阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
三ッ合堰の水争いについて

史学班(徳島史学会)

          瀬山勵

1.はじめに
 北島町老門から勝瑞に至る都市計画街路の中間点、高房に三(み)ッ合(あい)橋がある。この位置は旧吉野川から今切川が分岐する起点になっていて、川が三方向から合わさっているように見えるため三ッ合と呼ばれている。北西方向から流れてきた旧吉野川が、ここで南の方へ今切川を分流させ、本流はここから北方へ大きく湾曲したあとまた南へ北へと蛇行しながら紀伊水道へ流入する。

2.三ッ合制水堰
 三ッ合橋のすぐ北側で、川が湾曲している部分の上流右岸から低い堤状のせり出しがあり、下流部右岸では三角状のせり出しとなっていて、その水際は杭(くい)で根固めされている。川の水量が減ると、ふたつのせり出しの端から川の中央部にかけて石積み堰(せき)の背が見えてくる。堰は中央部よりやや東よりのところで20m ほどが、船が通行できるように切れている。この堰が三ッ合堰で、かつて下板地方の農民たちには重要な意味をもっていた。自分たちの田に少しでも多くの水を引き入れるため、その水源となるこの堰に注目し、監視をしていたところである。時には農民たちが自らの生活を懸け、我田引水のための実力行使に及び、利害の対立する農民同志が流血の水争いに至ったことも何度かあったと言われている。しかしその後、潅漑(かんがい)施設が整備充実されるにしたがって水争いもなくなり、現在ではこの三ッ合に制水堰が設置されていることを知る人は次第に少なくなっている。
 板野平野の下板地区は、かつて穀倉地帯と呼ばれていたように、水稲を主体とする農村地帯で、農用水のほとんどを旧吉野川と今切川に依存しており、一部で溜(ため)池や掘抜き井戸を利用していた。旧町村名の堀江・大津・撫養・松茂は旧吉野川から、応神・川内は今切川から取水していた。北島は旧吉野川と今切川に囲まれた地域であるため、その立地によって両川から取水した。江尻・鯛浜地区は今切川を、新喜来・中村・太郎八須などは旧吉野川を利用した。北島は全体的に土地が高く、畑地が多かったことと、位置的に両川の上流部に当たっていて取水条件がよかったので、他の村より潅漑用水に対する思いは軽かったようである。
 適度に雨があり川水が豊かな年は、三ッ合堰も平穏無事で、当地域での田植えや稲の生育も順調に、実りの秋を迎えることができたが、日照りがつづき、川の水量が減ってくると、潮(しお)水がさかのぼり三ッ合堰付近まで上ってきて、農用水路に塩分が浸入し、田畑の表面に塩分がしみ出してくる。そうなると、稲や畑作物は旱(かん)害と塩害に痛めつけられ、見るも無残な状態になる。そこで下板の農民たちは、日照りがつづきはじめると我が方へ少しでも多くの水を引き入れようと、この三ッ合でいろんな方策を論ずるのである。ここでの分水は第十で川北へ取水しているのと同じ意味をもち、農民にとって極めて強い関心事であった。
 三ッ合で分岐する今切川は、旧吉野川より川底が低いため自然と川の流れは今切川の方へ傾きやすく、堀江・大津・松茂方面への水量は減少してくる。そこでいつのころか明確でないが、水田地を多くかかえる旧吉野川へ7割、田地の少ない今切川へ3割の水が流れるように、制水する堰がつくられた。それが三ッ合堰である(図1)。

