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1.はじめに 海部郡は徳島県の最南端にあり、主に山地よりなる。山地は岩石海岸を呈して海にせまっている。この後背山地から日和佐川が海に流れ出て、河口の谷を埋めて小さな三角州平野を形成している。日和佐の市街地はここにあり、日和佐町全体の中心集落となり、商店街が並んでいる。街の東側の斜面には四国八十八カ所の一つである薬王寺がある。河口には日和佐港があり、漁港としても知られてきた。日和佐港の北側の大浜海岸はウミガメの産卵の場所としても知られている。周辺の町とは違い、観光資源と施設に特徴がある。 薬王寺は、明治以前から厄除(よ)け寺としても知られていて、参詣(けい)客が多く、ほかの札所とは違っていた。明治・大正・昭和にかけての時代の移り変わりとともに、主要道路の移り変わり、国鉄の開通、八十八カ所巡りの大衆化などにより、日和佐町の町並みと景観は変遷してきた。地理班は、1)主として統計から、日和佐町の人口構成、産業の状況、観光産業の経済効果、さらに観光客の現状と動向について調べた。つづいて、2)日和佐町の特徴は、上記のような理由で、中心集落である市街地における商店街の変遷にあると考え、桜町商店街の形成、観光客の動向と本村、日和佐浦商店街、国道55号線沿いの景観の変化について調べた。以下、順を追って記述する。
2.日和佐町の社会構造 1)人口の変化 人口分布の現象は、地理的現象の総和を示す指標で、経済活動の繁栄した地域には増加が、その逆の場合には減少の現れるのが一般的である。その意味で地域の経済機能が都市的である場合は人口増加となり、地域の経済機能が農漁村的地域では減少となる。日和佐町は、県南太平洋岸に面する海部郡6町の一つである。この海岸線に面する海浜(人口居住)地域を灘と呼び、由岐・日和佐・牟岐の海浜地域を上灘、海南・海部・宍喰の海浜地域を下灘と称している。上灘地域にある日和佐町は、背後に海部山地がせまり、人口はおおむね日和佐川河口の沖積低地に集中している。日和佐町のかつての産業の中心は、農漁業と薬王寺の門前町を核とする商業とであった。近年になって観光関連の商業・サービス業に特化するようになってきた。中核となる産業の構成変化は、人口の増減を左右するが、雇用力のある製造業の成長していない状況で推移してきた日和佐町では、消費型経済地域の特徴である人口の減少が、1955年から続いている。人口減少の状況を、地方・地域レベルと全国レベルとの比較において検討することにする。 日和佐町の人口は、1955年に9,723人であったが、1995年には6,157人と、この40年間に37.0%の減少を示している。減少の激しかったのは、1975年に至る20年間であった(表1)。この人口の急減期は、日本経済の高度成長期に符合している。

