阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の民家

建築班

(日本建築学会四国支部徳島支所)

四宮照義1)・鎌田好康2)・林茂樹3)・速水可次4)・野口政司5)・中川俊博6)・工藤誠一郎7)・

渋谷禎昭8)

はじめに
 太平洋に面して東西に細長く張り付いたような由岐町は、山が海に迫り主な産業を漁業と水産加工業に頼り、わずかな平地で農業を営む。町内は八つの地域からなり、海に沿って横並びに位置する。ほとんどが漁師町の集落を核にしており、農家は田畑と山の分かれ目の山裾に筋状にくっついているような状況にあるのが一般的である。海を相手の生活は厳しく、漁師の生活は住居まで運命共同体であり、狭い敷地を分け合って寄り添うように並んで家を建てた。前の道は狭く集落が一つの家族のような暮らしであった。
 また、かつて「海女」と「いただきさん」の行商で生活を支えた本町も御多分に洩れず人口は減少一方で山村の集落と同様過疎化が進んでおり、集落の中に空き家も目についた。
 私たち建築班は7月下旬よりの数日間、由岐町全域で大きな集落別に8軒の民家と東西由岐のミセ造りの町並みを建築学的見地から実測調査を行った。
 ミセ造りの民家は、東由岐で24軒(全戸数273軒)、西由岐で20軒(全戸数235軒)残されていたが、うち3割は空き家であり、かつてのミセ造りの町並みも姿を消しつつある。
 建築班調査員は日本建築学会員を中心に上記執筆者の他、酒巻芳保、久米将夫、田村栄二、矢部洋二郎、姫野信明、富田真二が参加し、調査や作図を行った。特に酒巻芳保、四宮照義の両氏は40年前の昭和30年に阿波学会「阿部・伊島」調査に参加されており、阿部の集落の姿の変化に戸惑っていられた。街区構造に変化はないが当時の草葺屋根が連なる町並み景観が失われ、ほとんどが瓦屋根に葺き替えられている。日本の高度成長期を経て陸の孤島と言われた阿部や伊座利にも車道が開通すると、陸上交通の発達により生活様式や住環境がめまぐるしく変化していった事がうかがえられる。(林)

目 次
1.由岐町の民家案内図
2.由岐町の民家
(1)蔭山 忠仁家(農家) 木岐871
(2)濱名 耕二家(回船問屋) 木岐366
(3)小林 徹巳家(商家) 田井760
(4)橋本 久一家(漁村民家) 西由岐77
(5)山地 久一家(漁村民家) 東由岐106
(6)増田 亀勝家(地主の家) 志和岐147-2
(7)松村 久樹家(浜庄屋の家) 阿部407
(8)枡井マツヨ家(漁村民家) 伊座利8-2
3.由岐町の町並み
(A)東由岐 ミセ造りの町並み(残存民家24軒)
(B)西由岐 ミセ造りの町並み(残存民家20軒)
4.総 括

1.由岐町の民家案内図

2.由岐町の民家
 由岐町の集落の多くが漁業を基盤とする街区構成となっている。志和岐、阿部、伊座利などは山が直接太平洋に落ち込むような地形のため小さな川の河口にできた小さな浜を港として漁師の集落が形成されていった。そこに広い土地はなく、また、農家のように収穫物を貯蔵する大きな納屋等多くの建物や作業場である「マエニワ」などを必要としないため、人々は狭い敷地を分け合い協力し合って家を建て、厳しい自然との闘いの暮らしを共同体と言えるような生活形態で乗り切ってきた。当然家は小さく間口が狭く町屋の形式の「通りニワ」を持つ家が多い。
 また、自然の恵みに糧てを求める職業の中でも漁師は小舟に命を託して海という大自然と対峙するため海上安全や大漁を願って信仰に厚く、住まいにも神仏を奉り、屋敷に祠を奉ったり(写真2)出入口に魔除として花火の椀を吊り下げたり鐘馗(しょうき)を鴨居に取り付けることもあり、神社や寺院を大切にして立派な社を建てることも多い。そしてその廻りに集落が形成されている。
 陸からの交通路は徒歩で山を越える非常に不便なものであったため海上交通に頼ることが多く、家を建てたとき船で材木を運搬してきたとの話しも聞かれた。
 家々は玄関横の雨戸に工夫を凝らした「ミセ造り」と呼ばれる蔀帳(ぶちょう)を持つ民家が、軒の出を抑え肩を寄せ合うように並んでいたが、いまはその数もめっきり少なくなっている。
 県南の漁村の民家には「ミセ造り」の町並みが多くみられるが、由岐町のものは「下ミセ」が床高より高い位置にあり、幅も半間くらいの狭いものが多く見られるのが特徴で、これを「棚ミセ」と呼ぶことがあるそうで、一般的な「下ミセ」の様に腰掛ける事は出来ず、物を置くためで、出入り口の戸を開け閉めする場合に手にした物を置けて重宝しているとの事である。そして「ミセ造」の隣は床高からの格子窓のことが多く、格子は神事、祭事のために取り外し式になっていることも特徴である(図2・写真1)。


