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1.はじめに 徳島での先駆的な民家調査に『阿波の民家―徳島県民家緊急調査研究報告―』(昭和51年)がある。ここでも述べられているように、民家は祖先がたゆみない努力を続けて築き上げた貴重な文化遺産であり、このような民家の資料を将来に残し伝えることは現在の我々の責務である。そのための民家実態調査であり、まず基礎資料づくりが必要である。徳島県は近世民家の宝庫といわれる。『阿波の民家』では徳島県の民家を大きく5地区に地域区分しているが(図1)、大筋では山間部の民家、平野部の民家、浜の民家に区分される。井川町は未調査であるが、位置的にはBとC地区の境にある。このような井川町のなかにどのような民家があり、どのような特徴があるのかを明らかにするのが本調査の目的である。最終的には徳島県全体の民家特性を明らかにすることが目標で、1年に1市町村というスローペースながらも、将来の分析の礎となるデータを積み重ねていきたい。 調査対象民家は出来るかぎり偏りなく井川町全域から抽出するとの方針で、7月25日(金)結団式のあと予備調査をおこない、その後3日間の実測調査と1日の補足調査を行った。民家班調査員は、日本建築学会員を中心に上記執筆者のほか、林建築事務所の阿部純子、東久美子が参加し、調査や作図を行った。また全国の社寺建築や民家を実測調査されている妻木靖延氏が8月10日に特別に参加している。(酒巻)

2.井川町の民家案内(図2)

〈山の民家〉 1 藤丸 恒夫 家 井内東567番地 2
阿佐 信孝 家 井内東3999番地大久保 3 北本キミエ 家 井内東1567番地 4
阿佐淳一郎 家 井内東547番地 5 中瀧 清文 家 井内西2387番地 6
上笹 鉄男 家 里川129番地 7 宮本 進 家 里川449番地 8
大森 房雄 家 井内東4334番地 9
藤井 秀治 家(タバコ小屋) 井内東4401番地 〈まちの民家〉10 熊谷 照也 家 辻86番地 11 立川 酒店 辻159−1 12 ウダツの町並み 辻界わい
3.井川町の民家 1)山の民家 (1)藤丸 恒夫 家 井内東5679番地 藤丸家はもともと農家であり、1970年代までタバコをつくっていた。当時は屋根裏に葉タバコを釣って、部屋の掘ごたつの暖気により乾燥させていた。かつては、麦を生産していたため、麦ワラで屋根を葺(ふ)いていたが、1960年代初めごろに現在のトタン巻きにしている。屋号は「カジヤ」といい、家人によると、昔は鍛冶(かじ)屋をしていたのかもしれないということであった。屋敷は山の北斜面中腹に位置し、建物自体も北向きとなっている。接道は北側にあって、屋敷の西側からの進入となり、進入側から主屋、納屋2棟が直線的に配置されている(図3、4)。 主屋はワラ葺(ぶ)きで、本来は三方瓦(かわら)葺きの下屋付きであったが、裏側(南)にもトタンで下屋が増設されている(図5)。建築年は明確でないが、聞き取りによると1850年ごろだという。平面は田の字型「四間取り」で、正面から向かって左側に「ドマ」とその奥に「ダイドコロ」、右手前に「ナカノマ」「オモテ」、奥に「オク」が2間となっている(図6)。出入り口が正面の左側にある「左勝手」で、井川町では例が少ない。 (速水)
 
