阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第43号
日和佐町の板碑

考古班(徳島考古学研究グループ)

             岡山真知子1)

1.はじめに
 日和佐町では、古く石斧(せきふ)が採集されたことは記述されている注(1)が、それ以外で目立った遺跡は知られていない。そこで、今回の総合調査でも昨年に引き続き、中世の庶民信仰の遺物である板碑をテーマにすることにした。
 板碑は、中世の石造供養塔婆の一形式で、江戸時代以来の伝統的名称である。日本における石造供養塔婆の造立は、平安時代末期から中世にかけて全国的に普及する。形態は、五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、笠(かさ)塔婆など数種類におよび、板碑もその一つである。その特色は、第一には簡単な形態を示す点、第二に本尊や銘文などを一方の面に表すという平面性、第三に1個の石材により作られている点が挙げられる。これらから、板碑は石造供養塔婆の中で最も簡略な形態を示し、最も簡単に造立しうる形式であり、そのため板碑に適した石材の得られる地方では、他の石造供養塔婆を圧して広く普及した。徳島県内では、緑色片岩が板碑の石材として広く利用され、鮎喰川流域に分布の中心がある。
 日和佐町では、板碑に適した石材が入手しにくい地域でありながら、板碑が多く造立されている。しかも、遠く離れた地域からの入手としか考えられない緑色片岩の板碑が多いのも特色である。こうした板碑が日和佐町にどう分布するのか、前述の特色等とも関連させて明らかにしたい。また、日和佐町では文化財地図を作成し、その中に石造文化財も含めた文化財の位置が示され、写真が掲載されている。さらに、日和佐町内の石造物の調査を実施し、『日和佐文化財めぐり(石造物等)』(日和佐町教育委員会、1990年3月)にまとめられている。この 『日和佐文化財めぐり』 には、それぞれの板碑についても詳述されている。こうした資料を十分に活用しつつ、それぞれの板碑について考古学的視点から考察を加えてみたい。
 ところで、昨年徳島県内の板碑の集成を試みた注(2)が、今回はその続編として銘文等の分析から中世民衆の信仰を後半で考察してみたい。

2.日和佐町の板碑
1)調査の経過
  調査期間:1996年7月27日(金)〜7月29日(日)
  調査員:小林 勝美、三宅 良明、岡山真知子
  調査内容:『日和佐町の文化財めぐり』によると、日和佐町内には、5カ所で10基の板碑の存在が記されている。これらの板碑の所在を確認し、確認できた板碑の実測と採拓による調査を実施した。また、今回の調査中に新たに板碑が発見されたので、資料を追加した。その結果は以下の図1および表1のとおりである。

2)各板碑調査結果
 (1)西河内月輪の板碑(図2)
 日和佐町で唯一海から近い距離にある板碑である。所在地は、日和佐川が北河内谷川と合流し、南下する地点に突きでた小丘陵の先端部に当たる。国道55号線から日和佐川の南岸の県道を入った地点に稲荷大明神の鳥居があり、その隣に池の坊庵(あん)がある。このすぐ西に階段があるが、この階段を少し登った道沿いに2基の板碑が並んでいる。これが、西河内の板碑である。向かって左を1号板碑、向かって右を2号板碑と呼ぶことにする。
1号板碑 … 長さ98.0cm・幅15.0cm・厚さ6.0cm を測り、砂岩製で、地蔵の線刻像を種子(しゅじ)とするが、二線も枠線ももたない。特徴は、長さに対して幅が極端に狭いことで、長幅比が15.3%しかない。徳島県内の一般例は33%であり、半分しかない。
2号板碑 … 長さ80.0cm・幅16.7cm・厚さ5.0cm を測り、砂岩製で、地蔵の線刻像を種子とするが、二線も枠線ももたない。1号板碑よりは幅が広いが、長幅比は20.8%である。
 いずれも銘文等はかかれておらず、時期は不明。形態が他の板碑に比べると長幅比が狭小さを示す点、二線も枠線ももたない点、線刻画像の技法の稚拙さ等から一般的な板碑と同様にとらえるには課題が多い。

