阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
南羇漫詠にみる海部那賀郡代高木真蔵

郷土班(阿波郷土会)  真貝宣光

 高木真蔵(1816〜1882)は天保10年(1839)2月から安政2年(1855)12月までの長期にわたり海部那賀郡代を務め、その間18回、公式勤務として日和佐陣屋へ現地赴任し、その度に2〜7ヵ月の間海部地方に滞在し民政に当たっている。そして善政を敷いた事から名郡代と称賛され現在に伝わっている。しかしながら、なぜ名郡代と称されるのか、どういう業績を残したのか、現地赴任制とはいかなるものなのか、等々についてはあまり明らかでないのが現状である。

 高木真蔵が海部地方の人々から尊敬されていたことは、日和佐八幡神社参道入口の左側に徳島県知事清水良策の揮毫による「高木真蔵先生功績碑」(図1)が存在する事からも認められる。功績碑は昭和13年(1938)7月に海部郡教育会が建立したものであり、当初は日和佐町役場(旧日和佐陣屋)敷地内に建てられていたが、町役場の改築の際現在地に移転建立されたものである。残念な事ではあるが「功績碑」と題しながら一字の碑文も刻まれていないため、どの様な功績を顕彰するために石碑が建立されたかは不明である。しかし教育会による建立であり、他の資料に「海部那賀両郡在所分文化相開ケ不申ニ付、日和佐・富岡両所ニ郷学校を設、衆庶を導候……私より建言仕始末引受相勤候」(『勤務廉書』)とあり、学校を開設する等地域教育に貢献した事によるものと推測される。この日和佐における功績碑の建立に際し、真蔵の嫡子貞衛は大阪阿部野斎場にある高木真蔵の墓前に、記念碑を建てその事を後世に伝えている。碑文は次の通りである。

 自珍斎靖翁思風居士ハ予ノ先考ニシテ家祖八世高木真蔵ナリ、予カ家代代阿淡ノ国主蜂須賀侯ニ仕フ、先考壮年時代ヨリ郡宰ニ歴任セルコト前後三十有八年、其間幾多ノ治績ヲ挙ケラレ且阿淡両国ニ於ケル砲塁築造等兵備充実ノ職ニ當リ、国主ヨリ特ニ恩賞ヲ賜ハリタリ、先考少壮ニシテ俳道ヲ嗜ミ正風ノ派ヲ樹テシカ、致仕後教部省ヨリ教導職ニ補セラレ俳諧ノ正道ヲ以テ風俗ヲ正スヘシトノ内諭ヲ受ケラレタリ、而シテ先考ノ著述ニシテ兵法及歌詠紀行文等遺稿ノ我家ニ秘蔵セルモノ二百餘巻ヲ数フ、先考晩年居ヲ大阪ニ移シ明治十五年十一月十三日六十七歳ニシテ永眠シ給ヘリ、先考逝キテ恰モ五十六年ノ今年七月舊任地徳島縣海部郡教育会ノ主催ニ依リ在任中ノ功績ヲ顕彰セラレ、同郡日和佐町ニ於テ慰霊祭ヲ挙行シ功績碑ヲ建設セラル、衷心感慨無量ナルモノアリ、茲ニ自カラ拙キ碑文ヲ誌シ先考ノ墓前ニ献ク

 高木真蔵の略歴を知り得る出版物として『ま幾能志つ枝』(明治36年〔1903〕刊)、『御大典記念 阿波人物鑑』があるが、前者は真蔵と親交のあった小杉榲邨が書いた「はしがき」の中に真蔵の経歴が述べられているが、歌・俳の書という性格から文・武についての記述に偏り、行政官としての真蔵についてはあまりふれられていない。また後書は概略的であり詳しくはわからない。
 この度の総合学術調査に際し、冒頭の課題を少しでも明らかにするべく史料調査を試みたが、満足の行く成果は得られなかった。本報告では真蔵が海部那賀郡代在勤中に詠んだ歌を、明治3年(1870)に取りまとめ清書した『南羇漫詠』を基礎史料とし、真蔵の日和佐近辺での足跡を抽出してみる事とした。歌集という限界はあるが、真蔵の郡代としての行動をある程度追える内容となっている。そして行政官として取り組んだ重要な事項については、真蔵自筆の履歴書である「勤功並武芸等之儀、極内々御尋ニ付相認申上候 三通之留書」(文久3年〔1863〕)、「勤務廉書」(明治4年〔1871〕)で補足し、補足事項については◎印を付しておいた。
 紙面の節約から、引用古文書の全文は紹介できないが、履歴に関する2点については、『ふるさと阿波 158号』(1994年3月刊)に高木真蔵関係文書(1)として活字化済であり、「南羇漫詠」は『ふるさと阿波 168号』(1996年9月刊)以降、数号にわたり連載したので、興味をお持ちの方はそちらを参照頂きたい。

