阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第41号
那賀川町の水田民具と那賀川の流れ −とくに板物民具を通して−

民俗班(徳島民俗学会)

     青木幾男・橘禎男2)

1.はじめに
 那賀川町歴史民俗資料館には多くの民具が保存されている。那賀川町の一般民家にはすでに見られないような民具が、一点一点に寄贈者の住所氏名と、土地の呼名による品名の標示がつけられて、保存されていたことが調査の上ではありがたかった。
 これらの民具は、海、川の漁具、農耕具、生産用具、収穫運搬具、調整具、生活用具など、豊富に一応のものがそろえられていた。
 7月27日以後数日間、汗を流しながら資料館の地階で取り組んだ民具調査であったが、佐藤館長のご厚意で、地元出身の係員のような楽な気持ちで、民具のすべてに親しみをもって調査することができた。
 今まで何回か行ってきた各町村の民具調査では、どこも同じような、いわゆる「似たり、寄ったり」と思われるような民具であっても、その町、その村による特徴があった。那賀川町の民具をそのような角度からのぞいてみると、那賀川町の土地の地形、成立、歴史を思わせるような、水稲作民具に特徴を感じた。
 資料館の中で特に注目したのは、千石・万石などと呼ぶ米選別機や、トウミ、田舟、水車など板物民具のきわめて多いことであった。それは那賀川の流れと切り離しては考えられない、いくつかの要素をもっていた。

2.那賀川町の立地
 那賀川町は、那賀川が木頭、木沢などの豊富な水を集めて太平洋にそそぐ河口にあり、那賀奥より、山を削り、岩を洗い、流れ下る土砂の堆積した沖積土によって、成り立っている。それは長年月を経過して築かれたものであって、そこに歴史がある。
 先年の羽ノ浦町の調査の時(1984年)にも報告したことではあるが、那賀川は、ある時は阿南市大野・本庄から桑野川と合流して宝田・富岡を流れ、あるいは羽ノ浦町古毛・明見・岩脇・宮倉から小松島市立江を経て赤石港に流れ、またある時は宮倉から那賀川町黒地・敷地・山田川に流れていた。これらの流れの跡には今も断続して低湿地が認められる。古代羽ノ浦町宮倉に屯倉(みやけ)があったと伝えられる。1,400年も昔は堤防もなく、洪水の時には、あふれるままに水は低い所を流れていた。それらの流れが土砂を堆積して所々に島・州をつくりながら、洪水時の流れの速さによってその時々に流路を変え、低湿地を埋めて次第に本流は南に移動し、現在の地形が築かれたと考える。那賀川町全域は那賀川によって築かれた砂質壌土であるということができる。

