阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
宝暦期における日和佐廻船業者の動向

郷土班(阿波郷土会)

      真貝宣光・三木安平

 昭和39年(1964)に林屋辰三郎氏により京都の古書店で発見され、昭和56年(1981)に活字化された「兵庫北関入船納帳」により、文安2年(1445)阿波の港から兵庫北関(現・神戸港)に向け諸物資の積み出しが行われていた事が確認出来る事になった。同帳に記載されている阿波の港と積荷は、土佐泊(米・大麦・小麦・藍)、撫養(小麦・藍)、別宮(胡麻)、惣寺院(藍)、平島(榑(くれ)・材木・アラメ)、橘(榑)、牟岐(榑)、海部(榑)、宍喰(榑・材木)である。
 そして昭和59年(1984)に今谷明氏により全文の活字化がなされた「兵庫北関雑船納帳」によると、同じ文安2年に土佐泊、撫養、木津(鳴門市の木津と考えられるが、摂津あるいは山城の木津とする説も有る)から薪(まき)が兵庫に向け出荷されていた事がわかる。両古文書に記載されている船籍地に日和佐の地名はみられないが、県南部からは榑と材木が、鳴門方面からは薪が畿(き)内に向け大量に移出されていた事が確認できる。すなわち阿波は室町時代前期には畿内で消費される用材・燃料材の供給地となっていたのである。
 日和佐川流域で産出された保佐木(ぼさぎ)(薪)はいつのころから大坂方面に移出されるようになったのであろうか。この事について明確に解答できる史料を筆者はもち合せていない。正保4年(1647)に記述されたと考えられる「阿波国海陸道度帳」は、阿波の主要な港として、北泊、撫養口、広戸川口、今切川口、別宮川口、津田川口、籠口、小松島川口、今津口、中島川口、椿泊、由岐浦、木岐浦、日和佐浦、牟岐浦、浅川浦、鞆浦、宍喰川口の18港を記載し、日和佐浦からは徳島津田川口のほか、淡州沼島、紀州和歌山川口、大坂川口への航路が開かれていた事が記されている。この様に日和佐浦は近世初頭には県南の重要港(図1)として存在していたのであり、筆者は、このころにはすでに都市人口の増大に伴う燃料材の需要増を背景に、日和佐の保佐木が大坂方面に移出される様になっていたと推測している。

 今度の総合学術調査にあたり、日和佐の廻(かい)船業と保佐木について調査を行ったが、推測を実証する史料を得ることは出来なかった。しかし、調査研究が進んでいない日和佐廻船業者の動向を解明する、若干の史料を得たので報告したい。基本史料として利用するのは「浦里船持中申合之事」((図2)以下「申合の事」と略す)との表題がある古文書(板野郡北島町三木ガーデン歴史資料館蔵)であり、宝暦14年(1764)に日和佐浦里の船持仲間が所持していた文書を持ち寄り、内容を書き写した、一冊の綴(と)じ帳である。これが作られた理由は会所等に保管してあった関係文書が、宝暦13年(1763)12月19日に日和佐浦を襲った大火により焼失した為と思われる。「申合の事」には宝暦2年(1752)2月22日付で日和佐浦里船持中が大坂立売堀の木問屋具足屋傳右衛門に宛てた「日和佐船持中申合之事」から宝暦4年(1754)5月21日付の「覚」まで、2年余の間の日和佐船持中に関係する文書が収められていて、日和佐廻船業者のその間の動向を知ることが出来る。それによると、日和佐廻船業者の持船は主として木船・炭船として利用され、主たる積荷は保佐木(薪)であり、大坂を主たる市場としているが、泉州堺、同貝塚、同佐野、兵庫等に向けても積み送られている。日和佐川流域で産出された保佐木(薪)が大坂方面に大量に搬送され、搬送の担い手は日和佐の廻船業者であり、日和佐地方は大坂方面の燃料需要に応じて保佐木(薪)を供給する燃料基地の役割を果たし、保佐木(薪)は日和佐地方の一大物産に育っていた事が確認できる。
 しかし、この時期における日和佐船持中の経営状態は不景気の最中にあり、「不況下での水主賃金の上昇」、「船頭・水主の綱紀の乱れ」、等もあり、船持中は「乗組員の綱紀の粛正」「積荷販売方法の合理化」「船持仲間規定の遵守」等により、経営体質の改善に積極的に取り組んでいる。しかし「阿淡年表秘録」に「海部郡日和佐浦民家より出火、家数389軒、社2ケ所焼失」とある宝暦13年の大火による損害が大きすぎた為か、不景気が長期化したのか、あるいは経営改善策が実効をあげなかったのか、理由は明らかに出来ないが、宝暦期(1751〜64)は日和佐船持中にとり苦難、大変動の時期であり、新旧交代の時期となったようである。宝暦期には日和佐船持中の中核を形成し、宝暦2年から4年にかけて「申合の事」に船持として名前が登場する廻船業者27名中13名を数えた、豊後屋を屋号とする船持が大きく退潮し、天明(1781〜89)頃から新たに、藩政後期から明治にかけて日和佐廻船業者の雄となった谷屋甚助が登場する。

