阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第40号

近世木岐浦史料と地先専用漁業権

史学班(徳島史学会)   條半吾

 蜂須賀氏が阿波へ入国し漁民と関係が生じたのは、秀吉の朝鮮出兵による加子の徴集からといえる。その後寛永19年(1642)からは魚猟口銀を召し上げることとなり、漁師が取ってきた魚の販売に対し口銀が徴収されることとなったが、木岐にもその役人がいたらしく、延宝4年(1676)の木岐の口銀は4貫830匁という記録がある(1)。
 こうした魚に対する口銀の徴収は、宝永4年(1707)に起こった地震の被害が大きかったため、それまで御手口(藩役人による直接徴収)であった口銀の徴収は所請となり、浦々の庄屋、有力魚問屋などが請負い、その額も軽減されていた。しかし藩の財政の都合からか、海部郡の浦々は寛政11年(1799)頃から再び藩直営の魚分一所が置かれることになった。ところが木岐はそれよりも早く、寛政4年(1792)に藩営の魚分一所に変わっているが、その経緯は
「一 海部郡木岐浦魚口運上銀過半相滞候ニ付、上納取立方等之義、先達而及下知候、随て相調ヘ候処、昨年分ニ至り大ニ上納銀高相減、御不益ニ相成候事故、相行着他請ハ御奉行附被 仰付、三・四ケ年も御試被成候得ハ、浦方実々之処も相分り可申候ヘハ、滞運上銀等之義も其節存寄相居ヘ可申出旨等、各迄福岡今左衛門彼是申出有之候書付共遂披見、右申出之通、夫々承届候条、此段増田半兵衛ヘ被申聞義可有了簡旨、本〆中、申達之
一 銀札弐拾七貫五百目 壱ケ年五貫五百目
            壱ケ月四百五拾八匁余
           右ハ木岐浦地盤魚口運上銀
一 同弐拾弐貫弐百五拾三匁六分六厘
右は去ル巳年十一月同酉十二月迄閏月除、五拾ケ月分滞銀当時御噤置、当春漁事   之趣次第、存寄申出候様申渡候株
  此分、本文之通、御奉行付手口被 仰付候故、先其儘御噤置被 仰付候
 外ニ銀札三百弐拾四匁余
  此株、凶年之節、上納指支、六ケ月運上銀滞之元利年符を以被 召上内、去々戌霜月・去暮六月・霜月、三ケ度分相滞候分、右同断弐口合
弐拾弐貫五百七拾八匁余」(2)
 ということで、寛政4年(1792)9月28日付で、萩原惣九郎と桑村龍蔵の2名が木岐魚分一所の奉行に任命されている。
 海部郡内の魚猟口銀は、所請になった際、最初の魚口銀に比較すると約半分に減額されていたはずであるが、それでも4箇年分以上も滞納するという状況になったため、藩が直接魚分一所の業務を行ってみて、その結果によっては以前の所請に戻してもよいのではないか、ということであった。
 試験的にせよ海部郡内で初めて藩直営の魚分一所とした木岐では、以前の所請の頃のように、請負人の判断によって魚分一銀を徴収するような裁量は許されないため、魚分一所運営の基準を定め、翌寛政5年(1793)8月に藩の承認をうけている。それは次の通りである。
「            覚
 一 火之用心之事
    付、明松取扱候事故、風吹候節は猶以人々心を付へき事
 一 御分一所御囲内は不及言、同所之前船着之場所并波戸之上等ニ而喧口論停止之   事
 一 浦人共沖出いたし引上ケ候諸魚、沖あいニおゐて御国并他国之者共と売買いたし候   義、堅停止之事、万一沖合ニて魚売候もの有之候ハヽたとひ後日ニ至て相聞候とも   売主は不及言、一所に沖出いたし候惣船共、科銀被 召上、品により屹と其科可被仰付事
付、漁船諸魚取上御分一所前ヘ相揃候節、浦人老若男女共罷出、猥に魚はい取候    義、堅停止之事
 一 引上ケ候諸魚、船中ニ隠し置、御分一処ヘ不指出者、又ハ着船いたし乗組之者之内、   直ニ魚を取り帰候もの有之候ハヽ、其多少ニ応し、科銀可被 召上事