 
(2)阿佐 信孝 家 井内東3999番地大久保 町内きっての古い民家として知られる当家は、永禄年間(1558〜70)に祖谷より出てきた平家の末孫阿佐家の分家で、庄屋を補佐する阿佐五人組の筆頭をつとめた。屋号の「オモテ」は、部落の中心に家があったことに由来している。家紋は「丸にアゲハ」、氏神は馬岡の新田神社で、阿佐一党の墓は若宮神社にある。 屋敷の構えは大きく、東から上屋、蔵、主屋、葉タバコの収納小屋、納屋、畜舎などが線上に配置されており、主屋玄関は北北東を向いている(図7)。主屋は1980年ごろ屋根にトタンを巻いた際、合わせて内外に改造が加えられている。当主によるとその際に1680年ごろの棟札(むねふだ)を確認しているという。外観は改造されている割には、風格を持った大農家の面影をよく残している(図9、10)。 間取りは変形の「四間取り」であったと思われるが、この地域に多い「六8畳(むはちじょう)」とは異なる部分も多く、「六8畳」成立前の間取りの痕跡を残している可能性がある。「六8畳」は各8畳の「四間取り」の構成が基準になるが、当家の場合は大黒柱の位置、柱通りの不規則性、カマヤと呼ばれるカマドを備えたイロリ部屋があったらしい事など、「六8畳」を改造して現在の姿になったとは考えにくい(図8)。ただここでは、調査件数の問題や歴史的資料の不足もあり、その可能性を指摘しておくにとどめたい。 内部はかつてオモテだけに天井があり、その他の部屋で葉タバコを屋根裏に釣って乾燥させていたという。現在は、改造で天井や壁などが新建材で覆われている。天井裏をのぞいたところ、小屋組はカンダミという組み方で、チョウナ削りの栗(くり)材の梁(はり)が使われている事が確認できた。残念ながら柱も大部分が新建材に覆われており、ニガキ(キハダ)の大黒柱と他に1本が顕(あらわ)しになっているのみである。 (本田)
 
 
(3)北本キミエ 家 井内東1567番地 岩坂の集落と谷を挟んで対面する山の斜面に、一戸だけぽつんと離れて建っている(図11)。祖先は新田義貞の弟義治(よしはる)の系といわれる。文化13年(1816)の石塔を含む墓が敷地の東側にある(図12)。明治20年(1887)ごろに村会議員をしていた北本定蔵がいるが、それ以前は百姓であったという。屋号は「イデグチ」、家紋は「タチバナ」である。 井川町教育委員会発行「平成3年度版井川町の文化財」に地福寺住職宮内氏が当家を調査しており、その一部を引用する。「文化年間(1804〜18)の建物と言われ、昔の一般的な農家の形式を残すもので、(中略)建物は大きく三つに分かれており、母屋も三つに分かれ、表の間は神床、仏壇を祀り、掘り炬燵(こたつ)を中心に右隅の座を上げると茶を作る焙炉(ほいろ)が作られていた。(中略)主屋の次の建物は納屋と牛屋が一緒になっており、中二階で天井は大和と呼ばれ、細い丸竹を縄で組みその上を赤土でぬり固めたもので、耐火耐寒の建物である。その他、近年建てられた蔵、乾燥屋、便所等からなっている。(略)」 主屋の間取りは、徳島の山間部に多い「中ネマ三間取り」である(図14)。「ナカノマ」の北の部屋はお産や死ニコロビに使われた部屋として増築されたようであるが、現在は物置となっている。主屋は昭和62年(1987)に改造され、濡縁(ぬれえん)にアルミサッシがつけられるなど、かなり内部に手が加えられている(図13)。 (姫野)
 
 
(4)阿佐 淳一郎 家 井内東547番地 阿佐家はもと平家の家来である。現当主正一郎氏は1980年ごろから国道192号沿いに住まいを移しており、今は空家になっている。50町歩程の山を所有し、以前は敷地内南のハナレに、一年中山の手入れをしたり炊事や畑仕事をする夫婦が住み込んでおり、男を「トウリョハン」、女を「ナナハン」と呼んでいた。 配置は、南側の山を背に東側からタバコ乾燥小屋、主屋、納屋が並んでいる(図17)。かつては敷地内南に、御庵(おあん)と呼ばれる部落の集会所があった。 昔は、家のどこかに常に手を入れており、いつも大工が来ていた。縁側を1940年ごろに改造している(図16)。ウエノダン(玄関・作業場)はかつては土間であった。シタノダン(台所)が1950年ごろに東側に拡張され、あわせて新しい土桶(どおけ)が作られた。土桶とは、かつて谷川から水を引いてきてためていた桶で、イズミとも言った。現在は水道に取って代わられているが、傾斜地に建つ民家を成立させた生活の道具である。 シタノダンにはオクドがあった。ウラは建築当初にはなく、後からの増築である。オクとオモテの間には両方から使っていた床があり、違い棚は作らなかった(図15)。座敷の各部屋にはイロリがあって、タバコの乾燥にも利用していた(図19)。 屋根裏は天井板を置いただけの「オキ天井」である(図18)。屋根は茅(かや)葺きであったものをワラ葺きに変え、現在はトタンで巻いている。部分的に改造はされているが、全体的には古い民家の面影をよく伝えている。 (工藤)
 
