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1.はじめに 昭和31年(1956)9月30日に、旧日和佐町と赤河内村が合併して日和佐町となる。同町は県の南東部に位置し、町域の85%を山地で占めている。中心部は薬王寺の門前町と日和佐港周辺の漁村集落であり、寺院も半数がこの地域に集中している。なお、日和佐川河口に位置する日和佐港は、藩政時代から県南地方有数の良港として栄えたところである。 産業としては、沿岸部は漁業を主体とし、明治中ごろから北九州沿岸や東シナ海方面への遠洋漁業が盛んであったが、現在は養殖や大敷網によるブリ漁、カツオの一本釣りなどが中心となっている。一方、内陸部は農林業を主体としている。また、観光地としては、海亀(がめ)の産卵地として有名な大浜海岸や南阿波サンライン海岸沿いの景勝地などがある。 私たち社寺建築班は1996年7月26日から町内に入り、社寺建築を建築学的見地から実態調査し、建築の構造や様式などを一覧表にまとめた。神社建築では10社を調査し、19世紀初期から中期にかけて那賀川流域で広まった社殿造営技術の流れを見ることができた。寺院では8カ寺を調査したが、薬王寺以外は特筆すべき建造物は見られなかった。以下、その内容について報告する。

2.日和佐町の社寺建築概要

1)神社建築の概要 調査対象とした神社は、『徳島県神社誌』(1981,徳島県神社庁)に掲載されている10社に絞り、復元社(明治43年(1910)〜大正元年(1912)に行われた合併の後、復元した神社)は今回の対象から外した。ただし、町史によると、「奥河内字奥潟の住吉神社本殿が県内では数少ない建築様式の住吉造である」とのことで調査したが、鉄筋コンクリート造の小社殿に変わっていた。今回調査した10社の建築様式を一覧表にまとめたものが表1である。 本殿の建築様式については、すべて流造(ながれづくり)で規模も一間社が目立ったが、日和佐八幡神社と赤松神社の両社は三間社で、北分(きたぶん)の八坂神社は数少ない二間社(間口が二間あり、ここでは二間社と表現する)であった。拝殿の様式については、入母屋破風(いりもやはふ)の向拝(こうはい)をもつ妻入(つまいり)片入母屋造(正面に入母屋造の妻側を見せ背面は切妻造)が4社と目立ったが、重厚な造りの三間社の両社と玉木八幡神社は、大唐(おおから)破風の向拝をもつ平入(ひらいり)入母屋造であった。建立年代については、近世に逆上る社殿は見当たらなかったが、宮大工岩谷唯勝氏(赤松出身。平成8年春引退後、三重県四日市に転居)によると、赤松神社本殿は明治初期ごろ、吉野神社本殿は明治末期から大正初期ごろの建築で、唯勝氏の祖父に当たる岩谷勝蔵氏(上那賀町桜谷出身)が造営に携わっているとのことであった。10社の中では、日和佐八幡神社・赤松神社・吉野神社・玉木八幡神社の4本殿は、良質な造りの本格的な社殿建築であった。 総体的にみて、町内10社の本殿の足元や縁回りには多くの共通性があった。重厚な造りのもの、簡易なものを問わず、腰組(こしぐみ)には組物を一切使用していないこと、縁回りは刎高欄(はねこうらん)三方切目縁(きりめえん)に昇擬宝珠(のぼりぎぼし)高欄の構成で、脇障子(しょうじ)は彫刻のない板障子と、決まったように統一されていた(ただし、久望(くも)の山神社を除く。小社殿で縁を省略しているため)。また、本殿身舎(もや)部分の組物(斗■(ときょう)のこと)には大いに興味をそそられた。普通、手先(てさき)が出る場合、図2のように、隅柱部では大斗(だいと)から出隅の方向にのみ、45度の角度で隅肘木(すみひじき)が突き出す納まりになるが、町内では、隅柱部で三方向、中央柱部で二方向と、45度の角度で四方八方に隅肘木が出ているものがあった。この変則的な組物は、日和佐八幡神社(図3)・玉木八幡神社・登りの山神社の3カ所で見られた。『徳島県の近世社寺建築(近世社寺建築緊急調査報告書)』(奈良文化財研究所・徳島県教育委員会編)の中で、阿南市福井町の金刀比羅神社本殿・上那賀町古屋の春日神社本殿・相生町平野の辺川(へんかわ)神社本殿にこれと同じ組物が使用されており、「四方八方に手先の出るこの組物は、那賀川流域に多い複雑な構造形式」と位置づけられている。金刀比羅神社は19世紀前期、春日神社は弘化3年(1846)、辺川神社は地元大工(阿井・平野両村の者)の手によるもので文政11年(1828)の建築であり、「19世紀前期から中期にかけて、こうした複雑な構造の社殿を造りあげる技術が、この地域に広く浸透していた」と書かれている。今回、町内の3カ所で見られたこの組物形式は、那賀川流域のものと同じであり、この流れを汲(く)む大工の造営であろうと考えられる。また、向拝柱上部の組物についてもいえることであるが、日和佐八幡神社と玉木八幡神社の両社殿は連三斗(つれみつど)を2段に組んで上の肘木には絵様を付けているが、これもまた、前述の那賀川流域の社殿と全く同じ造り方であり、当流域の社殿造営技術がここにも反映されている。
 
