阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第41号
那賀川町の産業と地域構造

地理班(徳島地理学会)

  平井松午1)・藤田裕嗣1)・一寶實2)

  板東正幸3)

1.はじめに
 江野島、色ヶ島、手島、中島、出島にみられるように那賀川町には「島」地名が多く、これは那賀川町の置かれている地形環境をよくあらわしている。町内の最高標高地点は17.7m で、これは海岸線に発達した砂丘に位置する(図1)。砂丘以外の町域の大部分は標高5m 以下の低湿な三角州上位面および同下位面からなり、この中を那賀川の分流が縫って走っている。分流の一部は、かつて南北方向に大きく振れていた那賀川の旧流路でもある。


 那賀川の下流域は年平均0.7mm の速度で沈降しているものの、それを上回る那賀川の土砂堆積作用によって、1887(明治20)年以降の60年間だけをみても、那賀川河口は約400m(年平均約6.6m)前進したとされる。他方、色ヶ島付近の海岸線は波食が進み、同時期に約250m(年平均約4.2m)にもおよぶ海岸線の後退がみられた1)。この結果、那賀川下流域には形状の美しい円弧状三角州が形成された(図2)。


 こうした那賀川町の地形環境は、那賀川町の産業構造にも多大な影響を与えてきたことは言うまでもない。そこで地理班ではとくに、那賀川町の基幹産業である農業や養鰻業といった第一次産業とかかる地形環境との関係に焦点を当て、「那賀川町の産業と地域構造」について報告することにしたい。なお、地理班に課せられた中世平嶋港の現地比定に関わる作業結果についても、本稿の中で言及した。

2.中世の平嶋港を求めて
 当町内の平島地区は、中世から近世にかけて重要な歴史的舞台として現れ、歴史地理学の観点から注目される。第一にあげられるべきは、足利義冬以降、19世紀初頭まで綿々と続いた平嶋公方(阿波公方)による平嶋館であるが、そこが拠点として選ばれた背景の一つには港としての機能があげられよう。
 港としての具体的様相は、文安2(1445)年「兵庫北関入船納帳」2)から判明する。この史料は、同年に兵庫北関に入船した船ごとに1 入船月日、2 船の所属地、3 貨物名、4 数量、5 関料とその納入日、6 船頭名、7 問丸名が記録された帳簿である。このうち船籍地2 とは直接的には船頭6 の活動の本拠地であり、多くの場合、貨物3 が積み出された港と考えられている。そして、兵庫北関を通関して入船納帳に登録されたのち、さらに京方面に運ばれたのである。平嶋は、同史料に同年正月4日から12月22日まで計17回、のべ21艘(そう)分の船籍地2 として現れる。すなわち、畿内へ向けた流通の中継地として重要な港湾であったと考えられる。
 これを集計してみると、材木1,025石、桧材木70石、榑3)735石のほかにアラメ(荒布−海藻)が140石で、材木や榑といった木材関係の貨物が多い。同納帳には紀伊水道沿いの船籍地として、県内では他に北から撫養、別宮、惣寺院、橘、牟木(牟岐)、海部、宍喰が登録されているが、取り扱い貨物としてはやはり木材関係が多く、これは淡路や土佐に属する船籍地にも共通する地域的な特徴となっている。榑・材木について瀬戸内沿岸も視野に入れて全体に位置づけた場合、地元の兵庫港(船籍地)などに生産地まで赴いて運ぶ船も一部に散見されるが、そのほとんどは紀伊水道沿いの港船が担当している。
 これに対し、「松」・「桧」・「ホウノキ」というように、具体的に木材の種類が記載されている場合は、瀬戸田や尾道など内海の港に所属する船が運んでおり、唯一の例外が
平嶋の檜なのである。また、このような木材類以外にも、小量ながら海産物としてのアラメも運ばれていることは、平嶋の重要性を示唆するものとして注目される。
 このように、畿内への物資供給地の一つとして位置づけられる中世の平嶋港の地理的位置については、これまで那賀川河口に位置する中島港などが有力な比定地とされてきたが4)、具体的な位置が特定されるまでには至っていない。そこで、この点を考察するために、まず地形の面から検討することにしてみたい。
 すでに述べたように、那賀川町の地形環境は、那賀川が形成した三角州面が広く分布していて、網状に旧河道が見られるとともに、旧河道に沿って自然堤防状の微高地が島状に分散している。那賀川町では一般に、こうした島状の微高地に成立の古い集落が立地しており、中世の港とそれに付随する集落もこのような低位面に囲まれた微高地にあったと推察される。乱流を繰り返した那賀川が、歴史の変遷とともに南へと流路を移したことも考え合わせるならば、現在は那賀川の左岸に接する中島地区は有力な候補地の一つとなろう。
 これらの点を念頭に置いて、今回の調査では、まず中島を含む旧平島村とその周辺について小字地名を収集した。その結果を図化したのが図3である。まず、地形との関連では、大字原の字江川(図3下段の大字別小字番号の7)や大字古津の字川渕(同10)のように、旧河道に川地名が見られ、旧河道との対応が確認されるほか、大字手島・大字古津のハリ(それぞれ同7と12)や大字工地字新田(同5)では土地開発に関わる小字地名も散見される。