3.那賀川町の米選別機(トオシ)類
 資料館に保存されている民具の中で千石と万石はよく引き合いに出され、どちらが千石でどちらが万石か、千石と万石とどこがどう違うのか、よく問題にされることがあったが、どちらも斜めに置いた金網の上を米を走らせて、モミと玄米、白米とクズ米などを分離するもので、はっきりした区別がなく、それを使用した人や所有者がいっている呼称をみると、平均的に千石は古くて構造が簡単であり、万石は新しくて、少し複雑になっていることくらいであろうか。いずれも30〜40年前から使われなくなった農具である。
 その歴史を見ると、正徳2年(1712)に寺島良安が書いた「和漢三才図会」(1)によれば、
千斛■(センゴクトオシ) (万石■ 其ノ制相似テ少シ異ナル。近年之ヲ作出ス)
按ニ近年大■ヲ出ス。其ノ功ハ篩穀■(ツリトヲシ)ヨリ十倍ス。名ヅケテ千石■ト曰ウ。
二ノ大箱、共ニ蓋底(フタソコ)無キ者ヲ用イ、之ヲ重ネ置キ、上ノ箱ノ中ニ板ヲ斜(ナゝメ)ニ嵌(ハ)メ、下ノ箱ノ中ニ銅網ヲ斜ニ嵌メル。其ノ網最モ細ニ密ニシテ、板ト網トノト■ノ字ノ如クニシテ上ヨリ舂米ヲ投ジ、則チ板ノ上ニ走(ハシ)ラシ、復タ網ノ上ヲ奔ル。糠下ニ脱ケ、米外ニ出ヅ。
    (一部省略。句読点・送り仮名・振り仮名補筆)
 とあり、今から約280年程前に箱の中に金網を組み込んで使用したのがはじめらしい。千石は■の10倍の能率があり、万石はそれを上まわる能率があるということであろうか。
 「和漢三才図会」は江戸時代の図説百科全書で、その中の農具は中国から伝来したものが多いが、伝来品についてはその発祥や歴史まで記されているのが普通であるのに、千石にはそれが書かれていない。おそらく「和漢三才図会」の出版より前、あまり遠くない頃に日本で考案されたものと考えられる。
 それ以前の農家では■を使っていた。獣毛やカズラ、草木の繊維を編んで枠にはめ、モミや玄米、ヌカを分離するもので、ふるい通すので目の細かいものを篩(ふるい)(すいのう)、目の荒いものを■(とおし)(けんど)という。これは古代から近年まで一般農家に使われていたもので、金網が普及する江戸時代中期に万石が考案されたのは能率の大きな前進であったが、一般農家には各戸で購入することができず、万石は大型農家だけに普及した。明治37年(1904)調査の「神奈川県高座郡綾瀬村是調査書」(2)によれば「万石は10戸に1台、1台の価格は3円、保存年数は30年」とある。さらに「唐箕(とうみ)は1戸に1台」と記されている。綾瀬村(現綾瀬市)は相模野台地に属し、比較的畑作も多かったので、徳島でもそれと似た普及率であったと考えられる。このような構造で、米を走らせて選別する機能をもったたぐいを、一般ではすべて「万石」といっているが、那賀川町歴史民俗資料館に保管の名前に従って分類すると、千石1点、万石1点、立線米選機1点、回転式米選別機1点があった。そのほかに、板枠大形とおし1点、曲物丸形とおし1点、の計6点、6種類の米選別機があった。これは古代から現代までの■の発展過程の中で見られる米選別機のすべてを集めたことになり、一町村でこれだけ集まったことは大変珍しい。他の町村では2、3種類しか残っていないのではあるまいか。これによっても那賀川町付近の米作りの歴史の古さと、層の深さを知ることができる。
 (1)千石トオシ
 千石トオシはその構造からみて、江戸時代の後期もあまり遅くない頃につくられたものだと考えられる。県内でも数少ない貴重なものであろう。高さは、向かって左側の脚116cm、右脚39.5cm であるが、後日脚を継ぎ足して、右脚の全長を63.4cm として固定している(図2)。いずれも細い杉材で、左側の脚は固定せず、接地部を左右に移動して高さを変え、網の傾斜を調整する仕組みである。上面には幅40.5cm、長さ1m、網目3mm の金網がある。米を入れるジョウゴは失われているが、ジョウゴの受台の下に板をさしこんで、米の流れを調節するようになっている。(江野島杉野彰一氏寄贈)

 (2)万石トオシ
 高さは、右脚117.5cm、左脚61.5cm。天部には幅35cm、長さ69.5cm、網目3mm の金網があるが、それに続く幅35cm、長さ30cm の金網は失われている(図3)。右方の3mm の網目を抜けて落下した米は、右足もとへ出ることになる。これは千石より新しく、明治、大正頃に使われたものである。(色ヶ島民養臣永強氏寄贈)

