阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
日和佐町の古文書調査

地方史班(徳島地方史研究会)

名倉佳之1)・立石恵嗣2)・須藤茂樹3)   

大柴せつ子4)・根津寿夫3)・

松下師一5)・金原祐樹2)

1.日和佐町調査の概要
1)はじめに
 現在近世の古文書は、非常に危険な状況にあるのを実感した。これが今回の日和佐町の資料調査での一番の感想である。
 日和佐町では徳島県立図書館が昭和51年(1976)3月に刊行した『徳島県史料所在目録7』の目録がある。この史料目録を元に歴史資料の調査にあたったのだが、目録どおりに史料が残されていることはほとんどなかった。この20年間で廃棄されたり、所蔵者が変わっていったということである。確かに古文書の多くは、草書体で書かれて読みづらく、保存状況が悪ければ汚いことが多い。しかし、それらはその地域のことを具体的に知ることができるものであることは間違いない。今後、是非これら残された史料に対して何らかの対策がもたれ、永久に大事に保存されることを願ってやまない。
 そういった中でも、志茂田家文書のように県立図書館の目録にはなかったが、大事に保存されてきた文書があった。このような文書は、もっと腰を据えた調査を行えばまだあると思われる。今後も継続的な調査を期待したい。
 この報告書では、まず各家の調査の概要、次に各論として日和佐川の上流山河内村大越の志茂田家文書の分析と補論2本を掲載した。
2)日和佐町北村家文書の概要
 北村家は代々日和佐浦の庄屋をつとめた家である。同家に残る文書・絵図は15点(表1)で、「文化九申年海部郡日和佐浦棟附人数御改帳」などの村(浦)の基本帳簿が目立ち、日和佐浦を考える上で不可欠な文書群である。以下、同文書について簡単に述べる。

 まず「海部郡三番組之内日和佐浦戸籍」は、住人の生業と家族構成、出身地などが記され、日和佐浦住人の存在形態を知ることができる貴重な史料である。次に加子の負担を具体的に知ることができる文書としては「日和佐浦加子御役引并見懸銀御引捨奉願上控」(加子役・早緒役)や「日和佐浦恵比寿浜見掛人取調奉指上帳」(見懸銀)がある。これらの文書からは、江戸後期には退転者の比重が高くなり、役負担に支障が出る程、浦が疲弊していたことがわかる。また阪神淡路大震災を契機として災害史が注目されているが、地震による被害状況が分かる文書には「嘉永七寅年十一月五日津波大地震ニ付奥河内村田地大地震ニ付潮入御鍬下名寄帳写」と「日和佐浦古地図」がある。なお後者は地震によって崩れた台場を図示するとともに、陣屋や分一所などが描かれ、日和佐浦の概況が分かる貴重な絵図である。
 以上、北村家文書・絵図についてふれてきたが、本文書の特徴は日和佐浦の基本史料が数多く含まれていることである。これらの中には『日和佐町史』に翻刻、利用されたものもあるが、今後とも地域を語る貴重な文化財として、保存と一層の利用を図る必要があるだろう。(根津寿夫)
3)日和佐町北村家の絵画・書跡資料の概要
 今回の調査では、9点の古書画と14点の昭和時代の書画を確認することができた(表2)。江戸時代のもののなかには、藩御用絵師中山養福や阿波の町絵師三木恒山の作品が含まれている。
 近代の書跡は漢詩がほとんどであり、作者名が多岐にわたり、当時の人的交流を知ることができよう。
 一点だけ紹介する。中山養福筆「桜に鷹図」(写真1)は典型的な狩野派の画題である。黒い線で風を表現し、桜の花びらがハラハラと散っている。かなり住吉派を習得していることが作風から見て取れる。中山養福は藩の御用絵師で、幕府御用絵師狩野晴川院養信に学んでいる。(須藤茂樹)