 平島港との関係では、大字中島浦を中心とした地区にとくに注目したが、明治期以降に小字の統合が進んだためか、その西の大字原、西原、古津、三栗などにおける小字に比べて一つの小字が指す範囲は明らかに広く、残念ながら、大字中島地内において小字レべルで中世の港湾を特定できる糸口は見いだせなかった。ほかの大字および小字地名についても、港湾に直接つながる地名を見いだすことはできない。既述のように、那賀川河口の三角州は、土砂堆積にともなってその形状を大きく変化させてきた。裏返して言えば、かかる土砂供給は洪水のたびに河口の港湾施設・機能を破壊・低下させたと推察される。実際に、現在は出島川の河口に位置する中島港も、明治末の土砂堆積によって港湾機能が失われ、第二次大戦後の1959(昭和34)年以降、那賀川と分離した掘り込み式の工業港湾として改修されてのち、再生したものである。それゆえ今後、中世の平島港についても、かかる地形環境の変化を充分に考慮して検討される必要があろう。

3.農業構造
 (1)概要
 古来、北方の畑作(藍作)に対して、南方は米作が中心であった。これは、近世における徳島藩の産業振興策の一環でもあったが、そこには藩内の地域性が考慮されていた。すなわち、南方の中心地であった那賀川下流域には低湿な三角州が広がり、米作以外の作物栽培が困難な水田単作地帯を形成してきたからである。以下では、こうした状況を踏まえ、近年の那賀川町の農業について概観することにしたい。
 1990(平成2)年における那賀川町の農家数は977戸、農家人口は4,469人で、町の世帯数の36%、人口の45%を占めている(表1)。10年前に比べると、農家数で8ポイント、農家人口で11ポイント減少しており、農家数は初めて1,000戸を割ったが、それでも町全体に占める割合は依然高く、これらの数字からも本町が「農業立町」であることは理解できよう。しかしながら、第2種兼業農家が81.3%を占め、通勤兼業農家の割合がきわめて高いことも特徴である。


 他方、農業就業人口は1,363人(1990年)で、男433人に対して女930人と女性が68%を占めている。全国的に農業就業者の高齢化が指摘されているように、那賀川町も例外ではなく、65歳以上の農業就業者が542人と全体の約40%に達している。これは県平均よりも約3ポイント高くなっている。男女別に農業就業者の高齢化割合をみると、男49%、女35%で男性の方が高齢化率が高い。これは男性は兼業(恒常的勤務)に従事する割合が高いため、どうしても農業に従事するのは高年齢者が多くなるという結果のためである。全体としてみると、那賀川町の農業就業者の4分の1が65歳以上の女性であり、これらの人々が農業を支えているといえよう。
 那賀川町の耕地面積は1990年が832ha で、長期的には漸減傾向にある(表2)。耕地面積の内訳は、田が820ha、普通畑が11ha で、町の総面積1,865ha の44%が水田で占められている。農家1戸当たりの耕地面積は85a で、県平均の62a よりも23a も広い。