 (3)四国号千鳥平面調節米選機(立線・たつせん)
 万石が銅製金網で選別するのに対して、これは鋼線を縦に強く張って、その間隔の調節で米を選別する。構成の主体が縦の鋼線であるので「たつせん」という。側面両端にレバーがあって、その調節で、線の間隔を千鳥3mm、中間2.7mm、平面2.5mm の3段に変えることができる。脚の高さも5段に切り換えができて、米粒の大きさ、米の流れの速さを調節することができる最も進歩した様式のもので、本体横に「四国号千鳥平面調節米選機」と吹きつけで記されている(図4)。「写真で見る農具 民具」(3)には、兵庫県出石町に存在するものとして「岡山市イリノ製」の銘のあるものが出ており、これと機構がよく似ている。明治から大正期にかけて、特許合戦の中で改善を加えながら、四国・中国でも盛んに新機種が生産されるようになったのであろう。立線はやがて全自動脱穀機に組み込まれて、現在もコンバインの中で活躍している。(中島松下順一氏寄贈)

 (4)回転式米選機
 万石が斜めに定置した金網の上を走らせて米を選別するのに対して、これは円筒形の金網の中に米を流しこみ、人が金網を回転して米を選別するもので、直径39cm、長さ73cm、2mm 目の銅金網の円筒が、中心軸の高さ前方47cm、先方40cm、約10%の傾斜をもって横形に設置されている(図5)。前方上部のジョウゴから米を円筒内に流しこみ、手前のハンドルを回せば、米は次第に先方に流れ、網目によってクズ米だけが網の下に落ちる仕組みになっている。本体横に金属製、幅4.1cm、長さ12.3cm の記銘板があり、図6のように記されている。(今津浦免許坪井弁七氏寄贈)

 (5)板枠大形トオシ(吊りどおし)
 長さ77cm、幅60.5cm の底全面に鉄線で3mm×5mm の網が張られ、四方を囲む幅12cm、厚さ2cm の板枠を含めると、かなりの重量になり、一人では使用できないように考えられるが、一方の枠の中央に鉄製の吊(つ)り輪があるので(図7)、これを天井から吊り下げて、一人で米を選別していたのであろう。これを「吊りどおし」ともいう。(黒地岡田カネ氏寄贈)

 (6)曲物枠丸形トオシ
 最も古くから使われてきたもので、網の材料を変えれば古墳時代までさかのぼることのできる形状である。簡便で、米以外にも使用頻度が高いので、一般農家でも必ず2、3個は保有していたものである。径33cm の円形、網の目5mm×3mm、曲物枠の幅8.5cm で、一人使いのものである(図8)。(黒地岡田カネ氏寄贈)

4.聞き取り等調査
 上記のような民具が那賀川町に現存していることを確認したので、それがどこから購入され、いつ頃、どのように使われたかについて知りたくて、聞き取りのために全寄贈者の家を回ったが、10年近くを過ぎ、世代が変わっていることもあって、要領を得た話は一つも聞けなかっただけでなく、寄贈したことさえ知らないという家も多かった。
 そこで8月19日に、昭和61年(1986)の資料館開館当時に資料収集委員であった黒地の星野堯重氏にご案内いただいて、町内各地を回り、貴重な話を聞くことができた。
 1 八幡大久保 近藤信市氏(96歳)
  近藤氏は克明に日記を付けておられ、それをめくりながら質問に答えて下さった。
  八幡では、戸数は47戸、耕地は50町あり、1町以上の二毛作耕作者が大部分で、各戸が万石を持っていた。水利は、那賀川の水を羽ノ浦町で取水している「大イデ」(水路の名)に頼っているが、下流になると水が回らず、時には水争いもあり、灌水(かんすい)に苦労した。水位は−1m 前後と割合に高いので、水車による灌水が多かった。そのために、水車やトウミを専門に制作する家が何軒かあった。
  自分も万石は使っていたが、昭和5年(1930)8月に石油発動機を購入し、機械力に頼るようになったので、使わなくなった。その時自動モミスリ機の中に「たつせん」が組み込まれていた。
  近藤氏、星野氏の話の中で、那賀川町には「車屋」という板物農具を製作する家が何軒かあったことを知った。そこで、星野氏に案内して頂き、話をうかがった。今は建具製作所として残っている家もある。

