阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
北島町の都市化

地理班(徳島地理学会)

 井上隆1)・立岡裕士2)・萩原八郎3)   

 坂東正幸4)・岡田宏5)・岡田啓子6)   

 中淵一博6)・林浩之6)・前田浩史6)

1.はじめに
 いわゆる都市化に関する研究は、日本の高度経済成長とともに、盛んに研究されるようになる。1950年代から1970年代前半までの高度経済成長を支えたのは、日本の重化学工業化によるものである。この間、都市化のもっとも指標となる人口集中の動向を見てみると、人口は三大都市圏(東京・名古屋・大阪)に集中する。他の地域では、過疎・過密の現象が顕著に見られたのがこの時期である。
 1970年代以降、日本の地域別人口の動向は、これまでの三大都市圏へ集中する動きから、そのさらなる外延部、あるいは札幌・福岡・仙台・広島などの広域中心都市に集中し始める。また、Uターン、Jターン現象といわれる人口移動が見れれたのも1970年代以降である。県庁所在地クラスの地方都市に人口が集中し、三大都市圏のようにモータリゼーションの進展とともに、地方都市にも人口のドーナツ化現象が起き始める。過疎地域にあっても、地方中核都市とその周辺部が急速に都市化をし、それぞれの地方における人口吸引の中核となっていった。こうして、日本の人口集中が分散的集中の様相を示すようになっていったのである。
 ところで、本調査で取り上げた北島町の都市化のきっかけは、工場の進出である。工場進出としては、戦前から北島町に進出していた東邦レーヨンが、昭和25年に東邦レーヨン株式会社として独立し、再出発したことになる。しかし、北島町の工業化による都市化は1950年代後半(昭和30年代)からはじまる。日本の重化学工業の発展の時期と連動している。
 まず1957年に東亜合成が、1958年に日清紡績が、そして1962年に四国化成が進出する。いずれも旧吉野川の水と水運がこれらの工場進出の原因となっている。吉野川の河口の大きな砂州に位置する北島町は、地方中核都市の徳島市に隣接した、水に恵まれた天然の埋立地といえる存在であった(図1)。こうして工業化が都市化の原因となっていったが、1970年代以降は徳島市と鳴門市にはさまれた地域で、両市のベッドタウン化の様相を呈している。
 本稿では、北島町を地方中心都市の徳島市と、鳴門市に隣接する郊外地域としてとらえ、1970年代および1980年代以降の北島町の都市化の動向を分析することを目的とする。

2.調査資料および研究の手順・方法
 (1)国勢調査をもとに、1970年代以降の北島町の人口動態を、まず徳島県全体のなかでとらえ、北島町の人口増加率、産業別人口の変化、人口ピラミッドの変化等から都市化を分析する。
 (2)北島町発行の1万分の1の地形図から、土地利用の変化をみる。都市化はその地域のさまざまな変化の現象に現れるが、とりわけ土地利用の変化がもっとも顕著な現象のひとつである。本稿では1998年(昭和58年)3月に作製された地図と、1993年(平成5年)3月に作製された地図をもとに、2枚の土地利用図を作製し土地利用の変化を分析する。
 (3)1985年(昭和60年)と1995年(平成7年)に、それぞれ発行された職業別電話帳を資料とする。これは北島町内の事業所数の変化を見ることを目的としている。本来なら事業所統計を資料とすべきであるが、10年以上以前の事業所統計を閲覧することが困難なため、職業別電話帳を資料とした。事業所はその規模の大小にかかわらず、ほぼすべての事業所が電話に加入している。したがって、職業別電話帳を資料として事業所数の変化を見るには、その目的を十分に達成できると考えてよい。
 本来ならば、土地利用の変化にあわせて、職業別電話帳も1983年と1993年のものを使用すべきであるが、1995年以前の職業別電話帳については、その存在が限定されていた。そのため、1995年を起点としそこから10年さかのぼり、1985年の職業別電話帳を資料として取り上げた。事業所統計と異なり、事業所の種類まで立ち入って分類し、その変化を見ることはできないが、すでに述べたように事業所数の変化は見ることが可能である。
 そして、1985年(昭和60年)の事業所と1995年(平成7年)の事業所の位置を、それぞれ、町発行の1万分の1の地図上で確認し、プロットしていった。
 (4)1985年と1990年の国勢調査から、「北島町を常住地とする就業者・通学者」と「北島町の就業者」の変化をみる。これは北島町と周辺地域との関係・結びつきをみるものである。この資料により、職業別電話帳を資料とした分析とは異なった都市化の側面を分析することができる。つまり、徳島市と鳴門市の両市に隣接する地域として、ベッドタウン化の動向をさぐることができる。
 (5)用水をその用途によって、大きく農業用水、工業用水、生活用水にわけて調査する。これは北島町を水資源をその使われ方によって、北島町の都市化の動向をさぐるものである。かつて、水の使用量は生活水準を表すといわれた。工業の種類によって水の使用量は異なるが、生活用水の使用量、農業用水の使用量は、都市化を見るひとつの指標と考えられる。

