阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の農漁業者の衣服と、紺屋、藍作、養蚕、藍商人について

染織班(徳島染織学会)

   上田利夫1)・武市幹夫2)

1.はじめに
 染織班は、今回の調査に際し、平成4年9月より、由岐町内の、海岸部、伊座利、阿部、志和岐、農業地、西由岐、西の地、東由岐、田井、木岐の各地を訪ね、古老の方より聞取り調査をした。その中で、氏名、年齢を記載することについて了解を得られなかった方があるので、氏名、年齢の一部を省略した。

2.伊座利地区
○7月12日 山崎広一氏(96歳)の話
 藩政時代、上木頭村蝉谷から山麓に6戸移住し、塩造り、さつま芋作りをした。大正年代に90戸になり、棉作りをしたが、その内3戸位が、自家用衣料として、木綿縞、白木綿を、高織機(ばた)で織って、漁業者の「どんざ」(綿入れの長裾の着物)、外出着として刺し子した物、かつぎ襦袢(じゅばん)、腰巻にし、農業者のパッチ、シャツ、袷(あわせ)の着物に利用した。大正末期には衣類も洋式に変わった。農業者は、山肌を開いて野菜を作り、桑を植えて養蚕をした家も2戸あった。養蚕した家は、ダルマ式採糸機で絹糸を採り、絹縞を織り、外出着にした。
○7月29日 伊座利漁業組合長木床賢一氏の話
 いただきさん(行商に行く人のこと)は10名位で、他の地域から木綿糸を購入して、山野に自生する野草で染めて織り、衣料としていた。いただきさんの中には県外へ行商に行って、着物や肌着を購入して帰った人もあった。漁業者の海女(あま)は、海中に潜りあわびをとる時は、単衣(ひとえ)の白の着物だけで、大正時代になってパンツを着用するようになった。男の人は褌(ふんどし)(白)一つで海中に潜った。儀式や外出用の着物は、袷の長着と羽織であった。漁業者は他の地区から移住してきたという。

3.阿部地区
○7月12日 浜行治次氏の話
 明治時代に200戸あって、養蚕をした家は6戸、ダルマ式採糸機で絹糸を採糸した家は1戸。農家(戸数不明)では、麻や棉を作って糸にして、椿、福井、木岐、西由岐の紺屋で染めて自分の家の織機(はた)で織り、漁業者の「どんざ」、農業者の作業衣や常着にした。どんざは模様を刺繍(ししゅう)して綿入れにし、裏地は、紺屋で藍で無地に染めた物を使った(図1)。麻や棉、桑は山肌を開墾して作り、不足分は、田井、木岐、東由岐、西由岐から購入した。


○7月28日 阿部漁業協同組合長明石久氏の話
 漁業者の男の人は、海中に潜る時は褌だけで、白地や赤く染めた褌を使う人もあった。女の人は白の単衣だけで、パンツを着用するようになったのは、大正年代の終わり頃。普通の女の人は磯着、みの前だれ(図2)、腰巻で、男の人は麻の浴衣地の長着、農家の人は、厚司、半天、股引に木綿縞を使用していた。農家では自家用に織った織物で、余った物は売却した。大正末期に、絣(かすり)のパンツ、昭和年代に、ステテコ、紋付の羽織、袴、綿入れの半衣、木綿の肌着、磯着は絣を使っていた。いただきさんは100名位で絣の磯着、みの前だれの服装で各地に行商に行った。


○7月27日 松村久樹氏(70歳)の話
 昭和10年(1935)頃まで養蚕をしていた方は、成清実蔵:桑園3反、松村敏夫:桑園3反、山中幾太郎:桑園3反、角地浅吉:桑園2反。八毛友蔵、新開岩太郎は大正年代に止めたので詳細不明。また養蚕専従者(かっこ内は世帯主)と繭の収穫量は、山中ハン(幾太郎)5〜7貫、松村ハル(敏夫)5〜7貫、成清隆子(実蔵)2〜3貫、角地浅吉(同)2〜3貫、左利市蔵(同)2〜3貫で、左利氏以外は2〜3年で養蚕を止めた。桑園は、山肌を開いて作った。「はたおり」の専業者は無く、多くの家は自家用に、主に木綿縞、白木綿、絹縞を織っていたが、自家用にした残りの反物は、売却した。

4.志和岐地区
○7月29日 古老(72歳)の話
 漁業者が着用している「どんざ」は、南洋のメラネシヤ、ポリネシヤの人が着用している着物で、志和岐に漂着して伝えたという。漁業者の衣類として、厚司(あつし)、みの前だれ(一つの前だれで三つに分かれている)、腰巻、襦袢、男の人は褌、女の人は薄い生地の肌着の磯着(図3)、夏は麻織物を使っていた。