4)日和佐町照本家文書の概要
 照本家文書は、地域に残された古文書や歴史資料などの文化財に興味を持たれている、ご当主の照本勝氏が個人的に収集された文書群である。一点一点袋に入れた上、丹念に整理されて木製の書箱に保管されており、「古文書目録」も既に作成されている。
 文書群は二つに分けられる。
 (1)谷屋家文書
 日和佐浦の庄屋を務められた谷家の文書は全部で46点。「延宝2年 海部郡日和佐浦棟付人数改帳」「延宝2年 海部郡日和佐浦加子役改帳」などの基本台帳によると、この時期日和佐浦では、家数269家、人数688人、高87石9斗7合であることがわかる。また幕末維新期の真言・浄土・浄土真宗各宗派の「宗門御改帳」7冊、明治初年の「名東県通達」や「県報」の断簡など約20点。海部郡代の屋敷であった御陣屋の屋敷図(明治4・5年)3枚が残されいる。このほか、「魚商人仲間究書之事」(文化14年)や「浦里水主賃金並上下運賃」(文化11年)、明治初期では「乍恐奉願上証 漁船代金借用願」、「日和佐浦定控 海藻採取期日申合せ」「湊柱祭日之義ニ付御願」など漁村である日和佐の日常生活に関する興味深い文書が断片的ではあるが含まれている。
 (2)灘本家文書
 大正期に郡会議員を務めた灘本京四郎家の文書で、尋常小学校卒業証書類約30点や「日和佐村会議案」(明治37年)、「通行手形」(元治元年)、「売薬営業」に関する書類約8点なども含む57点である。なかでも奥河内村の青海苔株の売買証文「譲買青海苔株証文」2通(文久2年・安政6年)も含まれており、この地域の産業や生活をうかがうことのできる興味ある断簡が含まれている。(立石恵嗣)
5)日和佐町山河内志茂田家文書の概要
 日和佐町山河内の大越地区にある志茂田家は、主に林業と農業に携わってきた旧家であり、今日でも現当主の志茂田愛吉氏は、林業・製材業および農業に従事されている。
 第5代当主の房吉(1808?〜1880)が当家の家譜を書き記した『家代続縁組筆記』(整理番号15)によると、志茂田家は勝浦郡中津野村(現在の勝浦郡勝浦町中角)出身の弥左衛門(1639?〜1722)という人物が、享保年間以前に山河内村大越へ移り住んだことからはじまったとされる。弥左衛門については「山■いたし候所、折から山も休ニ相成無餘義、岩之間を取開田畠ニ仕立住舞いたし候」(同書)と記されており、もっぱら山野をめぐり「山」に従事していたが、それを休まざるを得なくなったために、日和佐川沿いの谷間である大越に、田畑を開発して定住したのである。
 その後志茂田家は、大越の豊かな山から材木を切り出し、それを日和佐川を利用して日和佐浦へ出荷することにより家産を大きくし、江戸時代後期に活躍した4代弥左衛門(初名辰太、1741?〜1814)・5代房吉のころには大越を代表する勢家として地域の産業・金融・行政に大きく寄与している。
 当家に残された古文書の一群にも、山林売渡(整理番号17・19)や材木運上の証文(整理番号9・13)など林業に関するものや、金銭貸借・質地証文(整理番号3・4・8・12・18・29・55・56・68・73・79)などの金融に関するもの、年貢納入・減免(整理番号6・20・23・43・50)や検地(整理番号21・24・44・58)などの行政に関するものが多く含まれている(表3)。こうした文書の詳細な内容については次章に譲るが、ここでは特徴的な二つの点についてのみ触れておきたい。