全国的にみたこの時期の人口動向は、地方から三大都市圏への人口移動となって現れている。産業就業構造も第一次産業就業者の比重を低下させ、第二次産業・第三次産業就業者を増加させていった。おりしも、1955年から1970年にかけて、日本は産業の高度化を推し進め、大量生産、大量消費社会を形成させていった時期で、都市圏と地方の所得格差を増大させつつ、継続的に就業の場を創出する生産集落の集合体である三大都市圏へは、消費集落を基本とする地方の農山漁村から労働人口を供給し続ける結果となった。当然のことながら、人口吸収地域での過密と人口流出地域での過疎の現象を発生させた。この傾向は、オイルショックの時期まで続くことになる。時期の差はあるが、オイルショック後の1970年代以降は、国土計画の見直しや地方の産業振興の政策が進み、地方から三大都市圏への人口移動は鈍化の傾向となり、大都市圏間に位置する地域中核都市の福岡・広島・岡山・仙台・札幌などの都市の成長期となる。 徳島県においても人口は、1965年の781,951人を下限に、1970年以降は増加を示し、1995年には、9.4%増加の832,427人となっている。しかし、県域において1970年以降の人口移動の転換期に人口成長をみたのは、県庁所在地である徳島市および藍住町・北島町・松茂町・石井町など、地方中核都市周辺地域に限られる。県南に位置する日和佐町は、急激な人口減少期を越えたものの、1955年以降人口を減少させ続けている。その反面、高齢者人口比率は、年を経るごとに増加傾向にある。1995年の高齢人口比率は、24.9%である。 2)日和佐町の就業人口と就業地 地域社会が消費型経済から生産型経済へ移行するにしたがい、産業は第一次産業から第二次産業、さらに第三次産業へと比重を増す。これは、産業発展の基本的パターンである。日和佐町ではどうなっているか、その特徴点を全国と徳島県、県南6町との比較において検討する。 1995年における就業人口構成の全国平均と徳島県平均は、それぞれ第一次産業の7%、14%、第二次産業の33%、31%、第三次産業の59%、54%となって、コーリン・クラークの指摘する産業社会発展の法則にしたがっている。この全国と徳島県の就業人口構成に対し、日和佐町はどうなっているかをみると、表2に示すとおり、第一次産業16%、第二次産業29%、第三次産業54%となって、徳島県の平均に類似した構成となっている。農林水産業就業者の極端な減少と商業・サービス業就業者の増加となっているのが特徴である。他の5町では、牟岐町が日和佐町に近い構成を示している(表3)。


次いで日和佐町の就業地をみる。表4は、海部郡6町それぞれに常住する就業者とその就業地について示したものである。これでみると、日和佐町の就業者は3,052人、自町内就業者は2,429人、他市町村就業者は626人で、その比率は79.6%対20.4%となり、町内常住労働者の20.4%が流出していることになる。その流出先と流出率は、阿南市7.4%(225人)・牟岐町3.1%(96人)・徳島市1.9%(58人)・その他県外1.9%(57人)・由岐町1.7%(52人)の順となっている。日和佐町は阿南市を中心に近隣町域に労働力を流出させている。一方、町内への流入労働力は、海部郡内から牟岐町・由岐町を中心に287人を吸収している。

郡内6町内に限定した労働力移動での吸収力は、郡外への流出の少ない海南町(484人)がもっとも多く、牟岐町(376人)・日和佐町(287人)の順となる。 このように二次・三次産業、とくに、商業・サービス業へ就業者の集中した状況や労働力の流出・流入の実態をみた。次節では、日和佐町の商業年間販売額、製造品年間出荷額の状況と特化した商業・サービス業から町内にどのような経済波及効果があるかをみることにする。
3)商業・サービス業の経済波及効果 1995年の日和佐町の商業年間販売額は、51億42百万円で、県内比率は0.3%である。海部郡6町の比較では、海南町(95億47百万円、0.5%)、牟岐町(79億22百万円、0.4%)に次ぐ3位である。当町のように、町内人口規模、国・県の行政出先機関や薬王寺門前町・ウミガメ産卵地等に関連する観光諸施設など、すぐれた条件の存在する状況からみて、商業顧客吸引力がやや弱いように思われるが、それが現実である。 日和佐町の製造品年間出荷額は37億78百万円と、県内比率は0.3%で、海部郡内6町の首位を占めている。海部町(33億33百万円、0.2%)、海南町(24億64百万円、0.2%)がこれに次ぐ。以上のように、地域の就業者、地域外からの流入労働力の受け皿となる日和佐町の地域産業の生産活動は、商業・サービス産業と製造業を核として展開している。 それでは、日和佐町の中核産業の一つである商業・サービス産業部門のうち、観光関連産業を取り上げ、入り込み観光客の町内消費行動が、地域にどれぐらいの経済効果をもたらしているかをみることにする。 日和佐町は、室戸・阿南国定公園の一角を占め、海と海岸(大浜海岸・恵比寿洞・千羽海岸)などの自然の観光資源、四国巡礼札所寺薬王寺、海洋生物ウミガメの産卵とウミガメ博物館、スポーツ施設を保有する日和佐城など、県下随一の観光資源をもつ町である。これらの観光資源は、文化情報の発信基地としての機能を果たし、世界各国の都市や日本各地の都市に居住する人々と結びついている。文化情報が観光入り込み客を引き寄せて、日和佐町の経済発展に大きく貢献している。これらの自然観光資源や宗教・民俗を始めとする社寺仏閣の歴史資源、海洋生物とその生態の観察を資源とする観光産業が成立するとともに、文化・教育情報伝達・余暇・レクレーション機能を合わせもっており、これらから生まれる町の産業部門への経済波及効果は、商業、運輸、飲食、宿泊などの対個人サービス関連産業への波及効果が大きい。日和佐町の観光資源を目的にした入り込み観光客の町内滞留が、観光客と関連する町内の産業にどの程度の経済波及効果をもたらしているかについて、観光入り込み客調査資料と産業連関表をもとに推計を試みた。観光施設利用から生産される生産額を34産業部門に分類し、対応する産業から生産される直接生産額を算出すると、表5に示すように3,451,549千円と試算される。この生産額からもたらされる原資を需要額として、1990年度徳島県産業連関表により波及効果を推計した。

