阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐の年令階梯制 −若い衆の足跡−

史学班(徳島史学会)  小原亨

1.はじめに
 由岐町は、明治30年(1897)に三岐田と阿部の合併で誕生した海に生きる町である。海岸線が東西に長く、海に迫る海部山系に、伊座利・阿部・志和岐・由岐・木岐の部落がはいつくように東から西へと点在している。海に支えられ、海と共に生きた陸の孤島、海路が唯一の文化経済の動脈であった。
 こうした風土から由岐町には、個性豊かな歴史や慣習がはぐくまれ、漁村特有の生活舞台が残されてきた。海に生きる年令集団のひとつとして大きな役割を果たしてきた「若中組」(年令階梯制)が組織されていた。
 由岐の若者組は、近世・近代を通じて海の男としてのマナーを身につける教育の場であった。船板1枚に生きる漁師の間では「漁師ばら」という言葉が今も残っている。団結と相互扶助による強いきずなが海に生きる者に要請されていた。若者たちは、組の定目(掟おきて)を順守し、強い組織のなかで村の一員としての役割を担ってきたのである。
 阿部の若中組を中心として、由岐の若い衆の活動の跡をとらえてみたい。

2.若い衆組の組織と活動
(1)呼称と年令
 阿部をはじめとする由岐町の各部落には、それぞれ若い衆組の組織があった。若い衆組の呼称には、「若中」「若連」「若衆」が使われ、加入している男子を若い衆と呼んだ。
 祭礼に着用する「ハッピ」や神社の玉垣に、若中・若連の名があり、当時の若い衆組の名残がしのばれる。
 阿部の宮内神社には、阿部東若中・西若中より「猩々緋幟」が明治10年(1877)に奉納されている(図1)。その幟入れ箱に「奉納氏神猩々緋幟西若中、価壱百円以求若衆頭安□□……」と記されている(図2)。また、東由岐の山地久一氏の所蔵する「什器(じゅうき)」の箱の表に「大正七年七月二十五日備山地若連中楠本豊太郎・橋本嘉蔵……」と楠本豊太郎他27人の名が記されている(図3、4)。県漁業界の代表でありかつ県議会議長を務めた森口幸夫の名も見えている。若い衆組(若連中)へ加入、脱会する年令は、部落の生活環境や村の慣習によって違いがみられるが、大体、14、5〜24、5才の独身者で、結婚すれば脱退するというのが普通であった。
 ただし、阿部の場合は、結婚しても16〜33才の間は若い衆として若中組に属していた。このように、阿部の若中組が他の部落の若い衆組(若連)に比べて年限の長いこと、結婚してもなお組の一員として活動したということは、阿部の地域性と社会的条件が大きく影響している。(昭和40年8月聞取り)
(2)阿部の若中組
 阿部部落は、200余戸、953人(昭和40年調査)の小漁村であり、漁業に生活すべてを託していたが、肝心なことは、港に恵まれず、船の管理は漁民にとって最大の関心事であった。台風や海が荒れた時の「船あげ」の作業には大変な重労働を強いられた。
 波の荒れ模様の程度によって、船を浜のどの位置まで引きあげ波や風から船を守るか、大へんな役割があった。この船あげは、一年間に何十回と繰り返す作業であり、かつ力のいる仕事で、敏速を旨としたため、年寄や女にとっては至難な作業であった。
 この船あげの役目が若中組の重要な任務であった。しかし、小漁村のこととて若者の絶対数が少ないため、結婚後も33才までは、若中組に残るという特殊な組織が生まれた。要は、海に生きる村の宿命から若中組に船あげの仕事を委託、また若中組もその任を引き受け、村の防波堤と自負していたのである。村にとって大切な、船あげのほかに、村祭り・水難救助・消防等も若中組の権限として与えられ、村の信頼は極めて高かった。明治初年に、阿部村が港の防波堤築造を計画して村議会にはかった時、「阿部村には五十人が港である。防波堤の築造の必要はない」と議会で否決されたことを、当時の村助役松村熊松氏(久樹氏の祖父)が語っている。若中組が、如何に村において絶対的な信頼を集めていたかが推察できる。
 船あげには、船底に樫の木の桟をレールの様に2本とりつけ、砂浜に枕木を敷いて人力で引きあげる。枕木のことを「すら」と呼ぶ。「歩き」と呼ぶ船番が浜の高台で四六時中、浜全体の見張りにあたり、必要時に船上げの「デアリヨー」の通報を村中に出した。
 木岐・志和岐・由岐の若中(若連中)も、阿部の船あげほどではないが、台風や海の荒れた時には、港をもたなかった関係から、由岐の「小池川の船溜」へ船を回送する大役を担当していた。

