阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の峠道

民俗班(徳島民俗学会)  橘禎男1)

1 はじめに
 南東を太平洋に面し、海部山地が海岸まで迫っている由岐町は、かつては交通不便な僻遠の地で、他町村へ行くには海上交通に頼るか、歩いて山越えをしなければならなかった。それら山越えの道は、人や物資の交流が盛んになるにつれて整備され、現在県道として活用されているものもあるが、放置されたまま荒れるにまかせている古道も多い。
 今回は、由岐町の峠道とそこに残る石造物の調査をした(図2)。なお調査は、平成5年7月27、28日と8月22日に実施した。

2 土佐街道と一里松
 1)土佐街道と由岐町
 藩政期の初め、藩内の交通路が五街道として整備されたが、その一つが徳島城を起点として土佐との県境まで南下する土佐街道である。街道の要所には、およそ50町ごとに一里松が植えられていた。
 「阿波国往環道法記」にはその所在地と里程が示されており、由岐町内で該当するのは「木岐」である(図1)。そして北東へ「41町1間」の里程で「小野」(阿南市福井町)、南西へは「39町6間」で「北河内田井」(日和佐町北河内)である。酒井順蔵の「阿波国漫遊記」に一里塚場所として出ている「躄越木岐」も、上記と同じ場所のことであろう。

 2)石造物と一里松跡
 木岐の一里松は、苫越(とまごえ)という田井の浜の南に見える峠にあった。「峠名の由来は、昔地震による大津波のとき、苫がこの峠まで打ち上げられたところからつけられたと聞いています。また、冬になると田井の浜沖にボラがやってくるので、ボラを発見したら漁師に大声で知らせた場所から『ボラ見』ともいっていました」と、案内をしてくれた木岐の湊菊之助氏(大正3年生)が教えてくれた。峠一帯は大変さびしいところで、通行人が狸にいたずらされたという伝説もいくつか残っている。
 現在一里松跡には、「寛政十二申年三月二十一日 

従是薬王寺二里 本願主豫州 徳右ヱ門 施主 那賀郡答島郷 新浜善蔵」の銘のある高さ117cm の道標が立っている(図3)。石造物の保存状態はよいが、県道から道標までの道が消えてわかりにくい。

3 土佐街道の峠道
 1)山座峠
 本峠は日和佐町との境にあり、県道日和佐小野線が通る。峠の道路より2mほど上に、3体の石仏がある(図4)。右側が不動尊、他の2体は地蔵尊で、いずれも明治の年号が刻まれているが、左端のものだけ外囲いがあり、そこに「天保十一年十月」の銘がある。

 2)松坂峠
 田井の浜海水浴場から町道を700m 北へ行くと、「土佐街道上り口」の標柱がある。しかし、草木が一面に繁り、上り口はわからない。標柱から北東500m の位置にある松坂峠に行くには、町道をさらに200m 進み、道が左に曲る所から右手に登るか、山の向う側の西の地大谷の三間繁氏旧宅前から登るかしなければならない。
 峠には、三間氏の先祖が明治11年まで開いていた茶屋(松坂屋)跡がある。三間繁氏(73才)が祖父の繁太郎より聞いた話では、茶屋でトコロテンを売っていて、それを運ぶためのもろぶたが数年前まで残っていたという。「昭和10年頃には峠を通行する人がなくなり、茶屋跡は芋や桑畑になりました」と話してくれた。
 由岐町へバスが乗り入れたのは大正12年。国鉄牟岐線は昭和12年に福井まで、14年に日和佐まで開通し、これを境に由岐町内の交通事情は大きく変わった。
 この峠で特筆すべきは、多数の石造物で、それらを列挙すると次の通り。
○遍路道しるべ
 大師仏を浮彫りにした像高59cm の舟形で、「寛延四未年五月廿一日 右遍んろ道 大願主 西由岐村 住右ヱ門造之」の銘がある(図5)。石工の名も刻まれているが、判読し難い。


 同種のものが木岐の海岸の山座峠上り口にもあるが、本峠の方が山中のためか傷みが少ない。この道しるべや一里松跡の道標は、本街道が日和佐の薬王寺と新野の平等寺を結ぶへんろ道であったことを証していよう。
○地蔵尊
 首が欠けているが、左足を下ろした像高46cm の座像で、台座の正面に「奉施日本廻国千人 奉供養光明真言百万遍」の銘がある(図6)。右側に「寛政五巳年七月二四日」、左側には施主の名が刻まれており、廻国塔と光明真言を兼ねたものである。庵の跡に転がっていたが、元はその中にまつられていたのであろう。

○金比羅道しるべ
 高さ75cm の整った円柱形の自然石に、「是ヨリ讃州金毘羅エ三十里 源治良 戌年男 直左エ門」と刻まれている(図7)。峠の茶屋近くに立てられていたが、現在は三間繁氏宅にある。これによりこの街道が金比羅参拝にも利用されていたことがわかった。