入り込み観光客の町内滞留による経済効果は、飲食・宿泊・土産費の支出による直接効果で35億円、一次波及効果で37億5千万円、二次波及効果で12億6千万円の経済効果をもたらしている(表6)。このように、1995年度の観光入り込み客の消費行動によって、一次・二次波及効果で50億1千万円の経済効果のあることが推計された。1995年度の年間入り込み観光客数の実績が今後とも滞留するものと仮定するならば、毎年繰り返される経済効果は50億1千万円となる。

観光消費性向は、これからの国民生活全般をみたとき、労働時間の短縮や週休2日制度の導入により、国民の日常生活に占める余暇時間やレクレーション活動時間の増大が進行するのは極めて当然のことであろう。このような社会的趨(すう)勢を鑑(かんが)みるならば、社会的ニーズとしての余暇・レクレーションの多様化はますます進み、さらに観光入り込み客数の増加が見込まれるであろう。(文責:横畠康吉)
3.桜町通り市街地の形成過程 日和佐町の薬王寺門前に、東西方向に約400m延びる通称「桜町通り」は、門前集落であるとともに、日和佐町の中心商店街をなしてきた。田中伸治(1985)によれば、日和佐町の全商店数の約40%が桜町通り沿いに集積している(1985年6月調査)。尾崎秀樹(1985)によれば、明治期の桜町通り付近は水田が広がり民家がほとんどなく、1918(大正7)年ごろには農業との兼業による遍路宿6戸や仕度屋(料理店)4戸のほかに、7戸の店舗・民家が立地し、大正11年(1922)ごろまでに新たに旅館や土産物店などが進出したことで、今日の桜町商店街の原型が形成されたとしている。戦後の昭和30・40年代には鮮魚店や青果店、調味料店などが進出し、商業中心地の地位も本町地区にとって代わったとされる。 以上のように、今日の桜町通り商店街(字名は大字奥河内字寺前)は、元来、水田地帯であった日和佐浦〜薬王寺間の道路沿いに発展した商店街であり、その形成は大正末期〜昭和初期のことである。田中・尾崎の報告はいずれも聞き取り調査に依拠したものであるため、本章では、徳島地方法務局日和佐出張所所蔵の地籍図ならびに土地台帳から、桜町通りにおける宅地形成の過程を歴史地理学的手法により明らかにしたい。 図1は、両資料から、桜町通りに面する1887(明治20)年頃の土地の地目を示したものである。これによれば、桜町通りの西半分には薬王寺の寺田が、東半分には民有田が広がっている。民有田の多くは日和佐浦に居住する地主所有の水田である。当時、本町地区と桜町通りをつなぐのは1954年に付け替えられる前の旧厄除橋で、旧橋の南東角および薬王寺門前の一部の土地が「郡村宅地」となっているのみである。このことからも、当時の桜町通り付近は、幕末期作成と考えられる「日和佐古図」(北村家所蔵、『日和佐町史』口絵写真)に示されたと同様に、田園地帯をなしていたといえる。