3.若中組のしくみ
 村に在住する若者は、原則として全員、若中組(若連)に入会する習わしとなっていた。組員の一人として参加できないことは、若者にとって不名誉なことと考えられていた。すなわちち若中組の一員となることによって、村の住人としての資格と権限を持つことができたのである。
 阿部の若中組では、若中組の初総会(9月21日より10日間の宮内神社の祭礼準備を兼ねる)において、新入者の入会式が行われて、正式に若中組の一人として認められた。
 入会に当たっては、村の有力者が新入者を連れて、若中頭に入会の依頼をする。許可願いのため、必ず酒1升を若中組に納めるしくみとなっていた。男子34才がくると、若中の資格を失い、組を離れるが、その該当者に対し、新暦の9月下旬に「戎講」を開き、送別会を催すならわしとなっていた。(昭和40、平成5年聞取り)


 上記のように、入会後2年間小若衆をつとめて後、部屋住の階層に入り、ここで8年間務めて、最後の階層である五十人に入り8年間勤務するしくみで、通算18年間という長い若中の期間であった。この三つの階層には、それぞれ厳しい掟が定められていた。
 小若衆は若中組の見習期間で、この2年間に若中の一員としての仕事の要領、態度などを身につけてしまうわけで、役目や仕事もいちばん苦しかった。部屋住や五十人の指示に従い、違反することは許されなかった。部屋住は、若中組の実質的な推進母体で、行事や仕事の大役を担った。この部屋住のなかから二人の部屋住頭が選挙でえらばれ、若中頭の指示のもと、25才以下の若い衆の指導にあたった。五十人は、組における顧問的な立場で、部屋住以下の若い衆とは仕事権限のうえでも格段の差があった。規約に違反した場合、部屋住以下には厳しい罰則があったが、五十人は原則として罰則は受けないしくみになっていた。
 明治大正期の若中の一人であった蝶々利之氏の話によると、小若衆、部屋住の連中は「早く敷居の上(かみ)に座れるようになったらよい」という言葉を盛んに口にしたという。これは会合の場合、座る位置が五十人の座と部屋住、小若衆の座は敷居の上(かみ)・下(しも)で区別されていたからである。五十人の階層に入ることが若い衆の強い願望であった。
 船あげ、祭礼をみても、小若衆・部屋住・五十人の仕事や役割がきちんと定められていた。
(1)船あげ
 小若衆は「すら」の運搬役で、船の操作はできなかった。部屋住、五十人は船の引きあげ役に当たった。
(2)祭礼(9月21日)
 小若衆は、御輿の台持ち、酒肴の準備、接待等雑用、部屋住はダンズリを引く、五十人は本方(御輿の道案内)と御輿かつぎを役としている。
 松村敏夫氏の話(昭40年集録)によると、明治40年頃の阿部西若中組の人数は、小若衆が6〜7人、部屋住が30人、五十人が24〜25人で組織されていた。東若中組も同様な人数構成であった。すなわち阿部の若中組(東、西)は、おおよそ60人程度の集団であった。
 他町村の若い衆組の多くは、年中行事(祭礼)や若い衆の共同事業を中心とした娯楽的性格をもつ集団で、組織も漠然としていた。これに対し、阿部の若中組は村の自治、行政のうえに大きな分野をしめる消防・海難救助・厚生といった仕事とかかわり、組織、活動とも充実していた。私の調査した県下における年令階梯制のなかでは、最も組織化されたもののひとつである。