18世紀の終わりごろから19世紀中ごろにかけて那賀川流域で活躍した名匠に、木頭村の湯浅岩蔵(または岩三)の名が挙げられる。彼の作風は複雑な組物や彫刻を多用する装飾過多が特徴であるが、嫌みのない良質な建築を残している。彼は木頭村出原(いずはら)の端伝寺(たんでんじ)本堂(1821)や海部町平井の轟神社本殿(1860)造営にも携わっているが、ここの向拝部組物にもまた2段に組まれた連三斗が見られる。ただし、身舎部の組物には四方八方に手先の出る組物が使われていないことから、残念ながらこの組物形式は岩蔵があみ出したものではないという推理が成り立つ。今回の調査では、那賀川流域の流れを汲む宮大工にたどり着くことができたが、四方八方に手先の出る独創的な「那賀川流域式組物」は、いつごろ、だれの手によってあみ出されたのかは現在のところ不明である。 農村舞台については、かつて10社の境内すべてに建てられていたが、平成元年の調査後からも北分八坂神社の舞台が、また1棟建て替わり、半数の5棟になっていた。 2)寺院建築の概要 町史に見える10カ寺のうち極楽寺(日和佐浦)と西川寺(西河内)の2カ寺が廃寺となり、残り8カ寺の寺院建築を調査した。その建築様式を一覧表にまとめたものが表3である。代表的な寺院は、四国霊場23番札所の薬王寺と、桃山時代に蜂須賀家政公が駅路(えきろ)寺に指定した山河内の打越寺(うちこしじ)である。 薬王寺は、寺伝では聖武天皇の勅願(ちょくがん)で行基(ぎょうき)が開創、空海が薬師如来を彫り、堂宇を建立したと伝えられる寺院である。室町時代には、守護細川氏の保護で寺勢は隆盛となり、戦国期には衰退するが壮麗な伽藍(がらん)を維持する。桃山時代には薬師堂・釈迦(しゃか)堂・五層塔など36からなる伽藍を誇り、五重の塔婆も見られたという。明治31年(1898)の火災で庫裏(くり)・護摩堂・薬師堂を焼失するが、その後再建され、厄除(やくよ)けの寺として今も多くの参拝者を呼んでいる。また、近世に逆上る建造物としては仁王門・大師堂・地蔵堂がある。 三間一戸八脚門(さんげんいっこはっきゃくもん)の仁王門は天保6年(1835)建立で、入母屋造本瓦葺(ほんかわらぶ)きの建物である。柱頭の大斗肘木(だいとひじき)や一軒半繁垂木(ひとのきはんしげだるき)の和様を基調に、台輪(だいわ)や火灯(かとう)窓に見られるように禅宗様が混在する折衷様式の建物である。大師堂は本瓦で葺(ふ)かれた宝形屋根(ほうぎょうやね)に、縋破風(すがるはふ)の向拝が付くやや大型の三間堂(背面は五間)である。内陣の彩色された蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)から近世の特徴を感じる。地蔵堂は妻入で、正面入母屋屋根に縋破風の向拝が付く正面三間側面四間の四間堂である。柱頭部に見られる舟ふな肘木や向拝部の組物など、内外ともに簡素に造られている堂宇であり、大師堂と同時期の文政年間(1818〜30)の建立である。 打越寺は平成8年に護摩堂が改築されたが、その他の建物は見られない。寺域を囲う練塀のみが往時の駅路寺を偲(しの)ばせる。 他の寺院には、薬王寺のように多くの建物を有するものは見られなかった。宗派では、奥河内の浄光寺が浄土真宗(西本願寺派)のほかは真言宗で、大覚寺派が2ヵ寺、他のすべては高野山派であり、禅宗寺院は見られなかった。また、寺院建築の伽藍にかかせない塔婆は、薬王寺の石塔と瑜祇(ゆぎ)塔のほかは見られない。附属建物としては、妙見堂(観音寺−入母屋造)、法印堂(弘法寺−宝形造)、山門(弘法寺−切妻造の棟門(むなもん)、円通寺・浄光寺−共に切妻造の薬医門)、鐘楼(浄光寺・円通寺−共に入母屋造)、庫裏(龍宝寺−入母屋造)などがあるが、近世に遡る建物は見られない。なお、貞享3年(1686)建立の観音寺鐘楼門は、町内最古の寺院建造物であったが、本堂改築の際の搬入路確保のため、昭和62年(1987)に解体された。 今回、町内で見た本堂を含むほとんどの建物は木造であり、海岸部地域によく見られる鉄筋コンクリート造の建物は、薬王寺の瑜祇塔(昭和38年(1963)建立)と弘法寺の本堂のみであった。また、屋根葺材は瓦葺きが目立ったが、一部に銅板葺きも見られた。



