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1.はじめに 那賀川町は、那賀川の北岸および河口に広がる町である。那賀川町地域の表層には沖積層がみられるが、その地下には洪積層および基盤である秩父累帯北帯・中帯の地層が分布する。那賀川は、四国山地東部から紀伊水道に注ぐ。那賀川平野の面積は73.0平方キロメートルで、那賀川が運んできた砕屑物により形成された。那賀川上流の山間部は日本でも屈指の多雨地帯であり、那賀川に流れ込む水量は多い。上流から運ばれてきた砕屑物は平野の開口部で急速に堆(たい)積し、扇状地を形成した。河道は低所を求めて左右に移動を繰り返してきた。平野は、開口部の持井橋の標高15m
より標高5m までが扇状地帯、標高5m 以下が三角州低地である。河口付近でも土砂の吐き出しが盛んであり、径5cm
を超える円礫(れき)が多数みられる。河口の北岸では、砂丘が発達している。河口の北約8km
には、沿岸流によって形成された和田ノ鼻と呼ばれる砂嘴(さし)が発達している。扇状地帯・三角州低地ともに旧河道がよく残っている。那賀川平野の形成過程や河道の変遷については、視点を変えたいくつかの見解がある(日下、1962;式、1964;小川、1978)。最近では、寺戸(1990)による那賀川平野の古地形の復元の研究がある。しかし、那賀川平野の沖積層について地質学的視点からの検討は、あまり行われてこなかった。 筆者らは、今回、那賀川平野の140個所のボーリング資料を検討するとともに阿南市辰巳地区のトンネル工事の廃土から産した化石の古生物学的検討、14C年代測定を行った。これらの検討にもとづき、那賀川平野の沖積層の層序区分、産出化石、沖積層の構造と発達史および旧河道の推移を考察した。
2.層序 図1で示す140個所のボーリング資料を検討し、那賀川平野の沖積層を下位より、基底礫層、下部砂層、中部泥層、上部砂層、上部礫層、最上部泥層の6層に区分した。 1)基底礫層 沖積層の最下部をなす地層。ウルム氷期前後に堆積した、主として河川性の陸成層。N値が50以上、色調は黄灰〜褐色。井関(1983)の沖積層基底礫層にあたる。 2)下部砂層 暗灰色の砂層を主とし、あまり厚くない。ところにより欠くこともある。海成層と考えられるが直接的な証拠はない。井関(1983)の沖積層下部砂層に相当する。 3)中部泥層 主として暗灰色の海成粘土・シルト層から成り、貝殻、有機物を混入する。下半に火山灰層を挟む。これは、鬼界アカホヤテフラ(K−Ah)(町田・新井、1992)とみなされる。理由として、火山灰アトラス(町田・荒井、1992)によると、四国における縄文海進時に確認できる火山灰はアカホヤのみであるとされるからである。アカホヤとすると、辰巳産の貝化石の14C年代測定結果と矛盾しない。図2に示す東西断面図(図1のA−A'
断面)でみると、下流では厚く十数 m ある。図1の羽ノ浦町古庄(35)から赤池(59)の範囲では、1〜2m
の類似の地層がみられる。中部泥層が分布しない最も内陸側の分布と見なされる上流部の羽ノ浦町明見(36)では、基盤の中古生界を直接不整合に覆って貝殻片を含む中部泥層が見られる。海進時に谷地形を埋積した泥層中に薄い砂層や砂礫層が挟まれているが、これは河川による堆積物と考えられる。旧河道付近には類似の岩相が見られるが、1〜2m
と薄く断続的である。井関(1992)の沖積層中部泥層に相当する。 4)上部砂層 青灰〜暗灰色の砂層。有機物・貝殻片の混入がみられる。東西断面図(A−A')の地点34より下流側では、比較的連続性はよい。図4に示す南北断面図(図1のC−C'
断面)では、下底の深度が−10m〜−13m
