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1 北島町の位置 北島町は、吉野川の河口に形づくられた一辺約10km
ばかりの三角州のほぼ中央に位置している。吉野川の三角州は、蛇行する数条の河川によって区切られた、島と呼ばれる多くの砂州よりなっている。北島町は、現吉野川の北方にあって、旧吉野川と今切川にはさまれたひょうたん形の島である。現吉野川は旧名を別宮川といい、江戸時代のはじめ蜂須賀氏が入国してから流れが変えられ、本流となったもので、それ以前は今切川や旧吉野川が本流であった。そのころの川は、平野面を自由に曲流して河道と州の配置の変遷を繰返していたので、北島町内にも、平野面に多くの河道跡が残されており、地割りにそれを読みとることができる。北島町の地表面は海抜3m
に満たず、著しく低平である。土地が低いために洪水の害に悩まされたが、土質は砂質、泥質であり、肥えていて、江戸時代から明治時代にかけて広大な水田、畑作地帯として発展してきた(「北島町史」)。
2 三木家の成立 今回の北島町調査で中心的にとりくんだ北島町本須54番地の三木安平(70歳)家は、北島町の中堅農家で、18世紀以降の古文書が多く残されている。この古文書の中に、代々の経営規模が必要に応じて所々に書き込まれている三木家の系図のようなものがあった。 それによると、文政元年(1818)、三木家の分家として三喜之烝(32歳)のために居宅(6間×4.5間)、東納屋(7.5間×3.5間)が建てられ、現在地に住むようになった。その経済規模は、天保3年(1832)の記録で、田1町8反9畝17歩、萱(かや)野1町7反7畝4歩であった。このころ北島町にはまだ人家が少なく、広大な原野(萱野)が屋根材採取地や採草地として存在したと考えられる。これから三喜之烝−安左衛門−三喜太−芳太郎−覚太郎と5代にわたって、村役人である五人與(ぐみ)、村議など代々村の要職を務めながら、水稲作中心の農業に精力的にとりくんで農地をふやし、昭和21年政令で農地解放が行われた時には、田8町5反9畝を開放し手放すまでに成長している。6代安平は、戦後、業を転換して、植木・造園業となり、米麦生産は行っていないが、広大な屋敷に居宅、東納屋、西納屋が旧来のままに建っており、農機具も多く残されている。それらの中から数点をとりあげて、北島町の中堅農家の経営の一端を見ることにする。 なお、調査期間(平成7年7月28日より8月8日)中の三木安平氏のご協力に感謝する。
3 北島の民具 1)土締め 三木家の邸内に、図1、写真1のような石造物がある。花崗岩(かこうがん)製で長さ54cm、直径は一方が46cm、もう一方が50cm、中心に、直径3cm
の鉄製心棒が貫通している。随分と重いもので、体積、比重から重量を計算してみると、約67貫700匁(約254kg)となる。 これが、どのようにして何に使われたかを知る人はない。当主も家人も知らないという。75歳の当主も知らないと言うのだから、7〜80年以上前に使われていた、重量をいかすことを使用の目的とした民具であろう。三木家では、文政元年より大正元年(1912)までの94年の間に、6回、6棟の大建築を行っている。文政元年居宅建築、文政2年(1819)東納屋建築、天保11年(1840)倉庫建築、安政3年(1856)西納屋建築、明治23年(1890)裏座敷建築、明治43年(1910)西納屋改築、大正元年居宅建築となっている。 北島町は、はじめに述べたように地盤は軟弱であり、地表面は海抜3m以下ときわめて低かったので、家屋の基礎づくりに人々は苦心したようであった。この石造物は、家屋の基礎づくりのために造られた三木家の「土締め」であったと考えられる。両端の直径に4cm
の差があるのは、回転するためと、平均に整地するための工夫であろう。軟弱な土盛りの上では人力ではとても動くものでなく、牛馬に引かせて土盛りをしながら、現在の三木家の屋敷(写真2)がつくられたものであろう。
 

2)地搗 図2、写真3は「地搗(ぢづき)石(石たこ)」といい、建築の基礎部分をつき固める道具である。胴部に針金の輪を入れて、周囲に枝綱を出し、数人が1本ずつ綱を持って、音頭の唄(うた)に合わせて引き上げ、落下させて、石の重みで地固めをするもので、直径約32cm、高さ21cm、砂岩づくりで重量は41.5kg
であった。何本も足が出ていることから「たこ」といい、これを使って作業することを「たこづき」という。明治・大正ころまでは、「たこ」は建設現場で必須のものであったが、戦後は動力によって行うものがこれに換わった。「石たこ」は珍しく、一般には木製の「木たこ」が多く普及していた。北島町創世ホール2階資料室には、「棒搗き」のやぐらが保存されている(写真4)。「棒搗き」は、木材の重量で地面を強く打ち固めるもので、古代から昭和初期まで使われていた。「地搗き唄」とか「棒搗き唄」といわれる民俗歌謡が残されている。「たこ」や「棒搗き」を使った「地搗き」は、音頭に合わせてにぎやかに、祝いの気持ちを含めて、はなやかに作業が行われたものであった。

