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1.はじめに 本稿の目的は、日和佐八幡神社で毎年10月9〜10日に行われる例大祭の概要を報告するとともに、祭礼の中心となる「お浜出(はまいで)−お入(い)り」儀礼の持つ意味を明らかにすることにある。なお本稿で用いたデータは、1996年7月26〜27日、および10月8〜11日に行った現地調査で収集したものである。
2.神社と祭祀組織 日和佐八幡神社(日和佐町日和佐浦、永本正儀宮司)は、ウミガメの産卵で有名な大浜海岸近くの深い森の中にある。創建年代は定かではないが、観応2年(1351)銘の棟札の控が残されている。境内には、本殿・拝殿のほか、六つの境内社、九つの太鼓小屋(太鼓屋台やダンジリを納める小屋)、神輿庫(みこしぐら)、瑞亀(ずいき)閣(集会所)、社務所などがある(図1)。

祭りに引き出す屋台のことを、日和佐では「太鼓」(太鼓屋台)と呼んでいる。日和佐八幡神社の氏子区域14町(傍示)のうち、太鼓は、奥河町・戎町・東町・西新町・本町・桜町・中村町・戎浜の八つの町にある。寺込にはダンジリがあり、以前は町内を巡行していたが、現在は飾り付けをして太鼓小屋の前に引き出すのみである。太鼓を持つ各町では輪番で当屋が決められ、太鼓の練習場所を提供したり、宮銀(祭礼資金)の収集に当たる。 各町の太鼓を担ぐ(引く)役を「太鼓若衆」と呼ぶ。太鼓若衆は各町内の10〜30歳代の青年が担当するが、40〜50歳代になると脱退して「宿老(しゅくろう)」となる。宿老には町の先輩や顔役も加わり、指導役を務める。
3.祭りの過程 1)準備 祭りの1週間前を「一ノ宮」といい、この日から祭りの準備を始める。各町では、当屋の近く、または神社境内の太鼓小屋で太鼓たたきの練習を始める。祭り前日の10月8日に、総代は氏子青年会の協力を得て、御旅所の設置・幟(のぼり)立てなどの作業を行う。 2)第1日 10月9日(宵宮) この日の主な行事は、8台の太鼓が日和佐町内(日和佐中心部の7町)を巡行する「太鼓町廻(まわ)り」である。各町の太鼓は正午にそれぞれの当屋の元を出発し、あらかじめ決められた巡行ルートに従って町内全域を回る(写真1)。太鼓には中に打子4人(中学生)が乗り、宿老数人がザイを振りながら先導、太鼓若衆30人あまりが引いて歩く。太鼓は町内の一軒一軒を回り、お花(祝儀やお酒)を受け取る。お花は祭りの運営費の一部に当てられる。太鼓はゆっくりした調子で打たれるが、お花を出した家の前では、宿老のザイ振りの合図とともに急調子になり、「サッセー、サッセー」(差せ、差せの意か)の掛け声とともに、太鼓の下に付けられた車輪を軸として、太鼓を前後に大きく揺さぶってお礼をする。町の隅々を回り歩く太鼓町廻りは、地域の人々の間のコミュニケーションを深めるよい機会となっている。

町内を一巡した太鼓は、午後5時を過ぎたころから順次神社に戻ってくる(宮入り)。太鼓は「サッセー、サッセー」、「イッサンジャー」(勇ましいの意か)の掛け声とともに神前で激しくもんだ後、各町の太鼓小屋に納められる。境内には20軒あまりの露店が立ち並び、人でごった返している。 夜は境内で、巫女(みこ)姿の小学生による豊栄(とよさか)の舞・浦安の舞の奉納(6時20分)、子供相撲の奉納(6時40分)、氏子青年会主催の演芸大会(7時)、奉納花火(9時)など、一連の奉祝行事が行われる。 3)第2日 10月10日(本祭) 午前7時より、神社本殿にて例祭(神事)が行われる。総代など約30名が参加する。 午前7時40分、神輿廻祓(かいふつ)。神前に各地区選出の神輿担ぎが集合、御神酒を拝飲。神輿のお祓(はら)いが終わったところで、神輿に御霊(みたま)(御神体)を遷(うつ)す「御霊遷し」の儀が行われる。 午前8時30分、神輿が巡幸に出発。神前を出発した神輿は、境内瑞亀閣前に設けられた舞台の前に進み、豊栄の舞の奉納を受ける。その後、参道を大鳥居方面に直進し、大鳥居を出たところから右へ曲がり、町内巡幸に入る(写真2)。行列の構成は以下の通り(カッコ内は今年度の担当地区)。大太鼓(外磯町)→案内役(弁才天)→塩祓(田井)→榊(さかき)祓(寺込)→天狗(奥潟)→社旗(戎浜)→太刀持(東町)→奏楽(戎町)→神輿(神輿担ぎ14名)→守護(中村町)→警護前(本町)→警護後(井上)→金幣(奥河町)→御鏡餅(桜町)→御神酒(西町)。大太鼓は先触れで、その音を聞き、町の人たちが祝儀を持って出てくる。行列は町内をくまなく巡り、午前10時30分、神社に帰還する。

