阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第41号
牟岐線開通と山田隆二翁

史学班(徳島史学会)  小原亨

1.はじめに
 県南地方に汽車が登場したのは、大正5年(1916)12月、阿南鉄道会社による中田(小松島市)古庄(羽ノ浦町)間の鉄道開設に始まる。しかし那賀川以南の那賀・海部郡は鉄道の恩恵を受けていなかった。両郡における鉄道敷設は地域住民の久しく待望するところであった。こうした地域住民の要望がいれられ国営によって昭和17年(1942)には、牟岐町まで鉄道が開通した。大正5年に古庄まで敷設されてより実に26年の歳月を要している。
 この鉄道開通は、県南地域の交通体系に変革を与えるとともに、産業経済に大きな影響を与えた画期的事業でもあった。
 ただ、路線がどこを通るかが、各町村にとって最大の関心事であり、自町に路線を誘致するため競って関係省庁・議会に請願陳情合戦が行われた。とりわけ昭和4年(1929)の第56回帝国議会において四国循環鉄道阿土海岸線の設置が可決され、昭和8年(1933)より工事着工が決定されると誘致合戦は一段とし烈をきわめ、牟岐線開通史上の重大事件となった。
 牟岐線開通に大きな影響力を及ぼしたのは、鉄道省官僚山田隆二(平島村中島の出生)である。彼は、県選出国会議員の紅露昭(桑野町)・生田和平(石井町)等とともに開設実現に向けて精力的に努力した人物の一人であった。
 政治家・官僚の支えのもと牟岐線がどのような経緯をたどって開設されていったかみてみたい。

2.県南における鉄道開設の歩み
1)阿陽鉄道株式会社設立の機運
 鉄道敷設の機運は、阿陽鉄道株式会社の設立に始まる。阿陽鉄道会社は、衆議員板東勘五郎〈注1〉を代表とする11人の発起人が、明治33年(1900)の3月に設立し徳島駅から岩脇(羽ノ浦町)に至る鉄道の認可申請を行った。その認可申請に「他日徳島鉄道株式会社ニ於テ本線延長ノ計画相熟シ候得ハ同鉄道ト合同シ同社敷設鉄道ノ延長線ト為スベキ見込ニ候」(鉄道院文書)とあり、徳島鉄道株式会社〈注2〉の経営を前提としている。これは、阿陽鉄道会社の教員の多くが徳島鉄道会社の役員であったことによる。明治34年(1901)3月の総会において、徳島〜岩脇間を同社の延長線として明治40年(1907)8月まで免許が下付された。以降は国が買収し国有となる。したがって、阿陽鉄道株式会社は事実上設立されないまま終った。
〈注1〉板東勘五郎 羽ノ浦町生・文久元〜大正7(1862〜1918)・徳島師範学校卒・郡会議員、県会議員を経て、明治27年以降、衆議院議員連続当選10回在職24年に及ぶ。58才で死去・公職のほか鉄道会議議員・日本大博覧会評議員・徳島鉄道株式会社社長を務める。
〈注2〉徳島鉄道株式会社 明治30年に板野郡一条村の大津竜太郎ほか19人が資本金80万円をもって会社を設立した。本社を徳島市寺島町に置き、明治32年2月徳島・川田間に鉄道敷設、続いて明治33年8月船戸まで延長開業する。明治40年9月より国荷鉄道となる。
2)阿南電気鉄道株武会社の設立
 明治45年(1912)2月、名西郡石井町の生田和平〈注3〉を代表発起人として、資本金35万円をもって設立した。阿南電気鉄道株式会社は、中田(小松島市)〜岩脇(羽ノ浦町)間の軽便鉄道敷設を計画し、大正元年(1912)10月工事に着工・翌年4月に社名を阿南鉄道株式会社とした。大正5年(1916)12月に中田〜古庄(羽ノ浦町)間、6哩(マイル)を敷設開業した。古庄駅は、県南地方の人や物資移動の拠点となった。当初の敷設は中田〜岩脇間であったが、大正3年(1914)に神戸鉄道管理局の視察により第二予定線であった古庄に変更された。当時の古庄は、「新渡し」といって人家は10戸ほどの淋(さび)しい部落であった。