でよくそろっている。井関(1992)の沖積層上部砂層の一部にあたる。 5)上部礫層 色調は青灰〜暗灰色。海退期の河川性堆積物と海浜性の礫質堆積物。連続性はよくない。上流側では、厚くなると同時に中部泥層を挟在しないため、基底礫層と連続的で区別は困難となる。このうち、海浜性の礫質堆積物は、井関(1992)の沖積層上部砂層にあたる。海退期の河川性堆積物は、その成因から見て、頂部陸成層に相当する。 6)最上部泥層 青灰〜暗灰色の粘土・シルト・砂の薄層・互層から成る陸成層で、ところにより有機物を多く混入し、下流域でよく発達している。氾濫(はんらん)原・後背湿地などの非海成水堆積物と考えられる。井関(1992)の頂部陸成層にあたる。




3.産出化石 那賀川平野の沖積層のボーリング調査の際に、貝殻片・植物片などの化石がしばしば検出されることは以前から知られていた(鈴木・北崎、1964)が、これらの化石についての地質学・古生物学的な検討はこれまで行われてこなかった。1993年調査時に筆者らは、桑野川河口の沖積層から、大量の化石を採集する機会を得た。これは、神崎製紙株式会社(現新王子製紙富岡工場)が行った地下トンネル工事の廃土に含まれていたものである。調査結果は、別稿(中尾、1995)で詳細に報告するので、ここでは化石の層準・産状の概要を述べる。 筆者らは野外に積み上げられた廃土の表面から化石を採集した。水平坑部は、−20m
前後である。また、工事はシールド工法で行われ、廃土はかなり攪乱されているため、大型化石の産状はきわめてわかりづらい。廃土は泥質堆積物が多いが、部分的には砂質のところもある。注意深く観察すると、両者に含まれる化石はかなり異なっていることがわかる。ボーリング柱状図(図2のno.107)とトンネルの深さから、泥質部は地下−30m
からほぼ−10m
までの中部泥層の上半部、砂質部はそれより上位の砂層からもたらされたと判断される。 1)貝化石 砂質部と泥質部を合わせて163属193種の軟体動物化石が確認された(表1および図版1.2)。泥質部で多いのはハナムシロ
Zeuxis castus、ヨコヤマミミエ Striarca interplicata、ハナツメタ Neverita reiniana
であり、この3種で泥質部の全個体数の6割から7割を占める。種によっても多少異なるが、二枚貝は合弁で保存されている個体が多く、生息時の貝類群集に近いものを見ていると考えられる。日本各地の沖積層の貝類群集の区分と、時間・空間的な分布に関しては、松島(1984)の研究がある。この泥質部の群集は、この松島の研究に照合すると沿岸砂泥底群集と内湾泥底群集の両方の主要構成種を含んでいる。これら泥質部の化石は、3070±90から5580±100年前までの14C年代測定結果を示す。 砂質部は種数がより多い、キサゴ
Umbonium costatum、マツヤマワスレ Callista chinensis、バカガイ Mactra chinensis、カニモリ
Proclava kochii、ウミニナ Batillaria multiformis
などが多く含まれている。沿岸水の影響を強く受ける砂底に生息する種が多く、沿岸砂泥底群集(松島、1984)に対応するが、岩礁に生息する種(サザエ
Turbo cornutus
など)、低鹹(かん)度の干潟に生息する種(ウミニナなど)が混入するため、自生の程度は泥質部の貝類群集より低いと考えられる。これら砂質部の貝化石は、2010±70から1870±80年前までの14C年代測定結果を示す。 2)介形虫および有孔虫化石 泥質部には、石灰質底生有孔虫・介形虫の化石が含まれる(図版3)。介形虫は、13属14種が認められた。Bicornucythere
bisanensis、Spinileberis quadriaculeata
などの内湾泥底性とされる種が大半を占める。底生有孔虫では、Ammonia beccari
が多く認められた。浮遊性有孔虫はほとんど認められない。また、砂質部にはこれらの化石はほとんど含まれていない。 3)その他の化石 泥質部にはカニの化石がしばしば認められる。また、個体数は多くはないが、サンショウウニ・ブンブクウニの仲間も確認された。一方、砂質部ではハスノハカシパンを産する(図版3)。

4.