後述するように、桜町通り沿いでは東半分の水田の宅地化が先行し、西半分の宅地化はこれに遅れる。こうした事情の背景には、地目転換が比較的容易な民有地と寺地との差があったものとみられる。 次に、図2は1925(大正14)年末における桜町通り沿いの地目を示したものである。この時期になると、「田」から「宅地」への地目転換や分筆による土地の細分化が目立つようになるが、とくにそれが顕著なのが民有田の広がった通りの東半分の土地である。このうち、地目転換がもっとも早かったのが旧厄除橋に近い2筆の田で、いずれも1902(明治35)年に宅地に変更されている。このほかの地目変更は登記上、1915〜17(大正4〜6)年にかけて行われている。残念ながら資料からはこれらの「宅地」の用途については不明であるが、尾崎の報告に依拠すれば、旧厄除橋付近には漁具店、薪(しん)炭店、仕度屋、金物屋など、また薬王寺門前には遍路宿や馬車屋などが立地したとみられる。また、桜町通りの中央部には1923年に海部郡町村自動車公営組合営業所が設立され、バス交通の拠点となった。

このように、桜町通り沿線では、大正期に「田」から「宅地」への地目転換が進み商店街の原型が形成されてきたが、まだ多くの水田が残されており、地籍上、市街地という景観を呈するまでには至っていないといえる。 これに対して、1935年時点の地目復原を行った図3では、桜町通り沿いの土地のほとんどが「宅地」となっており、1925年以降の10年間に市街地が形成されたといえる。これらの「宅地」の用途についても詳細はやはり不明であるが、現在では、一部は戦後に営業を開始した商店や一般住宅となっているものが多い。1925年以降のこの10年間に「宅地」化が進んだ要因の一つに、牟岐線開通があげられよう。牟岐駅は桜町通りのやや南側の字寺前地区に立地し、桜町通りの東半分は牟岐駅から本町地区に通じる交通路として機能した。この地区には第二次大戦後も、衣料品店、日用雑貨店、飲食店などの買い回り品店舗を中心に商店の進出が進んだ。また、桜町通りの西半分も、牟岐線開通後は薬王寺参詣道として利用されることになる。阿波福井−日和佐間の牟岐線の開通は1939年のことであるが、日和佐町では1927年頃より鉄道建設運動が再燃したとされる(『日和佐町史』、461〜463頁)。1935年時点の土地所有状況を示した図3には、すでに鉄道用地の一部がみられる。1925年以降の登記上において「田」から「宅地」に地目転換された時期はおもに1930年頃であり、こうした鉄道建設運動の高揚にともなって桜町通り沿線の土地への先行投資があったものと推察される。

以上のことから、桜町通り市街地の形成過程についてみると、従来いわれてきたような四国遍路の大衆化にともなう「門前集落」としての性格とともに、バスあるいは鉄道交通の拠点としての「駅前集落」としての性格をも持ち合わせて発展してきたといえよう。 (文責:平井松午)
4.観光客の動向 本章では日和佐町が集計した観光客数に関する統計により、観光客の動向を検討する。ただし観光客に関する数値は多くの場合推計値であるため、概数による傾向を指摘できるにすぎない。 町では薬王寺・大浜海岸・恵比須浜・城山公園・室戸阿南海岸国定公園の4観光地への年間来訪者数の合計を約130万人と見積もっている(内訳は薬王寺50万、大浜海岸15万、恵比須浜7000、城山5万、室戸阿南海岸60万)。県内外別では県内55%に対して県外45%、宿泊・日帰り別では宿泊8%に対して日帰り92%と見られている。すなわち本町の観光資源は、大浜海岸(海亀)や薬王寺などに代表されるように広域からの集客力を持ちながらも、それを滞在させる力を持たないと考えられる。もっとも、県外客が7割をこえる恵比須浜キャンプ場では宿泊者が7割をこえており、その点からすれば、外来・滞在型観光資源は存在してはいるもののその集客力が小さいというべきであろう。 次に、
利用者数を正確にとらえることのできる4施設(国民宿舎海亀荘・日和佐城・ウミガメ博物館・遊覧船)の利用者数によって観光客の動向を考える。まず1989年以降7年間の経年変化を見よう。(図4)。