3.水争い
 「三ッ合堰によって分割配分せられる水が実にかかって松茂・大津両村の生産と応神・川内両村の収穫を左右することから、この地は長く係争の発火点となり特に吉野川の水流が夏季の渇水で枯れると貫泉は弱まり一方潮水が逆流して三ッ合堰以下の揚水も機能を失うから三ッ合堰における水路の閉そくと我田引水の実力行使が流血の惨を引起したことは一再に止まらなかった」(『川内村水利史』)。また「渇水時における農民の水争いは全国的に幾多の流血史を生んでいるが、この地の紛争も御多分に洩れず、下板八ケ町村、五千有余の農民が年々歳々相争うことは文明人の恥辱であり、又何れが漁夫の利を占めても、生産の減退を来たすことは、両者互に知りながら、然もこの打解の道を求めつつもこれを求め得なかったのが、昭和五年までの流血史であり、汚点であって」(『吉野土地改良区,創立二十周年記念誌』)とあるように、この三ッ合堰を舞台として下板の農民間に水争いがあり、流血の惨事がくり返されていたようである。
 しかしその具体的内容について、一般にあまり知られていないので、できればこの水争いの実態をつきとめたいと考え、北島町内の古老や町役場内の水利関係担当者をたずね、三ッ合堰の水争いについて聞き取りをしていった。この聞き取り調査の範囲内では、水争いがあったらしいということは何となく聞いてはいるが、その内容実態について知る人はいなかった。
 三ッ合堰での水争いの最終は昭和5年(1930)に起った紛争であるが、これについて『川内村水利史』や吉野川土地改良区の『記念誌』ではその一端しか述べられていない。その内容を比較的詳しくまとめているのは『北島町史』で、概要は以下のとおりである。昭和5年、この地方は旱魃(かんばつ)に見舞われた。この年は春から夏にかけて日照りがつづき、田植の時期をひかえて農民たちは心配していた。そんな時、応神・川内の農民が三ッ合堰を見にいったところ、以前に関係者間で定めた規定以上に石を投げこみ、堰を長く高くして今切川への流水を堰(せ)いているので、県に対し復旧の陳情をした。陳情に対する県の対応に北島・松茂・大津・堀江の農家が不満をもち、大挙して県に殺到しようとしたが、これは45名の警察官によって吉野川橋の北詰で阻止された。一方応神・川内の農民も、6月29日に三ッ合堰の現場に押し寄せようとしたが、村長のなだめと警察官の説得によって中止した。
 この事件の結末については、『徳島毎日新聞』が昭和5年7月1日と2日の記事で報じている。内容は、三ッ合堰へ押し寄せようとして止められた応神・川内の村民は、翌30日に200名で県庁へ押しかけようとしたが、撫養・徳島両署の警察官に吉野川橋畔で阻止され、50名程が村長に引率されて知事と会見し、三ッ合堰に不当に投げ込まれた石の撤去を求めた。この要求を受けた県では、知事を中心に関係部課長で協議した結果「公式の行政庁の命令を以てなげ込み石の撤去を命じ」ることとなったというものである。
 7月1日から撤去を始め、2日の午後3時までには完了する筈だと新聞は報じている(図2)。


 昭和5年、三ッ合堰をめぐって起こったこの農民対立の抗争事件が契機となり、これを機会に抜本的な恒久対策をたてようという声が高まり、知事をはじめとする県首脳部と関係町村長及び有志たちによる対策委員会がつくられ、翌6年(1931)から下板の水利に関する恒久対策の基礎調査を、県の耕地・土木課と町村各該当課で開始することになった。
 一方地元の農民側においても、吉野川普通水利組合結成の動きが活発化し、昭和9年(1934)10月に、松茂・大津・撫養・応神・川内を区域とする同水利組合の創立を見るにいたった。そして、これらの活動が実って、国・県からの補助と地元負担で、今切川潮止樋門(昭和11年(1936)完成)と旧吉野川潮止樋門(昭和24年(1949)完成)などが設置され、第十から取り入れた水を両樋門で一時的にたくわえると同時に潮水がこれ以上さかのぼるのを止めることができるようになった。また、旱魃のたびに三ッ合堰を舞台に不幸な抗争をくり返してきた農民たちは、その軛(くびき)から解放されたのである。