3.日和佐町の各社寺建築 1)日和佐八幡神社(表2−7
) 鎮座地−日和佐浦369 [本殿]木造 三間社流造(さんげんしゃながれづくり) 銅板葺 向拝(こうはい)三間 身舎(もや)−円柱(まるばしら) 切目長押(きりめなげし) 内法(うちのり)長押 頭貫木鼻(かしらぬききばな)(象) 台輪(だいわ)木鼻 二軒繁垂木(ふたのきしげだるき) 尾(お)垂木付二手先(ふたてさき) 中備(なかぞなえ)彫刻 妻飾(つまかざり)・二重虹梁大瓶束笈型付(にじゅうこうりょうたいへいづかおいがたつき) 中備彫刻 向拝−角柱(かくばしら) 虹梁型頭貫木鼻(竜) 連三斗(つれみつど)二段 中備彫刻 繋海老(つなぎえび)虹梁 手挟(たばさみ) 刎高欄三方切目縁(はねこうらんさんぽうきりめえん) 脇障子 昇擬宝珠(のぼりぎぼし)高欄 木階(きざはし)五級(木口) 浜床(はまゆか) 千木(ちぎ)−置(おき)千木垂直切 堅魚木(かつおぎ)−4本 (図5,6)
 
この社は町中心部日和佐浦の大浜海岸手前にあり、町唯一の旧郷社である。町史によると観応2年(1351)の創立という。また、永正17年(1520)の棟札が残されている。楠(くす)の大木が生い茂る広い境内には、8地区の屋台倉庫が建ち並び、秋祭の豪壮さを想起させる。 現社殿の建立年代は明らかでないが、拝殿は大唐破風(おおからはふ)の向拝をもつ入母屋造で、本殿は三間社流造である。本殿の一の特徴は、45度の方向すべてに隅肘木を突き出す、いわゆる「那賀川流域式組物」を採用していることである。この変則的な二手先組物の最上部には巻斗(まきと)を連続して並べ、その上に通し肘木を載せて大虹梁を受ける。また、大虹梁上部の組物は出組(でぐみ)で二重虹梁を受ける。これらの組物間の小壁には彫刻を隙(すき)間なく充填(てん)する。海亀上陸の地らしく、「翁(おきな)と箕亀(みのがめ)」の彫刻などが飾られている。なお、向拝部の手挟は古く、前社殿のものと思われる。旧郷社にふさわしい堂々とした社殿である。
2)玉木八幡神社(表2−8
) 鎮座地−西河内字丹前(たんまえ)19 [本殿]木造 一間社流造 銅板葺 身舎−円柱 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(象) 台輪木鼻 二軒繁垂木 尾垂木付三手先(みてさき) 中備彫刻 妻飾・二重虹梁大瓶束笈型付 中備彫刻 向拝−角柱 虹梁型頭貫木鼻(竜) 連三斗二段 中備彫刻 繋海老虹梁 刎高欄三方切目縁 脇障子 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床 千木−置千木垂直切 堅魚木−3本 (図7,8)
 