 ひとつめは、文書中で「大越五人之者」と称されている大越地区の百姓たちの結束のあり方についてである。大越は、山河内村の庄屋居住集落より離れた位置にあるため、庄屋が行うべき行政的な機能の一部を「大越五人之者」が担っていたと考えられ、彼らはどういう組織や職掌で行政的な機能を発揮していたのか、また独立性の高い組織ならば、同じ山河内村の庄屋と利害関係が反する事件が起こった場合、どう処理されたのか、等々の点が興味深い。
 ふたつめは、この文書群の中に調達金に関する史料が多く含まれている(整理番号5・7・11・52・54)ことである。調達金は、藩財政の窮迫を解消すべく、徳島藩が有力な富商・富農に賦課した上納金のことであり、かつては上納の金額をもって富商・富農の経済的規模を類推する指標と考えられていた。が、現在では富商・富農は全額を単独で上納したものではなく、関係する取引先や近隣の商家・農家などから供出させた金子を取りまとめて上納したとも解されており、すぐさま指標に用いることを疑問視する意見もある。志茂田家の文書群に含まれる調達金関係の文書は、こうした調達方法の実態を解明し、諸学説の対立に答えを示す一助となるのではなかろうか。
6)日和佐町奥河内湯浅家文書の概要
 日和佐町の湯浅家については、笠井藍水氏編纂の『海部郡誌』(昭和2年、徳島県立図書館所蔵)や、それをわかりやすく書き直した『日和佐町郷土誌』(昭和32年、徳島県立図書館所蔵)に触れられているので抽出しておこう。
 日和佐町は藩政時代、奥河内村、日和佐浦、恵比寿浜の三浦に分かれていたから、庄屋も各1軒ずつあった。ただし恵比寿浜は小村であったから、文化ごろまでは五人与(組)のみであったようである。奥河内村庄屋は現在の湯浅幾太郎の先祖が代々務め、日和佐浦は現在の北村雅勝の先祖が代々務め、恵比寿浜は新居正之の先祖が代々務めた。
 湯浅家の享和4年(1804)の文書には、奥河内村惣代6人の名が連署されており、総代の制度は古くから行われていたようである。また五人与は奥河内、日和佐浦共四人宛連署している。それと岩吉と云う年寄一名があって両村兼帯となっている。
 湯浅家には、享和及び文化ごろの文書控が十数通保存されていたようであるが、その中に次のように記録されていたと言うことである。
〇私儀往古より代々日和佐村総庄屋相勤め海部郡中にては高毎相控居候に付
御巡国御本陣、御巡見使様御宿、且つ当御陣屋先年焼失仕候て凡そ五拾年余右御陣
屋替り御代官所様御宿大様多年相勤め且又海部郡上下灘へ御通行遊ばさる諸御奉行様方御
宿相勤め先祖共より代々御目見え仰付させられ冥加至極有難く取続居り申候所云々
(日和佐村庄屋氏右衞門)
〇日和佐村庄屋氏右衞門方之儀当所開基と申伝え候旧家にて云々
〇一米貳拾八石五斗  日和佐村伝馬所諸裁判人並に御扶持人賃米共
 右者日和佐四カ村伝馬所これあり通にて相勤居申候所云々
註 御巡国御本陣は藩主巡国の宿所、御巡見使は幕府の地方監査使、伝馬所は今の郵便の ように書類の伝送を扱う。
 庄屋氏右衞門の養父和三郎までは日和佐村伝馬所を務めており、先祖は八郎山(山河内)御林下の大越という所に田畑を開き、古くから耕作をしていた。また上記の文書に日和佐村とあるのは奥河内村と同じである。日和佐村総庄屋と云いあるいは日和佐四カ村とあるのは、日和佐村の外に北河内、西河内、山河内の三村を加えて言ったのである。その後湯浅家の系統は、天保ごろに瀬衞門があり、この人の時代に明治となり、庄屋が廃止された。庄屋時代の邸宅は本町南方の西側で、広大な屋敷であったという。
 以上が前掲二誌の概要であるが、この夏湯浅家にお邪魔した折には、上記の古文書類は保存されておらず、表4のものが保管されていたので付記しておく。

2.各論「日和佐町山河内志茂田家の入植と展開」
1)はじめに
 近世期は開発の時代でもある。技術の進歩とともに生産活動も活発となり、それまで未開発の山村林業地域へ入植し、開発にあたる人々も現れた。
 日和佐は、日和佐浦を中心に廻(かい)船業が盛んで、大量の木材や燃料材が、大坂をはじめとした地域に回送されていたことが知られている。こうした日和佐浦を中心とした商業・廻船業の発達の裏には、周辺山村の開発が不可欠であったと言えよう。今回私たちは幸運にも、日和佐川上流域で古くから林産業に従事していた志茂田家の資料を見ることができた。この志茂田家が、どのようにこの地域に定着し展開してきたかを見ていきたいと考える。
2)「大越」について
 大越は日和佐川沿いの地域で、山河内村の一番奥にある。ご当主の志茂田愛三氏によれば、日和佐川流域はもともと道もなく、日和佐川が唯一と言ってよい交通手段であり、また、南側の山をひとつ越えれば牟岐に出ることができ、そちらの方が距離的には近く、交流もあったこと、日和佐川を使った林業は現在まで続いていることなどを伺った。現在でもこの地域に、手入れのいきとどいた美林が広がっている。志茂田家の上には家は一軒しかなく、志茂田家あたりまではなだらかな道であるが、突然急峻(しゅん)になる地域であり、あと10km ほどで牟岐町と上那賀町との境目に達するとのことである。さらに、日和佐川沿いで水が引け、開発ができそうな場所には狭いながらも美田が広がり、この奥深い地域で営々と開発を続けてきた人々の努力がしのばれる。
 なお当家の所持する史料の詳細は、別記目録を見ていただきたい。以下、史料からの抜粋を引用しながら、近世の「大越」地区の開発について見てみたい。
3)大越への入植
 江戸末期から明治に生きた志茂田家の6代房吉の作成した『志茂田家系記録』は、志茂田家の累代の記録及び家業・家訓・調達金から渡世山の聞き書きに至るまで、多くの内容を含むすばらしい史料である。志茂田家の歴代は図1のとおりである。