○8月3日 河西収氏(62歳)の話
 漁師の着物は、南洋の外洋民族の服装が、日本の海岸地方に漁師の衣服として伝わった。
○8月3日 坂本良一氏(55歳)の話
 坂本家は屋号を綿屋といい、昔綿打屋をしたり、自家用の「はたおり」や、ダルマ式で絹糸を採糸していた。衣類として、磯襦袢、腰巻(これは後にパンツに変わった)、男の人は6尺の赤色の褌、筒袖の長着、丹前、漁師は「どんざ」、半天で、ねんねこ、自家製のわらぞうり(作業中は足中(あしなか))を使った。山肌を開いて、棉作りをしたり、桑を植えて養蚕をしていたが、戸数、繭の収量は不明。
○7月31日 古老(73歳)の話
 伊座利、阿部、志和岐ではあわび漁が多く、海中での作業が主体で、海中での体温の発散を防ぐために藍染した衣服を着ていた人もあったようだ。白木綿の作業衣は、海中の作業が終わると真水で良く水洗いして、塩分を除いていた。海水の塩分は、植物繊維である木綿を弱くさせる。これを防ぐために藍染した布を用いた。また海中でけがをした時に、藍には殺菌力があるので、傷口が化膿しないようにするからでもある。藍染した布は、夏は涼しく、冬は暖かい。昔の人は理屈が分からなくても、生活の知恵から自然に会得した結果で、現在の人は後から理屈をつけて、このような理由からと説明している。

5.東由岐由宇地区
○7月31日 水口善三郎氏(95歳)の話
 最近まで、田の畦(あぜ)に桑を植えて養蚕をしていた家は5戸、山肌を開いて、棉や麻を作っていた家は2戸。各家では1反位の面積で、棉や麻は糸にして西由岐の染崎紺屋で染め、木綿縞に織り、自家用の衣類にしたり、余分は売却していた。また繭から絹糸を採って染め、織って外出着にした。棉の余った分も売却した。衣類として、木綿の縞柄や白木綿は、農作業衣や、常着の着物、襦袢、腰巻、手甲、脚袢、肌着、股引、シャツに使った。

6.東由岐地区
○8月1日 別宮亀六氏(87歳)の話
 200戸が「はたおり」をして、「てっぽう」(筒袖の着物)、単衣の着物、麻、紬の着物や足袋にしていた。養蚕は20戸位で、山を開いて桑や棉を植え、1戸当たり2〜3反の桑園を持っていた。

7.西由岐地区
○8月1日 小林丈夫氏(86歳)の話
 「はたおり」をしていた家は8戸。主に木綿縞と白木綿を自家用にして、一部売却。畠の畦に桑を植えて養蚕をした家は2戸。衣類は、漁師が刺繍入りの「どんざ」、襦袢、腰巻、みの前だれで、農家は股引、半天、厚司を使い、外出着は、羽織、着物、女の人は留袖であった。藍作りは、木岐と田井に多かった。紺屋は松原浅吉、染崎才一で、大漁旗や糸染をしていた。
○8月1日 西の地 四宮利夫氏(66歳)の話
 100戸の中で、20戸が「はたおり」をして、木綿縞や絹縞を織っていた。1戸当たり5〜6反の耕地を持ち、その中の3戸位が養蚕をしていた。養蚕家は山肌を開墾して桑を栽培していた。
○8月1日 西の地 三間氏(81歳)の話
 収穫した繭の中の等外品は、ダルマ式採糸機で絹糸を採り、自家用の絹の着物に織って使った。白生地は、紺屋で染めて、半天、作業衣、常着の着物とし、絹織物は留袖や丹前にした。藍で染めた布は、マムシの防御や衣類の防虫用に使われていた。

8.田井地区
○8月4日 木田清一郎氏(79歳)の話
 田井の戸数は43戸、うち10戸が「はたおり」をして、木綿縞、白木綿、絹縞を織り、中に絣を織っていた家もあった。自家用衣料として、股引、シャツ、でんちゅう、半天、丹前、手甲、脚袢、女の人の半天、絹の着物にしていた。「はたおり」は大正の終わりに止めた。山を開いて棉作りをしていた戸数、面積は聞いているが、覚えていない。麻作りはかなり多く栽培されていたと聞いているが、詳細不明。藍染した布はマムシの予防に用いられていた。(昭和30年[1955]にお邪魔した時は、清一郎氏のお父さんに、藍作のこと等教えていただいた。今回の調査では、藍作りや藍こなしの話を聞くことはできなかった)

9.木岐地区
○8月9日 徳竹 森本堅治氏(63歳)の話
 昭和53年(1978)より平成4年(1992)秋まで、桑園5反で養蚕をしていた。蚕具も近代化されて、昔のような養蚕は行っていない(図4、5)。屑繭はダルマ式採糸機で糸にし、織物にしていた。畑も2町歩位あり、桑園にしていた家もかなりあったので、繭の収量も多かった。