この社は町中東部の西河内にあり、南北朝時代の創立といわれている。2本の杉の大木に挟まれるように明神鳥居が立ち、正面社殿の左手には、老朽著しい農村舞台が辛うじて残っている。現社殿の建立年代は明らかでないが、拝殿は大唐破風(おおからはふ)の向拝をもつ入母屋造で、本殿は一間社流造である。 日和佐八幡神社と同じように、この本殿の特徴もまた、45度の方向すべてに隅肘木が突き出す「那賀川流域式組物」を採用していることである。日和佐八幡神社との違いは、一間社であることと三手先組物を使用していることであり、それ以外は同じ造りといってよい程よく似ている。丁寧な造りの良質の社殿である。
3)赤松神社(表2−9
) 鎮座地−赤松字阿地屋(あじや)39 [本殿]木造 三間社流造 銅板葺 向拝三間 身舎−円柱 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(拳(こぶし)) 台輪木鼻 板支輪(しりん) 二軒繁垂木 二手先 妻飾・二重虹梁大瓶束笈型付 向拝−角柱 虹梁型頭貫木鼻(獅子(しし)) 連三斗二段 中備彫刻 繋海老虹梁 手挟 刎高欄三方切目縁 脇障子 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床 千木−置千木垂直切 堅魚木−4本 (図9,10)
 
この社は町北部の阿地屋に位置し、誉田別命(ほんだわけのみこと)・息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)の三神を祀(まつ)る。創立年代は不詳であるが、寛永16年(1639)・万治3年(1660)の棟札を保存している。拝殿は大唐破風の向拝をもつ平入入母屋造で、拝殿の向拝両脇に一対の木造の小振りな随身像(ずいしんぞう)と狛犬(こまいぬ)を安置する。 本殿は三間の向拝を持つ三間社流造である。複雑な組物や彫刻は多用せず一見簡素であるが、丁寧な造りの本格的な社殿建築である。身舎組物は二手先を用いて大虹梁を受け、妻飾の二重虹梁は出組で受ける。向拝組物は出三斗を用い、身舎との繋(つな)ぎには、両端部は繋海老虹梁を中央部2カ所は手挟を用いている。また、台輪の木鼻は切りっ放しで彫刻を一切施さない。かつて、この社にも立派な農村舞台があり、明治時代における阿波人形師の代表作である人形頭がいまも数多く保存されている。
4)吉野神社(表2−10
) 鎮座地−山河内字なか172 [本殿]木造 一間社流造 銅板葺 身舎−円柱 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(拳) 台輪留(どめ) 彫刻支輪 二軒繁垂木 尾垂木付二手先詰組つめぐみ 妻飾・二重虹梁大瓶束笈型付 中備彫刻(因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)) 向拝−角柱 虹梁型頭貫木鼻(獅子) 出三斗 中備彫刻(竜) 繋海老虹梁 刎高欄三方切目縁 脇障子 昇擬宝珠高欄 木階五級(木口) 浜床 千木−置千木垂直切 堅魚木−4本 (図11,12)
 