4.若中組の規約・統制
 阿部の若中組は、年2回の定期総会(1月2日、9月の祭礼期)と月1回の臨時会によって運営された。総会では、1か年の会計決算、予算、行事の経過報告と計画などの検討が行われた。臨時会では、組の当面する諸問題や掟定目違反者の罰則(組はぶき)を決めた。
(1)若中組の掟定目
 一.会合には必ず出席のこと。
 一.目上にたいし礼儀を正しくすること。
 一.道路を「とえ」て歩いてはならぬ。
 一.船あげに遅れてはならぬ。
 一.店での入食(いりぐい)は絶対してはならぬ。
 一.山や畑を荒らしてはならぬ。
 掟定目からみてもわかるように、村の信頼と要望にこたえるべく、正しい節度、行動をとることを強調している。この掟定目に違反した場合は、総会・臨時会の決議において、若者頭より「組はぶき」(除名)が言い渡される。除名が決定すると、若者頭は小若衆に命じて「今度の総会で○○○がはぶかれたので、よせつけん(交際しない)ようにしてくれ」と村中に触れをまわす、という厳しいものであった。小若衆にとって、この「ふれ」の仕事が一番いやであったという。
 若中組から除名されるということは、村の生活ができないことであり、特に陸の孤島であった阿部では、致命的な処置であった。このため除名された者は、村の元老や若中宿の主人を仲介人として、酒1升を携えて「組はぶき」の取りさげを行ったものである。蝶々ウノ氏は、若中組の権限は強く、女若中でも非協力的なことや、意にそわないことがあった場合は、若中組のなかに連れ出され、一夜のうちに「コウカケ」(わらじ)50足を作らされた、と語っている。(昭和40年聞取収録)
(2)船あげの掟定目
 掟定目にある「船あげ」に遅れた場合は特に厳しかった。天候が狂い、海が荒れ始めると、港の番屋に「歩き」(浜番)がいて「船あげ」の要・不要を判断し、必要の場合は部落中に「デアリヨー」といって船あげの指令を触れて回る。この合図のもと、東・西若中組は、それぞれ港に出向いて、東部落の船は浜の東側へ、西部落の船は浜の西側へそれぞれ引きあげた。
 砂浜の漁港である関係から、避難は浜へ引きあげるより手段がなかった。この船あげの敏速のいかんが船の命を左右したわけで、若中組の責任もまた大きかった。
 この場合、船3杯を引きあげ、4杯目の引きあげにかかるまでに浜に到着できなかった若い衆は、若中組の規約にもとづいて「組はぶき」が行われた。この規約は、小若衆・部屋住が対象とされ、五十人になると、船5杯引きあげるまでに浜に集まればよいとされていた。
 特に夜間に「デアリヨー」でもかかることなら大変であった。為に、小若衆・部屋住の若い衆は、若中宿に泊まって浜番の「デアリヨー」に備えていた。
 このように掟定目が固く守られ、若中組の団結も強く、住民から絶大な信頼をもって迎えられていたのである。

5.若中の行事・活動
 「船あげ」のほか、次のような行事・活動が行われていた。なかでも宮内神社の秋祭りは、若中組の最大の楽しい行事として取組んだという。
(1)道普請
 毎年の定期行事のひとつで、10月1日東・西若中組共同で出役を行い、道路への土入れ、破損個所の修理、排水路の整備などを行った。
(2)死者の葬送
 他村では、死者が出た場合、その死者の属する講組が飛脚・葬■作り・穴掘り・野辺の送り・野辺じまいをするのが慣習であったが、阿部の場合は、講組というのはなく、死者が出た場合はすべての役を若中組が行ったわけで、大切な活動のひとつとされていた。
(3)新船出初式
 阿部では、新船出初式が行われていた。新しく造られた船に幟、旗で盛装をこらし、1月2日早朝、日の出の方向に約1時間航行する行事で、若中組の責任のもとで行われた。船主は、酒、肴を贈ってその謝礼とした。新船の初航海を意気ある若い衆によって操られることにより、今後の航海の幸せをねがう船主の対応である。
(4)秋祭り
 宮内神社の秋祭りは、10日間という長い祭り(だらだら祭と呼んだ)であった。祭りは村の行事として行われ、それを執行するのは当屋である(当屋は四つあり、4年に1回司祭する)。この当屋において祭礼のすべてを決定するが、一切の運営は若中組にまかせた。いわば若中組が執行機関の立場にたっていたのである。
 9月21日に御輿がお宮を出ると、10日間は「おたび(御旅)」におられ、御輿が宮に帰らぬ限り祭りが続くわけで、この長い祭りの世話は大変なものであった。
 若中組は、祭礼の役割・任務等の段取りを決めるため、祭りが近づくと度々臨時会をひらいて協議を重ねたという。ただ、前述の通り小若衆・部屋住・五十人の階層によって祭礼の役割は定められていた。祭礼の費用については、祭りの終了後、各戸に割当て徴収したという。
 大正6年以前、同和部落出身の若い衆は、祭礼行事に参加が許されないという差別があった。大正6年に、時の若中頭であった松村利夫氏の尽力により、ともに祭礼行事に参加できるようになった。松村氏の英断であり、氏は偉大な差別解消(同和教育)への先駆者であったといえる。
 この祭礼期間中に、阿部西谷の奥にある山の神祭(別名娘祭りという)がある。この祭りは、娘若中によって行われ、山の神までの道路の整備を行い、山の神広場で歌や踊りが催された。この山の神祭りは女若中にとって最大の行事であった。女若中組の名はあっても、実質的には男若中組に従属していた状態であった。

