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1 はじめに 今回の北島町総合学術調査に際し、鯛浜水神社(図1)の天井絵の特異性に着目し、その天井絵の特徴、天井絵奉納者の地域分布状況、天井絵奉納の趣意、並びにその作画者(絵師)の調査を行った。調査の方法は、神社総代並びに地元の古老からの聞き取りを中心に、一部北島町史をもって補足した。なお天井絵の絵柄のテーマになっている、鯛浜水神社競馬についても併せて調査を行った。

2 鯛浜水神社の天井絵について 神社拝殿に上がってまず目を引くのは、彩色格子天井絵である。その絵柄の半数以上が競馬関連の絵であること、鯛浜周辺の多くの他部落からの奉納絵の多いことが特徴である。 競馬関連絵とは、童子の騎馬絵、騎馬童子のかぶる頭巾(ずきん)に馬主の屋号を大書したもの、又は屋号を染め書きした腹帯着用の馬等の絵柄が描かれているものとした。その他の絵は、めでたい絵柄が多い。大黒天、福禄(ろく)寿、鯛絵、鯉の滝登り、日の出等々幅広い絵になっている。それらの中に、絵師の落款の入ったものが2点あり、作画奉納年代特定の参考になった。 格子絵の数は、幣殿に80面、拝殿に128面、総数208面、それぞれの天井全面に掲げられている。調査に当たり、すべての絵を天井配列通りに模写し、次の点について分類区分した。 1.競馬関連絵とその他の絵の区分 2.寄進者の地域別区分 3.複数絵寄進者の調査とその区分 4.作画者(絵師)の確認と作画、奉納年代の調査 5.天井絵作製に要した費用(奉納者の寄進金高) 以上の内1、2、3項については作表分類した。又絵柄の内容検討と、神社総代中野頼雄氏(83歳)外古老からの聞き取り調査により、掲額の目的と作製年代をほぼ特定することができた。
3 天井絵の分類区分 1)幣殿天井絵 東西8列、南北10列、総数80面(本殿に向かって縦長の造り)ある(図2、3)。


(1)奉納者の地域別分類区分 80面すべてが鯛浜氏子の奉納によるものと判明した(神社総代中野氏立会いにより、絵に書かれている氏名、屋号で確認できた)。一段高く、本殿に近い場所に氏子の奉納絵を掲額したものと推察できる。 (2)競馬関連絵の数と奉納者 47面で、その内容は表1の通り。

(3)普通絵(七福神、鯛、鯉、日の出、帆かけ舟、松竹梅、菊、外) 33面で、内容は表2の通り。

(4)複数天井絵の奉納者 7名で17面あり、内容は表3の通り。

2)拝殿天井絵 東西16列、南北8列、総数128面(本殿に向かって横広がり)。 (1)奉納者の地域別分類区分 地元氏子の奉納絵が66面、他地域からの奉納絵が62面で、計128面である。他地域からの奉納絵の地域別数は表4の通り。

(2)競馬関連絵奉納者 63面(地元氏子27面、他地域より36面)で、奉納者は表5の通り。

(3)普通絵奉納者 普通絵は65面あり、内容は表6の通り。 なお表5と表6を比較すると、競馬関連絵では、地元の奉納者27面に対し、他地域よりの奉納絵は36面あり、反面普通絵の場合、地元39面、他地域よりは26面になっている。このことからも、他地域からの競馬参加者がいかに多かったかがわかる。普通絵を他地区より奉納した者は、鯛浜地域に土地、田畑を所有している者で、小作料収入等を得ていたため、応分の寄進協力をしたものと思われる。

(4)複数絵の奉納者 4名、10面あり、内容は表7の通り。 幣殿と拝殿両殿に奉納した者は新見藤吉■1名だけで、各殿へ1面、計2面奉納している。

4 鯛浜水神社の競馬 鯛浜水神社の競馬は、徳島市の弥吉明神や四所明神社の競馬に此肩される、有名な阿波競馬の一つであった。競馬は、宵祭の奉納行事として、農耕馬やそれぞれの地区有力者の飼育する競走馬が集まり、競ったもので、おおよそ150〜200頭に及んだと伝えられている。地元農家は他部落からの馬を迎え、馬宿として遇した。小家で1頭、大家で3頭の馬と馬主、手入人を含めて3〜5名受入れ、競って接待したようである。受入れ農家には非常に大きな負担になっていた、と伝えられている。競馬は、鳥居前から西へ距離500m、幅10m
で、西端より東鳥居方向へ、紅白2頭で競った。馬場両側に丸太棒で垣を作り、放馬防止とともに見物席としていた。騎手は7〜15歳位の少年で、馬主の屋号を表した頭巾をかぶり紅白の采(さい)を腰につけて出走、鳥居近くの決勝点で紅白いずれかの采を揚げて見物人に勝馬を知らせた。有力な競馬後援者であった藍商の衰退とともに、長年続いた鯛浜水神社の競馬も中断し、今日に至っている。中野頼雄氏の記憶によれば、大正10年(1921)ごろまで行われていたようである。
5 天井絵奉納時期と絵師(作画者) 当社総代の引継ぎ書類中には、天井絵に関する文書記録が残されていないため、絵柄により推定した。その一は、幣殿奥の「野戦砲兵加好忠吉」の絵と、拝殿にある「征清従軍勲八等鎌田藤吉」及び「徳島市助任町三浦富郎」の3面により、日清戦争、明治27〜28年(1894〜95)ごろに描かれた事がわかる。戦争終了の翌年に描かれたとしても、99年経過していることになる。 絵師は幣殿西南隅の「花井筒頭巾絵」に「應需 藍香図■」の落款がある。徳島市富田在住の画人、多田藍香なることが明白である。多田小餘綾氏にお尋ねしたところによれば、当社天井絵は承知しており、参拝見学された由で、藍香の没年は昭和3年(1928)、71歳であったと伺った。中野頼雄氏が父君から「天井絵1面当たり5円寄進した。当時としては高額なもので2名連名で1面として、2円50銭宛分担した」と聞き知っていたとの事である。社殿建築資金に充当されたようであり、藍香も相応の報酬を得たことが想像される。社殿を取り囲んで建てられている立派な玉垣は、刻字により明治以降のものであることは歴然としており、天井絵寄進の有力者と同一名のものが数多い。
6 おわりに この度の調査中に、地元氏子の方々から「漠然と見過ごしていた天井絵が、水神競馬と深いかかわりがあること、画人藍香のことに就いて再認識した。貴重な地域文化財として今後の保全管理に意を用いたい」旨承り、調査の意義を深く感じた。 度々の調査に際し、神社総代中野頼雄氏には83歳の御高齢にもかかわらず酷暑の折から秋までその都度御立会いをいただき、幣殿開扉や採寸測図等格別の御協力を賜り、かつ諸事情御教示いただいた事、並びに画人多田藍香御血縁の多田小餘綾氏からも、余人に分かり得ぬ貴重なお話をお伺いできたことにより、調査の実を挙げ得たこと有難く、御両氏に感謝し、改めてお礼申し上げる。 |