阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
日和佐町の箕

民俗班(徳島民俗学会)  青木幾男

1.はじめに
 小学生に「箕(み)」と尋ねたら「知らない」と答える子が多いだろう。子供だけではない、若い人は大人でも「箕」を「知らない」と答える人が、日和佐にも多いかも知れない。
 これまで他の町村では「箕は、むかしはどこの家にもあって、よく使っていたものだが」と言う認識くらいが残っていて、実物は存在しても「過去の遺物」となっている場合が多かった。
 ところが実際には生活の器具というものはそんなに単純なものではない。今一般の商店、マーケットなどで売られている器具類(全般的生活器具)のようにどこでも買うことができる多量生産均一製品、いわゆる「使い捨て」で廃棄処分にも困るような物は論外である。今より少し前の道具、例えば職人がつくった篭(かご)、桶(おけ)、農具、家具などは作る場所、人によって形、材質などに若干の違いがある。そのうえに手作り製品であるので、使う側の立場からも、その地方の実情に応じた使いやすさが要求される。そして一種の地方色ができる。長い歴史を持つ道具と人のかかわりは、心の問題であり、簡単に一言でいいきれるものではないが、現在の生活の中でそうしたものが、まったく過去の物になってしまったのか。今もまだ大切に使う人があるか否かを調べることは、現代の社会を知るためにも、また民俗的にも民具研究の上からも大切なことだと考え、日和佐町では箕の調査にとりくんだ。
 実際に調査できたのは平成8年7月26日、27日、12月8日、29日の実質4日間であったので、日和佐全体を調べたということではなかった。日和佐ではまだどこかで「箕」が大切に使われている家があるかも知れない、と思いながら稿をまとめた。

2.箕の定義
 はじめに「箕の定義」をきめておかなければならない。「ところ変われば品変わる」という言葉があるが、民具は地方によって名称が違い、まったく別種類の物になることもある。だいたい徳島県では「箕」といえば、どこでも方形の「片口箕」で通用するのであるが、沖縄県では「丸口箕」を使用していると発表した学者があった(注1)。また同じ箕という文字は使っていても「唐箕」はここでいう箕ではない。また中国の技術書として知られる『天工開物』(宋応星,1637)には、穀物を風選(ふうせん)する道具として唐箕や竹製円形の平板(へいばん)な笊(ざる)が「箕」として書かれているが、風選は箕の使用法の一つではあっても、唐箕や丸笊はその形が箕とはまったく違っている。そこで箕とはどんなものかを確認してみる。
 上田万年編『大字典』(大正6年刊・啓成社発行)を見ると、はじめに図1のような鼎(かなえ)文字が示され、「箕」の形は方形の片口箕であることをあきらかにしている。その説明には「みのことにて其はその形を象りし字。竹製なる故に竹冠を加へ箕とし、其は本義を失ひソノ・ソレなどと訓ずるに至れり。又箕に皮を加へ、箕にてヒル義とす」とある。箕は簸(ひ)ることを目的としてつくられたように多くの辞書には書かれているが、それは漢字がつくられ、稲作がはじまってからはそうであっても、箕は稲作や文字よりも古い歴史をもっている。筆者があえてこれにかかわるのは、民具の祖形を洗い出し、本来もっている機能が現代社会にどううけ入られているかを知りたいからであった。鼎文ができたのは中国殷(いん)の時代、今から約3,500年前であったが、日本には5,500年前に箕の基本である網代編みがあったことが証明されている(注2)。
 箕が考案されたのはどこであったかわからないが、世界の草木が地球上に発生したように、いつからともなく穀類を調整し、食糧とするようになったころ、箕は敷物であり、掻(か)き込み、すくいとって塵(ちり)を捨てる道具であり、煽(あお)って糠(ぬか)と実(み)を分類するために必要な機能を兼ね備えた、基本的民具として形ができていた。箕を図解してみると図2のようになる。箕には三つの条件があり、物をすくいこむ「舌(ぜつ)」、両手で持つための「縁(へり)」、身体で支える「背」の三つの原則があり、これがなければ徳島では箕とはいわない。

3.日和佐での箕の使用例
 1)中野家の箕
 写真1は日和佐町字山河内の中野保幸さん(66歳)の使用している箕である。このA字形の、先が広くなった形が、県南部に古くからあった箕の特徴のようである。中野さんは山林業兼農業で生計をたてておられる。文化財保護、民俗関係にも随分と関心をもっていて、箕についても広い知識をもっておられた。「写真の箕は米麦用といっているが、穀類、豆類を『サビ』たり、『コロガシ』たり、『ユスッテ』選り分けたり、箕の上で『菜ヲモム』、種物(たねもの)を干したりするために使っている」という。また中野さんは、箕の材料は今はマダケを使っているが、シノベ竹がねばりがあり軽くて使いやすい、といって邸内に生育していた竹を見せてくれた。シノベ竹というのは篠(しの)竹のことであり、徳島の山地ではよく自生していて、昔はよく建築の「コマエ竹」(注3)として利用、また河川の魚釣竿(さお)として愛用されたものであったが、節が低く、肉がうすく、皮にネバリがあり竹も軽い。

 徳島県北部の吉野川沿岸にはハチク・マダケが多く繁茂し、箕にはマダケが最適だといわれているが、県南部にあたる日和佐町や相生町では篠竹が最適だといっている。それは何故であろうか。
 正徳2年(1645)自序の寺島良安著『和漢三才図会』によれば、箕の項の中に「中略…米ヲ簸ル箕ハ泉州上村ヨリ多ク之ヲ作リ出ス。楮(カウソ)皮ヲ割リ経(タテ)ト為シ、筱竹(ナヨタケ)ヲ破リテ緯(ヌキ)ト為シ、織リテ莚ノ如クシテ箕ノ形ニ作リ縁(フチ)ニ藤蔓ヲ纏フ」とある。250年前の泉州の箕作りを想像しながら、現在とどこがどう変わったかを考えてみた。

