阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
北島町の伝説

史学班(徳島史学会)  湯浅安夫

1.北島町の伝説の特色
 北島町は、北の旧吉野川、南の今切川に囲まれた「ひょうたん形」の島であり、その中に山地はない。現吉野川は旧名を別宮川といい、江戸時代以降の吉野川の本流であり、町をとりかこむ旧吉野川と今切川はそれ以前の本流であった。その川は平野の上を自由に曲流し、河道と州(島)の配置は変化し,町内に多くの河道跡が残されている。土地が低いため洪水の害に悩まされたが、土質は砂質・泥質で肥よくである。江戸時代から明治時代にかけて、広大な水田、畑作地帯となっていった。また豊富な地下水に恵まれているため、用水指向型の大工場群が進出し、県下有数の工業地帯となっている。二つの川には海水が流入し、防潮水門がつくられているが、工業・農業用水や飲料水の塩水化現象が最近再び問題となっている。
 北島町の歴史については、古い時代についてはほとんどわからない。細川・三好氏が勝瑞城によった時代、高房地方はその幕下に含まれていたことが知られている。また中村に北島権守が勝瑞城の支城として中村城(塁)をつくったが、大正10年(1582)長曽我部に敗れて勝瑞城落城の折、中村城も落城したといわれる。中村に「城屋敷」の地名が残り、城にまつわる伝説もある。このように勝瑞城に近い高房や中村は、16世紀にすでに開発がすすんでいたようであるが、大部分は江戸時代から明治時代にかけて開発されたようである。
 北島町に伝わる伝説は、前述の地形や歴史の特色がよく表れていて、まず開発の歴史が浅いことから、古い時代から伝わったと思われ、県下各地に分布する弘法大師にまつわる伝説や平家落人の伝説はほとんどない。最も古いと思われるのが、勝瑞城などに関連した戦国時代の伝説である。海に面していないので海に関連する話は少なく、川に囲まれた地形から川のもたらす災害や川とのたたかい、川を征服していく開発に関する伝説は多い。山地がないことから山に関する伝説はない。むかしの北島町は、高い煙突が立ち並び、近代的な工場がひしめく現在の北島町からは想像できないような姿であったようで、各地に葦(あし)、茅(かや)、竹やぶ、雑木の茂ったさびしい所が多くあり、河道跡の池などもあって、そこに狸(たぬき)や妖(よう)怪のでてくる話が多い。川に囲まれているが河童(かっぱ)がでてくる話はきかない。
 多くの古老に伝説と思われる話を聞かせていただいたが、その数は歴史が新しいだけに他町村に比して多くない。それらの伝説を分類して一覧表にしたのが表1である。そのうちの幾つかを後に紹介したい。