3.考察
 (1)北島町の人口動態
 高度経済成長を支える労働力供給地として機能した徳島県の人口は、1950ないし55年頃をピークに減少しつづけ、1970年には79万人にまで減少した。その後70年代後半から全国的に顕著になったいわゆるUターン・Jターン現象のもとで、他の過疎県と同様に巨視的には人口減少が止まってやや増加に転じ、この20年間はおおむね83万人で推移している。しかしこれは過疎現象自体の終息を意味するものではなく、それぞれの県の内部で、県都などの県内中心地への流出という形で微視的な過疎が拡大してきている。このような状況のなかで、北島町は年によって多少の波は見られるものの、ほぼ一貫して人口が増加しており、藍住町や松茂町と並ぶ徳島県の人口成長の極を形成している(第2図)。もっとも人口増加率(5年間)では、1975年から1980年にかけての15.4%増(同時期の徳島県内における最高値)を最高として次第に低下し、1990年から1995年への増加率は2%台にまで落ちた。これは隣接する松茂・藍住両町がなお10%台の増加率を保っているのと対照的であり、当町の人口増加がさしあたり限界に近づいたことをうかがわせる。その最大の原因は後述するように住宅地としての魅力が、松茂・藍住などに比べて低いことによるものであろう。


 高度経済成長期に人口減少を徳島県内において人口減少を免れたのは、当町が、1934年に設立された東邦人造繊維(現東邦レーヨン)を初めとする(事実上県内唯一)一大工業集積地であったためであり、1990年代には、町はこれらの企業城下町の感を呈していた。しかしすでに1960年代末、繊維不況のもとでこの状況に変化が生まれ始め、構造不況下の1970年代後半にそれが本格化した。企業城下町当時の住民の人口構成の特徴は、次のような点に見ることができる。
 1)第二次産業とりわけ製造業の従事者が全就業者の半ばを占める(第3図。製造業従事者がもっとも多かった1970年には第二次産業全体で52%、製造業のみでも46%を占める)。


 2)青壮年層の比率が高い(第4図。1960〜1965年には15〜34歳階層の人口が全人口の44%以上を占める)。なかでも女性では15〜19歳層(1965年には全女性人口の22%)、男性では25〜29歳ないし30〜34歳層(1960〜1965年にはいずれも10%前後)が最頻値を示し、若年女性人口の多さが顕著である。


 3)青年層における女性の比率が高い(第5図。全住民の性比が80〜90であるに対し、15〜20歳層の性比は1970年には35まで低下し、20〜24歳層でも61であった)。逆に壮年層(30歳前後の各層)では性比は100ないしそれを越えている。


 4)かくして当時の人口ピラミッドは、全体としていわゆる星型に属するが、青壮年層で大きな非対称が認められる。
 5)事実上全ての普通世帯が住宅に居住していたが、持ち家に居住しているのは僅かに半数に過ぎず、給与住宅に住む世帯の比率が高い(第6図。1970年の時点でも住宅居住世帯のうちの17%)。また借家居住世帯も少なくない(同じく22%)。


