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吉野川は、我が国河川の中で流域面積では17位、川の長さでは11位に位置するが、洪水の時流れる水量を表す基本高水ピーク流量では24.000平方メートル/S(阿波町岩津地点)と全国1位である。この事は吉野川第一期改修工事(明治40年〜昭和2年)の完成により下流域両岸に近代的連続堤防が完成するまでは、流域住民は日本一の大洪水と闘って来たという事であり、徳島は洪水大国であった事を意味する。 今度の総合学術調査にあたり、北島町は吉野川の派流である旧吉野川、今切川に囲まれているという地理的条件から、洪水に関係する資料が残されているのではないかと考え、資料調査をすすめる事とした。幸い洪水による今切川の流路の変遷がもたらした“村界争い”に関する資料を見いだす事が出来たので、一事例として報告したい。 吉野川沿川部には、洪水による表土の流失、土砂の浸入、川床化により郡界・村界・地界等がわからなくなる事に備え、住民の知恵として郡界石・村界石・境界木等が設けられ、洪水後の紛争を未然に防ぐ役割を果たして来た、しかしながら洪水のため境界が不明になった事に起因する紛争は、沿川地域に少なからず発生した事が古文書等の記述により確認できる。ここに報告する一件は当事者間での調整がつかず、ついには傷害事件まで発生し、裁判沙汰となり徳島始審裁判所、大阪控訴裁判所まで争いが持ち込まれた事と、土地の領有をめぐる村対村の紛争である事に大きな特徴があり、他にあまり例を見ない事件である。 問題となった土地を図1に呈す。地図によりこの地域では吉野川(今切川)の乱流の証拠のように、今切川両岸に板野郡北島町と徳島市川内町との境界が複雑に入り組んでいる様子がおわかり頂けると思う。問題の土地は、今切川右岸の徳島市側に存在するほぼ三角形の土地である。本報告で取り上げた紛争事件で中島浦村側が勝訴していたら、徳島市域に編入されていたと思われる。
 老門地区(板野郡中村の枝村―現・板野郡北島町中村)と中島浦村(板野郡中島浦―現・徳島市川内町中島)は、吉野川の洪水により境界が不明となった両村萱(かや)野の境界設定を藩(萱野方)に願い出、藩は安政4年(1857)に萱野方目付村上美穂蔵を派遣し、両村立合のうえで境界を確定し、それを受け中村庄屋が請書を藩に提出している事から、村界をめぐるトラブルはそれ以前に発生していた事が確認できる。明治12年に老門地区の地主26名が問題の土地である向須地区の名居(なずえ)(所有権確認)を願い出たころから、両村の紛争が再発し、一大紛争となったのである。紛争発生後の両村の動向は年表に記す通りであるが、中島浦村側の言い分は、「問題の土地は藩政時代は藩のお鷹(たか)野であり、中島浦村に属する」とし、老門(中村)側は「問題の土地は洪水により川床化していた土地が起き上がったものであり、本来老門地区に属する」あるいは「洪水により崩れ込み川床化した土地の代替地として、藩から下げ渡された土地である」と主張した。最終的には明治17年の大阪控訴裁判所の判決により、老門(中村)側の勝訴となった。老門地区の地主22名は、判決文を添え県に地券下げ渡しを申請したが、県は藩が出した下札(げさつ)が存在しない限り官有地であり、所有権を確認する地券は交付できないとの立場をとった。老門地区地主は、やむなく明治19年5月に「萱野拝借願」を県に提出した。しかし県はこれについても許可しなかったようで、占用許可が史料により確認できるのは明治43年である。占用許可は、昭和40年代に問題の土地(向須地区)が東亜合成(株)の廃材埋立場所に充当されることになり占用が終了するまで、5年ごとに更新された。現在同地は白っぽい化学廃材で埋立てられている。 昭和5年に記された「河川敷占用継続願」によると、同地は「今切川川敷ニシテ占用当所ニアリテハ稍高低アル草生地ナリシヲ開拓シタルモノニシテ、現今ハ平坦ナル畑、及ビ田地等ナリ」と記されている。紛争が起こっていたころの向須地区は、草生地すなわち萱原であった。