沖積層の構造と発達史 基底礫層は、ウルム氷期の最低位海面期に、旧那賀川により形成された扇状地性の礫層である。この時期の海岸線は、紀伊水道の現海面の−90m
付近にあったと考えられる(吉野川グループ、1991)。調査地域では、地点97など標高−40m
付近でも風化礫層が知られている。地下断面図(図2〜4)、並びに基底礫層上面の地下等深線図(図5)をみると、小松島市櫛渕〜和田島、那賀川町上福井〜出島などに谷地形がみられる。谷の基底礫層の層厚は、小松島市櫛渕〜和田島、那賀川町上福井では、1m
未満と薄く、所により欠く場合もある。これに対し、阿南市中大野の岡川流域の谷地形では、層厚30m
の礫層が知られている(中川・須鎗、1965)。当時の那賀川の流路は、現在の岡川付近になっていたと考えられる。その後の海進により、扇状地性の砂礫層から、砂層、泥層へと上方へより細粒な砕屑(さいせつ)物が堆積していった。 縄文海進時の海岸線は、ピーク時には、現在の海岸線より2〜3m
高かったことが、JR立江駅東の波食跡から推測される。この海進前後に中部泥層が堆積した。櫛渕〜和田島は他地点と比べてとくに泥層が厚く堆積している。これは、那賀川が羽ノ浦山地北側に流路をとることはなく、櫛渕付近は厚い泥を堆積する内湾になっていたためと考えられる。この内湾にも、河川流路の変化によって、砂礫が堆積することがあったと推測される(図4の地点1〜4の中部泥層中の砂礫層)。中部泥層の下半部には、火山灰層がみられる。前述の理由からこの火山灰は鬼界アカホヤテフラ(6300年前)と考えられる。火山灰分布は、鍵層として同時間面を表すので、当時の堆積面が推測できる。火山灰層の東西方向での深度分布を比較すると、西から東に向かって、図1中の羽ノ浦町春日野団地の地点32では、標高−6m
に、またJR那賀川橋鉄橋西の地点59では、標高−10m の砂層の上面に、羽ノ浦町観音山東の地点24では標高−14m
付近の砂礫層の上面にみられる。さらに東方の現那賀川河口の地点103、105では、−30m、−34m
となり、西から東へ次第に深くなっている(図3)。このように、火山灰層の深度分布は当時の那賀川三角州の形態断面をよく反映しており、地点59で火山灰の深度が他に比べて浅く、砂質層に挟在するのは、前述した旧那賀川の三角州頂置層の上に堆積していたためと考えられる。一方、火山灰層がどのコアからも検出されるわけでもなく、分布がある特定の地域に限られる(図6)のは、潮流の影響とみなされる。堆積当時、羽ノ浦町春日野団地や羽ノ浦町宮倉付近より北では、羽ノ浦山地東端や観音山など東西に連なる島が障壁となり、南から北向きの潮流の影響を受けにくかった。同様に中島、阿南市出来町付近の火山灰は、阿南市福村磯周辺の島が障壁となったと考えられる。この時期も引続き那賀川の流路は、岡川流域付近にあり、厚い砂礫層を堆積していた(図2中の地点39の標高−20〜−31m、および図中の地点42の標高−14〜−21m)。観音山から西北西に連なる地域や小松島市大林町付近には、砂州または砂丘とされる微高地があるが、これはこの当時の南から北向きの潮流により形成されたと思われる。その後の縄文海進高頂期を過ぎても潮流の向きは変わらず、さらにその沖合に今の小松島市坂野の砂州を形成した。縄文海進後の海退と、陸域からの埋め立てに伴い、堆積場の前進がみられた。下流域では堆積物が泥層から砂層を経て礫層へと変化し、上方粗粒化の傾向を示す。


その後那賀川の流路は、下流が羽ノ浦山地南縁から北東方向に変化し、そのとき堆積した砂礫が坂野や今津浦方面に堆積している。この時期の砂礫層は、現地表面より−5m〜−7m