 海部那賀郡代在任中の真蔵の足跡
1  天保10年(1839)
 ◎2月9日 高木真蔵海部那賀御郡代に仰付(おおせつけ)られる。
・6月1日徳島出立、[往路]勝浦川――地蔵寺(立江)――岩脇取星寺(泊)――
明谷村――鉦打坂(下福井)――松坂峠――西由岐八田某宅(泊)――木岐地蔵坂――日和佐御館着(原長興と交替)
・下灘行、河内村(河内不二)――牟岐浦〜〜出羽島〜〜浅川浦(かろふと坂)――鞆浦(古城山、御殿跡、法華寺)――牟岐――日和佐
・弓術を教えるため日和佐御館に射場を築き射場開きを催す。
・7月15日、日和佐で盂蘭(うら)盆の踊りを観(み)る。(徳島の踊りと同様)
・7月26日、郷司真永と替わり帰徳。[復路]雄村川口より船で長川を下る〜〜和食村殿谷某宅で泊まり、さぼてんを観て、蛭子宮、太龍寺へ行く〜〜臼の瀬――沼江村、船で勝浦川を下る――家。
2  天保11年(1840)
・4月14日徳島出立、[往路]下福井(泊)――鉦打坂――日和佐
 ◎この年、那賀郡下福井村鉦打坂から海部郡宍喰浦古目御境目まで日陰松を植える。
・7月5日、暑さしのぎに医王山に登る。
・赤松村の廣田某の家に行く。
3  天保12年(1841)
・12月半ば、三度の任に日和佐へ。
・天保13年1月、赤松村へ行く。
・日和佐より船で木岐へ。
・医王山に登る。
・同2月、日和佐より帰る。[復路]亀崎山(中林村)――徳島
5  天保13年(1842)
 ◎上郡騒動の鎮圧のため1月7日の夜徳島を出立、美馬三好両郡の所々に逗(とう)留し2月晦日(みそか)に引払う。
・12月4日、5度の任に日和佐へ向かう。郷司・武市の両氏と同道する。[往路]大井手用水(那賀郡)を見学して日和佐へ。
・木岐へ鹿(しか)狩に行く。
・御鉄炮(おてっぽう)に備え打ちを教える。
・柳後亭其雪(大里の人)没。
・鞆、牟岐へ行く。
7  天保14年(1843)
・11月19日、7度の任に日和佐へ向かう。[往路]大神子山(大原村)――大京原(泊)――日和佐
 ◎この年、南方三郡の遠見御番所・狼烟(のろし)場を再興する。
・明丸山で鹿狩を行う。
 ◎鞆の御陣屋の再興を命じられる。
・鞆へ行くため和佐(日和佐)の港を出、造営なった御館(鞆御陣屋)を見て、宍喰、大里に寄り日和佐へ帰る。
・嵐(あらし)の浜で鷲(わし)打ちをする。
・恵比須浜の遠見崎の山に登りのろし台の造営をみる。
9  弘化2年(1845)
・2月の半ば、9度の任に日和佐へ向かう。
◎この年、海部郡の大筒居場が名目のみになっていたのを、個所を増減し16カ所として役立つように整備する。
・医王山で花見。
・浜某宅へ行き花見をする。
・3月3日伊島へ渡る。
・阿部浦へ行く。
・奥内妻、浅川の奥山、竹の内へ行く。
・船津村の冷谷の滝を観に行く。
11  弘化2年(1845)
・12月27日、11度目の任に日和佐へ向かう。いつもは駕(かご)を利用するが、今回は馬に乗っての旅の為早い、鉦打坂から日和佐の間は真蔵が過ぎし年につくらせた新道を通って行く。
・弓はじめ、鉄炮の打ち始め、火矢打、初槍を行う。
・水落山で鹿狩りをする。
・市原大人が山川・足立・速水を伴い日和佐へ来る。
・牟岐山で狩りをする。
・鰯(いわし)が浦ごとにたくさんとれる。
・若松村・浅川村で狩りをする。
 ◎ この年より安政2年(1855)までに海部郡の阿部・伊座利の両浦の野山に杉、桧を93万本植樹する。
□弘化3年(1846)
 ◎海部郡大島、竹ヶ島に人を移住させ、新漁場を開発する。
13  弘化4年(1847)
・4月5日、13度目の任に日和佐へ向かう。[往路]日開野村――午王滝(深瀬村)
――日和佐
・日和佐御館の鎮守、若宮神社の改築がなり遷宮祭を行う。
・皇学、漢学の学び所としての尚美堂が出来、岩本贅庵を招き開講する。
・宍喰浦、竹ヶ島へ行く。
・おんばが嶽(相川村)に登る。
・大筒の千発打を行う。
・銚子谷(山河内村)で鹿狩りをし、姉妹の滝(奥河内村)を観る。