 2)虹羅(にじら)家の製茶用箕
 写真2は、日和佐町字赤松の虹羅茂夫さん(91歳)の父兼太郎さん(明治18年生)が自作したもので、約80年が経過して茶に染まり、真黒くなっているが、今も使うことに支障はない。1枚飛ばし網代編みで、きわめて荒く編んでいる。製茶操作における投入、受入れ、莚(むしろ)干し、移動、搬入、選別などに使用するもので、番茶が軽量であるために箕も軽く工夫されているが、必需品の一つで、大きさもこれが最適という。小箕だけでなく大箕も含め、虹羅家で箕を使用する場をあげてみると、写真3、4、5、6、7に示した通りである。
 日和佐町の海岸線から山を越えた那賀川沿いの赤松地区は、相生番茶として知られた発酵茶の産地で、虹羅さんも広い茶園を持ち、毎年7月から8月にかけて、十数人の茶摘みさんを雇って生葉を摘んでもらい、家族は家に居て朝4時から釜(かま)を炊き、蒸した葉を箕ですくって「茶モミ機」に入れる。モミ機から出てきた葉を、箕ですくって大桶(発酵桶)に入れる。桶の上に石の重しをして約10日間おいて、発酵した茶を桶から出し、庭にならべた莚(むしろ)に箕で運ぶ。莚に広げて1〜2時間置きに莚かえしをしながら、9時から午後4時半ごろまで乾燥して、完全に乾くと茶保存庫に運び、箕で約2mの高さに「ざらし」に積み上げ、全製品がそろうのを待って俵詰めをし、出荷する。この俵詰めにも箕が重要な役割りをもっている。(7月27日調)

 3)勘場瀬(かんばせ)家の箕
 写真8は、赤松字阿地屋の勘場瀬治雄さん(78歳)方の箕である。勘場瀬さんは中堅農家で、以前にタウス(モミスリ機)を製作していたという。タウスの目に埋めこむ木片は椎(しい)の木だという。日和佐には椎の自生が多い。勘場瀬さんは経験もあり、農具一般についても豊富な知識をもって居られた。写真8のような目の荒い箕を「チョミ」と言い、材料は「シノベ竹」が一番よい。日和佐でも西河内の富田病院付近で「灘亀太郎(なだかめたろう)」という人が箕をつくっていたが、5〜6年前に80歳くらいで亡くなった。腕のよい人で、生前は勘場瀬家にも泊まりがけで、よく箕をつくりにきたという。山河内の中野保幸さんの家の付近でも昔は箕をつくっていたが、今は日和佐につくる人がないので、「北方(きたがた)」(麻植阿波方面)の人が売りにきて、農協などで売っているという(日和佐でも新しい箕はA形よりも口幅が広いので、北方製であることがわかる)。
 写真8は「モミオロシ」といっている。籾(もみ)や豆のフルイとして使っている。
 写真9は「スミオロシ」。名のとおり炭窯用である。日和佐では明治から昭和初期にかけて、木炭の生産がさかんであった。木炭の窯出しには、この箕がなければ仕事にならない。フルイというより窯出し用具で、作業中に網目を通して灰が除去されるためと、軽いことで重宝であった。
 写真10も勘場瀬さんの箕である。使用法は改めていうまでもない万能の民具である。(平成8年12月8日調)

4)藤井家の箕
 写真11、12は、赤松字新発谷の藤井国子さん(75歳)が使用している箕である。いずれも大箕で、写真11は、12に比べて少し新しく見え、聞いてみると「麻植の人が売りにきたので買った。箕はまだまだ使用することが多い」という。写真12は「古くから使用しているもの」といい、永年の使用で黒光りして美しく、美術品のような感じがした。(平成8年12月29日調)

4.まとめ
 以上平成8年度日和佐町総合学術調査で、4日間をかけて、4戸の農家で箕がどのように使われているかを調査した。
 過去の道具と見られがちの箕であるが、4戸の農家では新しいものを買い求め、「これがなかったら困る」といって使用されている。製茶や、炭焼きは手作業が多いが、そこでは「箕がなければ仕事が進まない」というほどに、作業工程の中で重要な位置を占めている。
 もっと腰を据えて調査すれば、どこかではまだ大切に使っているところがあるだろう。
 箕を使うことを後進性だとはいえない。箕を示す文字が生まれて3,500年になる。それ以来まったく形を変えることなく使われている民具「箕」は、日和佐でも代表的な民具の一つであろう。
 手作りで、合理的な使用効果を持ち、長く人の生活とかかわってきたもの、そして今も使われている物こそ、代表的民具といえるだろう。
 注1下野敏見,西南日本の民具の背景と特色.民具研究,112.日本民具学会.1996.
 注2『朝日新聞』平成6年12月3日号
 注3「コマエ竹」日本建築に江戸時代からある壁下地で,柱の間を竹で編んで壁土を塗りつけるもの.

 参考文献
1.『大字典』上田万年編,大正6年3月15日,啓成社.
2.『和漢三才図会』寺島良安正徳2年自序,明治29年,吉川弘文館.
3.『天工開物』宗応星著,1637年.(■内清訳,1981年,平凡社)


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