○大峯山先達碑
 高さ42cm の四角柱の側面に「大峯山先達 阿州海部郡西由岐村」、反対面に「宝暦十二午七月」の銘がある(図8)。両面の間が正面で何らかの記銘があったと思われるが、面全体が■落して失われているため不明である。上記の道しるべと並んで立てられていたが、現在西の地の三間勝美氏宅で保管している。
 なお、田井の川尻地区にある地蔵尊にも、「大峯山上先達 阿州海部郡西由岐村 甚右衛門」とあることから、当地方には大峯山を修業道場とする修験者がいたことがわかる。

○遭難供養碑
 上記遍路道しるべの横に「文政三庚辰年六月廿四日 為溺死亡霊仏果」と刻んだ高さ106cm、幅55cm の碑がある。裏面に「大坂 鴻池屋利兵衛 同備前ヤ嘉兵衛 同播磨ヤ徳蔵 同玉屋利八 西宮當舎ヤ伊兵衛 紀州□和泉ヤ伝蔵」と、6人の屋号と名前があるところから、由岐沖で遭難死した商人を供養した碑であると思われる。
 藩政時代には海上交通が盛んになり、物資の流通が多くなると、それにつれて海難事故も多発したと、條半吾氏の「海難」(阿波の交通上巻)の中に書かれている。昔は、松坂峠から由岐の沖がよく見えたので、交通の要所であったこの地に碑を立てたのであろう。
 茶屋跡からさらに上への道(図9)を登ると、分岐があり、それを左へ行くと山を越えて日和佐町大戸に通ずる。このルートは大戸と由岐を結ぶ生活道で、大戸からは茶、しきみ、薪などを運んできて、由岐で日用雑貨を買って帰った。


 また、漁船の底を焼くために使用するシダが大戸から運ばれてきた道でもある。このように、峠を通じて漁村と山村の交流が行われていたことを、三間繁氏が話してくれた。
 なお漁業史研究家の條半吾氏によれば、船の底を焼くのは、付着している貝やフナクイムシを殺して、船を長持ちさせるとともに操舵しやすくするためで、この作業のことを「船をタデル」という、と教えてくれた。
 分岐点より右へ登ると、尾根を越えて、阿南市貝谷を経て小野に出る。これが昔の土佐街道で、遍路道でもあったことを物語るように、貝谷集落の手前には、大師像をまつった小堂がある。松坂峠から貝谷までの道は今も残っているが、阿南市側は草木が繁っていて、通行は不可能である。
 なお、三岐田町史によれば、藩政期に幕府の巡見使がこの街道を通り、松坂峠で休んだという記録があるという。

4 その他の峠道
 1)由岐坂峠
 松坂峠とともに古くから利用されていた道で、県道日和佐小野線が通る。峠には那賀郡と海部郡の境を示す郡界標が立っている。
 2)日尻峠
 木岐と日和佐町馬地を結ぶ峠で、千丁越(せんじょごえ)ともいう。県道赤松由岐線が通り、「享和二年 馬地千丁」の銘がある地蔵尊が残っている。
 3)阿部坂
 阿部から北に登って、明神山(標高411.6m)の西から阿南市福井に下る山道で、阿部の人々の生活道であった。今は全く使われておらず、尾根近くの道は消えている。
 4)伊座利峠
 伊座利と阿南市働々を結ぶ峠道で、県道由岐大西線が通る。峠には3体の地蔵尊がまつられている(図10)。

 5)東のたお
 JR木岐駅の西にある、日尻集落から北に見える峠で、大戸から木岐へ薪や炭俵などを運んできた道であると、木岐の湊菊之助氏が話してくれた。

5 古道の保存と活用
 土佐街道を中心に、由岐町内の古道を調査してわかったことは、石造物の豊富なことで、それが集中しているのが松坂峠である。この峠の保存が今後の課題である。
 「土佐街道上り口」の標柱がある田井の浜の町道から貝谷までの道は、現在廃道となっているが、整備をして復活すれば、ハイキングに好適の道となり、歩きながら峠道の歴史を体験することができるだろう。それは子供たちにとって、貴重なふるさと学習の場となるのではないだろうか。
 峠道を上り下りする昔の旅は、苦労や危険もあったが、峠から見る景色や浜辺で地元民から受ける接待に、旅人の心はなごんだに違いない。本調査でも由岐町の美しい景観と町内の人々の温かい親切が特に印象に残った。
 終わりに、調査に同行して下さり、多くのご教示を賜りました地元由岐町の湊菊之助氏し三間繁氏に、深く感謝いたします。
 参考文献
阿波国往還道法記(呉郷文庫)
阿波国漫遊記 酒井順蔵(徳島史学会1972)
三岐田町史(大正14年)
由岐町史(昭和60年)
日和佐町史(昭和59年)
阿波の交通(上下 平成2、3年)
植野善一 海部郡由岐町日和佐町牟岐町の交通 地域研究第1集(鳴門教育大学1985)


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