.


徳島県立図書館