 この記録によれば、初代は「勝浦郡中津野」(現、勝浦郡勝浦町中角)からこの地へ入った「弥左衛門」である。勝浦郡中津野村は、寛文4年(1664)の高辻(つじ)帳で315石余、勝浦川中流域に開けた農村である。この地域からどのような理由で大越へ入植したかは不明であるが、この地域で「山」を行うために入植した。また入植時期ははっきりしないが、元禄8年(1695)の証文が残っていることから、元禄以前であることは間違いない。その後享保7(1722)年に82歳で亡くなるまでに、「山茂休」(急速な山の開発によって山林資源の枯渇を招いたから留山となったのであろうか)になったので、わずかな岩間を開墾し田を開いたという。開墾は土地に限度があり、厳しい生活を強いられたであろう。
 近世、阿波国の山はすべて藩有林であったとされる。『志茂田家系記録』の中にある「大越渡世山之聞伝写」によると、現在杉の美林で覆われている大越の山々の出発点がわかるので、しばらく史料に沿って見てみることにしたい。
 「大津恵傍示」360町の内、半分の180町は「大越渡世山」、残りの180町は「四河内渡世山」である。前者については、元禄7年(1694)「御代官粟田仁左衛門」が牟岐から大谷へ通ったとき、「山河内村役人大越百姓」たちに「此山間ニ人家有や如何」と下問があった。答えて、「家」といえるようなものはなく、「小屋掛」している状態だと申し上げたところ、さらに「何を以て渡世仕るや」と尋ねられたので、村役人が「此者共」は「稼」というものはなく「岩の間せせり少シ者稲作仕」ったり、「草蘇」や「山芋」を採って生活している状況を訴えた。さらに村役人は「山南成とも北成とも下置さるゝなり」。併せて、「大越五人」へは「壱人ニ付」いて「弐拾尋」分の木の「切流」を認めて下さるようお願いした。また「運上」の一年分免除を同時に訴えた。代官はそれを許可するのは「夫助」のためではなく、「家屋養育」のためと答え、許可されたのである。
 その後、大越百姓が渡世山について、「三ケ年分壱ケ年ニ切流」を仰せ付けられるよう願い出たところ早速聞き届けられた。そしてさらに「拾ケ年」お願い申し上げたところ許可された。結局のところ山を二つに割り、「五ケ年廻り」に「切流」ことを認められたので、少々の「冥加銀」を差し上げることになった。この後「御林方様御蔵處御構」になり、「御運上」を課せられるというので「迷惑」であること。もしまた願い出る機会があれば、この旨を訴えたい事などを記している。
 要するに、大越の人たちは元禄期に初めて木材を伐採することを藩から認められ、筏(いかだ)に組んで日和佐川へ流すことを認められたこと、その後、願い出によりその割合がだんだん増えていったことがわかる。大越の人たちはやっと生業が成り立つようになったのである。 次に、そのほかの入植当時の状況がわかる史料を見てみよう。
 (資料1)
      仕渡書物之事
  一 米五斗 右ハ私共御年貢未進、御情ニ而貴様
   相頼借用仕御蔵入被成被下候、返弁之義ハ
   来年御売付米直段ニ仕御返弁可仕候、
   右代銀貴様仕置ほさ木いたすり木屋ニ
   御座候、右之ほさ木私共流出シ其賃金ヲ以
   指引算用可仕候万一賃金ニ而も相済不申
   候ハゝ其節相当程私共牛御取可被成候其時
   一言迷惑と申間敷候為其取立与三右衛門殿
   加判申請相渡申上ハ少も相違無御座候
   仍而為後日書物如件
  元禄八年         大越 弥左衛門
     亥十一月廿一日   同  長左衛門
               同  吉左衛門
               日和佐村取立証人
                  与三右衛門
     豊後屋
       徳右衛門
 この史料は、元禄8年に初代の弥左衛門以下2名の大越の人々が、年貢未進を理由に日和佐の廻船商人豊後屋徳右衛門から米を借用する為に出された証文である。この証文がなぜ志茂田家に残ったかは疑問であるが、興味深い内容を多く含んでいる。
 元禄8年の段階で大越地区では、まだ林産物の流出を行っていること、それを日和佐の商人である豊後屋徳右衛門が仕置をしていたこと、また、大越の3人の証人として与三右衛門という人物が関係していることなどが分かる。また、弥左衛門たちが牛を所有していたことなども興味深い。牛は、林産物の切り出しには無くてはならないものであったと思われるが、山稼ぎの賃金収入等により、それを所有するだけの余裕もあったことを示すのではないだろうか。
 このように入植時期と思われる元禄期の状況は、厳しいばかりではなかった。山稼ぎが認められ、日和佐の廻船商人の資本が導入され、賃銭を得られる状況によって入植者の定着は促進されていったのである。
 これらは、大坂の好景気による木材需要の増加などの動きとも関連があるといえよう。
その後山の開発は止められる。急速な開発により山を休めて植林することが必要になるなど、現代にもつながる問題が起こっていたのではないだろうか。それらに翻弄(ほんろう)されながらもたくましく生きた大越の人々の生活を見ることは無意味ではないだろう。
4)享保5年の検地と開発
 近世の農村は、検地帳が作られ、名負人が確定することによって村として認められることになる。山河内村大越傍示は、享保5年(1720)に検地が行われている。大越が開発地として藩に認められたのである。
 その検地帳の内容は表5のとおりである。弥兵衛は、志茂田家の2代当主であり、安兵衛は、志茂田家の分家と思われる。他の3人も、元禄8年の証文に出てきた長左衛門・吉左衛門を継いだ者たちと考えられる。彼らの所持するのは「畠4反5畝9歩、石高1石4斗1升4合」で、大越の畑の約半分強でしかない。それ以外の4町あまりの土地は、奥河内村の与三右衛門の所有地となっている。与三右衛門は、元禄8年の証文にも証人として顔を出すが、この地域の開発責任者であり、資本を出し、志茂田家を初めとした大越5人のものが開発・小作を請け負っていたのではないかと思われる。