 以上の点を1990年についてみてみると次のようになる。
 1)製造業従事者の比率は32%(第二次産業全体でも41%)にまで低下した。しかし、これは製造業(あるいは第二次産業)従事者の絶対数での減少を意味するものではない。1970年・1980年代に約300人ほど減少したこの産業の従事者は、1990年には再び1970年の水準を回復している。
 2)全人口に占める青壮年層の比率(特に女性)は、1970年から1975年の間に劇的に減少した(1975年には15〜34歳層の比率は35%)。東邦レーヨン以下の主力企業で人員整理が行われたこの時期は、住民台帳の上では連年人口が減少している。1990年現在では上記の青壮年層は27%である。
 3)15〜19歳・20〜24歳層の性比は現在でも70台と平均よりも低いが、その差はますます僅少になりつつある。
 4)かくして1970年代に人口ピラミッドは大きく形を変えて、特に男性に関してはヒョウタン型に近くなっている。
 5)持ち家に住む普通世帯の比率は一貫して増加した結果、1990年には76%に達した。逆に給与住宅に住む世帯は1970〜1980年の10年間に実数としても半減し、全体に占める比率では5%まで落ちた。借家世帯はこの20年間に数の上では1.5倍に増加したが、比率としてはやや減少気味である。
 (2)北島町における土地利用の変化からみた都市化
 1960年代後半からの高度経済成長に伴う都市化は、都市内部の機能の複雑化と都市機能の分化を促進した。その一方で、都市周辺地域の無秩序な宅地開発は、都市化に伴うさまざまな問題を惹起してきた。そのため行政的な土地利用の規制として、1968年に都市計画法が施行された。これは都市計画区域を設定し、土地利用計画を定めて計画区域内を市外化区域と市街化調整区域に区分するものである。いわゆる「線引き」と呼ばれている。
 北島町は町全域が都市計画区域に指定され、線引きがなされている。市街化調整区域は原則として、市街化を抑制すべき地域だが、開発規模によっては開発行為が認められる場合がある。もっとも最近の、このような例として、北島町には町の北西部の旧吉野川沿いに開発された北島グリーンタウンがある(第1図)。したがって北島町のように行政区域面積が大変小さい場合は、市街化区域、市街化調整区域を無視して、都市的土地利用の変化のようすをみてもさしつかえないと考えられる。
 1960年代後半からの北島町の人口増加率の推移をみると、そのピークは二つある。ひとつは、1970年の約6%、もう一つは1976年の約4%である。1976年以降は全体的には人口増加率は減少傾向にある。この人口増加率の動きと連動するように、北島町の宅地開発は行われている。町を南北に走るもっとも古い主要幹線道路だった立道鳴門線沿いには、北村団地が、旧国道55号線に沿って松茂町と隣接する地域に北島鍋川団地と太郎八須団地がある(第1図)。そして、すでに述べた北島グリーンタウンがある。これらの4つ以外にも小規模に造成された住宅団地はあるが、1980年代以降はこれらのクラスの住宅団地の開発は行われていない。このことは1983年の土地利用(第7図)と1993年の土地利用(第8図)を比較すると明瞭に現れている。
 1983年の土地利用(第7図)と1993年(第8図)の土地利用を比較してみると、町の中央部を東西に走る県道西条北島線より南側に農地より宅地への転用が多く見られる(これは現地調査でも確認をしている)。しかしこの間には、大規模な住宅団地への農地転用は北島町全域において見られない。また、県道徳島高松線(旧国道55号線)の老門近くより、新しく開通している姫田鯛浜線沿線には、まだ都市的土地利用のきざしは顕著には見られない。