2.伝説の分類

3.伝説の紹介
 1)老門の開拓者三木加賀守
 播州(兵庫県)の三木加賀守勘右衛門が、戦乱を逃れて阿波にやってきて、文禄年間(1582〜1592)に老門を開拓したと伝えられる。三木加賀守直系で18代の三木博夫さん宅には、蜂須賀家政の老門開発の免許状があるが、開発に際して15年間諸役を免除するというお墨付きの文書である。現在、蛭子神社の境内に三木加賀守廟(びょう)があるが、これは50mほど南の恵勝庵から移されたもので、ここに三木家代々の墓がある。五輪の加賀守の墓もあったが、代々墓をつくった時そこへ埋めてしまった。
  〈三木博夫さん(75歳)談〉
 2)太郎八須の開拓者
 太郎八須は旧吉野川の沖積でできた土地で、北島町で最も新しく開拓された土地である。 江戸初期はまだあし原であったのを、市原太郎八によって開拓された。市原太郎八についてはその経歴は不明の部分も多いが、天正年間(1573〜1592)、長曽我部が阿波に攻め入り、木津城(城主篠原氏)も落城、家来たちはちりぢりに落ちのびた。その落ち武者の一人が太郎八で、富永伊左衛門、森本新左衛門、富永和田之進、中川伊平、細川権衛門、板東作兵衛等と共に、旧吉野川支流の牛屋島川南岸の北村の「ハトノモト」へ着き、松尾川を下って長岸に住居を構え、長岸開、五反地、備後江家、西の瀬等のあし原を力を合わせて開拓した。
 現在、太郎八須西の瀬にある荒神社の末社に市原太郎八を祭る市原神社があり、近くの、高野家の墓地に、太郎八夫妻の墓という五輪の墓がある。
  〈中川定義さん(77歳)談〉
 3)鹿の墓
 明治末期か大正初期のころの話である。ある日、今切川のはんらんで一頭の雌鹿が流れ着いた。村人は木や竹の棒をもって追いかけてつかまえようとしたが、走るのが早く、飛び跳ね回り、なかなか捕まえられない。川向いの古川の若者も応援にかけつけ、半日以上かかってやっと捕まえることができた。せっかくのごちそうとばかり、15人程で食べてしまった。その鹿は子をはらんでいた。
 ところがその夏、村内に赤痢が大流行、鹿の肉を食べていない人から「鹿は昔から神の使いと崇(あが)められている、とくに春日の神鹿(しんろく)は吉祥といわれているのに、何ということをしてくれたんな、このままでは村は滅びてしまうかも知れんぞ」となじられた。そんなことがあって鯛の浜の水神社のお旅先に、鹿の霊を慰めるため供養墓を建立した。
 現在も今切川の堤防の草に埋もれて、鹿の親子を浮き彫りにした墓がある。春日鹿供養と寄付者や施主の名前が刻まれているが、鯛の浜と古川村両方の名前がある。
  〈松田林作さん(76歳)談〉
 4)中村城の手洗鉢
 北島権守の中村城があったといわれる城屋敷の西北に、荒神社が祭られていて、社地は1反2畝(約1192平方メートル)あった。そこは城屋敷神社とも呼ばれていて、社地の南に地神さんの石塔や灯ろう、手洗鉢、鳥居があった。その手洗鉢の下に金の火箸(ばし)が埋められている、と昔から言い伝えられていた。昭和22年に、城屋敷神社は中村の大将軍神社に合祀(ごうし)されて、手洗鉢の行方はわからない。
  〈阿部勝太郎さん(68歳)談〉
 5)三宝大荒神社(太郎八須)のいわれ
 太郎八須に三宝大荒神社がある。この神社の創立年代は不詳であるが、境内に樹令300〜350年の大変古い松の木があって、町の文化財に指定されていたが、松くい虫にやられた。その松より推定すると相当古くからあったようである。祖父の話では紀州から修験者(しゅげんじゃ)がきて、西の瀬に庵(あん)をつくり、その東側に三宝帰依者の守護神で、修験者の神様である三宝大荒神社を建立した。その後現在の位置に移され、拝殿は明治30年に建てられたが、今は鉄筋に建てかえられ、庵は社務所に移されている。修験者の庵主が「この荒神社は、紀州日高川の岸にある荒神社と地形もよく似ているので、棟瓦には是非日高川の道成寺の伝説にちなんで、安珍・清姫鐘楼流れを葺(ふ)いては」とのことだったので、氏子一同相談し、板野郡大津村大代の瓦屋三原九平さんに頼んで、葺いてもらった。境内に、末社として八坂神社と市原太郎八をまつる市原神社がある。昔はその神社があるせいか、荒神社もふくめて「太郎八さん」と呼ばれていた。
  〈中川定義さん(77歳)談〉
 6)正一位源九郎大明神の由来
 東邦レーヨン徳島工場内に赤い鳥居が並び、その奥に二つの神社がある。左の大きい社が正一位源九郎大明神、右が豊受稲荷大明神である
 ここに源九郎大明神が祭られるようになった由来には、次のような話が伝えられている。 ここに工場ができる前は、雑木、竹やぶがおい茂って、それらが三ツ合の川面に影をおとし、うすきみわるい所であって、源九郎狸が住みついているといわれていた。工場建設のため次々と雑木ややぶが切り開かれ、更に社宅を建てるため三ツ合の川端まで切り開かれた。村の老人たちは、源九郎狸の住む所がなくなった、どんなたたりがあるかもしれん、と心配していた。ところがそんな時、元気であった建設係の重役の一人が急死した。さあ大変、源九郎狸がおこりだした、これからどんなたたりがあるかもわからん、と村人は心配した。会社側も会議を開いて、工場内にお堂を造って「正一位源九郎大明神」として祭るようにした。
 戦争中、会社関係の人が召集されて出征(しゅっせい)するときは、必ず源九郎さんに武運を祈願していった。お稲荷さんは繁栄を願い、源九郎は安全を願い祭られたそうであるが、狐(きつね)と狸両方を祭る珍しいものである。
  〈故中西タキノさん談 梶 秀夫さん(71歳)収集〉
 7)長原街道の首切馬
 北島町の江尻、老門から松茂町の広島、笹木野、豊岡、長原へと長原街道はぬけている。 むかしこの長原街道を、夜もふけて草木も眠る丑満時になると、シャンシャン、シャンシャンと鈴の音をたてながら、何十頭もの首切馬が駆けると言い伝えられ、恐れられていた。首切馬が出るようになった由来は、戦国時代、勝瑞城主三好長治は、主君である細川真之が長治の専横に憤り仁宇谷に落ちのびたので、これを討とうと兵をおこしたが、一宮成助、伊沢越前守などの背反により敗れ、長原まで逃げ、ここで自刃した。その後、この戦いで死んだ人馬が成仏できず、首切馬がでるようになったと伝えられていて、特に雨のそぼ降る深夜などは、子供はもちろん大人でも外出することをこわがった。その霊を慰めるためか、長原街道の要所の辻にはお地蔵さんがまつられている。最近、この長原街道も新設のバイパスに道をゆずり、その面影を失ったが、辻々にあるお地蔵さんにわずかに昔をしのぶことができる。
  〈中野頼雄さん(83歳)談〉


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