・三木流炮(ほう)術の大稽古(げいこ)を行うため6月6日より鞆の御館に滞在する。
(19日に猪子、太田、中山が来て、28日から29日にかけ若山大人はじめ12人が到着する、若山大人より“学びの目録”が授与され、7月の4日、5日に再度稽古を行う。行った技名は浮水炮、合図の炮烙火矢、飛雷矢、連箭銃、佛郎機などである)
・7月9日、真蔵、日和佐に帰る途中よここ坂で真蔵が先年植えた日陰の松の下で憩う。
・7月17日、妙見社の踊り、例年より賑(にぎ)わしくする事を許可する。結果大いに賑わう。
・7月24日、速水守長が徳島へ行く途中、日和佐御館で宿泊する。
・重行、常光、保茂の3人の大筒の千発打、小川某の百発百中が公に聴こえ、各々黄金を賜る。
・北河内村の保喜川に新しく架設した橋に、真蔵がその姿から琴橋と名付ける。
14  嘉永元年(1848)
・14度目の任に日和佐へ(8月に日和佐に在留していた事は確認できる)
・濱某の世嗣(つぎ)の初冠(ういこうぶり)を行う。
15  嘉永2年(1849)
・3月24日、15度目の任に日和佐へ向かう。[往路]佐那河内――六郎ケ丸の嶺の碁盤石を観る(佐那河内村、25日)――潅頂ケ滝――鶴林寺奥の院の窟(いわや)(藤川村)
――黒松寺(田野村)――高丸(八重地村)――再度潅頂ケ滝へ(坂本村)――鶴林寺――大井村(泊)――老楽の滝(水井村28日)――午王滝(深瀬村)――吉井村――弓取――鳥打坂――三倉村――桑野村(泊)――松坂(日陰松の大きく育ったのを見る)――西由岐〜〜日和佐
・4月1日、1日に2〜3歌を詠む事と決める。
・4月5日、薬師に参り、浜某宅へ行く。
・閏(うるう)4月 随時庵木亀来る。
・大筒の数打を行う。
・西河内村へ行く。
・芭蕉堂の桑葉来る(6月3日に帰る)。
・医王山の薬師に詣(もう)でる。谷某の桜に登り納涼する。
・若宮の夏祭り 勇み太鼓で神いさめをする事を許す(最高の賑わいとなる)。
・浜辺で三木流の火業を種々行う。
・7月17日下灘へ出立する 奥河内の潟――横川の渡し−下灘〜〜大島〜〜牟岐――丹前坂――西河内を経て日和佐へ帰る。
・8月15日、和佐川(日和佐川)に舟をうかべ月見する。
・8月20日下灘へ行き、26日に日和佐に帰る。
・薬王寺の馬場で競馬を観る。
・9月3日、御館の山に登る。
・9月9日、浅田氏と替わって日和佐を出立ち徳島へ帰る。
・この年、野口景映、木内茂直の2人、大筒千発打が公に聴こえ賞を賜る。
□嘉永3年(1850)
 ◎那賀郡黒津地、原ケ崎、福村の三カ所に新漁場を開発する。
17  嘉永4年(1851)
 ◎7月、高島流大炮製造御用受持を命じられる。
 ◎12月10日、勤功により藩主斉昌より御召の小袖(こそで)を下賜される。
□嘉永7年(1854)
 ◎10月22日、淡路由良浦に大筒の台場が完成したので見分の為渡海し逗留中であったが、11月5日地震があり、同日夜由良浦を出立し翌6日徳島に帰着した。(すぐ海部地方へ巡視のため出張ったと思われる。)
・由岐浦――下灘浦々を巡視――上灘・那賀郡の浦々を巡視し、12月(11月27日安政と改元)の初めにひとまず家に帰る。
18  安政元年(1854)
・12月21日、18度目の任に日和佐へ向かう。
・公の職務多忙を極める。
・安政2年、医王山へ花見に行く。
・4月初、玉厨子山(兜山)に登る。
・4月末、轟滝を観に行く。(この時に詠んだ俳句を、真蔵は『津久裳瀧』として俳文紀行にまとめている。『ふるさと阿波159号』を参照されたい)
・5月中旬、姉妹滝を観に行く。
・7月7日、日和佐川に船を浮かべて納涼する。
・7月末、穂績氏と替わって徳島に帰る。帰途、海部郡にならい富岡にも学所が出来たのでそこで宿る。
□安政2年(1855)
・12月3日、御役替になり御櫓目付役を務めることになる。


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