 豊後屋一統、日和佐廻船業の全盛期は元禄(1688〜1704)から寛延期(1748〜51)、すなわち18世紀前半の50年間であったと考えられ、その事は、豊後屋一統の菩提(ぼだい)寺である日和佐町本村の観音寺本堂西側に林立する豊後屋一統の墓所・墓碑をみても推測される。享保3年(1718)8月に64歳で亡くなった豊後屋宗英の妻、法名「隨覚了性信女」の墓碑(図3)には、施主として「豊後屋徳右衛門、同孫左衛門、堺屋次郎左衛門、岡屋七左衛門妻、勝瀬清兵衛妻、豊後屋孫右衛門、同新十郎、同亦助」の名が刻まれている。豊後屋徳右衛門、豊後屋孫左衛門、堺屋次郎左衛門は「申合の事」に船持として登場する名であり、前二者は日和佐で最有力の廻船業者である。また寛延元年(1748)9月に亡くなった豊後屋孫左衛門、法名「観秋慈道信士」の墓碑には、施主として「勝瀬清兵衛、豊後屋藤蔵、同岩助、同善吉」の名が刻まれている。勝瀬清兵衛は豊後屋清兵衛のことと考えられ、豊後屋藤蔵とともに「申合の事」に船持として登場する。これらは、豊後屋一統の血縁関係による結束の深さを物語るものであろう。また同じく寛延元年に亡くなった豊後屋一統の夫婦の墓があるが、比翼墓となっており、墓碑側面に辞世が刻まれている。筆者も阿波藍商の研究に取り組み、阿波北方の豪家の墓碑を調査する機会は多いが、管見の限りでは寛延年間の墓碑に辞世が刻まれているのは初見である。豊後屋一統が廻船業で経済的にも栄え、文化的素養も高かった証(あか)しであろう。また四国霊場23番札所薬王寺の本堂左側に大きな宝篋印塔(図4)がある。寛延3年(1750)3月に日和佐浦の勝瀬氏(豊後屋)が建立したものであり、豊後屋一統の栄華を物語るものである。

 この様に江戸時代中期に日和佐廻船業者の中核をなした豊後屋一統の発展・衰退過程を解明すべく調査を試みたが、関係史料を見いだす事が出来ず、成果を得るには至らなかった。「申合の事」に記載されている「大坂廻船御改帆数牟岐組支配分」(宝暦3年4月)によると、伊座利浦(20端)、阿部浦(44端)、志和岐浦(41端)、西由岐浦(88端)、木岐浦(51端)、日和佐浦夷濱とも(150端)、牟岐中村(46端)、牟岐浦(149端)、灘村(5端)と、上灘地方では日和佐浦が一番多い。それだけ日和佐は大坂方面への物資の輸送が多かったという事でもあるが、筆者は今度の総合学術調査で現地を訪れ、日和佐廻船業の調査に着手するまで、当地の廻船業が江戸時代中期の時点でこれほど盛んであり、豊後屋一統のような有力な廻船業者が存在したとは思いもよらなかった。史料として末尾に掲げておくが、豊後屋徳右衛門、豊後屋孫左衛門のように拾反(じゅったん)帆以上の廻船を、4艘(そう)、6艘と所持し、廻船業を営んでいた事実はまさに驚きであった。私の知る限りにおいて、宝暦期に大船を4艘、6艘と抱え廻船業を営んでいたという事例は、県内では発表されていないと思われる。豊後屋のような有力廻船業者が育った背景は、日和佐川流域における保佐木(薪)の大量生産にあったと考えられ、「日和佐廻船業と保佐木」の研究は近世阿波海運史の大きなテーマであるように思われる。
 以下「申合の事」から、宝暦2年から同4年の間に登場する船持の名前を抽出列挙(史料1 )するとともに、同じく「申合の事」から宝暦3年の日和佐村の廻船業者の持船状況がわかる「覚」(史料2 )を紹介しておく。本稿では紙面の制約もあり、「申合の事」に記載されている内容について立ち入った説明が出来なかったが、関心を持たれる方は、「三木安平氏古希記念論集 史料の輝き 阿波徳島の歴史とともに」(平成8年11月刊)に史料紹介として全文を活字化しておいたのでご参照頂きたい。(文責 真貝)

 


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