 (2)農作物と農業生産額
 那賀川町における1993年の水稲作付面積は771ha で、10a 当たり収量は371kg、総収穫量は2,860t であった5)。1993年は冷害の年に当たり、全国動向と同じく前年比で11%の減収であった。作付面積のうち、コシヒカリ(8割強)・日本晴(1割強)の2品種が9割以上を占めている。田植期は4月下旬の早期栽培から5月下旬まで続き、早期栽培と普通栽培とが連続して行われている。1993年の大幅な減収は、6月下旬からの天候不順による成育不良とイモチ病の発生、それに台風4〜7号によって出穂直前・直後の稲が大きな被害を受けたためである。農作物としては、ほかに各種作物が栽培されているが、いずれも栽培面積・出荷量とも少ない。果樹は大半が自家用に栽培されているだけであり、6戸の農家が肉用牛約800頭を飼養しているが、これも県下の約2%を占めるに過ぎない。
 1992年の農業粗生産額は15億1200万円で、うち米が9億1600万円と全体の約6割を占めている。次いで、野菜3億7700万円、肉用牛1億4700万円となっており、これら3部門で粗生産額の95%をカバーし、あとは花卉(水仙)の2000万円、イモ類の1300万円が目立つ程度である。また、生産農業所得は4億8100万円で、農家1戸当たりは49.2万円となっている。耕地10a 当たりでは5.5万円である。稲作への依存度が高い那賀川町では、低迷する生産者米価のために農業収入が伸びず、その分農外収入への比重を高め、農業労働力の農外部門への流出につながったといえる。
 (3)新たな動向
 その地形的特徴のために、これまで稲作にのみ依存してきた那賀川町の農業の中にあって、行政サイドや若手グループを中心に、特色ある農業を目指す動きがある。
 那賀川町の歴史遺産である「阿波公方」を農業に取り入れようとする動きはその一つである。これは、公方ブランドでイチゴ(公方イチゴ)、椎茸(公方椎茸)を大阪市場を中心に出荷しようというもので、全国足利サミットの企画や、毎年11月に行われる薪能などとも連動する町おこし運動の一環でもある。
 他方、これまでの稲作農業についても、近年の消費者ニーズの多様化に対応して、有機米や無農薬米の栽培が一部の農家で行われている。対象となる稲の品種はキヌヒカリで、14戸の農家が7.2ha の水田に栽培し、10a 当たり500kg もの高収量をあげている。また、10a 当たり100万円という高収入が期待される白瓜栽培や、「公方」ブランドの野菜栽培については、今後、市場の確保や拡大がはかられなければならないが、他方で、生産規模の拡大・安定供給を実現するために不可欠な低湿な水田の基盤整備などの内在的課題も残されている。

4.土地改良事業の進展
 既述のように、那賀川町にはその地形環境を反映して、「ハルタ(墾田)」と呼ばれるフケダ(深田)からなる湿田地帯が広がっている。とくに、海岸砂丘の後背湿地や旧河道沿いの低湿地では、かつては耕土下に竹を敷き込んだ水田もみられたという。これらの地域は、上流側からの流水が海岸部の砂丘列によって堰き止められる形で湛水し、洪水時や大雨時には大きな被害をもたらしてきた。それゆえ、那賀川町では該当地区ごとに第二次大戦前より水害予防組合が組織され、用水や堤防などの管理にあたってきた。
 他方、那賀川河口部では、昭和30年代後半より地下水の塩水化現象がみられるようになった。塩水化の原因としては、上流域(木頭林業地帯)での山林伐採や杉植林の進展、那賀川総合開発による相次ぐダムの建設、アユ養殖による地下水の汲み上げなどにともなう那賀川の水量の減少が指摘されている。
 そこで行政サイドでは、こうした湛水・塩水化対策として昭和40年代後半以降、排水対策事業や土地改良事業に取り組んできている。排水対策事業は、那賀川の旧河道をなす今津川・苅屋川・落合川・出島川などを改修し、各河川の河口部に排水ポンプを設置して幹線排水路を確保するものである(図4および表3)。