続いてこの後の「お浜出」に備え、宮司によって「太鼓据祓」(10時30分、各太鼓小屋の前)、「太鼓打子祓」(11時25分)、「神輿担ぎ祓」(11時30分)が行われる。 午前11時40分、煙火の合図で、「お浜出」が始まる。「お浜出」とは、神輿、およびそれに供奉する行列や太鼓が、列をなして神社から大浜海岸に下りていくことをいう。まず神輿が、それに続いて行列(午前中の巡幸行列と同じ構成。一般参拝者も参加)と太鼓が浜に下りていく。この日、太鼓は車輪を外し、太鼓若衆たちが肩で担ぎ上げる。太鼓の順序は、奥河町→戎町→東町→西町→本町→桜町→中村町→戎浜の順である。この順序は、平等を期すため、毎年一つずつずれていく。昭和初年までは、戎町・東町・中村町の「浦三町」が祭りの主導権を持ち、太鼓の出発順についても優先権があった。 神輿・行列・太鼓は、14本の大漁旗を立てて作られたゲートを通って、道路から浜に出る(写真3)。浜に下りた神輿は波打ち際を進んでいく。行列、8台の太鼓(およびそれに付帯する子供神輿)も神輿について進むが、威勢のよい太鼓の中には、「サッセー、サッセー」の掛け声とともに激しく荒れ、海の中に入っていくものもある(写真4)。神輿は、浜に臨時に設けられた御旅所に安置され、宮司によるお祓いが行われる。御旅所は、ちょうど、沖合いに浮かぶ立島の真向いに設けられている(写真5)が、島には海神・大綿津見神を祀(まつ)り、漁師の信仰が篤(あつ)い立島神社がある。引き続き、御旅所と立島とを結ぶ線上の波打ち際に臨時に祭壇を設け、海(島)に向かって大漁航海安全祈願の神事が行われる(宮司、総代、漁協組合長が参列)。太鼓も順次御旅所に到着し、宮司に安全祈願のお祓いを受ける。お祓いの終わった太鼓は浜辺の所定位置に安置され、昼食休憩となる。海岸では、千人あまりの町民の家族、知人などが敷物を広げ、食事をしたり酒を飲みながら祭りを見物しているが、見物客の数は、かつてはもっと多かったという。
 

午後2時、煙火を合図に「お入り」が始まる。「お入り」とは、神輿、およびそれに供奉する行列や太鼓(および子供神輿)が神社に還御することをいう。まず神輿が御旅所を出発し、その後に行列が続く。お浜出のときと同様に、神輿や行列は波打ち際を通り、再び大漁旗の間を通って神社に戻っていく。神社の舞台では豊栄の舞が舞われ、帰還を祝福する。舞に続き、総代が拍手で神輿を出迎える。神輿の御神体を、神社に戻す。 続いて、20〜30分ほどの間隔で、各町の太鼓が、お入りのときと同じ順序で、次々と神社に戻っていく。太鼓は、浜辺の所定の安置所から、波打ち際を通り、大漁旗の間を通って神社に戻る。お浜出のときと同様、帰路も海に入っていこうとする太鼓があるが、宿老たちは太鼓をぬらすまいと、懸命に太鼓の引き綱を引っ張って誘導する。 境内に戻ってきた太鼓は、激しく荒れる。神前に走りながら突っ込んできて、担ぎ手は「サッセー、サッセー」の掛け声とともに太鼓を高々と差し上げ、神霊に敬意を示す(写真6)。次いで太鼓は舞台の前に進み、豊栄の舞と総代たちによる出迎えを受ける。その後、太鼓はさらに境内を練り歩き、境内社と、すでに到着している太鼓に対して、掛け声を上げ、太鼓を差し上げて帰還の挨拶(あいさつ)をする。最後に自分の町内の太鼓小屋の前に行き、気勢を上げた後、太鼓を納める。その後も、すべての太鼓が神社に戻ってくるまで、太鼓をたたき続ける。太鼓の音が幾重にも重なって、周囲に活気あふれる空間を作りだしている。 午後5時30分、すべての太鼓が神社に戻り、それぞれの小屋に納められる。無事祭りが終了したことを祝い、神前で一番太鼓責任者による手打ち式が行われ、「日和佐八幡神社万歳」を三唱し、祭りの全過程が終了する。

4.まとめ―「お浜出−お入り」儀礼の意味するもの 以上、日和佐八幡神社祭礼の過程を簡単に紹介してきたが、最後に、この祭礼のもっとも重要な構成要素である、「お浜出−お入り」儀礼の持つ意味について検討を加えておきたい。 第一に、お浜出では、神輿や太鼓が海に入っていくが、この種のいわゆる「浜降り」儀礼に「潮による禊(みそぎ)」という意味があることは、すでに多くの研究者が指摘しており(参考文献2など)、また現地でもそのような説明がなされている。 第二に、人の住む世界(里)を此(し)界とすれば、海は神の住む他界と考えることができる(いわゆる海上他界観)。神輿・行列・太鼓の出入りに大漁旗で作られたゲートが使われること、御旅所が、海神を祀った立島の正面に設けられること、その島(に象徴される海の彼方の他界)に向かって大漁航海安全の祈願がなされることなどから考え合わせると、これら一連の儀礼を、他界(海)から此界(里)へと豊穣(ほうじょう)(幸)を呼び込むことを目的とした儀礼とみることもできる。「お浜出−お入り」の儀礼が、浜辺という、此界(里)と他界(海)の境界で行われる必然性もそこにある。 すなわち、「お浜出−お入り」の一連の儀礼には、八幡神社の神霊が、海の潮によって一年のケガレを落とし霊力を更新するという意味と、海の彼方の他界から人々の生活する此界へと豊穣(幸)を呼び寄せるという意味の、二つの意味が含まれていると考えることができるのである。
参考文献 1.笠井藍水編『日和佐町郷土誌』日和佐町、1957年。 2.神奈川県教育委員会編『神奈川県民俗芸能誌続編』、1967年。 3.佐藤文哉「徳島県南部における宗教儀礼と社会組織」(石躍胤央・高橋啓編『徳島の研究』 第6巻[方言・民俗篇]、164・209頁、清文堂出版、1982年)。 4.日和佐町史編纂委員会編『日和佐町史』日和佐町、1984年。
1)徳島大学総合科学部 |