 2 敷地南下 美馬基氏(80歳)(美馬木工)
  「敷地車屋清市」としてトウミ、水車を製造し、県内はもとより、讃岐の大川、引田等東讃にも販売していた。
 3 工地 久保田頼明(62歳)(久保田木工)
  それ以前は知らないが、親子3代嘉次郎・浅雄・頼明がトウミ、水車をつくっていた。
 4 上福井高福井 瀬川茂(75歳)
  屋号「車屋音吉」として、父瀬川音吉が60年程前まで水車やトウミをつくっていた。 以上のほかに、まだ調査漏れの車屋もあると考えられるが、資料館で保管する資料の記銘墨書に次のようなものがあった。
 5 水車(江野島羽広)
  羽廣車屋房蔵造  藤穴一号
  明治三十年旧五月吉日
  持主 廣井小蔵
 6 トウミ(那賀川旧河道川口赤石浜)(図10)
  赤石濱車屋宇兵衛
  天保十五年 子五月吉日

5.那賀川町の民具の特徴
 このように那賀川町の水稲民具は、板物民具がきわめて多いことが特徴であった。以上のほかにも、那賀川町には低湿田も多くあり、資料館に長さ2m、幅1m の大形のものを含め、何種類かの田舟が保管展示されている(図11)。それらの板物民具が地元において生産されていたことを今回の調査によって知り、地域産業と那賀川のかかわりがさらに深いことを知ることができた。


 那賀川町合併前の平島村が大正12年(1923)に発行した「村史平島」(4)には、『古來那賀川流材の集散地となって、本村の富源を來たした所である。故に商工業は大いに發達して製板會社、建具製造業等多く―中略―大正元年以前に創立の會社と工塲は次の通である。』(表1)と記されている。


 那賀川町は、那賀川を流し下ろす木頭杉をはじめ、那賀林業地域の材木集散地であり、製板工場を至近に持っていたことが、商工業の発達のみでなく、農業面でも、田舟や水車はもとより、トウミ、万石を発展させ、地域農家にこれら板物民具の分布密度を高め、米作りを一層有利に展開させたといえる。
 那賀川町が古来から水稲作地帯としての有利な条件をもっていたことは、すでに述べてきた通りであるが、民具に限れば、米作り2,000年の歴史の中で農具が際立って大きく改善されたのは、江戸後期の1765年頃から昭和40年(1965)頃の約200年の間であった。
 この頃から盛んに使用されるようになった板物農具類は、能率向上に欠かせないものであった。江戸期にはトウミ、万石が作られ、明治、大正期には農具製造会社が、これら在来の道具に新しい工夫を加えて特許を取り、生き残りをかけた特許合戦の中で次々と新機種を作り出した。しかしそれらの農具は、各地に一律に普及したわけではなかった。板物農具は、一様にかさがあり、傷つきやすく、輸送も困難であった。明治初めには車もなく、道幅も狭くて、民具は肩で運んだ。明治中頃から大正にかけて、これら民具の運搬は主として大八車によった。汽車が開通してからは県外へは汽車積みで送った。しかし遠方になる程輸送費もかさみ、辺地への普及は容易ではなかった。したがって分布の密度は生産地に近い程高くなり、そこでは能率化が進み、さらに新しい機械を導入する経営基盤が作られた。八幡の近藤信市氏からの聞き取り内容(前記聞き取り結果の1 )も、このことを物語っているように思われる。
 江戸後期から明治にかけて、阿波藩や徳島県は藍作を奨励し、日本一の藍玉産地として評価され、隆盛を続けた農家も多かったが、この地域では藍を作らず、古代から那賀川流域における穀倉地帯として繁栄を続けてきたのも、那賀川との深いつながりがあったからである。

 参考文献
1.寺島良安(1712)和漢三才図会 巻第三十五 農具類.(吉川弘文館,明治37年復刻)
2.綾瀬市(1993)綾瀬市史叢書2 神奈川県高座郡綾瀬村是調査書(明治37年調査).綾瀬市.
3.農村水産技術会議事務局編(1988)写真で見る農具 民具.農林統計協会.
4.平島村(1923)村史平島.平島村.

2)徳島県立徳島農業高等学校


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