 一 諸魚御分一所ニおゐて御セらセ被成、買取候者とも、其代銀札買取候日より三日を    限り、弐歩相加ヘ御分一所ヘ上納皆済可仕事
 但諸魚御分一所ニおゐて、せり取買請候者共と相直セ候也
 付、右代銀、銭を以、上納仕候者共は銭相場、徳島銀札場通用之員数を以、上納可仕候、私ニ相場の高下を立候て、上納仕義、堅停止之事
右之趣、堅可相守者也
         丑五月    木岐浦魚御分一所            」 (3)
 この法度書はその後御手口になった海部郡内各魚分一所の運営基準にもなったものであるが、魚分一所以外での魚の売買を厳しく禁止し、自家用の菜の魚までも規制し、魚商人に対しては、せり落とした価額に二歩加算して支払わせ、銭相場も藩の銀札場で定めた交換レートによらせるという、細かい点まで定めている。
 このような法度書を厳格に実行して御分一銀(魚売上高の2割)を徴収すれば、成績があがるのは当然のことであるが、寛政10年(1798)には、「追々所請之節御益も相増、諸御入目等も相増候ニ付、御役人少ニ而ハ御用方難相捌、彼是指支御為成不申」(4)ということで、手伝役を一人増員してもらいたい、その手当は橘浦の御分一所と同様に、二人扶持銀百拾匁を支給したい、と藩庁へ申し出ている。
 ちなみに、魚分一所の藩直営は、鳴門の堂浦が寛政7年(1795)で早い方であるが、橘浦など廻船の出入も多く、米の移出入の監視役なども兼ねていた所はかなり以前から藩の直営であったらしく、木岐の手伝役増員も、ふるくから直営であった橘浦に準じて採用したいと申し出たものである。
 藩内各浦々の魚猟口銀の徴収が藩直営によって行われるようになると、その額は従来の所請の頃に比較してかなり増額した。それは
「一 海部鞆・宍喰・浅川・伊座利・夷浜、右五ケ浦諸魚口銀取立之儀、去冬御手口ニ被仰付候六ケ浦之運を以、右浦之儀も先達而所請ニ被 仰付候、前々請銀定之通被召上、余有銀之儀は海部御郡代手元ニ建置候様被 仰付度旨、申出候書附遂披見、
  申出之通承届候条、此段右御郡代江申聞義可有了簡旨、本〆中、申達之  」(5)
 というように、漁師が販売した魚代金の2割は口銀(分一銀)として徴収しても、所請の頃の額(約1割程度)を藩の勘定方に納め、残りは建置銀として郡代役所に残し、不漁が続いた時には漁民に対して、沖出飯料として貸したり、漁船や漁具を新しく造る場合の新調資金として貸し出すこととしている。
 御手口になった海部郡内の魚分一所は、寛政11年(1799)その管轄が郡代役所に移され、同じ年漁業や海の事を担当する浦奉行が任命されて、海部郡と那賀郡を受け持つことになった。しかし、他処よりも早く御手口になっていた木岐と橘の魚分一所は、それよりも遅く享和2年(1802)に郡代役所に移管されている。
 文化9年(1812)の「木岐浦棟付人数御改帳」によると、総家数214軒、人口996人であるが、漁船49隻、廻船16隻で、志和岐、東西両由岐を含めた旧三岐田地区では一番漁船が多い。その中には漁船を2隻以上持つ家が5軒あり、廻船2隻と漁船1隻を持つ家があるなど、網による漁業も盛んであったことがうかがえる数字である。当然漁場も広かったと思えるのであるが、明治以降の慣行による地先専用漁場図などを見ると、意外と狭い。もともと近世の地先漁場は、幕府の裁判基準である
「一 魚猟入会場は、国境之無差別
一 入海は両頬之中央限之魚猟場たる例あり。
一 村並之猟場は、村境を沖え見通、猟場之境たり。
一 磯猟は地附根附次第也、沖は入会 (中略)
一 藻草ニ役銭無之、魚猟場之無差別地元次第刈之。(以下略)       」(6)
 というものを各藩とも踏襲していたから、阿波藩だけが例外であったとは考えにくい。ところが木岐では、近世初頭に早くも隣浦の日和佐と漁場の事で紛争を起こしている。それは、
「        覚