Z付近(海面あるいはそれ以下)にあることが、砂礫層中からクスノキが立木状態で発掘されたことからわかる。寺戸(1990)によると、クスノキの14C年代測定結果は、那賀川町色ケ島(今津漁港)産が4580±65年前、小松島市坂野町中合産が4690±150年前となっている。 東西断面(図2)でみると、上部砂層は、下流域において三角州前置層的な堆積をし、中部泥層の上位に明瞭な岩相変化を示して連続している。一方、上流域では、上部砂層の同時異相として、扇状地性の粗粒堆積物が発達する。このように上流域ではすべての堆積物が粗粒となり、上下の岩相変化は明瞭ではない。したがって、下部礫層と区別できない。今回、辰巳地区の上部砂層より採集した貝化石の14C年代測定結果は2800〜1870年前を示した。 上部礫層堆積時には、上部砂層堆積時よりも一層埋め立てによる三角州が前進し、那賀川は流路を変えながら下流域でも砂礫層を堆積した。この上部礫層の上面には、条里型の地割跡が残されている。図3、4の断面図に示した地点の中では、地点24、49〜52などに条里型の地割跡がみられる(前述した寺戸のFig.8参考)。条里は、8世紀以降の産物と考えられている。条里型の地割跡がないところは、当時耕作に適していない後背湿地や河道、あるいは海水が通じていた潟地であろう。坂野の砂州やその南の地点12、13付近(図1)には、条里型の地割跡が見られることから、この時期には、和田島の砂しがすでに存在していたと考えられる。 最上部泥層は、下流域では、那賀川の氾濫(はんらん)蛇行により、湿地帯、沼地帯的な環境下で堆積した。上流域では那賀川は、氾濫蛇行し、河道を変遷させながら粗粒な堆積物を堆積してきた。条里が切られた所は、地点15、16、19の柱状図(図4)でみられるように、砂礫層が堆積しており、河道が通過したことが推測される。旧港があったとされる古津、今津浦付近のボーリング柱状図(図4の19、図3の50)には砂礫層がみられる。旧港はこのような、那賀川の河口を切り開きつくられていたと考えられる。
5.地下水の塩水化と地下地質の関連 那賀川平野の地下水は、簡易水道、工業用水、民家の生活用水のほか、アユ養殖やウナギ養殖にさかんに利用されている。平野部の井戸は浅井戸(10m
以下)と深井戸(20〜30m)とに大別される。沖積層の層序と地層区分を中心とした地質構造から判断すると浅井戸は不圧帯水層から、また深井戸は被圧帯水層から揚水していると考えられる。福尾ほか(1980)は、那賀川平野におけるアユ養殖とウナギ養殖による揚水量と地下水の塩水化との関連を考察している。河口付近では、ウナギ養殖の深井戸による揚水で、年をおって地下水の塩水化が拡大している。出島付近の1971〜1975年の深井戸の塩素イオン等濃度線図では、地下水の塩水化は、一様に内陸に向かって拡大しているのではない。拡大の仕方は、基底礫層上面の深度(図5)に調和的である。筆者らのボーリング資料にもとづく解析によれば、出島付近の地下水の塩水化の拡大と基底礫層上面の深度分布が調和的であること関しては、以下の可能性が考えられる。福尾ほか(1980)の被圧地下水は、筆者らの調査にもとづく層序と地層分布から判断すると、下部砂層〜基底礫層に含まれる。下部砂層と基底礫層の透水係数はほぼ同じか、礫層の方が高い状況にある。深井戸を掘る場合、基底礫層はN値が50以上と大きので、値の小さい下部砂層の方が基底礫層より掘削が容易である。埋積された谷地形であれば周囲から地下水が集まり易い。したがって、基底礫層上面が谷地形として、下部砂層の底面深度が深くなっている場所は、効率的に井戸を掘るのに適した場所といえる。