阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第42号
北島町の板碑

孝古班(徳島考古学研究グループ)

         岡山真知子1)

1.はじめに
 北島町の開発は新しく、古代までの遺跡は現在までに発見されていない。そこで、今回の総合調査では、中世の庶民信仰の遺物である板碑をテーマにすることにした。
 板碑は、中世の石造供養塔婆の一形式で、江戸時代以来の伝統的名称である。日本における石造供養塔婆の造立は、平安時代末期から中世にかけて全国的に普及する。形態は、五輪塔、宝篋印塔(ほうぎょういんとう)、笠塔婆など数種類におよび、板碑もその一つである。その特色は、第一には簡単な形態を示す点、第二に本尊や銘文などを一方の面に表すという平面性、第三に1箇の石材により作られている点が挙げられる。これらから、板碑は石造供養塔婆の中で最も簡略な形態を示し、最も簡単に造立しうる形式であり、そのため板碑に適した石材の得られる地方では、他の石造供養塔婆を圧して広く普及した。この板碑が北島町にどう分布するのかを明らかにしたい。

2.北島町の板碑
1)調査の経過
  調査期間:1995年7月28日(金)
         〜7月30日(日)
  調査員:小林 勝美、三宅 良明、岡山真知子
  調査内容:北島町では、町有形文化財に江尻の阿部勝敏宅の板碑が指定されている。また『北島町史』には北村西蛭子の阿弥陀庵でも板碑が出たと記載されている。そこで、この2個所(図1)を中心に板碑の実測と所在調査を実施した。

2)阿弥陀庵の板碑
 (1)所在
 北島町北村西蛭子90の阿弥陀庵墓地にあったが、現在は北島町図書館の展示室に保管展示されている。なお、墓地内には一石五輪塔も数基みられ、相関関係を考えなければならない。
 (2)板碑
 全長40.0cm、幅20.0cm、最大厚さ4.0cm を測り、中央に阿弥陀三尊の種子(キリーク・サ・サク)を彫り込んでいる(図2)。頂部と右の下半部が少し欠けている。二線・枠線も彫り込まれているが、下部では摩滅しており、読み取れない。板石の厚さは、2〜3cm であるが、裏面がそって膨らんでおり、最大で4cm を測る。種子以外の銘文は描かれていない。『北島町史』には、鎌倉時代のものと記載されているが、判定できない。

3)江尻 阿部勝敏宅の板碑
 (1)所在
 北島町江尻24の阿部勝敏宅の庭に所在する。祠(ほこら)を中心にして、その東側に板碑3基と一石五輪塔4基が交互に並び、それに続いて北側に板碑1基と一石五輪塔4基が建てられている。この板碑と一石五輪塔が造立時から並立していたのか、後に移動したのか、よくわからない。なお、この板碑は昭和56年12月4日に町有形文化財に指定されている。 また、『北島町の文化財』には、この板碑などの由来について次のように記述している。「本家十七代目、阿部式部政吉公は、勝瑞城主、三好長治公の呼びかけに応じ、天正元(1574)年五月なかば、土佐の長曽我部勢と戦い、勲功の賞を受け由岐に一城を築き、次男、源藤治定永公を城主としたが、前の城主、由岐隠岐守有興の娘を嫁りその先祖を祭るために、位牌・石塔を引きとったものであろう。(略)その後、天正三(1576)年、長曽我部に攻められ落城し、母親、兄弟三人と共に江尻村の大正厳坊に住居す。本家十八代阿部河内守明吉公(阿部神社の祭神)が嫡男で、次男が源藤治定永公(源藤治社)である。……(中略)……当代の阿部勝敏氏は、源藤治定永公の子孫で、十七代目となる。」
 (2)板碑
 4基あるので、便宜上南から1〜4号基と称することにする。また、地表に建てられているので、高さはすべて地表面上の高さ(現存高)で、全長ではない(図3)。
1号板碑…高さ39.0cm・幅24.5cm・厚さ3.0cm を測る。表面の摩滅が著しいが、中央に阿弥陀一尊の種子(キリーク)を彫り込んでいる。二線は明瞭に残り、枠線も上の線だけ読み取れる。
2号板碑…高さ80.0cm・幅31.4cm・厚さ3.0cm を測り、中央に阿弥陀像を線刻している。全体に下半部の表面の摩滅が著しいが、二線・枠線は明瞭に残る。
3号板碑…高さ65.0cm・幅29.2cm・厚さ3.0cm を測り、中央に阿弥陀一尊の種子(キリーク)を彫り込んでいる。二線は明瞭に残るが、枠線は上の線と下の線が一部残っているが、縦線はなかったようである。
4号板碑…高さ62.0cm・幅28.0cm・厚さ4.0cm を測り、中央に阿弥陀一尊の種子(キリーク)を彫り込んでいる。表面の摩滅が著しく、二線はわずかに残るが、枠線は読み取れない。
 いずれも、画像や種子以外の表記はなく、いつのものか判定しづらい。『北島町の文化財』には、室町時代のものと記載されている。

