阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
日和佐保八幡宮銘の漆塗台盤

史学班(徳島史学会) 田中省造1)

1.はじめに
 高知県室戸市の四国霊場第24番札所最御崎寺に、「日和佐保」等の銘文を記した台盤がある。すでによく知られたものであり、また、大して新しい知見があるわけでもないが、最御崎寺を訪れ、実見した報告を兼ね、気付いたことを以下に記す。

2.漆塗台盤の現状
 最御崎寺の所蔵する2基の台盤は、ともに朱漆塗で、S字状に反った三足を持ち、直径44.4cm、高さ32.1cmである。1基は同寺の収蔵庫に保管されるが、他の1基は現在東京国立博物館に寄託中である。ともに平成元年6月12日、国の重要文化財に指定された。注目されるのは、後者の裏面に「于時康暦元年歳次己未五月日、阿波国海部郡日和佐保八幡宮、願主神主玄勝」とあることである。なお、天保11年(1840)正月の調査によって、野口年長が記した『海部郡取調廻在録』によれば、日和佐の地名は古代の那賀郡和射郷から転じたものといい、これが通説になっているが、この銘文は日和佐の地名の初見としても注目される。

3.康暦元年の日和佐保八幡宮
 上記の銘文によって、この2基の台盤が康暦元年(1379)5月、日和佐保の八幡宮に、おそらくはこの神社の神主である玄勝によって奉納されたことが知られる。銘文中の八幡宮とは現在の日和佐町日和佐浦369の日和佐八幡神社と考えられている。保とは中世にみられる中央官庁領あるいは国衙(こくが)領のことであるが、日和佐保はこの台盤銘以外に知られておらず、保の性格、領域など、すべて不詳である。もっとも、康暦という北朝年号を持つことから、この日和佐保が北朝与党の支配下にあること、神主の玄勝はその名からして出家していたことなどが知られよう。当時、この神社は神仏習合の色が濃く、神前でさまざまの法要が営まれていたと考えてよかろう。
 ところで、康暦元年といえば阿波にとってはきわめて重要な時期に当たっていた。この年の閏(うるう)4月14日、幕府諸将は、阿波守護で幕府の管領でもあった細川頼之を討たんとし、そのため、将軍足利義満は管領職を解任し、頼之を阿波に帰したばかりだったからである。ついに9月5日には、義満は伊予の河野氏に命じて、頼之を討たせようとしている。おそらく、阿波国内は騒然とした雰囲気に包まれていたことであろうが、この台盤はこうした時期に奉納されているのである。この奉納が国内の騒動と関係するのか否か、不明であるが、おそらくは京都など畿(き)内で作られたとみられるこの台盤は、玄勝が運んだかどうかは別にして、頼之軍の阿波下向とともに当地にもたらされた可能性のあることを指摘しておきたい。

4.その後の八幡宮
 『海部郡取調廻在録』によれば、「日和佐村、神社八幡大神宮、祭祀神功皇后・応神天皇・玉依姫命、観応二年の棟札流失と伝ふ。永正十七年棟札写し、奉造営日和佐八幡宮御社壇上棟永正(十、脱カ)七庚辰年大願主松島五郎左衛門永真、源重弘・源真弘・源義家・弥次郎、神主八郎、大工清原広家、鍛冶六郎右衛門、氏郎右衛門」とあり、『阿波志』には、この神社を観応2年(1350)に置いたとある。前者の流失したという棟札に基づいて、後者はこの神社の創建を考えているのであろう。なお、永正17年(1520)の棟札に見える松島五郎左衛門永真以下の人物はすべて不詳である。そのうち、永真は松島の名字を名乗るところから、かつての板野郡松島郷(現上板町)を本貫とした武士ではないかと思われるが、管見の及ぶところ、中世の阿波に他に松島姓を持つ武士はいないようである。重弘以下の源姓のものも当地の武士と思われるが、源氏の氏神である八幡宮に奉仕するにふさわしい。以上、まったく後世の史料に基づく推定ではあるが、台盤の存在とあいまって、この神社が中世にかなり勢力をもっていたことが考えられると思う。そうなると、中世にこの地方に君臨した国人日和佐氏とこの神社との関係が気になるところであるが、永正の棟札にその名が見えないのは不審である。日和佐氏は、応仁の乱の東軍の武将たちを記したという『見聞諸家紋』に「矢筈、日和佐」とみえ、阿波細川氏に従って東軍与党として活躍したらしいが、細川氏が滅ぶと、阿波に侵攻した土佐長宗我部氏に降っている。土佐最御崎寺に台盤をもたらしたのは、長宗我部氏あるいは日和佐氏ではないかとも考えられるが、実際のところは分からない。
 ただ、当地には四国霊場第23番札所薬王寺があり、「実報院諸国旦那帳」(『熊野那智大社文書』)によれば、中世には、この寺の住職は熊野先達だったことが知られる。熊野先達が四国遍路に対する強い信仰をもっていたことはよく知られており、それゆえ、薬王寺の住職は先達でもあったのだろうが、この遍路の関係者が台盤を最御崎寺に運んだとも考えられる。

5.おわりに
 拙文執筆に当たっては、最御崎寺の御住職をはじめとする多くの関係者の御高配をえた。記して、深謝したい。

1)四国大学文学部


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