 この鉄道は阿波鉄道株式会社とともに、徳島県の二大私鉄として昭和11年(1936)国鉄に買収(価格68万円)されるまでの約20年間、県南の産業文化の発展に大きく寄与した。(四国鉄道75周年誌)。当初の敷設計画は、新野馬場(阿南市)まで通じるよう企画していたため、設立責任者であった生田和平はなんとかして実現に結びつけたいと政治的努力を続けている。
 線路決定までの事情を『新野町民史』(237頁)は次のように伝えている。「生田和平は線路通過町村に建設資金の負担を依頼した。新野町では当時の町長庄野一平の奔走で有力な富者層10人に10株ずつ引き受けてもらった。……略……しかしせっかくの努力も長生・桑野両村の割当株が消化できず、古庄から那賀川を渡るための大鉄橋の架設の必要と多額の工費を要することもあって、阿南鉄道は古庄駅を終点とし新野駅までの延長は実現できなかった。……略……。」とある。
 もしこれが実現していれば、現在の牟岐線も異った路線(羽ノ浦古庄・南島・長生・桑野・新野・福井由岐コース)をとっていたであろう。
 大正11年(1922)当時の阿南鉄道は、機関車2両・客車9両・貨車14両で1日7往復運転された。表1は、大正13年代の距離と運賃である。


〈注3〉生田和平 政治家。明治10年名西郡石井町に生れる。生家は藍商・製糸業・阿波共同製糸会社・徳島水力電気会社の重役・社長を務める。大正4年県会議員・大正13年より20年間衆議院議員・政友会に属し活躍した。徳島の鉄道敷設に尽力する。戦後は、石井町長・全国町村長会長に就任・昭和30年9月78才で死去。
3)県南地域の鉄道建設誘致の動き
 大正期・県内では国鉄徳島線・小松島線・民営阿波鉄道・阿南鉄道が営業運転されていた。しかし那賀川以南の那賀・海部の住民は全く鉄道の恩恵を受けていなかった。そのため、両郡内の町村では鉄道敷設を要望する機運が高まっていた。両郡内には、3つの鉄道路線敷設の要望があった。
(1)阿陽鉄道の敷設(平地線案)
 大正5年(1916)に敷設された阿南鉄道が古庄駅でとどまった関係上、敷設を予定されていた新野・桑野・長生の町村の住民の鉄道誘致熱は一段とし烈をきわめた。それが阿陽鉄道建設計画である。『新野町民史』(237頁)に阿陽鉄道建設計画の概要が次のように記録されている。「……略……議熟して大正10年8月21日主唱者総代森信三・平田利太郎両氏の名によって関係町村によびかけ広く参集を求めて阿陽鉄道期成同盟会創立大会が新野町役場で開かれ、平田利太郎を同盟会長に選出……略……大正12年2月1日阿陽鉄道敷設免許申請書を県庁を通じて鉄道院総裁に提出する運びに至る……」
 この計画によると資本金100万円をもって会社を創立し、阿南鉄道古庄駅より南島・長生・桑野村を経て、新野町馬場に至る鉄道敷設を第一期工事としている。
(2)富岡町鉄道敷設期成同盟会の設立(沿海線案)
 大正11年(1922)に富岡・見能林・橘を経由し牟岐に通ずる鉄道敷設を実現するため、富岡町を始めとする関係町村の有志、樫野恒太郎・島田雅一・円乗関太郎等、30人が創立委員として海岸線を通過する路線の誘致を強力に推進し、県庁・政府・鉄道省への陳情請願を行い、阿陽鉄道敷設に対抗した。
(3)四国循環鉄道阿土海岸線の早期着工運動の展開
 阿陽鉄道・富岡町鉄道期成同盟会の動きとは別に、海部郡町村会・海部郡町村議会は、高知県関係町村とともに国営鉄道としての四国循環鉄道阿土海岸線の早期着工をめざして鉄道省・関係大臣・衆参両議院に陳情請願を行っている。
 政府や国会においては、四国循環鉄道の重要性を認め、大正11年に高知県後免駅までの113km を予定線として編入した。そして翌年12年に大木達吉鉄道大臣、昭和2年(1927)には小川平吉鉄道大臣が、相ついで来県し、現地視察が行われ建設の早期着工を示唆している。