しかし、一方で、出島付近は海岸に近く、しかも深層の高い被圧状況下で淡水が、汲み上げられることにより淡水より密度が大きい塩水が侵入し易くなる。このように、基底礫層上面の深度が深い谷地形の地点を中心に塩水化が拡大したと推測される。小松島市櫛渕町では、井戸堀で塩水が出てくることが知られている(寺戸、1990)が、これは前章で述べた縄文海進時の内湾形成が、それに先立つウルム氷期の旧河道による谷地形を母体として発達したことが影響していると考えられる。一種の埋積された溺れ谷とみなされる。
6.まとめ 地学班は那賀川町およびその周辺の地形と地下地質の調査を行い、以下の結果を得た。 (1)ボーリング資料にもとづき沖積層を下位より、基底礫層、下部砂層、中部泥層、上部砂層、上部礫層、最上部泥層の6層に区分した。 (2)中部泥層の泥質部と上部砂層の砂質部よりマクロ化石および微化石を検出した。中部泥層の泥質部のマクロ化石は、ぼぼ現地性であるが上部砂層の砂質部のマクロ化石の中には、他から運ばれてきた種が混じる。 (3)14C年代測定結果は、中部泥層中の貝化石は、3070±90から5580±100年前を、上部砂層中の貝化石は、2010±70から1870±80年前を示した。 (4)各層の堆積環境推定、古生物学的検討、14C年代測定結果などをもとに、那賀川平野の形成過程に関する考察を行い、ウルム海退期、縄文海進期、那賀川三角州発達期を3大要因として中心にまとめた。 (5)地下水の塩水化と地下地質の関連を考察した。出島と櫛渕では、基底礫層上面の谷地形に沿って淡水/塩水の動きがみられることを指摘した。
謝辞 本調査研究を進めるにあたり、愛媛大学工学部井内国光助教授からは地下水塩水化についての資料を供与いただき、塩水化と地下地質との関連について議論していただいた。建設省四国技術事務所からはボーリング資料の供与をいただいた。また、神崎製紙株式会社富岡工場長代理兼事務部長(当時)松村信治氏ならびに同工場施設部工作課(当時)村田道春氏には調査に対して便宜を図っていただいた。さらに、那賀川町教育委員会並びに町立図書館の方々には、地質資料の提供や研究の便宜を図っていただいた。厚くお礼を申しあげます。
文献 福尾義昭・柿沼忠男・岸 洋介・伊福 誠,1980:海岸地下水の塩水化に関する研究I.那賀川河口における被圧地下水.陸水学雑誌,vol.41,p.235-248. 井関弘太郎,1983:沖積層.
Up Earth Science
12,東京大学出版会,145p. 日下雅義,1962:那賀川下流域における平野地形の発達と開発の進展.平野の地形環境,古今書院,p.20-44. 町田 洋・新井房夫,1992:火山灰アトラス―日本列島とその周辺―.東京大学出版会,276p. 松島義章,1984:日本列島における後氷期の浅海性貝類群集.神奈川県立博物館研究報告(自然科学),no.15,p.37-109. 中尾賢一,1995:那賀川平野沖積層から産した軟体動物化石.徳島県立博物館研究報告,no.5.(投稿中). 中川衷三・須鎗和巳,1965:徳島北部海岸平野の地下地質.徳島大学学芸紀要(自然科学)vol.15,p.25-35. 小川 豊,1978:那賀川の旧河道について.建設省徳島事務所,111p. 式 正英,1964:徳島臨海地帯の微地形.都市地盤調査報告書,建設省計画局,vol.7,p.10-27. 鈴木好一・北崎梅香,1964:徳島臨海地帯の地盤.都市地盤調査報告書,建設省計画局・徳島県,vol.7,
184p. 寺戸恒夫,1990:那賀川平野の古地形の復元.
