阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
大正元年大洪水時における北島村の初動対応と洪水遺産

郷土史班(阿波郷土会) 三木安平1)

1.はじめに
 大正元年(1912)から今年で、はや84年の歳月が流れた。暴れ川として全国一ともいわれる吉野川の下流域に位置する北島町は、昔時より毎年のように来襲する大洪水とのたたかいが、先人たちの生活そのものであったといっても過言ではないと思われる。大正15年(1926)に現在の吉野川両岸の堤防は完成、それ以来家屋が流失するような大洪水もなく、今日まで流域住民の生命と財産は何とか守られて来た。この堤防が完成するまで、歴史に残る最後の大洪水といえば、大正元年の大洪水である。
 幸い、北島に居を構える自宅に、洪水当時の北島村当局の対応ぶりを知ることが出来る村会資料と、洪水の冠水位を示す個所が現存するので、それらを参考にしながら、当時の状況を検証してみたいと思う。

2.洪水時における村当局の初動対応
 資料(1) 仮止工事施行ノ件
  本日23日洪水ノ為メ決壊シタル左記ノケ処ハ深堀ニシテ潮水浸入シ作物ヲ害スルヲ以テ緊急事業トシテ左ノ金額ヲ以テ仮止工事ヲ施工スルモノトシ其方法ハ村長適宜トス。以上ノ工費ハ一時借入金ヲ支辨シ置キ不日正豫算ヲ本会ニ提出スルモノトス。
   記
  老門高橋西
   1.長9間 高7分 巾8ト5厘
     立5坪3合5勺 金.18円72銭5厘也
  老門三木只蔵西
   1.長20間 高7分 巾8ト5厘 立11坪9合 金.41円65銭也
  三ケ村井利ノ上
   1.長5間 高1間 巾1間 立5坪 金.17円50銭也
  太郎八須村西ノ瀬
   1.長16間 高5歩 巾8ト5厘 立6坪8合 金.23円80銭也
     計金 101円67銭5厘也
 資料(2) 報告書
  昨日本会ノ決議ニ依リ委員御嘱托ニ依リ委員ハ閉会後直チニ調査ニ着手シ諸種ノ材料ニ拠リ審擦熟議ヲ盡セシモ甲ハ乙ニ乙ハ丙ニ影響シ拾収捕捉スルニ由ナク到底短時間ヲ以テ正鴻ヲ期スル能ハザルニ由リ寧ロ這回ハ理事者ノ提出案ヲ是認シ災害善後ノ處理ヲ了セハ本年度内ニ於テ相当ノ機関ヲ設置シ周到緻密ナル調査考究ヲ重ネ正確ナル等級ヲ組織シ賦課ノ公平ヲ保タシムルヲ最モ好良ノ手段ト相認候間此段意見及報告候也
   大正元年10月9日
    委員 板東 繁太
     仝 宮本安右ヱ門
     仝 藤田 重平
 資料(3) 大正元年度追加 徳島県板野郡北島村堤内歳入出豫算書(大正元年10月16日)
  第二款 県税補助金 六百拾七円八拾銭
   第一項 土木費補助金 六百拾七円八拾銭
  第三款 村税 金弐千三百五拾六円七拾七銭
   第一項 地価割金弐千三百五拾六円七拾七銭
    但宅地々租一千二百三十円六十四銭五厘地租一円二付十銭八厘九毛八系其他地租八千七百四十円九十八銭五厘地租一円二付二拾五銭四厘二毛八系
   歳入総計 金.弐千九百七拾四円五拾七銭
  大正元年度追加 徳島県板野郡北島村堤内歳入豫算説明
 本年度本村堤内追加豫算金二千九百七拾四円五拾七銭ヲ求ムル所以ハ本年九月二十三日暴風雨洪水ノタメ非常災害ヲ被リタル後旧土木費等ヲ要スルニ因ル
 資料(4) 大正元年度追加 徳島県板野郡北島村歳入出豫算書(大正元年10月16日)
歳入
  第七款 村税金 壹千弐拾五円七拾銭
   第二項 反別割金壱千弐拾五円七拾銭
    但 県税戸数割税額千八百九円一銭二付九拾六銭六厘
    歳入総計金 壱千弐拾五円七拾銭
   備考 歳入豫算戸別割ハ大正元年12月25日現在ニ賦課シ大正二年1月20日限徴收スルモノトス
  大正元年度追加 徳島県板野郡北島村歳入豫算説明
 本年度追加金壱千弐拾五円七拾銭ヲ求ムル理由ハ本年八月以来数度ノ暴風雨九月二十三日大洪水ノタメ村有建築物及器具機械ノ破損流亡シタルヲ以テ之レガ修補等ノ費用ヲ要スルト災復各般事務施行ノ費途ヲ要スルニ因ル
   以下略
 以上のように、洪水により破損した堤防の補修関係等の村会資料は、まだ多数現存するが紙面の都合で割愛する。これらの中から、当時の状況が判明又は推察される主な事項を例挙してみると、次のようなものである。
 イ.北島村は周囲を川で囲まれており、大正元年の洪水では堤防の各所が寸断された。最低地部に当たる老門・太郎八須地区では、川から潮水が流入するのを防ぐためまず応急の仮止工事を行っている。その工費は101円67銭5厘で、一時借入金である。
 ロ.10月8日には村会を開催し、調査員3名を選任、現地調査を実施しているが、報告書の通り「短時間を以て正鴻ヲ期スル能ハズ」と報告していることから、当時の惨状ぶりが推察される。
 ハ.9月23日の洪水から10月8日までの間には、村会を開催した資料は見当たらない。
低地域では5日から一週間位冠水していたと思われるので、各自の家の跡始末が大変であった筈であり、従って村会の開会も遅くなったものと予想される。
 ニ.本格的な復旧工事は、大正2年(1913)から県費補助(6割)を受け着手しているが、低地部だけでも55カ所にのぼっており、北島全村の修理個所はいかに多かったかが推察される。
 ホ.北島村はおおむね、旧吉野川と今切川に囲まれた堤内の範囲にあるが、西高房のように堤外にも北島村の土地があるためか、当時の予算は、北島村予算と北島村堤内予算の二通りになっていることがわかる。