 このように生活の工夫が活きづいている魅力ある家造りを8集落からそれぞれ一軒の民家を抽出し調査した。(林)

(1)蔭山 忠仁家「入居者:川尻 大輔」(農家) 木岐871
 木岐川の河口から800m 程上流の中畑の集落の山裾にこの家はある。敷地は石垣が二段に積まれ道路から3.5m 程高い所にあり、ハナレと石垣の構成は美しい(写真3−1)。
 ハナレの横の坂を上るとマエニワに出る。左を見ると正面に主屋、左側にハナレ、右側は山が迫りマエニワを取り囲んでいる(写真3−2・図3−1)。


 この家は13代続いた家で、家紋は「かたばみ」、古い家相図がある。棟札は見つかっていないが、約100年以前に建てられたという。
 間取りは四間取りで、玄関構えを備えているが、後に改造して付けられたものとも考えられる(図3−2)。当主の弟さんが大工で此の家を建てたり、増築もしてくれたと言う。
屋根は茅葺で下屋は本瓦葺。30年前に茅葺をトタンで覆った。主屋の木材は伊勢大神宮の古木の払い下げで建てた。代々村の世話役を努めたという。
 ハナレは70年ほど前に建てられた日本瓦葺入母屋造である。一階は納屋、二階と一階の一部が座敷(隠居部屋)で(図3−3)、部屋の造りは良い。納屋は道路側に大きな開口があるが(写真3−3)、道路との高低差が大きく物の出入れは不可能で風通しの為と思われる。また、納屋内からここを通しての外の眺めは額の絵のようであった。(四宮)

(2)濱名 耕二家(回船問屋) 木岐366
 濱名家は、木岐の入江奥、山裾に位置し、主屋を囲文様のある練り塀に囲まれており、北西側には表門が設けられ、主屋の式台へと敷石が敷かれている(写真4−1)。主屋は天保六年(1835)の棟札を始め、明治・昭和初期の棟札が計4枚残されている(写真4−2)。
 敷地東側の路地を進んだ東南側の通用玄関二階両妻部分には、この地方には珍しい「うだつ」が設けられており(写真4−3)、回船問屋を営んでいた当時の豪壮さがうかがい知れる。主屋は度重なる改築造等でかなり入り組んでいるが、主となる建物は、桁行き八間半、梁間五間半の入母屋2階建であり、式台から左側へと進む客間の襖には、それぞれの部屋に合わせた襖絵が描かれている(写真4−4)。また、二階への階段は箱階段になっており、仕切ってある両袖の襖を開けて両側から使用できるようになっている(写真4−5)。
 後に増築した中庭に面する回り廊下も幅一間ほどあり、手の込んだ細工が施されている(写真4−6)。中庭には、灯篭、手水鉢、井筒等が配されているが、茶室は現存しない。
総体的に産業の少なかった南方で、「うだつ」まで構えた造りをした濱名家も、現在住み手はなく、家人は京都に移り住んでいるとのことである。(中川)