一 たつみ御定事 鰯網をき申義ハ先木岐之網ことごとくおきて自然鰯多くハ〃〃(ママ)弐番網を者日和佐あみおき可申事
一 大魚網おき申義ハ上十五日ハ日和佐浦、下十五日は木岐浦をき可申事、
一 如先年之木岐浦ヨリ日和佐ヘ樽弐つ宛毎年入可申事、
一 いそ草其外之義ハ皆々木岐浦ヘ取可申事、
一 たつみより下ヘ木岐浦船入候て磯草萬不可取候事
右五ヶ條之通たかいに少も相違有間敷ニ付依而如件
 寛永四年三月十五日           政 所
                       日和佐 兵助
                       同年寄  惣左衛門(以下略)」(7)
 というのであるが、他村との入会操業は、とかく問題が起こりやすく、この文書を交換した20年余り後、慶安4年(1651)にも「たつみ」漁場で紛争が起こり、隣村の庄屋数名が仲介して和解した文書の控が残っている。この紛争は漁場の制度が確立していない近世初期のもので、藩役人は関係していないが、徳島藩でも幕府の基本方針にしたがっていたことは、海藻類に対しては口銀を徴収していなかったことや、他の地域の紛争事例から知ることができるが、自分の村が海に接していても、加子役を負担していなかった中林は、中島浦へ加子与内金という名目の入漁料を払って地曳網を操業したり、新田開発村であった和田島は、今津や小松島の魚分一所の支配下に置かれるなど、人口の増加、社会状況の変化に応じて、多少の条件は違っても古い慣行は守られていた。
 漁場に関する旧慣行の尊重は明治維新後も変わらず、寛永4年(1627)、日和佐と木岐の間で和解した「たつみ」の漁場は、今日でも日和佐と木岐の両漁業組合の共有漁場として利用されている。明治政府は漁民が納める分一銀などは雑税として処理していたが、明治8年(1875)2月これを廃止し、営業の自由を認めた。そのため古くから統数を制限していた地曳網など、封建的な拘束力が失われ、村役人や網元階層から禁止されていた色々な漁業が次から次と行われるようになった。同じ年の12月政府は「従来人民ニ於テ海面を区画シ捕魚採藻等ノ為所用致候者モ有之候処右ハ固ヨリ官有ニシテ本年二月第二十三号布告以後ハ所用ノ権無之候條従前ノ通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ義其管轄庁ヘ可願出此旨布告候事。」と、従来漁業をしていなくても、願いを出して借用料を払えば、誰でもどんな漁業でもできることになった。それは日本中の漁村を混乱させ、各地で紛争を起こさせる結果を招いたため、翌9年(1876)これを廃止し、旧慣行による海面使用を認めることになった。そのため近世の漁場慣行は、今も基本的には変わらず実行されている。
 引用文献
(1)高橋 啓(1988)徳島藩の藩財政に関する基礎調査.徳島県立博物館開設準備調査報告、第2号、77〜87.徳島県企画調整部文化の森建設事務局.
(2)安永以来 諸御役場御指止兼帯等被 仰付候分書抜(天保年間)(国立史料館編、徳          島藩職制取調書抜 上,268頁.[1983、東京大学出版会]による)
(3)安永以来 諸御役場御指止兼帯等被 仰付候分書抜(天保年間)(国立史料館編、徳          島藩職制取調書抜 上,269頁.[1983、東京大学出版会]による)
(4)安永以来 諸御役場御指止兼帯等被 仰付候分書抜(天保年間)(国立史料館編、徳          島藩職制取調書抜 上,270頁.[1983、東京大学出版会]による)
(5)御郡代被 仰付候書抜(天保年間)(国立史料館編、徳島藩職制取調書抜 下、341頁.[1984、東京大学出版会]による)
(6)原 暉三(1934)日本漁業権制度概論.杉山書店.
(7)木岐 浜口家文書(寛永4年)(由岐町史編纂委員会所蔵)


徳島県立図書館