 (3)北島町における就業者の変化からみたベッドタウン化
 1955年当時、北島町に居住する就業者の90%が町内で就業していた(第9図・第10図)そして町内で就業する者の35%が町外から通勤していた。これに対し現在では、町内に居住する者の42%が町内で就業しているにすぎない。町外就業者の従業地は、基本的には隣接4市町であるが、近年は次第に北島町からの通勤圏が拡大しつつある。
 とはいえ、その中心を占めるのは、町内就業者数と遜色ない就業者を吸引する徳島市である。1970年代はじめに北村・中村に造られた県営住宅や北島グリーンタウンが徳島市から人口を呼び、ベッドタウン化の先達となった。現時点では、徳島市応神地区との誘致合戦に勝って1997年に県立高校が新設されることになったことが、他の市町村からの移転地の選定に際して北島町に有利な点として働くであろう。しかし、松茂・藍住両町に比べて交通が不便であることが住宅地としての北島町の魅力を低下させており、両町に比べて新規住宅建設数の減少や人口増加率が低下していることは、その現れだと考えられる。
 もっとも、町外から通勤してくる者の比率も49%に増加しており、北島町の状況は単純に徳島のベッドタウン化と呼びえない面も、もっている。

 (4)北島町における事業所の分布とその変化
 第11図と第12図は職業別電話帳をもとに作成した1985年と1995年の事業所の分布をそれぞれ表している。全事業所数の変化をみると、1985年には699であったものが、1995年には712に増加している。13の事業所の増加である。第7図と第8図の土地利用の図でみたように、大規模な製造業の進出は見られない。
 さらに、事業所の増減の実態を、町内をはしる道路を基準にしてみてみよう。北島町内の道路を次のような区域に分けて、その道路に面する100m以内の事業所数を1985年と1995年について、それぞれひろってみた。そうすると表に示すような結果となった(表1)。


減少数のもっとも激しいのは、県道西条北島線沿線の事業所数である。道路自体、あるいはその沿線のもっている条件を考えると、立道鳴門沿線がもっとも減少していても不思議ではない。立道鳴門線は第1図に掲げた道路のなかではもっとも古く、道路幅はもっとも狭い。しかも、徳島・鳴門、徳島・高松を結ぶ幹線道路ではすでになくなっている。したがって、1985年以前に激しく減少した時期があったと推測される。
 一方、減少のもっとも激しい西条北島沿線は、新しい事業所が進出するには用地が乏しく再開発の動きも見られない。いわば第2の立道鳴門線と同じ状況になっていると考えてよいであろう。町内のその他の地域の事業所数が町内全体の増加数を、はるかに上回っているのは、近年町内を東西、南北に貫く道路が建設され、それらの沿線沿いに事業所が進出いていることが考えられる。
 (5) 北島町における都市化と水資源の利用
 北島町における都市化(工場の立地を含む市街地化)にとって、都市用水(産業用水や生活用水)の確保は不可欠の条件である。北島町を囲むように流れている旧吉野川と今切川(第1図)はともに河口堰を有し、淡水を確保できるため、同町はこれらの河川の表流水を利用できる立地条件に恵まれていると言えるが、実際に表流水を利用するためには、水利権を獲得しなければならない。水利権には、慣行水利権と許可水利権があり、農業用水には昔からの慣行水利権が存在するが、工業および生活用水には、ダム等を作ることによって新たに発生する水利権を獲得するか、他の既得水利権が移譲されるなどしなければならない。
 北島町では、かつては良質の地下水に恵まれ、上水道の水源にもなっていたが、昭和57年頃から塩素イオン濃度が上昇し始め、上水道の水源も昭和63年より表流水につけかえられた。昭和58年より「徳島県地下水の採取の適正化に関する要綱」によってその揚水に規制が加えられたが、その一方で現在、まで塩素イオン200ppm の等値線(飲料適・不適の分岐点)は名田橋付近まで遡上し、ほぼ安定状態にある。今日北島町における地下水の利用は、一部工場などに限定されている。
 表流水の利用に関し、大きく農業用水、工業用水、そして生活用水の三つの用途別給水について、以下にその概略を述べる。
 1)農業用水
 都市化に伴い、農業用水枠の水需要はむしろ減少すると思われる。旧吉野川水系の表流水に対して土地改良区単位で慣行水利権が存在するが、実際には北島町の範囲で取水される農業用水量の正確な把握は困難である。また、季節による変動も大である。北島町内における農業用の表流水取入口は、旧吉野川、今切川に沿って10カ所見られる。
 2)工業用水
 北島町とその隣接地には、昭和25年に誕生した東邦レーヨンに加えて、昭和32年東亜合成、33年に日清紡績、37年には四国化成と大工場の進出が相次いだ(第1図)。これら昭和30年代における北島町およびその隣接地への大工場の進出には、昭和31年の北島町工場設置奨励条例の第3条によって工業用水道が給水を開始し、すでに独自の水利権を獲得していた東邦レーヨンおよび日清紡績を除いて町内の主要工場がこの工業用水道を利用している。また、上水道の一部も工業用に利用されている。
 3)生活用水
 北島町では、昭和30年に上水道の一部給水を開始して以来、地下水源を水源としていたが、地下水の塩水化に伴い、昭和63年より表流水に転換している。今日、旧吉野川の表流水を、地下水の塩水化に伴い、昭和63年より表流水に転換している。今日では、旧吉野川の表流水を水源とする町営上水道が町民に対して100%普及している。上水道のための許可水利権は、昭和50年完成の早明浦ダムによって確保されたものである。
 このように北島町では、これまで表流水の利用によって都市用水が確保されてきた。今後さらに需要の増加が見込まれるのは、上水道であろうと予想されるが、新たな許可水利権獲得については、ダム等による水資源開発を容易に行うわけにはいかないため、当分は他の用途から(たとえば工業用水から上水道へ)の融通でまかなわれるものと予想される。