4.三ッ合堰のはじまり
 下板地域を含む板野平野の潅漑用水のほとんどは、第十堰の上(かみ)から導入する旧吉野川の水で賄われてきたことは周知のとおりである。藩政中期に、この水を全地域へ配分する体系が確立されて、その維持管理のため関係する村浦の農民たちは、井組と呼ばれる組織(水利組合の前身)を結成し、物心両面から大きな負担と犠牲を払ってきた。そして三ッ合での水の配分も、この体系の一環として取扱われてきたものと思われる。藩政末期における三ッ合下流の農用水の需給関係は「根元北川(馬詰・長岸への流れ)筋用水懸之土地七歩、南新川(今切川)筋用水懸之土地三歩ニ而御座候所、追々南新川水勢強流落、北川筋自然与相埋、唯今之姿ニ而ハ南川ヘ七歩余も流落、北川ヘハ漸三歩不足流落申懸ニ御座候」(『松茂町誌』上p.316)という状態で、両川筋の間でバランスが崩れていたようである。水が必要な田地の反別に見合うように、三ッ合で水量の配分を制御しようとする努力は、当時から昭和の初期にかけて、幾度となく繰り返され、水争いとなったことも含めいろんな方法による対策がとられてきた。
 それらの対策を資料から拾ってみると、まず前出の資料の中に「高房村三ッ合川向市場洲崎ニ三ケ所程関流破戸奉願上候所―中略―右関流破戸御普請被仰付候得ハ、御入目茂余程相懸申ニ付、先為試見三ッ合剣崎ニ弐拾間計之水分破戸被仰付、北川へ落込候川口浚等被仰付候」とある。これは広戸川口で旧吉野川が紀伊水道へ流入する位置に変動があり、この川筋へ潮水が上ってきて下流域の村浦では稲作ができなくなって、その対応策の一つとして市場洲崎(現鳴門市大麻町、三ッ合の少し上手)に三か所の破戸を設置してほしいと願ったものである。しかしこの破戸の工事には費用がかかりすぎるということで、まず試みに三ッ合剣崎(現三ッ合堰か、詳細は不明)に20間(36m)程の水分破戸をつくり、北川口をしゅんせつするよう命じられて、村浦の百姓も手間を出し大勢で普請をしたが、「何分川並悪敷候哉、亦々相埋水勢弱相成」ることとなり、期待した効果が得られなかった。そこで先に願っていた市場洲崎へ関流破戸を三か所程つくってほしいと文書の最後で嘆願している。
 また、他の資料(『松茂町誌』上p.162「口上横切」及び松茂町歴史民俗資料館蔵の慶応三年卯年の「乍恐奉願上覚」など)に「高房三ッ合御普請」という個所が出ているが、普請の具体的な姿や内容が記述されていないので、これが先の「三ッ合剣崎ニ弐拾間許之水分破戸」を指しているのかどうかは不明である。
 一方『松茂町誌』(中p.277)に高房三ッ合北川口御普請についての資料があり、それによると元治元年(1864)最初の計画では、「(三ッ合上手の)中市場渡し下手松原より新喜来向ひ古江口筋新喜来渡し場迄掘切る様」にしたかったが、新喜来向いには人家があって差障りがあるということで取止め、替りに三ッ合北川口を掘り広げるとともに、しゅんせつ工事をすると決め、関係の村浦へ出役の割付けと費用の割当てが出されている。また、上の資料につづいて「三ッ合水路之件」の標題で、明治9年(1876)6月9日三ッ合にかかる水路費として、水掛(みずがかり)反別割壱反(10а)に付き人足壱人、その賃銭8銭を関係の村浦(現松茂町内の10か村浦)に割付けた文書が収録されている。
 『北島町史』(p.420以下)によると、明治25年(1892)と翌26年(1893)は県内一円が旱魃に見舞われ、農民たちが農用水の確保をめぐっての水争いが各地で起こったという。下板においても、明治25年8月1日大津・堀江・松茂の3村長は県に出願し、土木係に面会を求め、昨今の旱魃で用水は涸(か)れ、水田には亀裂が生じ困窮している状態を訴え「北島村大字高房村の三ッ合川より北川へ、水を引き落したし」と陳情した。しかしこの陳情のとおりにすれば、今切川筋へ潮水が逆流してきて塩害を発生させることになる。このように三ッ合での分水問題は、両川筋の農民たちの利害が直接にからみ、それが相反していることから、非常に難しい問題であった。