6.若中宿
 若い衆宿ともいう。東・西若中組がそれぞれ一軒ずつ持っていた。ここに集まる若い衆は、小若衆・部屋住のもので、彼らは自家より布団を持ち込み宿をとり、朝早く家に帰ったという。宿に集まった若い衆は、その日の仕事話やよもやま話に花を咲かせるわけで、娯楽のない村では憩いの場であり、社会人としての所作を得る場でもあった。
 嫁取りも、この宿で行われたという。阿部には「嫁かつぎ」という言葉が残っている。若い衆のなかで、欲しい娘ができても娘の父母などの反対でうまく事態が進まない者がいる時などは、同輩が協力して嫁の家にはいり込み、娘を若中宿へかつぎ込み、親の承諾があるまで泊めておいたという。娘の両親も若中組に憎まれることをきらい、若中宿の主人のとりなしを得て結婚を承諾する、といった慣行が明治の頃まであった。
 特に、小若衆や部屋住がここを一年中の寝起きの場としたのは、夜に行われる「船あげ」に備え、遅れをとって「組はぶき」されることを非常に恐れたためでもあった。

7.若中組の経費
 若中組の経費は、組に所属する若い衆の協同労役による収益でまかなわれた。最も大きな収入源は、「オシアゲ」と「流木の保管」であった。
(1)オシアゲ
 オシアゲは、正月、祭礼といった村休み(漁を休む)期間を利用して、漁師から船や漁具を借りて若中総出で出漁し、漁獲した収益を運営費にあてるしくみである。
 このオシアゲのためには、村の漁師たちは喜んで船や漁具を貸与したという。特に、あわび・さざえなどの貝類の採捕は大きな財源となっていた。
(2)流木の保管
 毎年の台風による那賀川の大増水は、那賀川上流で伐採された大量の杉・桧の用材を海上に流出させ、その材木は、沿岸流の関係から蒲生田・阿部の海岸に打ち上げられた。
 流木の持ち主は、関係の村々に流木回収の委託をする方法をとっていた。
 阿部では、流木の収集と保管の仕事が若中組にまかされ、その収入が大きな財源となっていた。大正初年の阿部沿岸に打ち上げられた木材は、1万才ほどであった。この流木の保管料(止メ賃)は、1才3厘程度で、総金額にして30円ほどであった。当時(大正2〜6年平均)の米1升が約17銭であったから、30円の収入は若中組にとって最大のものであった。この流木の回収に、若中組以外の村人は絶対に手をつけなかったという。
(3)山林経営
 阿部村大字大井の山林6反が、若中組の所有として管理されてきた。この山林よりあがる収益は、若中組の運営費にあてられた。
 これら以外に若中組員の相互扶助として、ブリのさし網・ぼら網などがあって、15才以上の若い衆は1人前のわけまえが受け取れたが、これらも若中組の運営費にあてられた。

8.おわりに
 以上の報告は、昭和40年文部省科学研究助成の指定を受けての調査と平成5年阿波学会の学術調査による結果を取りまとめたものである。この2回の調査に当たり、次の方々にご協力いただいた。
 昭和40年8月調査 松村利夫・蝶々利之・蝶々ウノ・今津ルイ各氏(いずれも阿部在住) 平成5年7月27〜28日調査 谷沢円次・筋野始・水口吉夫(以上由岐在住)・湊善五郎(木岐)・松村久樹(阿部)・真南卓哉(由岐町教育委員会)各氏
 なお、紙数の関係上、由岐・木岐・志和岐の調査結果、および阿部の女若中組の調査結果を省略した。


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