  
(5)中瀧 清文 家 井内西2387番地 現職町長の自宅。標高550m
に位置する。代々は農家といわれ、昭和47年(1972)ごろまでタバコをつくっていた。山もかなり持っており、林業も営んでいた。当家に残されている「永代家系記録/本中瀧家」(図20)によると、初代始祖は高知県赤滝の武士で、弘法大師の「野に住み山に暮れなんとも弘法の塩をひろめん」との言葉により、中瀧一族が居住した土地を野住と名付けたと伝えられる。 主屋(図23)は「六8畳」といわれる「四間取り」プランである。少し改造されている(図22)が、濡縁あたりは比較的昔の姿を残している(図24)。故伊助(文化7年(1810)正月5日亡)の言い伝えによれば、主屋は安永2年(1773)の建築といわれる。屋根裏に登って確認したが、棟札は発見できなかった。かつて中瀧家だけの茅場があり、茅は納屋に置いたり、敷地奥にある茅小屋(図25)に保管していたが、昭和42年(1967)に茅葺屋根をトタンで巻いた。オモテは昭和40年代に、土間であるゲンカンは平成6年(1994)に改造された。ナカノマの天井は、板を置いただけの「オキ天井」である。カマヤ(ダイドコロ)は、かつて竹の半割を敷き詰め、またオクドがあり、その外部には土桶(図21)が設置されている。 (田村)
  
  
(6)上笹 鉄男 家 里川129番地 杉林の中の細い坂道を延々登ると、急に視界が開け、里川東の集落が現れる。当家は、日当たりの良い南西向きの急傾斜地に青石を積み上げ、段状に切りならした細長い敷地にある(図28)。手前から奥へ牛屋・納屋、主屋、蔵、突当たりにタバコ乾燥小屋、カギの手に折れて、便所・風呂、最奥に上屋が建つ(図27)。見晴らしが良く、深い谷を挟んで里川本村、里川西の集落が見渡せる。屋号は「ヒウラ」。以前はタバコと林業に携わっていたが、現在は茶の栽培をしている。 主屋は「後ネマ四間取り」の平面構成で、屋根は草葺きであったものを、1970年ごろスレート瓦に葺替えている。牛屋・納屋と主屋の間には屋根がかけられ、かつて戸外にあった土桶が屋内に取込まれ(図29)、主屋のニワの一部を改造した台所と引戸ひとつでつながっている(図26)。また、主屋の前庭には濡縁の庇(ひさし)を伸ばして、物干し場などに使われている(図30)。蔵の入口右手には、床を竹簀(たけす)としたみそ・しょうゆ庫がある(図32)。タバコ乾燥小屋は、主屋の地盤から半割丸太を並べた桟橋越しに直接2階におよぶ乾燥室、1階は裏手の階段を降りた一段低い畑のための納屋と、敷地の高低差を生かした構成となっている(図31)。 (植村)
 
  
 
(7)宮本 進 家 里川449番地 急な斜面の中で比較的平坦(たん)な場所に石垣が積まれ、等高線に沿った細長い敷地に便所、納屋・牛小屋、主屋、蔵、フスベヤ(タバコ乾燥小屋)、牛小屋が並んで配置されている(図33)。屋敷の前面は畑、裏は杉林に囲まれている(図34)。屋号は「ヒウラ」、家紋は「桐(きり)」。家人によると、それぞれの建築年は、主屋1850年ごろ、納屋・牛小屋は1920年ごろ、フスベヤ1941年、蔵1956年である。主屋は「四間取り」で、現在台所として使っている部分を増築し、もともと土間であった部分を改築してチャノマとして使っている(図35)。大黒柱は松、それ以外の柱は栗である。ドマのオクドと外部のオクド(図36)は現在でも使われているので、主屋南の軒先に薪(たきぎ)が整然と積まれている。 フスベヤの妻側外壁は、土壁大壁の上をひしぎ竹で覆っている。これをニノカベ(蓑壁(みのかべ))と呼び、井川町山間部の古い納屋や乾燥小屋によく見られるものである(図37)。 (根岸)