 こうした政府の動向に対応して、阿陽鉄道・富岡町鉄道敷設期成同盟会においては、小さな私設鉄道の建設計画などは問題でないとして、昭和2年11月11日に阿南鉄道株式会社も含めた関係町村を一丸とした、四国循環鉄道阿土海岸線期成同盟会〈注4〉の結成式を新野町平等寺で開催し、その設立をみることとなった。したがって、阿陽鉄道・富岡町鉄道期成同盟会は解散されることとなった。
〈注4〉 四国循環鉄道阿土海岸線期成同盟会規約(新野町民史・240頁)
 吾人同志ハ協力一致以テ左ノ事業ヲ遂行シ誓テ其完成ヲ期ス。
 一.四国循環鉄道阿土海岸線期成同盟会ヲ組織シ運輸交通ノ便ヲ啓キ地方文化ノ開発ヲ計ランガ為之レガ敷設完成方ヲ其筋ヘ請願陳情ヲナシ聖代ノ恵決ニ浴セン事ヲ期ス。
 二.本会ノ名称ハ四国循環鉄道阿土海岸線期成同盟会ト称ス。
 三、四省略
 五.本会ノ費用ハ有志ノ寄付金及地方自治体ヨリノ補助金ヲ以て支弁ス。決議 本会ハ四国循環鉄道阿土海岸線ノ速成ヲ期ス。
 期成同盟会の設立とともに、徳島市・小松島町の理事者・議会議員と県南関係町村の理事者、議員は続々上京して、政府・議会に陳情運動を行い、この実現方に懸命の努力を払った。とくに、昭和4年(1929)2月の第56回帝国議会に四国循環鉄道阿土海岸線の敷設問題が上程審議されるとあって、昭和3〜4年における上京陳情は回を重ねた。この陳情請願の仲介役に当たったのが、衆議院議員・阿南鉄道株式会社社長の生田和平であった。
 (4)阿土海岸線敷設国会を通過
 生田和平や期成同盟会の努力がみのり、第56回帝国議会において「高知県後免より安芸・日和佐を経て古庄付近に至る鉄道線路」の一部として、羽ノ浦〜牟岐間31マイルの鉄道建設案が田中義一政友会内閣によって可決され、昭和4年3月に公布された。
 総工費763万3000円をもって昭和5年度より着工する。工事費年度割は、昭5年3万円(測量費)・6年30万円・7年50万円・8年60万円・9年80万円・10年140万円・11年140万円・13年120万3000円である。
 (5)阿土海岸線.二つの予定線
 昭和5年(1930)より鉄道敷設着工が国会において決定をみた。那賀・海部郡の関係町村は喜びとともに早期実現を期待した。しかし各町村は、早期着工の期待とともに、鉄道線路が果たして自分の町や村を通過するかどうか、の問題があった。
 当時、鉄道省では阿土海岸線のコースとして二つの予定線が考えられていた。1案は、阿南鉄道建設計画当時から久しく検討され、阿土海岸線の既定線の如き観を与えていた古庄を起点とする南島・長生・桑野・新野を経由し牟岐に通じる平地線案。2案は、羽ノ浦を起点として平島・富岡・見能林・橘を経由し牟岐に通じる沿海線であった。
 1案の平地線案をとるか、2案の沿岸線案をとるかは、関係町村にとって正に死活問題であった。路線のはずれる町村にとっては、長い間の努力が一期にして水泡に帰するわけで関係町村は急拠、対策協議会をつくって路線獲得に移っている。なかでも平地線を強く主張する新野町は、政友会所属の生田和平代議士を介して、岡山鉄道建設事務所へ地方の状況や今までの建設運動の経過などを説明し敷設の請願を行っている。
 この鉄道省の予定線について、第56回衆議院予算委員会で平地線案・沿海線案をめぐる質疑がかわされており、関係町村の誘致合戦の厳しさを知ることができる。
◆ 第56回帝国議会衆議院予算委員会第6分科会・昭和4年2月7日(木)午後1時20分開議
