|
1.はじめに 平成7年3月、徳島県三好郡郷土史研究会(会長吉岡浅一氏)によって『三好郡の庚申塔』が出版された。これは、会員各位が、今日知り得るかぎりの三好郡内の庚申(こうしん)塔を、各町村単位で一基ごとに、その所在地、造立年代、種別、塔形、材質、碑文、伝承・特徴などを調べあげたもので、この研究によって郡内の庚申塔およびその背後にある庚申信仰の全容がはじめて明らかになったといえよう。現在の私は、この優れた研究に付け加えるべき多くのものを持ち合わせないが、以下主としてこの研究成果を活用して、井川町の庚申塔および庚申信仰について、再検討してみたい。
2.土御門院の庚申信仰 阿波国における庚申信仰の初見は、承久3年(1221)に起こった承久の乱の結果、阿波国に遷幸された土御門院が詠まれた歌集中にみられる。すなわち、『土御門院御集』の庚申と題された歌(273番)に「南さす法のしるへにふたらくの岸へゆきつけかのえさる舟」とある。これは貞応3年(1224)7年25日に詠まれており、この日がまさしく庚申日であることが注目される。同歌集には、このほかに、貞応3年正月23日および元仁元年(1224)12月28日に詠んだ歌が載せられており、両日もまた庚申日である。さらに貞応2年10月27日とあるものも、これを貞応3年の誤記と考えると、まさしく庚申日になる。土御門院の阿波遷幸は、貞応2年ころと考えられているが、土御門院が阿波遷幸後も、守庚申の行事として和歌会などを営まれたことをうかがわせる史料となしえよう。(以上、拙稿「阿波における土御門院」、『郷土研究発表会紀要36号、土成町』)
3.江戸初期の阿波国の庚申信仰 阿波国の最古の庚申塔は、現阿波郡市場町上喜来にある、「明暦三丁酉年(1657)九月廿日」の銘をもつ塔だといわれる。この日付はまさしく庚申日にあたる。その所在地はかつての実相寺があった場所と考えられており、かたわらには寛文4年(1664)銘の庚申塔もある。 一方、承応2年(1653)7月18日に高野山から四国遍路の旅に出発した澄禅は、『四国遍路日記』の同月27日条に「早天ニ寺(焼山寺)ヲ出、東ノ尾崎ヨリ真下リニ深谷ノ底ニ下ル。此谷河ニ付テ東へ往也。又跡ノ一宮ヘ往テモ道ノリハ同事也。多分ハ一宮ニ荷俵ヲ置テ藤井焼山ノ札ヲ納テ、焼山寺ヨリ一宮エ帰リテ田野ノ恩山寺エ往也。予ハ元ト来シ道ヘハ無益也ト順道コソ修行ナレト思テ此谷道ヲ通也。此道ノ躰、細谷川ノ一筋流タルニ付テ往道ナレハ此三里ノ間ニハ二三十度モワタラント覚タリ。三里余リ往テ白雨降来ケル間、民家ニ立奇(寄)テ一宿ス。此夜ハ庚申トテ一家ノ男女沐浴潔斎シテ作業ヲ休テ遊居タリ。」 と記している。 四国霊場第12番札所焼山寺を出発し、同13番札所大日寺に戻ることを避けて、別ルートをとって同18番札所恩山寺に向かったというのである。それが焼山寺から6里ほど行ったところで雨のため一宿した。澄禅はこの日記の続くくだりで焼山寺から恩山寺までを8里の行程と計算している。宿泊地の正確な位置は不明であるが、現徳島市南部のいずれかの地ではなかろうか。 注目すべきは、この宿をとった民家で当夜庚申待ちの行事が営まれていたことである。この日は実際に庚申日にあたっており、こうした片田舎で庚申待ちが行われていることに、当時庚申信仰がかなり普及していたことが知られよう。また、当時すでに庚申日には仕事をしないことが原則になっていたことがうかがえ、キリスト教国の安息日に似た役割を演じていたことが知られる。 前述したように、この記事は阿波国における庚申信仰の初見記事として重要であるが、すでにかなり整った信仰形態をとっていることでも注目される。庚申信仰には、その前提として暦の知識が不可欠であると考えられる。そうでなければ、当該の日が庚申日か否か知りようがないからである。阿波における庚申信仰は土御門院にみられるように、近世以前から、京都から下向した国司などの貴族階級や上級の武士階級などによって営まれることがあったかも知れない。しかしながら、この信仰が土着の庶民階級にまで普及するためには、暦の知識が広まった江戸時代を待たねばなかったのではなかろうか。また、江戸時代の庚申信仰の初見記事の舞台が辺鄙(ぴ)な場所とはいえ、現徳島市南部というのも重視せざるをえない点である。阿波国の庚申信仰は、江戸時代の最初期に上方方面から改めて徳島城下に入り、城下を起点として次第に阿波国各地に広まっていったと考えることができるように思われる(4.の1
参照)。
4.井川町の庚申信仰 井川町の庚申信仰については、前述の『三好郡の庚申塔』で語り尽くされているといってもよい。いま、同書などを参考に、県下市町村のいくつかにつき、庚申塔の建立時期を一覧表にしめした。ただし、銘文から造立年月日の正確に知られるもののみを取り上げた。また、一部明らかに銘文の月日を読み誤っていると考えられるものについては、適宜田中の判断で造立月日を訂正した。この一覧表から次のようなことが読み取れよう。 1
庚申塔の建立は徳島城下から始まり、阿波国内に広がっていったこと。吉野川流域地方にあっては、下流の徳島城下から次第に上流に波及していったこと。 2
徳島市の庚申塔建立盛行期は17世紀後半で、その後爆発的流行は見られないこと。 3
井川町の庚申塔建立の盛行期もまた17世紀後半であるが、半田町、三加茂町にやや遅れ、池田町よりやや先行していること。井川は半田、三加茂から池田への中継地となっていること。徳島市とちがって、井川町を中心とした上郡地域では、その後も庚申塔が建立され続けること。 4
徳島市の庚申塔が当初から庚申日以外の日を紀年銘にもつのに対し、井川町を中心とした庚申塔は、すくなくとも最盛期にはほとんどすべてが庚申日に建立されていること。 このうち、2
と4
については、阿波国の先進地域である徳島城下を抱える徳島市の特異性を考慮せざるをえない。庚申信仰の中核をなす庚申待の行事には、その夜共同体の成員が集まり、食事等をともにしながら夜を明かすという、慰安的要素が濃厚にあった。江戸時代中期以降、人形浄瑠璃など娯楽が多くなる一方で、それなりに多忙な城下の人々を引き付ける信仰ではなくなっていったのかも知れない。もっともこれについては、幕末期に盛行する八十八ヶ所信仰(弘法大師信仰)などとの関連も考慮すべきであろうが。 それに比し、井川町など三好郡の地域で、この庚申信仰が比較的遅くまでのこるのは、やはり城下と比較した際の後進性を物語るものではなかろうか。また、半田町において、庚申塔の造立のピークが1690〜1710年代と1750年代の2度あること、江戸時代を通じて絶えることなく庚申塔が造立されつづけていることも注視すべきであろう。江戸時代を通じて半田の地域は、情報発進基地として井川町をはじめとする上郡一帯にその文化的影響力を行使しつづけたとも評価できるからである。
5.おわりに 拙稿をなすにあたり、吉岡浅一会長、事務局の佐藤豊氏をはじめとする徳島県三好郡郷土史研究会の会員の方々などのご高配を得た。記して深謝したい。

1)四国大学文学部 |