(2)新発家の板碑(図3)
 那賀川の支流の赤松川中流部からさらに新発谷に向かって上流へ進むと、少し水田が開けた地点があり、その裏山の山麓(ろく)部に位置する。見方を変えれば、標高423.0m の山頂から派生する尾根の一支脈の先端部に当たる。新発家の旧屋敷地にあたり、現在は久原家が守っている。現状は、祠(ほこら)が建てられ、その中に五輪塔が安置され、さらに板碑や五輪塔の破片が納められている。確認できたのは4基である。うち1基は、久原氏が最近山麓下の畑から発見したものである。また、『日和佐文化財めぐり』には、中央部だけ残っている破片があり、これには「七年十月十日」の刻字があるとの記述があるが、祠の中を調査したが発見できなかった。
 新発家の板碑は、すべて緑色片岩製で種子の彫り込みもしっかりしている。4基の板碑を仮に1〜4号板碑と呼ぶことにする。
1号板碑…長さ54.0cm・幅17.0cm・厚さ4.0cm のほぼ完形のもので中央部に阿弥陀(あみだ)三尊種子(キリーク・サ・サク)を彫り込んでいる。二線も枠線も明瞭に残っている。また、種子の下に何らかの銘文を彫り込んだ痕跡は残っているが、摩滅のため解読は不能であった。
2号板碑…長さ31.8cm・幅16.8cm・厚さ4.8cm で下半を欠損するが、1号板碑と同様阿弥陀三尊種子を彫り込んでいる。二線も枠線もはっきり残っている。
3号板碑…長さ39.7cm・幅20.2cm・厚さ2.5cm を測り、下半部を欠損する。中央部に阿弥陀三尊種子を彫り込み、二線も枠線もはっきり残っており、表裏とも丁寧に仕上げている。前述の通り、この板碑の下半部と考えられる「七年十月十日」の刻字がある破片は発見できなかった。
4号板碑…長さ37.2cm・幅17.0cm・厚さ4.5cm で下半を欠損するが、中央部に阿弥陀種子(キリーク)を彫り込んでいる。二線も枠線もはっきり残っている。

(3)上佐家の板碑(図4)
 新発家との対岸をさらに上流へ上った突き当たりの段丘上、上佐家屋敷裏に所在する。一石五輪塔2基と並んでいる。板碑は、長さ66.5cm・幅16.0cm・厚さ4.2cm を測るほぼ完形品で、中央に阿弥陀三尊種子(キリーク・サ・サク)を彫り込んでいる。二線も枠線もはっきり残っている。

(4)高原家の板碑(図5)
 那賀川の支流の赤松川を上流に上っていくと、川が大きく西へ曲がる。さらに上っていくと、栗作の集落にでる。この赤松川北岸に高原正年家があり、この東側の裏山に板碑は位置する。地形的には、標高621m の鉢ノ山から南に延びる尾根があり、この尾根からさらに南東に延びる一支脈の先端部に当たる。コンクリート製の祠に2基納められている。東を1号板碑、西を2号板碑と呼ぶことにする。ただし、2基とも下部はコンクリートに埋まっており、全高は不明である。板碑と並んで、砂岩製の一石五輪塔も1基残存している。
1号板碑…砂岩製で、長さ66.5cm 幅20.5cm 厚さ3.0cm を測る、ほぼ完形の板碑で、中央部に阿弥陀三尊種子(キリーク・サ・サク)を彫り込んでいる。二線も枠線もはっきり残っている。
2号板碑…砂岩製の板碑で長さ66.0cm・幅19.5cm・厚さ5.0cm を測る、ほぼ完形の板碑で、中央部に阿弥陀三尊種子(キリーク・サ・サク)を彫り込んでいる。二線も枠線もはっきり残っている。

(5)青木家の板碑(図6)
 高原家から赤松川を下流に下った南岸でやや開けた地に水田が広がり、その一段上に青木昭夫家がある。青木家の裏庭の木製の祠の中に2基の板碑が安置されている。2基とも緑色片岩製で、保存状態もよい双式板碑である。2基の板碑を仮に1・2号板碑と呼ぶことにする。
1号板碑…長さ67.7cm・幅18.0cm・厚さ2.5cm を測る、ほぼ完形の板碑である。中央に蓮華(れんげ)を挿した水瓶(すいびょう)をもつ観音像が蓮華台座の上に立ち、直径9cm の円光背をつけて線刻で描かれ、左下には「明徳三年二月廿三日」、右下に「性榴門也」と刻まれている。
2号板碑…長さ65.3cm・幅18.0cm・厚さ2.5cm のほぼ完形の板碑で、中央に錫杖(しゃくじょう)をもった地蔵像が蓮華台座の上に立ち、直径9cm の円光背をつけて線刻で描かれ、左下には「明徳三年二月廿三日」、右下に「妙榴尼也」と刻まれている。非常に精巧な線刻表現がとられている。