現在では屋根葺(ふき)用の葭萱(よしがや)は徳島県にはほとんどなくなり、岡山、青森等県外から移入しなければならないため大変高価になったが、当時はそう高価でもなかったと考えられる。しかし、葭簀(よしず)、葭すだれ、屋根葺用等に盛んに使用されていた事から、萱を刈り集めることは格好の副収入になり、領有権の有無には文字通り生活がかかっていたのであろう。埋立地として供用される以前は一部水田があったが、大半は畑地であり、琉球芋(りゅうきゅういも)を栽培していたとの事である。現地に行くには渡し舟で通わなければならない不便と、洪水時には冠水するため、あまり手間はかけられなかったとの事であった。 管見資料のなかに興味引かれる史料が二つある。一つは明治45年1月に資本金800円で設立された向須地区の「開拓合資会社株券」である。払込みがなされている事から実動していたと考えられるが、株券(図2)以外に関連資料見いだす事が出来なかった、入会地の権利に関する法人化と考えられ、大変めずらしいケースである。もう一つは「老門地区絵図」(図3・図4)である。文化年間のものと明治6年のものであり、両者とも紛争中の明治15年に書き写したものである。両絵図を対比してみると、この間に水神社、蛭子神社、居宅等十数棟が吉野川(今切川)の洪水により川中にのみ込まれ、川床化していることが確認でき、問題の向須地区の変遷の様子もうかがえる。老門地区は、吉野川の支流である今切川の河口部に近い所に位置する。「老門地区絵図」は、吉野川の洪水がいかにすさまじいものであったかを現在に伝える第一級の史料であろう。
 
 本稿は紙数の制約もあり、事件の経緯を年表仕立てとし(表1)、ポイントと思われる史料を活字化し、(史料1
・史料2
)概略を記すにとどめた、機会があれば中島浦村側の関係資料も調査し、その成果もふまえて小論文に出来たらと考えている。なお本稿に使用した史料は川端正之氏所蔵文書、三木ガーデン歴史資料館所蔵文書である。貴重な史料を提供頂いた両氏に、紙面をかりて深謝したい。

史料1 萱苅採妨害解除之訴状(明治17年1月)―原告(中村)の言い分― (前略ス)本案論地往昔ニ在テハ、慶長7年、元和4年、天明5年、明暦3年検地帳明掲ノ如ク原告共ノ所有セシ古田ナリ、其古田ハ原告共即チ中村ノ内老門郷堤際ノ所在ナリシカ洪水ノ為メ堤防古田共ニ潰鑿シテ川成トナレリ、其川成トナリシ実跡ハ上ニ掲クル年度検地ノ古田カ即□之ナキト文化年度ノ図面ニ堤塘ノ切レタル跟跡アルトヲ以テ証スヘク、其川成トナリシ后チ愈付洲トナリシハ文化年度ノ図面ニ歴々タルヲ視テ以テ証スヘク、其愈付州之漸次萱葦生シテ現今ノ地形ノ如ク成リシモノタリ、夫レ如此洪水ノタメ地形ノ全面一変セシモノナレハ川向ナルモ河ヲ以テ怪シムニ足ラン、其河ノ如キモ吉野川ノ大河ニアラス支流ナリ、大河ナルニモセヨ支流ナルニモセヨ原告共ノ所有地カ川成トナリシモノナルニ付愈付タル時ヨリ原告共ノ川成起返シ引当ニ願受ケ蘆葦ノ生スルカタメ萱野税ヲ収メ維新后山野税ノ名唱ヲ以テ原告カ収税セシ事甲第三号及至第十一号証ノ如シ、観之本案論地ハ被告カ亳髪喙ヲ容ルルヘカラザル原告共ノ所有ナル瞭然タリ(後略ス)
史料2 萱刈採妨害解除之訴答(明治17年2月16日)―被告(中島浦村)の言い分― 本訴原告ノ蘆葦ヲ伐採セントスル論地ハ別地現地図面ノ如ク原被告村ノ間ニ我日本全国ニテ七大河ノ一ト称フル吉野川之大河ヲ隔テ被告村ノ地面ナルハ言語文字ヲ以テ争フヘキモノニ非サルナリ、且個ノ境界ノ区域哉他邦ノ客ニ之レヲ観セシムルモ盲□ノ人ニ之レヲ捜ラシムルモ被告村ノ地ナルハ天地之自然出タル境界ナル而巳ナラズ該地ハ原ト旧藩主松平阿波守之鷹野場ニシテ、明治二三年頃迄之証跡ハ今尚歴々トシテ存セリ、然ルニ維新革命之際ハ如此鷹野場等之官地ハ未タ確タル規律モ布カレス、然レトモ空シク官地トナスヘキニ非サルヲ以テ被告ハ山野税ヲ上納シ時々該地ノ萱葦ヲ伐採シ居リシニ明治十三四年頃突然原告村人民等カ個ノ萱葦ヲ伐採セシヨリ原被告村ノ間ニ紛争生シタリ(後略ス) |