 この湛水防除(排水)事業と平行して土地改良事業が進められている。表4中の太田川・上福井・中島地区では県営による圃場整備事業、江野島・今津浦地区では団体営による圃場整備事業が行われている。これらの事業によって、那賀川町の水田面積の約38%が改良されることになる。圃場整備事業は、従来の不整形の水田区画を標準30a の大型圃場に正し、用水路網を整備するのみならず、客土による土地改良をも行う。これによって、湿田は乾田化され、機械化や水田転作が可能となるのである。那賀川町において現在、こうした圃場整備事業が進められているのは、とくに低湿な三角州下位面に位置する地帯である(図1・4)。これらの地帯では、今後、かかる農業基盤整備の進捗によって、裏作としての野菜作などを取り入れた多角的な農業経営も可能になってくる。

5.鰻養殖地域の変容 −出島地区を例に−
 わが国における養鰻業は、1894(明治27)年頃より静岡県で始まり、その後地域的な拡大を遂げてきた。しかしながら、新興産地の急速な発展、伝統的産地での養鰻業の衰退などにより、養鰻地域の再編成が進行してきた。それは冷凍飼料の普及、冷蔵・輸送技術の発展に基づく養鰻池への水田転換などの諸要因によってもたらされたものであったが、その過程で新たな養鰻地域が形成された。
 那賀川町において研究対象地域とした出島地区は、豊富な被圧地下水に恵まれ、稚魚であるシラスウナギの遡河点にあたるといった地理的条件を備えた6)、徳島県における養鰻の中心産地の一つである。
 (1)養鰻業者の分布と土地利用
 出島地区の養鰻業者は、出島川と海岸砂丘とに挟まれた後背湿地の水田地帯に分布している。養殖施設としては、作業小屋のほかに、コンクリート造りのビニールハウスによる養鰻池、付帯設備である加温用重油ボイラー、重油タンク、電柱が必要とされる(図5)。養鰻業者の大半は水稲耕作を行っており、一部の露地養殖池が不耕作地として残されている(図6)。出島地区の集落はほぼ農家からなり、集村形態をなしている。

 (2)養殖の普及過程
 那賀川町出島地区では従来、後背湿地において水田単作が行われてきた。しかしながら、単作のために収益は低く、また灌漑(かんがい)施設が不備であったことから水稲に替わる農作物の導入が研究され、このような動向の中で養鰻が開始された。
 出島地区は那賀川町において最も早く養鰻業を導入した地区で、1963(昭和38)年にMT氏が松茂町の養鰻業者に刺激されて開始したのが最初である。翌64年から本格養殖が開始され、水稲耕作の20倍もの高収益をあげられることから、出島地区では養殖業に参入する農家やノリ養殖業者が相次ぎ、1970年には出島地区だけで21業者を数えた6)。
 このように養鰻業が普及した理由としては、収益性以外にもいくつかあげられる。第1に、当時の養鰻は露地池による止水式と呼ばれるもので、広い面積(1ha)が必要であったが、土地さえあれば感単に養殖池に転換でき、費用も1ha 当たり200万円ほどの投資で済んだ。第2に、当時は先進地の静岡県が「養中7)」を必要としていたこと、さらに1969年より実施された稲作減反奨励政策も相まって、水稲栽培から養鰻経営に参入した業者が多い。かかる経緯から、那賀川町農業協同組合が養鰻業者の要望を受けて鰻の出荷に携わるようになり、養殖技術や販路開拓などにあたっては、松茂農業協同組合の指導を受けた。
 出島地区ではその後、1971年頃より赤点病が発生し、これを克服するためにハウス式加温方式が導入されるようになった。しかし、止水式養殖池をハウス式加温養殖池に転換するには多額の費用(3.3平方メートル当たり約4万円)が必要であり、このため露地池の11業者が養鰻業を中止した(表5)。

 (3)生産形態と流通
 従来の止水式養殖池にかわって現在は、養殖池を鉄骨ビニールハウスで覆い、池底に亜鉛管を配し、温湯を通すハウス式加温養殖池で養鰻が行われている。内部は、元池、2番池、3番池、養成池に区切られ、常に水車で酸素を供給し、水質の管理に最新の注意を払いながら、高密度養殖が行われている(図7)。
 生産形態は、12月〜翌年1月にシラスウナギを池入れし、これを養成したのち6〜10月までに全量出荷する。これは、通年養殖では冬期にも加温する必要があり、重油代・エサ代などでコストがかかりすぎることや、養鰻業者の労働荷重の問題も指摘できる。