 青山憲三委員質問要旨 今回提案セラレタル追加建設鉄道線の内、阿土海岸線ノ一部羽浦牟岐間31哩ノ計上ヲ見タルコトハ多年阿土両国ハ鉄道ノ恩典ニ浴セズ閑却セラレタルト云フ憾ミヲ消滅セシメル所デアリマシテ同地方民ノ満足ヲ表スル所デアリマス……略……鉄道敷設法予定線第百七号後免古庄付近間鉄道、一部デアリマシテ阿南鉄道終点古庄駅ニ発シ長生、桑野、新野福井木岐日和佐牟岐甲ノ浦ヲ経テ高知県後免ニ達スル即チ阿土海岸線デアリマスコトハ徳島県民ニ於テハ殆ンド確定的路線ナリト信シテ同県ニ於ケル交通政策ハ総テ此方針ニ依テ施設セラレテ来タノデアリマス。然ルニ今回御提案ニナッタ路線ノ説明書ニヨリマスレバ阿南鉄道羽浦ニ起リ富岡町ヲ過ギ海岸ニ出テ橘木岐日和佐の都邑ヲ縫ヒ牟岐ニ達スルコトニ変更シタルコトハ意外トスルトコロデアリマス今回変更セラレマシタ路線ニ付テハ……略……又那賀川上流カラ呑吐スル人口貨物ハ決シテ橘富岡等小区域ノ集散ノ比デハナイコトハ本員ハ断言シテ憚ラザル次第デアリマス建設費ニ於キマシテモ古庄ヨリ福井マデノ間13哩ニ対シ羽浦カラ富岡橘ニ迂回スル為ニ4哩ヲ増加スルニアリマシテ後者ハ是亦前者ヨリ多額ノ建設費ヲ要スルモノデアルコトハ勿論デアリマス。略……政府ハ更ニ此両線ニ付テ若シ前予定線ガ今回ノ御提案ニナッタモノニ優ルコトヲ認メラレタ場合ニハ之ヲ復活スルニ差支ヘナイモノデアリマスカ其点ヲ最モ明確ニ御答弁ヲ願ッテ置キタイノデゴザイマス。
 中村謙一政府委員(鉄道省建設局長)答弁 只今御話ニゴザイマシタ地方ニハ御説明ニゴザイマシタヤウニ二ツノ比較線ガアルコトハ承知ヲ致シテ居リマス併シ只今迄ノ測量ハ敷設法予定線ヲ計画スル程度ノ測量シカ致シテ居リマセヌ其外非常ニ綿密ナル調査ハマダ其地方ニ致シタコトハアリマセヌ今回之ヲ予算ニ計上シ昭和5年ヨリ13年度迄ニ完成スルト云フ案ヲ立テマシテ昭和5年度ニハ予算3万円ヲ計上シテ此線ノ測量ヲ実施スルコトニ致シテ居リマス其際ニ十分ニ其ノ地方ノ状態ヲ調査致シ又路線ニ付テモ綿密ナル測量ヲ遂ゲテ此両比較線ニ付テハ十分ナ研究ヲ遂ゲサウシテ何レカ宜シイ方ニ決定シタイト存ジテ居リマス。(昭和4年2月7日、衆議院予算委員会第6分科会会議録より)
 (6)田中義一政友会内閣辞職と阿土海岸線建設中断
 昭和4年(1929)7月、張作霖爆死事件に端を発して田中内閣は総辞職し、かわって浜口雄幸憲政会内閣が成立した。浜口内閣は財政の緊縮政策をとりあげた。ために阿土海岸線鉄道建設案も中断された。浜口内閣の後を受けた若槻礼次郎憲政会内閣も財政緊縮政策を続け、鉄道建設は見送られ関係町村は失望の域に達した。
 (7)阿土海岸線鉄道建設再び陽(ひ)の目
 昭和6年(1931)12月、犬養毅政友会内閣が成立するや財政の積極政策を進め、阿土海岸線鉄道建設が再び陽の目をみるに至った。犬養内閣のあとを受けた斎藤内閣も、三土(みつち)忠造を鉄道大臣にすえて阿土海岸線鉄道の建設を推進した。昭和7年(1932)11月、鉄道省政務次官名川侃市、続いて同年12月に三土忠造鉄道大臣が来県し阿土海岸線の視察を行っている。かくして昭和7年に羽ノ浦〜牟岐間の鉄道建設予算が国会において可決され、昭和8年工事に着工し昭和15年(1940)に完成をする予定で阿土海岸線鉄道敷設が陽の目をみたのである。
 思えば昭和4年に国会通過以来、5年間諸般の状況により中断されていたが、ようやく実現の運びとなり関係町村は安堵(ど)の色を濃くしたのである。しかし昭和4年の時と同じく、平地線案と沿海線案を要望する関係町村は再び激しい陳情合戦を繰りひろげた。
 なかでも平地線案を主張する、宝田・長生両村は昭和8年(1933)に鉄道省を始め関係機関に対し平地線案の路線決定を要望している。とりわけ新野町は、町民多年の要望である新野町馬場への駅の設置をねがって、昭和7年12月に高知県代表とともに紅露昭代議士(桑野町)のあっせんで鉄道省・政友会・衆議院議長秋田清(三好町足代)に最後の陳情を行っている。
 こうした動きのなかで政府は最終的には、平地線をできる限りとり入れた沿海線を採択した。平地線案と沿海線案の中間を走るコース(現在の牟岐線・羽ノ浦〜中島〜富岡(阿南)〜橘〜桑野〜新野)を決定した。古庄駅を起点とせず羽ノ浦駅を起点として中島・富岡・見能林に至る沿海線案に決定をみたのは、当時、中島(平島村)出身で鉄道省の高官であった山田隆二(鉄道省工務局長兼大臣官房研究所長)の大きな影響力があったといわれている。