5)その後の大越
 日和佐川を逆上ると、杉の美林の広がる中、奥へ奥へとあちらこちら小さな棚田が見え隠れし、それが意外と多いのに驚く。この田の開発はいつどのようにして行われたのであろうか。それを知るてがかりが『志茂田家系記録』の中にある「代々稼業心得之事」に見えるので、今すこし詳しく見てみたい。これは志茂田家6代の房吉が、子孫に書き残した家訓である。彼は前述の『志茂田家系記録』に、明治13(1880)年に「右房吉大ニ仕出シ七十二ニ而終り」とあり、おそらく19世紀半ば、彼の代に志茂田家は家運が大いに盛んであったといえる。以下、どのようにして房吉の代に至るまで「仕出す」ようになったか、史料に沿うこととする。
 房吉の祖父の「多兵衛少シ畠開申候」、その子の「弥左衛門心得ニ而宮本ニ而畠少シ」あったのを「何卒田地ニ取開」たく申し出たところ、すぐに聞き届けられて「飯料として御米弐石」を下さった。それを飯料にして「溝普請取懸」ったところ、最終的に成就できず心配していた。府内落合の喜左衛門に相談したところ、共に心配して椿谷助左衛門のもとへ掛け合ってくれ、「我等三人組ニ而頼母子講」を作ることになった。それは「互ニ辨利」な時に「米壱斗」ずつ持ち寄り「壱人役」を手伝うことに決めた。この講によりあちらこちらの溝が成就し、田地が2反ほど開かれた。その後、八郎口にも6〜7年かけて6反を開いた。このように親子で「仕残シ」たのであるが、房吉の親弥左衛門が遺言でいったことは「家並田置し」と「物置壱軒」を早々に作るようにということだった。そこで早速これをやり、次に「甚田」に取り掛かった。この田はもともと7反あったのだが、「丑ノ年川成」になり、やっと「麦6畝」が残ったに過ぎない。これを「開帰り」たいと願い出て、「田地幅七反程」を取り立てられた。
 このように苦労して開いた土地なので、「子々孫々ニ至迄」よく心掛けて「大酒埒奕」や「遊長ケ間敷暮方」をしないよう、もし「不届者」が出た場合は先祖の苦労話をよく読み聞かせていさめ、末代まで家が続いていくようにと言い残している。
 山奥の田の開削方法についての興味深い事実がここに見られる。すなわち頼母子(たのもじ)講などの協力体制を取っていること、「開帰り」とあるように、もともと田であったものが何らかの理由で荒廃地になっているのを、再び田に起こしていることなどである。
 また房吉は、幕末に藩から「御用調達銀」を出すよう命じられて応じていたり、志茂田家にはおびただしい枚数の地券が束になって残されており、多くの山々を志茂田家が所有している事実がある。また19世紀半ばに藩主の若様が視察にやって来て近辺で宿泊した際、志茂田家から鶴を食膳(ぜん)に差し上げ、その時の「鶴の足」と伝えられているものが現当主により大切に保存されている。先祖代々苦労を重ねてこれほどまでに盛大に「仕出し」た稼業を、子孫が堅実に守り通してくれるよう、願いを込めて言い残さずにはおられなかった彼の気持ちが、行間から私たちに伝わってくる。
 以上、志茂田家史料から抜粋して、大越の発展について垣間見た。わかったことは入植が17世紀後半であること、18世紀前後に藩から木材伐採の許可を得て、以後林業を手掛けて発展し、幕末のころには大いに隆盛であったこと等々である。この大越の例は、近世の阿波の山間部にほぼ当てはまることではなかろうか。どんな山の奥であろうと、生産の条件に見合った生業を人々は見いだし、努力を積み重ねて今日に至っていることを知り得た今回の調査であった。(大柴せつ子)