 各業者とも、養鰻業のほかに稲作を補助的に行っている(表6)。この理由として、次の2点が指摘できる。一つは、養鰻業の導入時に、経営水田の中でもより低湿な水田を養殖池に転換し、収量の多い良田を一部残したこと。第2点は、止水式養殖池からハウス式加温養殖池に変わったことによって、広大な養殖面積が不要になったためである。


 投餌は午前7時〜8時30分、養殖池の水(プランクトン)の管理が午前中続く。技術的には養殖池の水の管理が最も重要で、水車が停止するとウナギの大量死を招き、大きな損害を受けることがある。
 生産コストにおいては、原料であるシラスウナギ代が最も大きなウェイトを占めている。1994年は不漁のために、シラスウナギの原価が高騰し(新聞報道によると1キロ当たり約70万円)、購入量の減少がみられた。しかも、販売価格は安い外国産との販売競争のために上がらず、養鰻経営はきわめて厳しい状況に置かれている。現在生産を続けている業者は優れた技術をもち、安定した生産をあげているものの、いずれも従事者の高齢化が目立ち、後継者不足が問題となっている(表6)。
 現在、出島地区における鰻の出荷先は、問屋の占める割合が約6割と多く、残りを農協が取り扱っている。問屋の占有率が高い理由としては、養殖業者の高齢化の問題があげられる。すなわち、問屋出荷の場合、出荷時の「池がえ」の際には問屋側がすべての作業を行い、養鰻業者は最小限の労力で押さえることができるため、高齢者が多い養殖業者にとってこうした問屋委託はきわめて魅力である。一方、取引単価では農協出荷が有利である。それゆえ、労働力と収益性の両面からみて、こうした出荷体制が今後も続くものと考えられる。

5.おわりに
 1994年の国道55号阿南バイパスの開通や、97年度完成予定のゴルフ場を核とするリゾート(コート・べール那賀川)などに象徴されるように、これまでおもに水田農業や伝統産業である木材業に依拠してきた那賀川町の産業構造は、いま大きく変わりつつある。
 農業面でも、土地改良事業の進展により、今後、大型圃場を活用した機械化農業や大規模経営が指向されるであろうし、また、交通アクセスの改善も相まって野菜作の導入・拡大による多角経営が展開されると予想される。反面、かかる農業構造の政善が農民層の分解や兼業化・離農現象を加速させた事例は枚挙にいとまがない。それゆえ、今後、かかる脱農化現象や農地の流動化をも見通した対応が望まれよう。
 なお、現在進行しつつある圃場整備事業は、「条里地割」施行地域については対象外とされているものの、耕地の土地割形態・景観を一変させ、これまで営々と刻み込まれてきた「土地の歴史」を消し去ってしまうものでもある。場合によっては今後、中世期の平嶋港の位置を確認する手段を失うことも予想される。それゆえ、少なくとも歴史的土地割を正確に記録しておくことなどの善処が望まれるところである。
 本調査にあたっては、那賀川町役場ならびに同教育委員会、町立歴史民俗資料館、JA那賀川町農協をはじめ、多くの機関・関係者のご協力を賜わった。ここに記して深謝申し上げます。なお、本稿は第2章を藤田、第3章を一宝、第5章を板東、それ以外を平井が草稿を執筆し、全体の調整を平井が担当した。


1)日下雅義(1962):那賀川下流域における平野地形の発達と開発の進展、人文地理14-1。
 寺戸恒夫(1990):那賀川平野の古地形の復元、阿南高専紀要26。
2)林屋辰三郎編(1981)、中央公論美術出版。
3)山出しの板材。平安時代の規格では長さ12尺、幅6寸、厚さ4寸である(『広辞苑』)。
4)『角川日本地名大辞典36 徳島県』角川書店、1980年、618頁。
5)『徳島県農林水産統計年報』による。
6)井村博宣(1994):那賀川平野におけるウナギ養殖地域の形成、地理誌叢(日本大学地理学会)、35-2。
7)シラスウナギから養殖した1尾15〜40g 程度の鰻をさす。

1)徳島大学総合科学部 2)徳島大学総合科学部大学院 3)上板中学校


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