 その後、明治42年(1909)の6月にいたり、大津・松茂・北島・堀江の4か村が「今切 川分派口の制水抗の間に蛇籠(じゃかご)沈め加設」を申請し、これが県知事から条件付きで許可されている(『北島町史』p.421)。その条件は、設置期間を8月30日限りとし、満期の翌日に撤去すること、設置期間中は番人を置くこと、舟筏(いがた)の通行に危害がないよう注意することであった。
 以上のような資料と、昭和5年7月の徳島毎日新聞に掲載された三ッ合堰に関する記事などを参考に、三ッ合における分水制御の対策と三ッ合堰の設置について、推測も入れながら年次的に追ってみると、つぎのようになる。
 ○藩政末期 北川筋への流れをよくするため、三ッ合北川口の川幅を広げ、川底のしゅんせつをしている。また市場洲崎で関流破戸を計画し、先ず試行的に三ッ合剣崎から水分破戸36m が設置されたようだ。別の資料に「高房三ッ合御普請」という文言も出てくるが、これが三ッ合剣崎からの破戸(制水破止)とどう関連するか、また「御普請」の内容実態等について解明する必要がある。
 ○明治9年 現松茂町に当たる村浦の農民が、三ッ合水路にかかる費用を負担しているが、この水路とはどんなものを指し、これに三ッ合堰のようなものが含まれているのかどうかは、不明である。
 ○明治25年 大津外2村の村長が、県に対し「北川へ、水を引き落したし」と陳情をしているが、これに対応した工事が行われた形跡はない。
 ○明治42年 大津外3村が、県へ「今切川分派制水杭間に蛇籠沈め加設」を申請し、これが条件付きで許可されているが、申請に「蛇籠沈めの加設」とあるのは、それ以上前に制水のための施設があったと考えられる。ただ、その施設がどんなものであったかは判然としないが、制水杭をうちならべ、その間に何かを入れて堰とし、北川筋への導水効果をはかっていたものと思われる。
 ○昭和2年(1927) この時点で県から許可されていた三ッ合堰の規模は、東から4間(7.2m)、高さは干潮面までで、石の投げ込み工事は昭和2年8月30日限りとされていた(昭和5年7月1日付徳島毎日新聞と『北島町史』による。)
 ○昭和5年 三ッ合堰へ石を投げ込む工事は昭和2年8月を最後に禁じられていたが、旱魃のきびしさに我慢できなくなった農民たちが石や砂(さ)のうの投げ込みを行い、堰の長さを7間(12.6m)に、高さを満潮面以上にしてしまった。そこで県は堰を旧の姿に復するよう捨石の撤去を命じ直に実行させた。
5.おわりに
 三ッ合堰生成の経緯とその時期について、前段で検討した結果、おぼろげには浮かんできたが、その詳細はまだまだ判然としない。藩制期の末に試行的に堰がつくられていたようであり、その後制水杭がうたれ夏季に限って蛇籠を沈める堰が許可されている。このような臨時的な措置が幾度も繰り返されながら固定的な堰になっていったと思われる。そしてその背景には旱魃に苦しむ農民たちの強い願いが力になって、押したり引いたり、時には実力行使の衝突となったりしながら一つの形に落ち着いたようである。
 これらの流れは大筋では当を得たものであろうが、個々の問題についてはまだまだ闇(やみ)の中にあるといわざるを得ない。三ッ合堰をめぐっての水争い、それも流血の惨事にいたったこともあるらしいが、それを裏付ける資料も見いだされていない。これらについて、今後もっと明確にしていきたいと考えている。三ッ合堰とそこでの水争いについての見聞や関係資料をお持ちの方は、是非ご教示下さるようお願いしたい。

 参考文献
1 『川内村水利史』    川内村  昭和26年
2 『吉野川土地改良区, 創立二十周年記念誌』 吉野川土地改良区 昭和47年
3 『北島町史』      北島町  昭和50年
4 『松茂町誌』上、中   松茂町  昭和50.51年
5 『徳島毎日新聞』    昭和5年7月1・2日付記事


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