 この路線決定によって、多年にわたり新野馬場に駅の誘致を要望してきた新野町民の願いも空しく、花坂トンネル(桑野町西谷)・新野甘枝を通過して福井に向かう路線が昭和9年(1934)11月に鉄道大臣によって決裁された(図1)。新野町民の失望もさることながら、阿土海岸線の大勢と新野町の位置の偏在は鉄道省にとっても苦慮されたことであって、路線が新野の南端にある甘枝部落に新野駅が設置されたことで満足しなければならなかった。新野町以上に、古庄・中野島・長生・橘・福井の各町村も新野町同様、恩恵にあずからなかった。
 このように開通まで種々物議をかもしたが、羽ノ浦〜桑野間の鉄道が開業されたのは、昭和11年(1936)3月27日であった。好天に恵まれ初列車に乗る人々で各駅は混雑を極めたという。羽ノ浦〜桑野駅間、6駅における乗客は6,653人、運賃収入は966円に達している。3か月後の7月1日に阿南鉄道が買収されて国鉄阿土海岸線となって中田駅まで延長された(図2)。昭和12年(1937)6月に桑野〜福井間、昭和14年(1939)12月に福井〜日和佐間、昭和17年(1942)7月日和佐〜牟岐間の鉄道が開業された(図3)。着工以来9か年の歳月を経て完了した。のちに中田駅〜徳島駅間を編入して徳島駅〜牟岐間を牟岐線と命名した。大正・昭和の牟岐線に使用された機関車は、8620形蒸気機関車で、当時の代表的機関車であった(図4)。


 阿土海岸線鉄道が、日和佐まで開通した昭和14年に開会された第70回帝国議会請願委員第四分科会において、田村秀吉委員(新野町)が、四国循環鉄道の一部として阿土海岸線速成の件を上程し、室戸〜牟岐間60kmを完成しなければ牟岐線の価値は半減する旨を強調している。(第70回帝国議会衆議院請願委員第四分科会会議録第4回28頁より)
 このように、大正・昭和の徳島県選出国会議員は、鉄道敷設に大きく貢献している。
 牟岐線開通までには、う余曲折はあったが鉄道敷設は大正・昭和期の那賀・海部住民の久しく待望していたところであり、同時に住民の陳情請願への苦労と努力を重ねた歴史の一頁であるとともに新しい社会世相を呼び起こした画期的事業でもあった。
 この牟岐線も、平成4年(1992)3月26日海部駅より高知県東洋町甲浦間8.5kmに両県の協力で悲願の阿佐東線が開業された(表2)。海部駅でJR線につなぐ第三セクター方式の阿佐海岸鉄道として昭和40年(1965)に着工し、26年ぶりに完成開業された。

3.山田隆二翁と阿土海岸線鉄道
1)郷里阿南を愛した人
 山田隆二翁は、平島村(那賀川町中島)が生んだ我が国鉄道界の代表的人物であり、徳島の誇りとする人物でもある。大正昭和期の鉄道省役人として秀れた技術と知識をもって国鉄の充実と発展に大きく貢献した。
 隆二翁は、徳島の鉄道網の遅れに意をはらい、とくに県南の鉄道敷設(阿土海岸線鉄道)の整備充実につとめた。翁は、徳島選出の国会議員や鉄道省関係担当官と連絡を密にして強力な陰の推進力となった。阿土海岸線鉄道の敷設が第56回帝国議会(昭和4年)において可決されて以来、昭和17年に牟岐まで全線開通するまでの間、敷設をめぐり、政府・国会においてはう余曲折し、ために種々の問題をかもした。また一方、地元関係町村にあっては路線をめぐって厳しい対立と誘致陳情合戦が展開された。こうした動きのなかで、沿海線案を推進路線として平地線案を勘案しながら円満に敷設できる対応措置を隆二翁によって実現をみている。この鉄道(牟岐線)の開業は、県南各町村の文化産業経済の進展に大きな力となったことは言うまでもない。吉野川を走る徳島本線の開通(明治31年2月)から遅れること50年を経ている。県南開発の遅速が問われたのも無理はない。このように遅れた県南の鉄道開設に大きく寄与した隆二翁の功労に報いる記念碑が昭和36年(1961)3月翁の出生地(那賀川町中島駅前)に、時の県知事であった原菊太郎の撰(せん)書によって建立されている(図5)。