町南西部の山河内に鎮座する当社は、もと蔵王(ざおう)権現と称し、大和国吉野の蔵王権現の分霊を勧請(かんじょう)したといわれている。国道55号で分断された境内は、道路上空に幅広いコンクリート橋を架け渡し、手前の明神鳥居(大正6年(1917))からその橋を渡り社殿にアプローチする。 拝殿は間口・奥行とも三間で、妻入片入母屋造に一間の切妻向拝を付け、殿内両脇に随身像を安置する。屋根は本瓦葺であるが一部カラー鉄板で補修されている。 本殿は正面柱間6尺の標準的規模の社殿で、撫養(むや)石積みの基壇上に建つ。身舎円柱上部の頭貫木鼻の拳は上方にむくり上がり、台輪は木鼻を出さずに留め納まりとしている。身舎の組物は二段目を尾垂木とした二手先詰組で大虹梁を受け、皿斗(さらと)付の出三斗で二重虹梁を受ける。また、小壁は波や兎の彫刻などで埋められ、賑やかに仕上げられているが嫌みを感じさせない。宮大工岩谷唯勝氏によると、「明治末期から大正初期にかけての造営で、牟岐の青木氏が請け負い、上那賀町桜谷出身の大工岩谷勝蔵氏が棟梁(とうりょう)として携わっている」とのこと。オーソドックスな手法を取りながらも、卓越した技術で細部に至るまで丁寧に造られている良質の社殿である。
5)弘法寺(表3−B) 所在地−奥河内字本村(ほんむら)70 山号−小池山遍照院 宗派−真言宗・大覚寺派 [山門]木造 棟門(むなもん) 切妻造 桟瓦葺 親柱(おやばしら) 冠木(かぶき) 男梁(おばり) 女梁(めばり)(持送り) 控柱角柱 腰貫(こしぬき) 方杖(ほうづえ) 一軒疎垂木 (図13,14,15,16)
 
  この寺院は町のほぼ中央、奥河内に位置する。寺の由緒沿革・開創は詳(つまび)らかでないが、山号が小池山ということから、元は小池にあったと考えられ、阿波志では正保年間(1644〜1648)に中興開基とある。 山門は小規模な棟門で、親柱の前方に控柱を立て、後方に方杖を付ける。女梁は持送り形式をし、全体に簡素な造りである。 本堂は昭和52年(1977)にRC造に改築されている。他の附属建物としては、明治初年建立の法印堂がある。この堂は宝形造桟瓦葺で縋破風の向拝が付き、内外とも簡素な造りである。
6)薬王寺(表3−E) 所在地−奥河内字寺前285-1 山号−医王山無量寿院 宗派−真言宗・高野山派 [仁王門]木造 三間一戸八脚門 入母屋造 本瓦葺〈天保6年(1835)〉 円柱 頭貫木鼻(拳) 台輪木鼻 大斗肘木 中央間飛貫(ひぬき) 中備彫刻蟇股 火灯(かとう)窓 一軒角半繁(ひとのきかくはんしげ)垂木 [大師堂]木造 桁行三間 梁間三間 宝形造(ほうぎょうづくり) 本瓦葺 向拝一間縋破風〈文政年間(1818-30)〉 主屋−角柱 切目長押 内法長押 頭貫木鼻(拳) 台輪木鼻 大斗絵様肘木 中央間虹梁型頭貫 中備彫刻蟇股 二軒角半繁垂木 向拝−角柱 虹梁型頭貫木鼻(獅子) 連三斗 中備彫刻 手挟 四方切目縁 [地蔵堂]木造 桁行三間 梁間四間 入母屋造 本瓦葺 向拝一間縋破風〈文政3年(1820)〉 主屋−角柱 切目長押 内法長押 舟肘木 中央間虹梁型頭貫 一軒角疎(まばら)垂木 向拝−角柱 虹梁型頭貫木鼻(獅子) 出三斗 中備彫刻 手挟 三方切目縁 (図1,17,18,19,20,21,22)
 