3.洪水遣産(冠水位)
1)北島村の地盤高
 北島町史によると「北島町の地盤高は海抜0.3〜3m の範囲内にある……中略……町内で特に低いのは、町の東北隅であり、北小学校〜老門をむすぶ線より東側は海抜1m 以下である。」と記されている。さらに北村の鍋井等9カ所の小字名が記され、これらの字は海抜0.3〜0.4m の個所があるとなっており、筆者の屋敷(中村字本須)もこの中に位置している。
2)自宅に残る冠水位の算出法
 大正元年大洪水の状況については、筆者も子供のころ父からよく聞かされたし、当時の冠水位を示す個所も自宅の各所に確認されたが、時代と共に、室内の改装等により次第にその痕跡は消えてしまった。そこで、せめて一個所は当時の惨状を示す証拠資料として残しておきたいとの思いから、人目につき難い場所に残した(写真1)。ただ、現在では道路や水田等すべて当時より高くなっているため、当時の水高計算の基準となる物を求めることに苦労したが、幸い子供のころの写真が現存していたので、それらを使用し、当時の冠水位を算出してみた。立面図にすると(図1)のようになる。
 写真及び立面図により、自宅では水田面から3.15m の冠水があったことが実証される。
 ただし、練塀の天端を水平とし、また道路面と水田面の差を30cm として算出したものである。

4.おわりに
 去る平成七年10月21日に「吉野川再考IV」のシンポジウムが文化の森で開催された。その中で「洪水遺産」なる言葉が真貝宣光氏により初めて公にされ、その意義と重要性につき論議された。現在ではほとんど風化されようとしているこれらの遺産を再発掘し、将来の教訓として後世に伝えるのも我々の責務である。完成して70年を経過した吉野川堤防も、当時の技術者が「恐ろしいのは改修前も後も同じ」と指摘していることを考えれば、今後永遠に大正元年のような大洪水は絶対ないという保証は何もないことを忘れてはならないと思う。

 注:資料(1)〜(4)及び図1で示した写真は三木ガーデン歴史資料館所蔵。


徳島県立図書館