3.徳島県の板碑
1)板碑の造立年代
 板碑は、13世紀前半から16世紀にかけて、北海道から鹿児島まで全国各地で造立される。その中で、特に集中的な分布を示すのが、武蔵型板碑と阿波型板碑で、いずれも結晶片岩をおもな石材としている。
 武蔵型板碑は、質.量ともに全国一と言われ、現在までに20,201基が確認されている。このうち、有紀年銘板碑は9,757基で、年代別に見てみると、次のような傾向を示す。全国最古の板碑(1227)から始まり、13世紀ではゆるやかな増加を示し、14世紀に入ると増加の速度は急速となり、1360年代にピークを迎える。以後は、急速に減少し、1430年代から若干増加の傾向を示す。15世紀末期以後は増減はあるものの、ますます減少し、17世紀初頭には全く姿を消してしまう。
 これに対して、阿波型板碑は総数1,500基(推定)で、有紀年銘板碑は現在までに確認できたのは304基である。有紀年銘板碑の年代分布を描くと以下のようになる(図4)。
1270年を初現とし、14世紀に入ると増加の傾向を示し、1360年代から1400年代は急速に増加する。この40年間に実に154基の板碑が造立されているのである。以後は、次第に減少していき、1584年を最終とする。この造立年代から、1320年までを前期、1400年までを中期、以後を後期としてみていきたい。

2)板碑の分布
 次に、地域的分布を見てみたい。まず、阿波型板碑は、名西郡石井町に初現する。1315年になって神山町、鳴門市、鴨島町へと広がる。1318年には脇町、1320年に阿波町、国府町でも造立される。つまり、前期は鮎喰川流域と吉野川中・下流域に限定されている。
 1328年には阿南市に出現と、初めて県南部に広がる。1330年には上板町、1331年には佐那河内村、1330年代後半には徳島市の各地域に広がる。中期は、板碑の造立数の増加に伴って地域的に全県へと広がりをみせる。分布の中心は、鮎喰川流域の神山町・石井町・国府町である。
 後期になると、一部例外を除き、鮎喰川流域と吉野川中・下流域に分布が狭められる。北島町の板碑を考えると、近隣の徳島市応神町や川内町との関連が考えられる。いずれも中期に出現し、後期まで存続する。

3)板碑の大きさ
 有紀年銘板碑の大きさは、全長で最小36cm から最大244cm、幅は最小17cm から最大110cm、厚さは最小2.5cm から最大20cm である。これをグラフに示してみると、図8のようになる。
 また、時期別に見ると、前期は長さ100〜150cm・幅20〜40cm の大きさのものが多いが、200cm を越えるものや50cm 前後のものもあり、大きさの規格性はみられない。中期は最も造立数が多く把握しにくいので、1350年を境に中期1と中期2に細分した。中期1は、図10で示したように長さ:幅が3:1のライン上にまとまり、大きさに規格性が認められる。
 中期2になると、中期1よりさらに幅が狭まり、図11に示したように長さ70〜100cm、幅20〜30cm に集中する傾向もみられる。また、こうした規格性をもつもののほかに、大きなサイズのものもみられる。後期には、さらに小型化の傾向がみられ、長さ50〜100cm、幅17〜30cm が中心となる(図12)。
 北島町の板碑を大きさだけから考えると、江尻阿部勝敏宅の板碑は中期2の段階が想定できるが、阿弥陀庵の板碑は小さくて、大きさだけからは該当する時期を決められない。