 
  薬王寺は日和佐港を見おろす山の中腹にあり、四国霊場23番札所である。寺伝では弘仁6年(815)に行基が開創、空海が薬師如来を彫って堂宇を建立したと伝える。境内には瑜祇塔(RC造−昭和38年建立)を初め、多くの堂宇が建ち並ぶが、近世に遡るものは幕末期建立の仁王門・大師堂・地蔵堂の3棟のみである。 仁王門は入母屋造本瓦葺の三間一戸八脚門で、両脇後方に仁王を安置する。正面両脇壁には禅宗様の火灯窓をあけ、その下の腰壁には簓子(ささらこ)下見板を張る。組物は簡素な大斗肘木のみであるが、中央柱間に飛貫を入れ中備彫刻蟇股で正面を飾る。町史によると、天保6年(1835)大工槌谷(つちや)悦蔵の作であるとのこと。 本堂右手の大師堂は、縋破風の向拝を持つ宝形造本瓦葺のやや大型の三間堂(ただし、背面は五間ある)である。内部は間口三間・奥行二間の入側(いりがわ)柱を立て、それより手前を外陣、後方の凸型平面部分を内陣とする。朱に彩色された入側柱は、内法長押・頭貫・台輪で固め、頭貫の獅子の木鼻を隅行(すみゆき)に出す。また、組物は出組で中備には彫刻蟇股を置き、獅子の木鼻同様に極彩色を施す。天井は側通りが鏡天井で、中央部が格(ごう)天井である。内部に比べて外回りは簡略な造りである。外部の組物は簡素な大斗肘木で造り、正面中央間のみ虹梁型頭貫を入れ中備彫刻蟇股を置く。向拝部は虹梁型頭貫に連三斗を置き、主屋とは手挟で繋ぐ。痛みが酷(ひど)くなった昭和55年に大修理が行われた。寺伝では文政年間(1818〜30)の建立といわれている。 地蔵堂は、縋破風の向拝を持つ妻入入母屋造本瓦葺の四間堂(正面三間・側面四間)である。大師堂と同時期の文政3年(1820)の建立であるが、大師堂と比べると内外ともかなり簡素な造りである。内部には組物や彫刻は一切なく、天井も竿縁(さおぶち)天井であり、住宅の造りとなんら変わるところがない。
4.まとめ 神社建築で特筆すべきは、「那賀川流域式組物」が3社に見られたことである。19世紀初期ごろから那賀川流域で使われ出した特異な社殿組物技術が、明治期に入っても廃れることなく、一山越えた日和佐町で脈々と息づいていた。なかでも、玉木八幡神社本殿は上那賀町古屋の春日神社本殿と見間違うほどに細部にいたるまでよく似ていた。この組物形式は、那賀川流域の大工があみ出したものか、外から導入されたものかは分からないが、和歌山県紀三井寺の護国院本堂にも同じ組物が見られた(図23)。今後、県外の社寺建築も注意深く見てゆきたい。また、町内では拝殿内両脇に随身像を安置するものが4社(日和佐八幡神社・玉木八幡神社・赤松神社・吉野神社)と目立った。普通、随身像は随身門に安置するのが通例であるが、県南では随身門を建てず、このように拝殿内に安置する社がかなり見られ、海部郡を中心とする県南地域の特色となっている(図24)。 「はじめに」の項でも述べたが、寺院建築では、薬王寺以外に特筆すべきものは見られなかった。藩政時代の阿波藩は、旅人の宿泊の便をはかるため、駅路寺と呼ぶ寺院を5街道の要衝に8カ寺設定した。それぞれの駅路寺は、通行人の目付役として治安維持の一翼を担ったが、土佐街道沿いの打越寺にはもうその面影は残っていない。
 
[参考文献] ・『日和佐町史』日和佐町発行 昭和59年3月20日 ・『徳島県の近世社寺建築(近世社寺建築緊急調査報告書)』徳島県教育委員会発行 平成2年3月 ・『徳島県神社誌』徳島県神社庁発行 昭和56年1月1日 ・『角川日本地名大辞典・36徳島県』角川書店発行 昭和61年12月8日 ・『徳島県百科事典』徳島新聞社発行 昭和56年1月15日
1)龍野建築設計事務所 2)真建築都市研究室 3)Y.M.設計室 4)A+U森兼設計室 5)富田建築設計室 6)(有)高橋興業 |