 
 
(8)大森 房雄 家 井内東4334番地 この辺りは大森という字名で、当家と藤井家(次項)が並び、少し小高いところに大森のお堂がある(図38)。草葺きをトタンで巻いた民家が多い中で、主屋は本来の草葺きのまま残り、段葺きであることがわかる。等高線沿いの細長い敷地に主屋、便所、風呂が並び、タバコ乾燥小屋は下の畑に建ち、1階を畑から、2階を乾燥室として主屋レベルから使っている。 主屋の建築年は不明であるが、座敷の柱にチョウナ仕上げの曲がった栗材を面皮付きで使っていることなどから、相当古いと考えられる。西側の部屋と台所は、1970年ごろ増築され、玄関とナカノマが現在のように改築された(図39)。以前は、板の上にムシロを敷いており、イロリとオクドがあった。西の軒先には竹簀が敷かれ、山から引いてきた水を溜めておく水瓶(みずがめ)があったそうである(図40)。ナカノマの押入部分が増築されていることやオブタの出が不自然なことから、オクも後から増築され、建築当初は「横一間取り」であった可能性がある。1990年ごろまでタバコをつくっており、天日干しの後、ナカノマの小屋裏に釣って乾燥させていた。 (根岸)
  
(9)藤井 秀治 家(タバコ小屋) 井内東4401番地 草葺きのタバコ乾燥小屋が残っている例は県下でも珍しい。建築年は1915年ごろ。家人によれば、小麦を作っていたのでそのワラで葺いたらしい。現在、屋根と外壁はトタンで覆われている(図41)。牛小屋を兼ね、その上部にも床があり乾燥室として使っていた(図42、43)。主屋は草葺きをトタンで巻いてあり、比較的大きな風格のある民家であるが、今回は乾燥小屋のみの調査となった。 (根岸)
  
2)まちの民家 (1)熊谷 照也 家(町屋商家) 辻86番地 辻の町並みに平入りの軒を連ねて当家はある。現在は仕舞屋(しもたや)だが、かつて食品を商っていたそうで屋号は「■(ヤマヨ)」。通りから見る外観は特異で、2階屋根の上にもう一層、妻を通りに向けた入母屋(いりもや)の3階が乗っている(図47)。3階の窓は虫篭窓(むしこまど)だが、立端(たっぱ)が低いため小さい。敷地は通りの西側に位置し、町屋に典型的な短冊(たんざく)形で東西に細長い。主屋の奥には中央の細長い庭を挟んで、南にRC造平屋の便所浴室棟、北に木造二階建ての居室棟がある。さらにその奥には二階建ての納屋が建つ(図46)。 主屋は棟札により明治3年(1870)の建築。平面は間口3間半、奥行き5間半の右勝手である。出入口を入ると右の壁に沿って「通りニワ」が奥まであり、左側は土間のミセに続いて座敷が7畳半、4畳(ナカノマ)、8畳(イマ)と並んでいる(図45)。手前の7畳半は最近土間部分に新設されたもので、ナカノマとの間に7寸角の欅(けやき)の大黒柱がある。外見から3階建てに見えているが、実際には表側3層、奥側2層のスキップフロアーの4層である(図44、48)。これは、3階座敷を増築したとき、立端の低い表側まで同じ高さで軒を伸ばし、無理矢理そこに4階部を継ぎ足したことが建物横外観から判明する(図49)。このような増築方法は珍しく、狭い敷地内での空間確保のための工夫に感心させられる。座敷は、床の間の違い棚や書院(しょいん)の障子(しょうじ)や欄間(らんま)、窓格子等に意匠細工が凝らされ、増築当時の当家の繁栄ぶりがしのばれる。 (林)
 