いずれの施設も1992年頃までをピークとして、近年利用者数は次第に減少しつつある。しかし利用者が半減した遊覧船を別にすれば、それに次いで減少著しいウミガメ博物館でもピーク時の75%であり、むしろ長期の不況にもかかわらず観光客数はさほど衰えていないと見るべきであろう(ここには具体的な数字としては示さないが、別資料による夏期のホテル・旅館・民宿利用者数の経年変化にも同様の傾向が指摘できる。他方、恵比須浜の海水浴客数は1000〜3000人の間で年による違いが大きく、このような傾向は認めがたい)。入り込み客数の変化とウミガメの上陸数の動向とは関係ないように思われる。次に、上記施設の利用者の月別分布を見るために、1989年から1995年までの平均を求めた(図5。ただし、海亀荘については1991年に休館期があるためこれを除き、遊覧船については営業期間の変化を考慮し1990年から1994年までの平均を求めた)。

施設によって多少の違いはあるが、おおむね正月・ゴールデンウィーク・夏(7・8月)の三つの山を認めることができる。特に夏期2カ月の利用者はそれぞれの施設の年間利用者の3〜4割にあたる。ウミガメでイメージされる日和佐はそのイメージ通り、とりわけ夏の観光地として利用されているといえるであろう(ただし、この4施設のなかでは海亀荘(休憩)利用者と日和佐城入場者とは例外的でわずかな差ながら1月の利用者が最も多い)。ちなみに県内第2の初詣(はつもうで)地である薬王寺へは毎年、年間来訪者の1/4にあたる12万人が正月三が日に訪れている(県警発表)。入り込み客数に季節変動があること(あるいは特定期間に集中すること)はいずれの観光地でも同じことであるが、観光産業にとっては困難な問題である。(文責:立岡裕士)
5.本村・日和佐浦の商店街 薬王寺門前に発達した桜町商店街とは違い、本村の商店街は地元および周辺住民に対する商業施設が立地している。1978年の住宅地図を利用することができたので、本章ではそれと同年の商工会名簿とにより当時の商店の分布を復原し、それとの対比の上で現在の本村の商店街について検討する。 それに先んじて、1978年と1996年との商工会名簿によって、両年次の間に日和佐全体での商工施設の分布の変化を見る(図6。ただし改めて言うまでもなく、町内の全商店が商工会に加盟しているわけではないので、一般的な傾向を推測しうるにすぎない)。