○8月9日 徳竹 悦田慶一氏(65歳)の話
 徳竹では7戸が養蚕や「はたおり」をしていた。屑繭から真綿を作り、糸に紡いで紬の着物にしていた。山では棉を作り、木綿に紡いで紺屋で染め、織り上げて着物にしたり(図6、7)、木綿の白生地を織って肌着にし、余分な綿は売却した。第二次大戦中桑から繊維を採り、着物地を織っていた。昭和3年(1928)頃より、昭和55年(1980)頃まで養蚕をしていた。木岐では、昭和8年(1933)に、2町5反の桑園で500貫の繭の収量があった。


○8月9日 木岐浦 森本嘉文氏(63歳)の話
 木岐には養蚕家が21戸あって、養蚕は文化9年(1812)頃より始められたと伝えている。一般には昭和の初めより行っていた。山麓には葉が広卵形の桑の一種「青市(あおいち)」が自生し、繊維が強いから、糸に紡いで、染めて着物地に織っていた。木岐の賀家ヨシノさんは、養蚕の指導員として町内の養蚕家を巡回し、指導をしていた。家内工業の一環として、ダルマ式採糸機で絹糸を採り、1戸当たり年間3000円の収入を挙げていた。生産された繭は、旧福井村鉦打の繭の集荷所に運んで、現金に換えていた。桑は「梠桑(ろそう)」という品種であった。昭和3年(1928)の徳島県知事官房統計係の繭の収穫表に、三岐田町446貫、阿部村47貫の記録がある。(昭和53年以後の由岐町全体の収繭量は表1の通り)

10.紺屋(青屋1))について
○8月4日 西由岐 竹林六郎氏(78歳)の話
 西の地で伊丹恒男、泉由幸の両家が青屋をしていたが、詳細不明。昭和30年(1955)の阿波藍研究会の調査資料では、木岐の小坂徳太郎(7代目)は、木岐浦の藍商人浜名萬喜太郎から■を、北方の藍商人から樽詰めの沈澱藍を、炭焼きをしている家から木灰やタチバナを焼いた灰を、商店から消石灰を、農家からさつま芋を、購入して、藍がめに入れて藍染め液を作り、大漁旗、ハッピ、幕、糸を染めていた、と記録されている。
○7月29日 昔の染め物屋を訪問して聞いた話など
 木岐の小坂利夫氏夫人忠枝さん(75歳)の話によると、利夫氏(8代目)は他界し、昭和年代まで染め物屋をしていたと聞いているが、藍がめが何本据えられてあったか知らない。昔の藍染場も建て替えられて、当時の姿はなかった。
 西由岐の松原浅吉氏の子である善種氏(86歳)を由岐病院の入院室に訪ねての話では、■は阿波郡柿島村知恵島の吉岡孫三郎氏から購入し、藍がめ8本で、糸染めを主にして昭和40年(1965)頃まで染めていた。(昭和30年(1955)頃、浅吉氏を訪問した時の家の姿は無かった)

1)青屋は藍染専門、紺屋は全般の染物屋をいう。

 西の地の染崎才一氏の子登氏夫人シメ子さん(69歳)の話では、登氏は他界したが、登氏が健在中、幕、幟、糸を染めていた。藍がめは16本程と聞いているが、詳細は忘れた。
昭和の初めに仕事を止めた。(昭和30年(1955)頃にお邪魔した時の藍染場は今は無く、道具もない。木灰は、伊座利、阿部、西由岐の山中に自生していたタチバナを焼いた灰が最高とされているということであった)

11.藍商人について
 名西郡石井町高原の上田忠良氏所蔵の藍商人番付表では、
文化9年(1812)2月11日発行「阿州南北名家持丸角力見立鏡」に 木岐浦 浜名喜四郎
明治15年(1882)9月12日発行「藍商人繁栄見立鏡」に      木岐 浜名萬喜太郎
明治25年(1892)2月26日発行「徳島市街南北繁栄見立鏡」に   木岐 浜名萬喜太郎という記録がある。
浜名家は、西由岐の小林丈夫氏(86歳)の話では、木岐、田井、西由岐、東由岐の藍作農家から葉藍を買い上げて■に加工し、回船問屋でもあったので、自家用船で木岐浦から浪速や国外に積み出していた。昭和30年(1955)頃にお邪魔した時は、寝床もあったが、今回は無くなっていた。また大地主で、由岐町内および那賀郡内にも土地を保有していて、藍作りをさせていたともいわれている。

12.おわりに
 今回、由岐町の紺屋では、どんな染料、薬品を、どのような分量で、どういう方法で使って、染めていたのか、また、どんな布や糸が染められていたのか、棉作り、麻作り、藍作戸数、藍作面積、藍の収穫量・価格等について調査するのが目的であったが、ご存知の方や、資料がきわめて少なかった。由岐町教育委員会真南氏のご協力に感謝するとともに、数々の話を聞かせていただいた各地の古老の方々に対し、厚くお礼を申し上げる。

1)石井町石井 2)県立名西高校


徳島県立図書館