 
3)舁き台 「舁(か)き台(図3、写真5)」は荷物を載せてかつぐ「荷物台」の一つで、江戸時代中ごろから使われた。民衆の間で使われたのは儀礼的な場合で、嫁入りや婿入り道具を載せ、上に家紋入りの「ゆたん」(布)を掛けて婚家に運び、台共に婚家に置いてくるもので、写真の舁き台は、構造から見て明治期のものであろう。当時の縁組みは、家柄や家格を大切にしたので、嫁入り行列も、随分と威儀をただしたものであった。 三木家の記録によると、明治28年(1895)に4代芳太郎の妻に川内村の中瀬家からコヨシを迎えているので、中瀬家から贈られたものであろう。

 
4)砕土機 図4、写真6は「くれわり」、飛行機の翼に見立てて「ヒコーキ」ともいわれている砕土機である。馬鍬(まぐわ)を改良して考案されたもので、この類型の中では最も古い様式を示している。おそらく大正期につくられたものであろう。荒起こしした、広い田を馬に引かせて切り割って行くので能率がよく、昭和初期から昭和30年(1955)にかけて次第に改良が加えられ、全国的に使用された。一般には「翼状砕土機」(飛行機馬鍬)といわれ、当時としては能率的な農機具であった(1)。
 
5)豆粕切り 「豆粕(かす)切り(図5、写真7)」は、肥料用の豆粕(大豆油粕)を刻む道具である。豆粕は、大正、昭和初期、ニシン粕などと共に農地の最も重要な元肥肥料であったが、直径60cm、厚さ10cm
くらいの円盤状、固形できわめてかたかったので、施肥の時には細かく砕くのに苦労したものであった。4代芳太郎は、大正年間に北島村老門地区農業改良実行組の組合長を務めていたので、関係資料が残されている。大正15年の記録によると、老門地区は戸数35戸(農業33、商業1、漁業1)、農家33戸の耕作面積は田48町5反5畝、畑7反5畝で、平均1町5反を耕作していたことになる。これに対して同年度の実行組は、豆粕1200枚を2520円、ニシン粕600枚を480円で購入、配分している。豆粕1枚2円10銭、ニシン粕1枚80銭で、1戸当たり平均豆粕36枚で代価75円60銭、ニシン粕18枚で代価14円40銭、合計1戸当たり90円の「元肥」(植え付けの前に施す肥料)を散布したことになる。肥料代が思いのほか高額であったことはさておき、平均農家に倍する耕作面積を持つ三木家の豆粕使用量は、100枚にも達したであろう。これを裁断するために、テコを応用した押し削り式「豆粕切り」が活用されたものと思われる。


6)田植定規 図6、写真8は「田植定規」である。日本の水稲が、整然と縦横の株間を決めて植えられるようになった歴史はまだ新しい。福岡地方では、明治時代の後期から正条植が奨励され、大正時代前期になって定着したという(2)。 その当時、国策として正条植を奨励したようで、時を同じくして全国で正条植が行われ、それによって除草機も考案され、生産量を高めたが、田植定規の形状は一様ではなく、様々で、徳島では一般的に、鴨島方面で「こかし」という、約180cm
の杉材3本を約54cm
の横材2本で組み、両端4個所の結合部は横材を薄い鉄板で包んで、横材が自由に回転できるようにし、横材には両端4個所に2本爪(つめ)の脚(長さ15cm)がついているが、後退しながら植える時、脚はいつも下を向いているよう工夫されている様式の定規が普及しているが、定規について三木安平氏は「北島町はどこの家でも皆これであった。戦後しばらく稲作をしていた時、那賀郡方面から来たサオトメに植えてもらったが、三木家の定規は使ったことがないといって『こかし』を使った」という。 三木家の田植定規は、海岸線に近くて土地の高低差の少ない、耕作地の1枚面積の多い地方では、きわめて能率的なのであろう。


7)田舟 図7、写真9は、秋の収穫時にもっとも活躍した田舟で、長さ194cm、幅85cm。「思いのほか大量の稲束を載せて運搬することができたが、これを使わなくなって年久しい」と三木安平氏はいう。河川と湿田の多い北島町に適した民具といえるであろう。
 
8)様石と寝床 図8、写真10は砂岩製の石造物で、三木の家人も使用目的は分からないというが、邸内の庭の片隅に「からうす」や他の石造物と共に置かれている。高さ45cm、幅34cm
で、体積から重量を計算すると約21貫700匁(約81.4cm)となる。石に刻銘は無いが、形は藍(あい)玉の船積みに使う「様石(ためしいし)」に似ている。「様石」と書いて「ためしいし」と読むのは阿波特有の用語である。21貫の藍玉と風袋(俵)の合計と同じ重さの石を棒の一端につるしておいて、船積みする藍の量目を確かめるもので、徳島県立博物館には側面に「■■」「廿一〆六百」と縦に陰刻した様石がある。三木家の記録には藍作や藍を取り扱った記事はまったくみられないが、北島町も含めて板野郡は阿波藍の本場であり、三木家の広い耕作面積と代々のすぐれた経営手腕から考えて、藍作を試みた時があったかも知れないと考える。そのように考えてみると、現存する三木家の東納屋は藍寝床(■(くすも)をつくる納屋)のつくりと外観がまったく同じであった(写真11、12)。
 
 
参考文献 1.農林水産技術会議事務局編(1988)写真で見る農具 民具,68頁.農林統計協会. 2.同上,83〜89頁. 3.北島町史編纂委員会編(1975)北島町史.北島町.
2)徳島県立農業高等学校 3)鳴門市役所 |