3)日和佐町の板碑の特色
 赤松地区を中心に分布している。赤松地区は、赤松川沿いに那賀川にでるので、那賀川流域としてとらえることができる。相生町でも1基板碑が確認されており、関連がうかがえる。
 日和佐町の板碑の特色の一つは、石材である。西河内と赤松地区の高原家の板碑は砂岩製であるが、他は緑色片岩製である。日和佐町は、地質的には秩父帯に属し、砂岩と泥岩の互層から成っている。砂岩製の板碑は現地での石材入手はたやすい。これに対して緑色片岩は、鮎喰川流域まで行かないと入手できない。しかも、緑色片岩製の板碑は総じて種子や線刻が精巧で美しい。特に、青木家の双式板碑は非常に精巧な線刻表現がとられている。これらの点から、この地域で製作したものと考えるよりも、板碑製作の盛んな地域からの流入と考える方が妥当であろう。
 なお、県南部における板碑の石材をみてみると、阿南市が砂岩5例・緑色片岩31例、由岐町では砂岩1例・安山岩1例・緑色片岩1例となっている。日和佐町は砂岩4例・緑色片岩7例である。つまり、これらの地域の板碑の石材である緑色片岩は、三波川帯の周辺から入手しなければならない。原石を入手して加工したのか、前述のように製品を入手したのかは定かではない。しかし、入手しなければならない理由があったのは事実であり、この理由を考察することも重要である。
 特色の第二は、長幅比の小さい板碑が多いことである。表1をもとに長さと幅のグラフを描くと図7となる。図8の徳島県のグラフと比較すると、幅がかなり小さいことがわかる。また、徳島県内の場合、大きさにばらつきはあるが、基本的には長さ:幅が3:1のライン上にのってくるものが多い。これに対して、日和佐町の板碑は、長さにはばらつきが多いが、幅が15〜20cm の範囲内でほぼ一定している点に特徴がある。

 特色の第三は、板碑を中心とした祭りが現存することである。特に、栗作の高原正年宅では、お盆に板碑にお参りをする。同じく、栗作の青木昭夫宅では、お盆には近所の人々が集まって板碑の前で酒を飲み、歌や踊りを披露するという。板碑数が断然に多い神山町では、お盆に板碑に花を供えることが風習となっている。これらは、板碑の性格を考える上で、非常に重要な提起をしている。次の章で、民衆の信仰を中心に考察するのでこの特色を参照したい。

3.阿波型板碑にみる民衆の信仰
1)標識
 阿波型板碑の信仰標識を分類してみると、図9のようになる。これを見ると、阿弥陀信仰が最も多く、種子・名号・画像を合計すると、72%を占める。次いで、大日種子・地蔵画像の順となる。この標識こそ、板碑造立者の信仰対象を示しており、阿波型板碑が阿弥陀信仰に支えられていることを物語っている。
 さらに、種子の比率の変化を20年ごとにグラフで表現すると、図10になる。阿弥陀三尊が圧倒的に多いが、それも時期的にピークがあることがわかる。1450年以降になると、対照的に大日信仰が増加することもわかる。

2)造立目的
 何を契機に造立するのかを願文から分析した。大きく追善と逆修に分け、20年ごとに集成したのが、図11である。これから、最初は追善目的(例えば、三十五日、五七日、百ヶ日、十三廻忌、三十三廻忌等)で造立され、供養者が功徳の七分全得のために予修とする逆修が増加することがわかる。七分全得とは、死後に追善供養した場合故人に与えられるのは一分、残りは追善を行った者の得分のことで、1337年に初出する。追善は1350〜1390年代にピークがあり、逆修は徐々に増加傾向をたどり、1390年代にピークを迎える。15世紀以降は全体の造立数も激減するが、若干逆修が多い。