   
(2)立川酒店(商家) 辻159−1 屋敷周辺は、旧街道三差路を中心に商家が立ち、ウダツの家並みを形成している。この交差点から池田よりの街道西側2軒目が、立川家である。屋敷は、間口が5間半、奥行き15間の長方形である。東は道に面し、他は隣家の町屋に接し、高低差は少ない(図50)。 建物の配置は、ウダツと外壁が黒漆喰(しっくい)で仕上げられた平入り厨子(つし)造りの店屋棟(図51)、中庭を挟んで同じく黒漆喰仕上げの2階建の蔵(図52)、その奥に家事用作業庭を挟んで2階建の生活棟となっている。 敷地中央の蔵は、店屋棟と生活棟の防火壁としての役割もはたしている。また高い蔵の壁や中庭・作業庭の持つ機能的な役割により、店屋棟や生活棟に風が通り、夏でも冷房機を必要としないそうである(図59)。これも町屋が密集する地域での生活の知恵と言えよう。 店屋は左勝手で、玄関を入るとドマ(4.5畳)、ドマ右側の上框(あがりがまち)を隔てミセ(4.5畳)、コタツノマには箱階段(図57、58)があり屋根裏部屋に通じている。ミセに隣接してザシキ二間(8畳、6畳)と縁側を介して中庭がある。また、ドマを直進すれば、下屋の細長い通路が続き、便所・風呂・炊事等の作業庭、続いて生活棟に至る(図53)。 立川家は、タバコを製造販売した商家である。商いは北海道にも及び、その隆盛はザシキが如実に物語っている。ザシキの床柱は、鉄刀木(たがやさん)。柱、框、違い棚は黒檀(こくたん)(図54)。障子・襖枠(ふすま)は紫檀(したん)(図55)。舞良戸(まいらど)は、1枚板で半田産の漆塗りである。大黒柱は、7寸角の欅で四方柾(まさ)である。二段の長押(なげし)で枠木が施された蟻壁(ありかべ)の構成は、民家としては豪華なものである。伝えでは、屋大工は堅木の外材が加工できる職人を、大阪から呼んだと言う。建具や箱階段などもすぐれた職人に時間をかけて作らせたとのことで、何れも現在まで使用されているが、一分の狂いも無い立派なものである。また中庭は、高松栗林公園の庭師が、小堀遠州流により作庭したとのことである。建築主は2代目山口屋甚五郎・貞太郎で、普請に造詣(けい)が深く、十数軒目の自作の間取りである(図60)。店屋・蔵は明治36年(1903)の建築で、特定は掛け軸で保管された家相図による(図56)。この家相図は、当主の普請に対する思いがしのばれる品である。築後には、「金窮時、家を売るな。解体して、資材で売れ」と言い残している。平成3年、店屋棟の屋根は、本瓦を桟瓦に葺き替えられた。生活棟は、昭和初期の改築である。 (田處)
  
  
 
 

(3)うだつの民家 辻界わい 井川町はじめ吉野川流域は、江戸時代中期より葉タバコの生産地として活況を呈したが、中でも辻は、祖谷全域の葉タバコの集産地として、明治30年代に最も隆盛をきわめた。葉タバコの加工及び製品化を図り、北海道までもその販路を拡大した大きな商家も成立するに至っていた。この様な活発な商業の町としての名残りのひとつが、ウダツを上げた商家の町並みである。ウダツは本来は火災時の延焼を防ぐための壁であるが、実際には店の繁栄を誇るシンボルとしての一面もあり、むしろ後者の意味合いが大きかった。しかしそのウダツも、現在では辻界わいで6軒の商家に残るのみとなっている(図62)。 ウダツは中2階が高いほど年代が新しく、脇町からはじまりついには貞光のような二層ウダツが現れる。辻の場合は中2階の階高の比較から、脇町より新しく、貞光より古いと考えられる。その時期に、辻の町が最も栄えたのであろう。 これらウダツの屋根は、寄棟が3例、切妻が2例あるほかに、入母屋という珍しい屋根を持った例(仁尾彰文家)も認められる(図61)。またほかに、現在はないが過去にウダツを上げていたと推測される例(外壁面に痕跡がある)も確認することができた。 ただ、一部を除いて辻の民家は老朽化が進み、建て替えも徐々に進行している。ウダツを上げた商家の中にもかなり傷んできている事例もあり、何らかの対策を迫られていると 言える。すでに連続したウダツの町並みとは言えない状態になっているが、過去の繁栄の証人としてだけではなく、町民の生活文化を反映した貴重な文化財としての視点からも、保全が必要と思われる。 (本田)