3.補論1「日和佐町郷土資料室に残る遠眼鏡について」
 この遠眼鏡(写真2)は三つの筒よりなり、全長91.4cm。直径は先端が5.4cm、手前が3.2cm。筒は反故(ほご)紙を利用した一閑張りで、軽量なので携帯に便利である。また筒の縁には真鍮(ちゅう)が巻かれて補強されている。現状は、最も手前の筒が外れているほか、レンズも手元部分しか残っておらず、良好とはいえない。
 なお、この遠眼鏡には箱が付いており、蓋(ふた)裏には次のような墨書がある(写真3)。

(遠眼鏡箱の蓋裏墨書)
「 此遠眼鏡、文化四卯年六月十四日本〆穂積與兵衛より於
  御城坪井右衛門江相渡候ニ付当時大島御番処江相渡置、其後日和佐
  御陣屋ニ寛政四年より御指置之方大島江相渡し、此眼鏡竹ヶ島遠見御番処江
  相渡候義与相見、其已来右御番処ニ有之取調候処眼鏡曇居候ニ付、弘化三
  午年六月御繕之義本〆江懸合指出置候処、同年九月御繕出来数川源太兵衛より
  高木真蔵江相渡候ニ付為後年手続記置者也  弘化四年丁未四月        」
 この遠眼鏡は、文化4年(1807)に徳島城において、本〆役穂積與兵衛から那賀海部郡代坪井平右衛門に渡されたもので、当初は大島番所(海部郡牟岐町)で使用された。その後、日和佐陣屋で寛政4年(1792)より使用してきた遠眼鏡を大島番所へ送り、代わりに本遠眼鏡は竹ヶ島遠見番所(海部郡宍喰町)で使われることになった。それ以来、この遠眼鏡は同所で使われていたが、レンズが曇ったため弘化3年(1864)に修繕され、那賀海部郡代高木真蔵に渡された。なお、この遠眼鏡が日和佐に伝来することから、修繕後は同所で使用されたことが想像できる。
 さてこの遠眼鏡は、最初大島番所で使用されたが、『海部郡誌』によれば文化3年(1806)に同島絶頂に遠見番所と狼煙(のろし)場が併設されたとあり、本遠眼鏡が、両施設で使用するために作製されたことが分かる。
 また具体的な日時は不明であるが、文化年間以降、日和佐で使用されていた遠眼鏡が大島番所へ、大島番所のものが竹ヶ島遠見番所へと移され、海部郡の海辺警戒体制が再編・強化された。こうした動きは、あいつぐ異国船の来航を背景に、海防意識の高揚に照応するものと考えられる。
 ところで、遠眼鏡は徳島の沖洲望遠台でも使われていたことが報告されている(遺物展出陳目録『藩祖家政公御入国三百五十年記念 法要誌』昭和10年)。同書によれば、この遠眼鏡の用途は徳島藩主帰国時の着岸時刻を観測するためとされている。蓋裏書の記述と関連して、江戸後期には、遠眼鏡の使用は一般的であったと思われる。
 なお、海辺の番所で使用された遠眼鏡が現存するのは極めてまれで貴重である。その上、蓋裏書によって本遠眼鏡の来歴までを知ることができる点で、本遠眼鏡は得がたい資料である。(根津寿夫)