3)造立年月日
 造立年月日のわかる板碑の中で、春秋の彼岸と考えられるのが113基(40%)である。このうち、24%が逆修板碑である。
4)偈(げ)文の分析
 民衆が板碑を造立した仏教的背景を知るために、偈文の分析をした。その結果、阿波型板碑に現れた経文は次のとおりである。
  光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨(「観無量寿経」)
  十方仏土中 唯有一乗法 無二亦無三 除仏方便説(「法華経方便品第二」)
  願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道(「法華経化喩品第七」)
  今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子(「法華経譬喩品第三」)
 以上から、観無量寿経と法華経に限定されることがわかる。これらは大乗仏教で普遍的に使用される教典であり、宗派的特色は限定できない。
5)造立者
 板碑に書かれている氏名には、次のようなものがある。
  1 前期
    沙弥浄心、沙弥道信
  2 中期
    比丘尼法真、禅門智元、沙弥道善、神主源秋守、利貞、阿西、沙弥蓮阿、沙弥道阿、沙弥道禅、内藤入道行心、比丘尼如心、瑞明禅尼、
    二十二人結衆、藤原成弘、祐尊、十二人、二十四仁、三十七仁、
    性中・良賢・法蓮・善阿・西願・妙心・法円・袈裟・孫弥・源三郎・太夫・妙念・五郎二郎・弥五郎ほか5人(石井町 阿弥陀三尊種子板碑 1391年)
  3 後期
    梵月禅尼、普法禅門、道観禅門、妙一禅尼、
    弥七・米七郎・又四郎・弥十・夜四郎・妙賢・弥四郎・源三郎・太夫・新九郎・助左衛門・源兵衛・小志郎ら24人の名前(国府町 六地蔵画像板碑 1584年)
 前半は、沙弥とか比丘尼・入道などの法名が多いが、次第に俗名に変わり、しかも個人から結衆(1347年初出)となっていく。結衆は、血縁的・地縁的信仰集団で、この当時の一つの信仰形態を示していると言える。

4.おわりに
 以上、阿波型板碑を通じて中世民衆の信仰についてみてみた。最初は、追善菩提(ぼだい)を中心に供養碑として位置づけられていたが、南北朝期を画期として造立数も増し、逆修へと転換していく。同時に、個人から結衆への発展もみられる。板碑の信仰に果たした役割を考える際に、現在も続いている風習として、正月やお盆に板碑の前に講衆が集まり、歌や踊りを披露したりする例がある。また、お盆に花を供えたりする例もある(日和佐町青木家)。中世の民衆信仰が現在までも何らかの形で続けられている点は、興味深い。
 板碑は、近世になって墓への転換などで意義を失い、造立されなくなる。代わりに、別の意味での民衆信仰として光明真言百万遍の塔や馬頭観音などが出現する。光明真言については、地域によっては板碑として造立されている場合も多いが、阿波では板碑が造立されなくなってから造立されるようである。
 最後に、板碑造立数の分布密度をみてみると、神山町が最も高く、4基/平方キロメートルである。次いで、石井町は2基/平方キロメートルであり、徳島市が1.5基/平方キロメートルとなっている。埼玉の密度には、はるかに及ばないが、かなりの高さを示しており、阿波型板碑の隆盛ぶりがうかがえる。
 いずれにしても、こうした板碑の造立は仏教の浸透を示す事例ととらえられる。この板碑を、石材が容易に入手できる地域に発達したとだけ考えてよいのであろうか。徳島県で板碑の造立されなかった地域をどうとらえたらよいのであろうか。五輪塔との関連はどうなのか。これらを今後の課題として考えていきたい。
 注(1) 徳島県教育委員会 『徳島県遺跡目録』 1972年
 注(2) 岡山真知子 「北島町の板碑」『阿波学会紀要第42号』 1996年

 参考文献
徳島県教育委員会 『徳島県遺跡目録』 1972年
服部清道 『板碑概説』 角川書店 1973年
沖野舜二 「四国阿波板碑考」『考古学ジャーナル』86 1973年
千々和到 「東国における仏教の中世的展開」『史学雑誌』82-2 1973年
有元修一 「中世信仰の一形態―板碑にみる月待信仰―」『地方史文化の伝統と創造』 1976年
徳島県教育委員会 『石造文化財―徳島県文化財基礎調査報告書第1集―』 徳島県教育委員会 1977年
懸 敏夫 「東国における中世講集団の研究―結衆板碑を中心として―」『東国民衆史』I 1978年
谷 美雪 『阿波型板碑についての一考察』 昭和56年度立正大学卒業論文
埼玉県立博物館 『板碑』 埼玉県立博物館 1982年
坂詰秀一編 『板碑の総合研究』2 地域編 柏書房 1983年
神山町教育委員会 『神山の板碑』 神山町教育委員会 1983年
神山町教育委員会 『神山の板碑(第二集)』 神山町教育委員会 1985年
日和佐町教育委員会 『日和佐文化財めぐり(石造物等)』 1990年
石川重平 「阿波の板碑」 『阿波学会三十周年記念論文集』 阿波学会 1993年
岡山真知子 「北島町の板碑」 『阿波学会紀要第42号』 1996年

1)鳴門教育大学大学院生(徳島県立城東高等学校教論)


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