 
4.まとめ 井川町は徳島県の西側にあり、県を東西に縦断する吉野川の南岸に位置する。吉野川に沿った平地以外はほとんど山地であるため、山の斜面にへばりつくように民家が建てられるという、徳島県の山間地域特有の散居的集落景観が展開されている。川は度々氾濫(はんらん)するうえに、日当たりの悪い谷筋より、水さえ確保できれば日の当たる中腹斜面の方が居住に適していることもあって、このような集落景観が形成されてきたものと思われる。調査した民家の多くで見られた「土桶」がそのことを示している。 井川町での調査対象を「山の民家」と「まちの民家」の二つに大別して考えたが、調査対象の11棟のうち「まちの民家」は2棟で、残りの9棟は散居的集落にある。井川町はかつてタバコで栄えたまちで、ウダツの上がった六つの商家と贅(ぜい)を尽くした材料を使った二つの「まちの民家」は、山の民家とともに繁栄した当時をしのばせる構えをもっている。 主屋は地元の人が「六8畳」と呼ぶ、オモテ、オク、ナカノマ、ナカオクなど田の字の4部屋に2間分の土間を加えた間取りの民家が多くみられた。『阿波の民家』でも分類され、徳島県下で普通に見られる「四間取り」であるが、傾斜地という建築が困難な敷地条件からみると比較的に規模が大きいといえ、「六8畳」という呼び名が表れてきたのであろう。またそれぞれの「山の民家」は等高線に沿った細長い屋敷に、主屋、タバコ乾燥小屋や蔵などを配置している。これらも、タバコ産業で潤った時期を証するものである。 主屋の入口では、3棟の「左勝手」があった。井川町のすべての民家を調査した結果ではないが、吉野川流域北・西部は「左勝手」が多いというこれまでいわれてきた傾向とは少し異なる。元草葺き屋根の山の民家は、1〜2棟の例外を除いてほとんど青色のトタンで覆われている。また棟札が発見された民家はなく、いずれも建築年代が特定できていない。山の民家は専用のタバコ乾燥小屋を敷地内に建てるか、主屋の屋根裏でタバコを乾燥させていた。現在、多くの民家では天井が張られ、小屋組みは見上げられない。調査した11棟のうち2棟は、天井板を固定せずに置いただけの「オキ天井」であった。材料としては、土壁の上をヒシギ竹で覆ったり、半割竹を敷き詰めたスノコなど、地場で採れる竹を使ったものがみられた。 井川町の民家は、徳島県の一般的な様式を踏まえながらも、その地形的・地理的な特徴やタバコ産業が発達した歴史的な経緯から、独自の地域的特色を併せ持っている。そして、飲み水を更に高い谷から引いてくる技術の発達で、中腹斜面に建つ「山の民家」が成立し、生業としてタバコを作る。川の近くにある「まちの民家」は山で作られたタバコを集め、消費地で財に換えて「山の民家」に還元する。そのような、タバコを媒体とした「山」と「まち」の交流や、タバコ産業によって有機的にネットワークされた豊かな地域社会の存在を、思いおこすことができる。 (田村)
1)徳島県建築士会 2)UN
建築研究所 3)工藤誠一郎建築地域研究所 4)徳島県プロジェクト推進室 5)穴吹カレッジ 6)林建築事務所 7)剛建築事務所 8)建設材料試験所 9)第二工房 |