 さて、給水面の一方、排水面を見てみると、北島町は西から東にかけてわずかに傾斜のあるほぼ平坦な土地であることから、東側に都市下水路排水機場(建設省補助事業)が1か所、農水省補助事業の排水機場3か所の計4か所の排水ポンプ場が見られる。北島町における下水道設備については、グリーンタウン(491世帯)を除いて普及していない。水洗化されていなく、し尿処理の対象となっている人口は、3,039人(平成5年)である。トイレの水洗化のために浄化槽を設置している家庭の大部分は単独浄化槽であるため、台所などからの生活廃水は、ほとんど未処理のまま排水されている。
 これまで、都市排水の河川への排除が第一義的に行われてきた結果、下水処理にまで十分な配慮が見られなかったが、今後の北島町の都市化に伴って、下水の処理も重要な課題となろう。

4.おわりに
 北島町の都市化は1950年代後半(昭和30年代)の一連の化学工業を中心とした工場の進出がきっかけとなっている。いわば徳島県の工業地域として出発したわけである。これは徳島県の政治・経済の中心である徳島市に隣接しているという条件より、旧吉野川の河口付近にあって、水とその水運に恵まれたという条件によるものである。しかし、地方中心都市としての徳島市の発展、拡大につれて、その北方に隣接する住宅地域として注目され、ベッドタウン化してきたともいえる。つまり北島町の都市化は二つの顔をもった都市化であった。この二つの都市化の顔は、かつてほどではないが、両方とも現在も進行している。 北島町くらいの面積が、今日では埋め立てによって造成される時代である(神戸沖のポートアイランドや六甲アイランドがその例である)。大変小さい面積の町であるということである。町内に新しく1本の幹線道路が開通するだけで、町全域がその影響を受けそうな面積サイズである。北島町の将来を考えるにあたっては面積サイズを第一に考慮すべきであろうと思われる。
 調査にあたり、北島町役場、徳島県庁統計課の方々には大変お世話になりました。また、聞き取り調査にご協力をいただいた北島町の農家の方々にも感謝いたします。
(文責・井上 隆)

1)北島町北島中学校 2)鳴門教育大学 3)四国大学 4)板野西部補導センター
5)鳴門教育大学大学院 6)鳴門教育大学学生


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