4.補論2「日和佐の狼煙台・砲台」
 狼煙台・砲台については、『日和佐町史』で、狼煙台は恵比須浜東方山上、砲台は指ノ鼻砲台と後山砲台の2カ所という説明がされている。その史料の出典は、安政年間に作成されたとする北村家の絵図についてははっきりしているが、そのほかについては出典の記述がされていない。また、狼煙台・砲台の位置については時代による変遷等も考慮に入れる必要があり、再考が必要である。
1)北村家に残る絵図
 『日和佐町史』にも紹介されている北村家の絵図は、日和佐郷町を描いた極彩色の絵図である。土佐街道に沿った日和佐の郷町の発展や、日和佐の湊(みなと)、堀、御陣屋(郡代所)、分一所、硝煙蔵、などの様子が詳しく書かれており、非常に興味深いものである。ただし、日和佐浦の東にある恵比須浜については北のはずれに田地の一部が見られるだけで記されていない。この絵図が作成された理由は、二つの砲台にあると思われる。砲台までの道筋や現在の状況は、ほかの記述に対して詳しく書かれている(詳しくは『日和佐町史』276頁参照)。作成年代は『日和佐町史』にあるとおり、指ノ崎砲台が崩れた時(去る寅年)の記載があり、安政2年(1855)以降数年のうちに作成されたと見られる。
2)国立史料館所蔵「蜂須賀家文書」の絵図と資料から
 国立史料館所蔵の蜂須賀家文書の中に、絵図付きの海部郡内の砲台・狼煙台の資料がある。弘化2年(1845)8月1日付けのこの資料は、桑井薫著『阿波淡路両国番所探訪記』に紹介されている。
 絵図によれば、日和佐町域では、日和佐浦の領域として嵐山(指ノ鼻)、恵比須浜湾内後山、恵比須浜口遠見崎の3カ所があがっている。恵比須浜口の遠見崎には砲台と狼煙台が、他の2カ所には砲台があったことがわかる。またその位置関係もはっきりしている。
 蜂須賀家文書「覚(異国船渡来ニ付き海部郡中狼煙場取決方窺書)」にはその成立年代も記してあり、寛政5年(1793)に嵐山(指の鼻)・恵比須浜後山の砲台が設置され、弘化2年に遠見崎の砲台・狼煙台が設置されたことがはっきりしている。この史料によれば海部郡では表6の通り、寛政5年に9カ所、文化5年(1808)に4カ所、弘化2年に5カ所で合計18カ所の砲台・狼煙台が設定されたが、場所が悪い1カ所は差し止めとなっていることがわかる。砲台・狼煙台が設定された場所は山上が多いので、道筋の確保や場所の確保が難しかっただろうし、また北村家の絵図で見られたように、砲台の場所自身が地震で崩れたりというようなこともあり、場所や規模の変更はかなりあったと考えるのが妥当であろう。(金原祐樹)

1)徳島文理高等学校 2)徳島県立文書館 3)徳島市立徳島城博物館
4)徳島県立城之内高等学校 5)松茂町立歴史民俗資料館


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