阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
中世萱島荘とその国人の一考察

史学班(徳島史学会)

        田中省造1)

1.はじめに
 板野郡北島町は、かつて萱島荘に属していた。また、当町はその西に隣接する同郡藍住町に、室町時代、阿波守護細川氏の守護所勝瑞が置かれたこともあって、阿波の中世史を考える上で重要な位置をしめている。ここでは、萱島荘と中世に当地方を中心に活動したとみられる国人について考えてみたい。

2.萱島荘について
 当地方は、平安時代以来、山城国の石清水八幡宮の所領萱島荘に属していた。『板野郡誌』によれば、八幡宮領となった萱島荘の別宮浦には、万寿2年(1025)別宮八幡宮(現徳島市応神町吉成別宮八幡神社)が勧請(かんじょう)されたという。『紀伊国続風土記附九葛原文書』(『鎌倉遺文』1193号)に次のようにある。
   下 萱島御庄吉成北島住民等
      藤原能村
  右人、補任西庄下口(司カ)職先(畢、脱カ)、今又令加補□□(吉成カ)北島両郷
  之由、依仰[  ]如件、庄官宜承知、勿違失、□□(以下カ)、
    建仁元年四月十日
  預所法橋判
    使者二人(雑色貞国・中景法師)
 建仁元年(1201)のこの文書は、北島の地名の初見である。萱島荘は当時、西荘とその他の地域(おそらくは東荘と考えられている)に分かれていたが、「その他の地域」には北島郷と吉成郷が含まれていたことが知られる。
 一方、萱島西荘の下司で、新たに吉成・北島両郷にも所職を得た藤原能村は、正治2年(1200)正月、近親者とみられる藤原為教からこれらの所職を譲られている。為郷にとってこれら所職は「先祖相伝之職」であったが、かつて為教が石清水八幡宮の宮仕(みやじ)(下級の神職)として京都にいた際、「非重代之者」がこれらの職に補せられたという。為教はいたずらに年月を送ってきたが、今や老齢に及び宿痾(しゅくあ)に冒されているので、所職を為教に譲りたいと願ったのである。為教は能村に早く子細を領家に申し上げるよう命じている。おそらくは、能村もかつての為教同様、宮仕等の石清水八幡宮の下級の職にあったものと考えられる(『鎌倉遺文』1106号)。
 当時の石清水八幡宮別当田中道清は、正治2年2月10日、藤原能村を萱島西荘の下司職に任じてこれに応えたが(『鎌倉遺文』1107号)、同時に翌2月11日、おそらくは能村に対し、「女房」の「熊野詣雑事」を処置するよう命じている(『鎌倉遺文』1108号)。この女房とはおそらくは道清の妻で、後鳥羽院中将局という女房名をもった鶴姫のことと思われる。後鳥羽院が厚く熊野を信仰し、たびたび熊野に参詣(さんけい)したことはよく知られているが、鶴姫もまた後鳥羽院の側近くに仕えるうち、熊野に対する信仰を強めていたと思われる。また、鶴姫は前任の石清水八幡宮別当善法寺成清の女であり、道清は成清から別当職を譲られていた(以上、『石清水仕官系図』、『続群書類従』所収)。道清は岳父成清と妻鶴姫の意向を気遣う必要があったし、能村は道清に奉仕しなければならなかったのである。こうした能村の奉仕が、前述の北島郷・吉成郷の「加補」に結びついたものであろう。

3.野元・野本氏について
 『細川家文書』中世編二に次のような文書がある。
    管領細川頼之奉書
  野元次郎頼房申阿波国萱島庄院主職事、訴状如此、子細見状、於彼職者、為各別之由
  無社家進止云々、者止彼妨、可被全  頼房所務、若又有子細者、可被注申之状依仰
  執達如件、
    永和三年九月六日 武蔵守(花押)
   細川右馬頭殿
 文中の右馬頭は、当時の阿波守護細川頼有のことである。これにより永和3年(1377)には、萱島荘院主職が野元頼房なる人物に委(ゆだ)ねられたことが知られる。頼房の名の「頼」は頼有から与えられたものである可能性があり、おそらく頼房は頼有の被官と考えてよいであろう。また『永源師檀紀年録』には、次のようにある。
  同(永和)三年九月六日、阿州萱島庄院主職ノ事、野元五郎頼房訴状ヲ奉テ願フ故ニ所務セシムヘキ旨、執事(頼之)ヨリ屋形(田中頼有)ニ執達ス。仍テ命ノ儘ニス。是又屋形ノ掌中ニ属スルユヘナリ。
同書は、のち、萱島荘院主職を「別宮嶋院主職」と記しており、別宮八幡宮に関する職掌と考えられている。
 この野元氏の子孫と考えられる武士が板東郡にいた。『故城記』には次のようにある。
 一野本殿 散代 平氏 水色小形
また、『太田文』にはこうある。
 野本殿 前代平氏 三鱗形
野元・野本氏は、かつては平氏、それも家紋が「三鱗形」とあるから、おそらくは北条氏を称していたのであろう。

4.北島氏について
 『榊葉集』の正応2年(1289)7月15日付の堂達法師差定状によれば、翌年の石清水八幡宮の菩薩戒(ぼさつかい)会頭の事に関し、乞戒宝樹預(こっかいほうじゅあずかり)に定められた4人の人物のうちに、「萱島庄北嶋名主馬次郎」がいる。菩薩戒とは一般庶民に仏縁を結ばせるために戒を授けることで、宝樹とは極楽の八重宝樹のこと、具体的には菩堤樹(ぼだいじゅ)などをさすようである。馬次郎がこの法要に奉仕するため石清水八幡宮に出向いたであろうことがうかがわれる。馬次郎は北島名主にすぎないが、この時同様の奉仕をしたものに、「相原別当預所肥前守景重」や「交野御網曳神人長畠田権太郎右衛門尉」などがいる。彼らの有する肥前守・右衛門尉などの官途は鎌倉後期の有力武士に匹敵する。たとえば鎌倉幕府滅亡時においても、足利高氏(のち尊氏)は従五位下・治部大輔、弟の足利直義は無官にすぎなかった。馬太郎はかなり有力な武士階級に属していたと思われる。
 一方、北島氏の名は『阿波志』にも次のようにみえる。
 中村塁 中村に在り。北島権守此に拠る。天正中陥る。
この北島権守が馬次郎といかなる関係にあるか不明であるが、両者がともに北島郷あるいは北島名を名字の地としていることに違いはなかろう。

5.おわりに
 野元・野本氏、北島氏の活動はほとんど他の記録にのこされていない。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、両氏は当地方の有力な武士として活動したとみられ、細川氏が野元・野本氏を被官とするのも、そのような実力に期待したことを意味しているのであろう。しかしながら、両氏の不幸は、守護所勝瑞にほど近い萱島荘を本貰としたことにあったと思われる。将軍権力の強い京都を中心とする畿内に有力な戦国大名が成長しなかったように、萱島荘の住人が阿波の他の地域の国人のように成長することを阻んだ要因は、守護所勝瑞に近かったことに求められるのではなかろうか。

〔参考文献〕
 『板野郡誌』(岡崎信夫・板野郡教育会、大正15年)
 『北島町史』(北島町史編纂委員会、北島町、昭和50年)
 『角川日本地名大辞典』36徳島県(同編纂委員会、角川書店、昭和61年)

1)四国大学文学部


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