1978年の名簿には町全体で247事業所が掲載されていた。1996年には1割減の223事業所となっている。しかし、1996年現在の加盟事業所とそのうちの1978年〜1996年の間に新規に加盟したものとを示した図7に明らかなように、商工会加盟事業所の約1/3にあたる75事業所はこの20年間の新規加盟であり、そのすべてが新規に立地したものではないとしても、新旧の交替の激しさを示唆している。新規加盟の多い地区は、桜町・「国道沿い」から西河内・北河内と山河内など、国道55号線に沿って既成市街地の北と南とである。これらの地区は、桜町を除けばいずれも絶対数においても加盟事業所の増加している地区であり、商業の郊外化が進展していることを示している。 同じことを逆の形で表しているのが、本章で取り上げる、本村・日和佐浦の商店街(本町・東町・戎町・奥河町・中村町)である。1978年当時、これらの商店街の事業所は商工会全体の27%を占めていた。しかるに1996年にはその比重は18%にまで落ちている。両年次の商店分布を示した図8に明らかなように、かつては商店が軒を連ねて本町と日和佐浦とを結んでいた戎町・奥河町の没落が著しく、街として面的ないしは線的な商業集積が残っているのは、厄除橋跡に至る旧国道沿いの本町のみである。本村・日和佐浦の道路形態は典型的な漁村のものであって、比較的規則的ではあるが著しく狭い。特に本村の商店が地場的なものであることを考えると、道路の狭さは一面ではいわゆるコミュニティ振興という点も含めて便利ではあるが、商店へのアプローチが他に確保されえない以上、生活空間としての道路とすることは困難であろう。また、車による来店に比較的便利な主要地方道日和佐小野線沿いには観光客を対象とした商店が新規に立地しているが、商店街を構成するには至っていない。ただし、奥河や中村などの旧商店街から移転してきている事例もあり、今後そのような傾向が続くかもしれない。業種別の傾向は、住宅地図に店舗名が記載されていても営業品目が明らかでない商店もあるため、数量的に示すことはできないが、やはり一般の食料品店・飲食店を中心とした、低次の中心機能を担う業種での廃業が多いように思われる。ただし、低次財でも酒や薬品のように販売に規制をともなうものや、理髪店・美容院など一部のサービス業は比較的残存している。これはかつて半田町について指摘したように、それらのサービス業は経営費にしめる人件費の比率が高く、規模の経済が働きにくいこと、同業者組合の統制により提供されるサービスの質・価格が管理されているため店舗間の差別化が生じにくいこと、などが要因であろう。(文責:立岡裕士)
6.国道55号線沿いに見られる建造物の増減 薬王寺の前を通り桜町通りを横切る国道55号線は、1958年に一般国道の指定区間を指定する政令によって、起点を徳島市、終点を高知市として指定された国道で、1962年に「国道55号線」と呼ばれるようになった。しかし、路面はアスファルト舗装になっていない部分がほとんどで、幅員もまちまちであった。減速を必要とする急カーブやトンネルが必要な部分もいくつかあった。これに対する道路改修工事が日和佐町・牟岐町に及んできたのは、1966年ごろで、1972年にはこの地域の国道55号線の改修工事はほぼ終わった。これによって、徳島から日和佐までの所要時間は2時間半から1時間半ほどに短縮された。これと並行して、海部郡全体においても自家用車の保有台数は急増して、今日の自動車交通の時代に突入した。

一方、国鉄牟岐線は大正の末期から着工されたが、日和佐まで延長されたのは、1942年で道路交通時代に20年も先んじていた。JR牟岐線と国道55号線は日和佐駅付近で接近しているが、駅の出入口が東に向いて国道を背にしているのは、国道が後になって完成したと言う事情による。今日でもJR牟岐線と国道との結びつきは弱い。 日和佐地区付近に見られる近年の大きな変化の一つに、国道55号線に沿う地域の建造物の増加がある。どのようなものが増加し、どのようなものが減少したのか、それぞれ比較して、日和佐地区の変容の内容を検討してみたいと思う。その方法として、1981年10月に作成された日和佐都市計画用途図(1/2500)と1995年9月に作成された日和佐都市計画図(1/2500)を比較して建造物の増減を調べた。また1981年当時の住宅地図を資料として当時の建造物の用途を推量し、聞き込みによる資料も加えた。ここでいう「道路沿いの地域」とは、日和佐川以西、奥潟川北西側の地域で、国道55号線より200m
の範囲以内を意味する。 上記のような方法で調査して、図9と表7を作成した。国道沿いの地域では、全体で34件の建造物に変化が見られた。そのうち、水田・耕地・駐車場に新しく建造された建物が20件と最も多い。建て直された建造物は全体で9件で、そのすべては利用目的が違っている。反対に、空き地になったものは全体で5件で、そのうちの4件は日本タバコ産業の用地内の建物で、同社の移転によっておきた現象である。No.17はながらく映画館が廃屋として残されていたが、これが取り壊しになったものである。道路沿いのNo.27はパチンコ店が休業状態になっているが、これは
No.3のパチンコ店立地と関連した現象のように思える。