阿南高専研究紀要,no.26,p.85-109. 吉野川グループ,1991:松茂町の地形と地下地質.
郷土研究発表会紀要,no.37,p.1-21.
図版説明 図版1 阿南市辰巳町桑野川河口地下の沖積層から産した巻貝・角貝化石.すべて実物大. 1.キサゴ Umbonium
(Suchium) costatum (Kiener) 2.イボキサゴ Umbonium (Suchium) moniliferum
(Lamarck) 3.イボウミニナ Batillaria zonalis
(Bruguiere) 4.ウミニナ Batillaria mulitiformis
(Lischke) 5.ヘナタリ Cerithideopsilla cingulata
(Gmelin) 6.カニモリ Proclava kochii (Philippi) 7.ヒラフネガイ Ergaea walshii
(Reeve) 8.シドロガイ Doxander japonicum (Linnaeus) 9.ハナツメタ Glossaulax
reiniana (Dunker) 10.ツメタガイ Glossaulax didyma didyma
(Roding) 11.ツツミガイ Sinum (Ectosinum) planulatum
(Recluz) 12.ミヤコボラ Bufonaria rana (Linnaeus) 13.チリメンボラ Rapana bezoar
(Linnaeus) 14.ハナムシロ Zeuxis castus (Gould) 15.ミクリガイ Siphonalia
cassidariaeformis (Reeve) 16.コンゴウボラ Merica asperella
(Lamarck) 17.モミジボラ Inquisiter jeffreysii (Smith) 18.クリイトカケ Amaea
thielei (Boury) 19.マキギヌガイ Actaeopyramis eximmia
(Lischke) 20.ヤドツノガイ Dentalium octangulatum Donovan
図版2 阿南市辰巳町桑野川河口地下の沖積層から産した二枚貝化石.
すべて実物大. 1.ヨコヤマミミエ Striarca interplicata (Grabau et
King) 2.イタヤガイ Pecten albicans (Schroter) 3.ナミマガシワ Anomia
chinensis Philippi 4.トリガイ Fulivia mutica
(Reene) 5.バカガイ Mactra chinensis Philippi 6.チヨノハナガイ Raetellops
pulchella (Adams et Reeve) 7.ベニガイ Pharaonella siebodii
(Deshayes) 8.キヌタアゲマキ Solecurtus divaricatus
(Lischke) 9.イヨスダレ Paphia undulata (Born) 10.マツヤマワスレ Cllista
chinensis (Holten) 11.コヅツガイ(棲管)Eufistulana grandis
(Deshayes) 12.クチベニ Solidicorbula erythrodon
(Lamarck) 13.ウミタケ Barnea dilatata
(Souleyet) 14.オキナガイ Laternula anatina (Linnaeus)
図版3 阿南市辰巳町桑野川河口地下の沖積層から産した棘皮動物・甲殻類化石.
1−3は実物大. 4−9は電子顕微鏡写真.
スケールA(4,5,7−9),スケールB(6)はいずれも100μm. 棘皮動物 1.ハスノハカシパン Echinarachnius
(Ecaphechinus) mirabilis A. Agassiz カニ類 2.テナガコブシ Myra fugax
(Fabricius) 3.ジュウイチトゲコブシ Arcania undecimspinosa De
Haan 介形虫 4.Spinileberis quadriacreata
(Brady) 左殻 5.Pistocythereis bradyi (Ishizaki) 左殻 6.Trachyleberis
bisanensis(Brady) 左殻 7.Bicornucythere
bisanensis(Okubo) 右殻 8.Loxoconcha tosaensis
Ishizaki 右殻 9.Cytheromorpha acupunctata(Brady) 右殻



1)徳島大学総合科学部 2)藍住町藍住中学校 3)徳島県立博物館 4)徳島文理大学文学部 5)藍住町藍住南小学校 6)徳島市富田中学校 7)羽ノ浦町羽浦小学校 |