阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第41号
西光寺の金剛力士像について

史学班(徳島史学会) 田中省造1)

1.調査依頼の経緯
 今回の総合調査では、那賀川町当局からの依頼に基づき、当地の西光寺の金剛力士像(仁王像)について調査することにした。西光寺は那賀郡那賀川町赤池字角地185番地にある。山号を己心山、院号を平等院といい、真言宗大覚寺派に属する古刹である。寺伝によれば、行基菩薩の創建というが、境内の一角に室町募府の10代将軍足利義植、14代将軍足利義栄、義栄の父義冬の墓が祀られる外、同寺の墓地には義栄の子孫で平島公方(阿波公方)と呼ばれた足利氏(平島氏)歴代の墓が20基ほどある。平島公方の菩提寺であるこの寺の歴史には実に興味深いものがあるが、紙幅の関係で他書によってもらうことにして、ここではテーマを金剛力士像にしぼりたい。
 この金剛力士像を康安2年(1362)製作と考えてよいか、というのが調査依頼の主旨であった。調査後わかったことであるが、この依頼は徳島新聞に掲載された西光寺の記事と関係があるらしかった。同紙は平成4年1月3日付きの紙面第2部で「古里の宝 伝統的建造物」という特集記事を掲載した。これは徳島県下にのこる歴史的に貴重な建造物28件を特集したもので、そのうちの1件に「西光寺仁王門」(図1)がある。第2部3面には「阿波公方の墓守る 世相見据える木造仁王」のタイトルで、仁王門の写真とともに、西光寺の歴史、仁王門の由来、御住職芝野勝範師の談話などが要領よく紹介されている。


 度重なる災害や火災で、同寺の規模が順次縮小を余儀なくされたことにふれた後に、「しかし訪問客を出迎える仁王門は昔のまま。三十代住職竜英(一八八七〜一九一九年)の時に再建されたと言われ、高さ四メートル、幅約五メートルのどっしりした構えの山門の両側には身の丈約二メートルの木造の仁王像が二体立っている。室町時代の弘安二年(一三六二年)の建造。長い歳月で足元は朽ちているが、鋭いまなざしは通りかかる人をじっと見据える姿は、今も変わりない。」とある。文中の年号「弘安」は誤植である。「康安」とすべきことは、カッコ内の西暦からも知られる。ただ、紙幅の都合もあったのだろう、なぜ金剛力士像が康安2年の造立と考えられるのかにはふれられていない。
 一方、昭和17年(1942)に火災で焼失した同寺の旧本尊像は、明治44年(1911)に国宝に指定された阿弥陀如来坐像で、台座の裏面に「康安二年九月二十四日記之」の銘文があったという。紙面にはみえないが、特集記事の記者は、おそらく金剛力士像をこの旧本尊像と同時期の作と判断されたのであろう。問題はこの判断が正しいかどうかであるが、以下に項を改めて、この問題を検討したい。

2.金剛力士像の概要
 西光寺仁王門の左右に安置される金剛力士立像2躯については、門に金網が張られており、近付いて実査するためには金網を破る必要があった。そんなことは事実上不可能であったので、不十分ではあるが、以下金網越しにみてわかったことを記す。

 
 参道から境内に向かって、右に阿形像(図2)、左に吽形像(図3)が安置され、像高はともに6尺余とみられる。阿形はやや右方をにらんで口を開き、吽形は反対にやや左方を向いて口をへの字に結ぶ。ともに怒ったお顔で、上半身は裸、下半身に裳(も)を着ける。裳先は、阿形では右に、吽形では左になびいている。阿形の遊足である右足先は現状分離するものの、当初の右足はかかとを付け、爪先を上げる奈良東大寺南大門の金剛力士像(吽形)と同じスタイルをとっていたらしい。阿形は左手を屈して振り上げ持物(後補か)をとる。持物は鉄製とみられるヤスリ状の形をしたもので、宝棒の代用であろう。右手は下に伸ばして五指を握る。吽形は左手をやや下に曲げ五指を開き、右手を下に伸ばして五指を握る。吽形の左腰から体側に垂れ下がる天衣の遊離部がのこっている。おそらく、本来はともに天衣が後頭部から両肩に掛かり、一旦腰部で結んで、左右の体側に垂れ下っていたものであろう。また頭頂の様子も不明であるが、おそらく、髻(もとどり)を元で布で結うスタイルであったろう。金剛力士像としては必ずしも大きいとはいえないが、この天衣、髻などが完存していれば、さぞ偉観であったことと思われる。なお、ともに現在は欠失するが、当初は乳首を表現していたと思われる。両像ともに、頭体の比例もよく、胸部の筋肉などの表現もそれほど形式化していない。両手の作る空間の把握もしっかりしたものである。
 ともに寄木造、彫眼、詳しい木寄せ法はわからないが、頭体の主幹部は前後の二材矧(は)ぎ(頭体は共木)を基本にし、頭部は耳後で矧ぐ形となっている。また吽形のみは顔面でも矧いでいる。材は桧ではなかろうか。当然内刳(うちぐり)も施しているとみられる。その他、肩、手首、体側、天衣のなびく部分などで矧ぎ、カスガイなどで止めている。阿形の右肩の付け根部は、本体の肩部の矧ぎ面に対し、二の腕側の矧ぎ面がやや小さい。おそらく当初はこの間に小材をはさんで調節していたものであろう。後世の修理時にこの小材を除いたものかと考えられる。当初は彩色像であったとみられるが、現在ほとんど色は落ちて、下地の胡粉が一部のこる外、素地をみせている。
 この西光寺像の形姿は、こうしてみるときわめて一般的なものといえるが、嘉暦2年(1326)の銘を持ち、四国屈指の作として名高い現徳島市勢見町2丁目の観音寺の金剛力士像のスタイルときわめて近似していることが注目される。
 おそらくは、この観音寺像など確かな像をモデルとして製作されたものであろう。その時期が問題であるが、金剛力士像としては比較的小さい像である上、怒りを表すお顔などにもやや類型化が感じられ、天衣のなびく部分もいかにも分厚く重い感がある。その構造は上述したようにきわめて合理的、本格的なものであり、その彫技にも優れたものがうかがえるが、康安2年までさかのぼらせることは難しいのではなかろうか。おそらくは室町時代も遅い時期のものと考えたい。

 参考文献
1 『村史平島』(大正12年6月、武田伴太郎発行兼編輯、徳島県那賀郡平島村役場)
2 『阿波の足利 平島公方物語』(南海歌人叢書第26編、昭和62年5月、中島源、南海歌人の会)

1)四国大学文学部


徳島県立図書館