一方、国道から視野を広げて日和佐地区周辺全体を見れば、宅地造成地や団地が1981年以来急に多くなってきた。国道沿いの地域の2町営住宅のほかに、櫛ガ谷に雇用促進住宅(2棟60戸)が建設されたほか、隣接する宅地造成地には一戸建住宅が1981年の状態と比較すると39戸増加し、空き地は少なくなった。また、西方の丘陵にもひばり丘の宅地が造成され、すでに13戸の住宅が建てられている。日和佐町全体の人口は減少しつつある。1981年には7089人であった人口は、1997年1月1日現在では6216人となって873人の減少が見られる。しかし、世帯数は2000前後で減少傾向はみられない。日和佐の市街地を含む奥河内・日和佐浦の人口は、町全体の人口の減少に比べて少ない。核家族化の進行と山間部からの移住によって、日和佐町市街地とその周辺では人口の著しい増減をみないままになっている。この傾向が日和佐地区周辺の住宅の増加に表われている。国道に沿った地域にもこの傾向は見られ、8件が住宅の建造または改築である。このうち町営住宅団地24件が含まれる。しかし、道路沿いに新しく立地した住宅地は薬王寺・JR日和佐駅付近より離れた所にある。 国道55号線沿いに増加・改築された建築物で最も顕著な事実は、薬王寺からJR日和佐駅にかけての中心的な地域に、小売店(3件)、飲食店(3件)のほか宿泊、登記事務所、観光バス車庫などのサービス業の建造物がそれぞれ増加・改築となったことである。牟岐警察の駐在所も薬王寺前に建築された。また道路脇ではないが、JR日和佐駅の近くにスーパーマーケット(No.21)が鉄道宿舎跡にできたのも見逃せない。日和佐町の商店街は国道沿いに延びてきているといえる。薬王寺とJR日和佐駅とが今日でも町の中心的役割を果たしていることを示している。以上のようなことを含みながら、国道55号線沿いの地域は少しずつ変化しつつある。(文責:岡 義記)
7.まとめ 日和佐町は、1955年以来人口の減少が続き、同時に高齢者人口が増加してきた。就業者人口の構成は、1955年で第一次産業16%、第二次産業29%、第三次産業54%となり、第二次産業、第三次産業の人口が増加している傾向は県内の他地域の傾向と同じである。日和佐町の就業者は1955年で3052人で、2429人が町内の就業者である。町内の商業年間販売額は51億42万円で、町内のすぐれた観光資源・施設の存在にもかかわらず、商業顧客吸引力は弱い。入り込み観光客の経済効果については、飲食、宿泊、土産費の支出による直接効果が、35億円と推計され、それにともなう一次、二次波及効果は50億1千万円と推定される。町では年間観光客入り込み数を130万人と見積もっているが、最近7年間の傾向をみると、1992年をピークにしてやや減少の傾向が見られる。 一方、町並みに目を向けると、大正ごろから大きな変化が見られる。主要交通路であった本町通りは衰退して、桜町に商店街の中心が移ってきた。これは四国遍路の大衆化にともない、桜町が門前町集落としての性格を強め、バス・鉄道の駅前集落としての性格が加わったことによる。この傾向は近年まで続き、桜町・国道沿いに商店が移りつつある。とくに、本町と日和佐浦を結ぶ戎町・奥河町の衰退が著しい。これに対し、国道沿いの地域では建造物が増加した。薬王寺、JR日和佐駅の周辺に商業・サービス業施設が並ぶようになり、桜町通りは国道沿いに延びてきた。また、国道沿いに住宅が増えてきたのも見逃せない。 (文責:岡 義記)
参考・引用文献 尾崎秀樹(1985):「桜町通の発達と薬王寺」、鳴門教育大学地理学教室編・発行『地域研究 第1集 日和佐町とその周辺』所収、51〜56頁。 田中伸治(1985):「日和佐町桜町の変容」、鳴門教育大学地理学教室編・発行『地域研究 第1集 日和佐町とその周辺』所収、35〜50頁。 日和佐町史編纂委員会編(1984):『日和佐町史』日和佐町。
1)鳴門教育大学学校教育学部 2)四国大学経営情報学部 3)徳島大学総合科学部 4)由岐町立由岐中学校伊座利分校 |