4)標識
 阿波型板碑の信仰標識を分類してみると、下の円グラフ(図13)のようになる。これを見ると、阿弥陀信仰が最も多く、種子・名号・画像を合計すると、78%を占める。次いで、五輪塔線刻・地蔵画像の順となる。この標識こそ、板碑造立者の信仰対象を示しており、阿波型板碑が阿弥陀信仰に支えられていることを物語っている。
 北島町の例もこの最も多い阿弥陀種子であり、その意味では阿波型板碑の典型例と言える。

5.今後の課題
 北島町の板碑の造立時期に関しては、銘文や年号の記載がないので、明確に断定するには至らなかった。そのため、徳島県内で確認されている有紀年銘の板碑との大きさや地域性の比較から導きだそうとした。結論には至らないが、江尻阿部勝敏宅の板碑はおおむね中期2に相当すると想定され、阿弥陀庵の板碑は種子の字体等よりもう少し遡ると考えられる。
 阿波型板碑については銘文について全く分析できなかった。発願者の名前・経文などが描かれており、当時の仏教を考える重要な資料である。従来、阿波型板碑について南朝年号の使用が注目されてきたが、正平5・7(1350・1352)年のわずか5基しか見あたらない。正平5年は国府町西矢野の五輪塔線刻板碑、正平7年は徳島市入田町海見の阿弥陀一尊種子板碑、石井町石井徳蔵寺の阿弥陀一尊種子板碑、神山町鬼籠野中分の阿弥陀三尊種子板碑、市場町切幡切幡寺の阿弥陀三尊種子板碑の5基である。これらの板碑を南朝を支持した武士達の造立と考えてよいのだろうか。
 いずれにしても、こうした板碑の造立は仏教の浸透を示す事例ととらえられる。この板碑を、石材が容易に入手できる地域に発達したとだけ考えてよいのだろうか。徳島県で板碑の造立されなかった地域をどうとらえたらよいのだろうか。五輪塔との関連はどうなのか。また、板碑が造立されなくなった後は、信仰形態としてどう変化するのか。これらを銘文の問題とともに今後の課題として考えていきたい。

 参考文献
服部清道 『板碑概説』 角川書店 1973年
沖野舜二 「四国阿波板碑考」『考古学ジャーナル』86 1973年
徳島県教育委員会 『石造文化財―徳島県文化財基礎調査報告書第1集―』徳島県教育委員会 1977年
谷 美雪 『阿波型板碑についての一考察』昭和56年度立正大学卒業論文
埼玉県立博物館 『板碑』埼玉県立博物館 1982年
坂詰秀一編 『板碑の総合研究』2 地域編 柏書房 1983年
神山町教育委員会 『神山の板碑』 神山町教育委員会 1983年
神山町教育委員会 『神山の板碑(第二集)』 神山町教育委員会 1985年
石川重平 「阿波の板碑」『阿波学会三十周年記念論文集』 阿波学会 1993年
北島町史編纂委員会 『北島町史』 徳島県板野郡北島町 1975年
北島町教育委員会 『北島町の文化財』 北島町教育委員会 1982年

 この表は、『石造文化財―徳島県文化財基礎調査報告書第1集―』(1977年)、谷 美雪『阿波型板碑についての一考察』(1982年)、『神山の板碑』(1983年)、『神山の板碑(第二集)』(1985年)、石川重平「阿波の板碑」(1993年)の各文献と分布調査の成果をもとに作成した。不備な点も多いので、ご教示いただければ幸いである。

1)鳴門教育大大学院(徳島県立城東高等学校)


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