2)牟岐線開通余話
 県南に汽車の走った昭和11年、平島村役場書記であった新田義夫氏(上福井出島・89才・明治37.9.27生・平島村収入役)が、阿土海岸線鉄道開通について次のように語っている。(平成6.7.28収録)
 「阿土海岸線鉄道開設時の平島村長は宮本茂八・助役杉本徳三郎・議会議長清水澄之であった。これら村の有志は、羽ノ浦・平島・富岡・見能林を通過する鉄道の敷設を政府や国会・鉄道省へ再三にわたり陳情を行っている。とくに鉄道省の高官であった平島村中島出身の山田隆二に対して村民の期待するところは大であった。また時の政友会所属の紅露昭代議士(桑野町出身)も精力的に誘致運動を進め、羽ノ浦〜中島〜桑野の鉄道が誕生したと認識している。3月27日の鉄道開通の日、私や村人は中島駅の汽車の通過に喜び、歓声をあげた。また、この開通にあたっての、山田隆二翁・紅露昭代議士への功績をたたえ感謝の意をあらわした次のような言葉が語られていた。
 〈山田鉄道(阿土海岸線鉄道)に紅露駅(桑野駅)〉・〈赤池(那賀川町赤池)に中島駅や汽車走る〉」
 以上は、新田義夫氏の懐古談ではあるが、この表現の良し悪しは別として、阿土海岸線鉄道の開通をいかに待望していたか、地域住民の喜びと感謝のあらわれとしての言葉ではなかろうか。
3)山田隆二翁の横顔
 子息の重隆氏(東京在)と甥(おい)の山田逸郎氏(アルボレックス会長・那賀川町中島住)は、隆二翁の人物について次のように話された。(平成6年7〜8月収録)
 「隆二翁は、明治15年(1882)1月5日に那賀郡平島村中島の林業経営並那賀川河口有数の製材工場を経営する山田亦吉の二男として生れる。恵まれた家庭環境に育ち生来、頭脳明晰(せき)、温厚な性格の持主であった。平島小学校・富岡中学校(富岡西高校)・第三高等学校を経て東京帝国大学工学部に進み、明治41年(1908)卒業し直ちに鉄道省に入省し鉄道事業向上のため精進し敏腕を振るう。この間、内閣より米国への留学を命ぜられる。中華民国の要請を受け、鉄道建設指導のため渡中に当たるなど活躍する。こうした功績により、昭和8年に勅任(ちょくにん)官を拝命し勲四等瑞宝章を授与されている(図6)。


 昭和11年には、鉄道省工務局長兼大臣官房研究所長の要職についている。また、昭和33年(1958)に完成をみた関門国道トンネル(3461m)開さく計画設計に当たるなど鉄道向上に大きな業績を残している。なお、局長時代は部下をよく面倒み公私にわたり世話をしていたと隆二翁夫人がよく話をしていたと。
 退官後は、東京都大田区山王町1に居を構え自適の生活を送る。酒をたしなみ、若き時代に覚えた、ゴルフ・マージャンに余生を送る。時々有楽町の交通会館に出かけ、マージャンの仲間入りを楽しんでいる。しかし自適生活とは言え、隆二翁の秀れた知識と豊かな経験は、企業や関係機関に迎えられている。日本コンクリートポール会社取締役兼技師長・日立製作所顧問・磐城セメント会社顧問などを歴任している。」
 隆二翁は、徳島県の生んだ日本鉄道界を代表する功労者の一人である。しかしながら県人には余り知られておらず寂しいことである。郷土の生んだ偉大な人物をたたえ、後人の範とする県民の姿勢が大切ではなかろうか。

 参考文献
・新野町民史 沖野舜二著 昭和35年3月刊
・徳島県史 徳島県史編さん委員会 昭和41年刊
・阿波の交通(下)徳島市立図書館 平成3年2月
・四国鉄道史(四国私鉄史)四国旅客鉄道株式会社刊
・四国鉄道75周年誌 四国旅客鉄道株式会社刊


徳島県立図書館