(3)小林 徹巳家(商家) 田井760
 田井の浜の海岸から道路を隔ててすぐ北側に位置し、道路から槙囲いと練り塀越しに大きな屋根が見える。本瓦葺き入母屋造り二階建ての本家は明治34年建築で、屋根瓦は福井産の本瓦葺きで軒先瓦は模様入り唐草瓦を使用している。また、住宅には珍しく妻入母屋部に懸魚(げぎょ)を施すなど凝った造りとなっている(写真5−1)。
 間取りとしては変形で部屋数も多く(図5−1)、外縁と内縁の二重の廻り縁(写真5−2)の付いた南北に二間続きの「オモテノマ」・「帳場」や「およさんのへや」と呼ばれた女中部屋はさしずめ北方のヒロシキであり、先々代が造船で財を成して建てたそうで、商売を営む為に建てられたようだ。オモテの間には書院付の本床と違い棚には金襖の天・地袋が付いている。襖絵も見事で、引手は京都で誂えたという底に七宝焼の絵が施されたものを使用している(写真5−3)。
 南・西の庭園に面したオモテの間の外縁には下屋(大蓋)が架かり、西の大蓋桁は太鼓に落とした五間半の長さの一本物である(写真5−4)。また、西に突き出した便所・浴室も意匠に凝り、瓦も特注の小さなもので葺かれている。(渋谷)

(4)橋本 久一家(漁村民家) 西由岐77
 橋本家は西由岐の漁港に面し、典型的な県南地方の漁村の家である。主屋は切妻平瓦葺、中二階建、下屋部分は本瓦葺及び玄関脇便所は鉄板葺となっている。規模は間口三間半、奥行き三間半、中二階部分間口三間奥行き三間で間取りは向かって左側に「トノグチ」を取り、トノグチを入ると土間形式の「通りニワ」が「カマヤ」まで続いている。上手には1畳の「ミセ」と6畳の「オモテ」を取りオモテには仏壇、床の間、神棚を祭っている。下手には4畳半の「ナイショ」3畳の「オク」があり、ナイショには食器棚、中二階への階段があり、中2階は現在物入れになっている。この間取りは小規模ながら江戸時代の一般的県南地方漁家の典型的様式を踏襲している。この家は棟札によると昭和10年の建築であるが、昭和9年の室戸台風で倒壊したため同10年に従来の材料を再利用して再建した。この家の架構形式は和小屋であり、材料は杉材を使用している。通りニワに面して大黒柱(190×210mm)を設けている。外壁には竪押縁下見板を焼杉板で貼り、破風には防風のため破風板を大きく作ってある(写真6−1)。また、ミセの間には一段的な「蔀帳」より小さい(間口半間)の「棚造り」のミセがあり、一般的には下ミセに商品(干し物、魚類)を並べて売っていた(写真6−2)。この家の「オモテ」の部屋の神棚には天照皇大神宮、八幡社、賢見神社の三神を祭っている。その傍に図6−1のようなものがあるので夫妻に聞くと、賢見神社へお参りに行ったときに「お下げ」してきたもので、これに水を入れて拝んで飲むと、太刀魚、鯛、などの骨が喉に掛かっていてもすぐ除かれるという信仰があり、これが不思議にとれるのだそうだ。「うちはこのおかげでなんべんも助けてもらったでよ」と明るく話してくれ深々と会釈して元の神棚へ安置した。このような漁家ならではの信仰心が生活に密着していた。(鎌田)

(5)山地 久一家(漁村民家) 東由岐106
 東由岐の町並み中央部の裏の路地に大正12年(1922)建設の当家はある(写真7−1)。間取りはこの地域の標準的なもので(図7−1)、今は奥に床を張り改修しているが、かつては通り抜けできる土間(ニワ)のあった町屋形式の四間取りで、間口が三間半(敷地に合わせミセの間部分の寸法が小さい)奥行きが四間。出入口は左勝手の二階建で、入るとニワのすぐ左に階段がある。正面左の出入口に続いて右側にミセの間の開口部に幅一間足らずの雨戸を兼ねたミセ造り(蔀帳)が設けられている。ここのものは土間からは940 m/m 程の高さがあり(3.由岐町の町並み)で述べる「棚ミセ」のタイプのものである。その右側はオモテの間の格子窓になっている。この格子は半間単位の取り外し式になっており、外せば板の間部分が縁台になる。お盆には祖霊を迎え入れるために格子を少し開けておく風習があると家人は言う。また、この床板も取り外し式になっており(写真7−2)、暑い夏の夜は雨戸を閉めていてもこれを外して地面を這う冷気を取り込んむことが出来たり、物入れとして利用したりと、狭い空間を巧みに利用した生活の知恵が息づいている。オモテの間には床の間と神棚が並び信仰が生活と一体となっている。付属屋として「フロ」「ベンジョ」が別棟であったが、「フロ」は「オク」の間につなげて新たに増築している。
 平面図は現況図(図7−1)と建設時の復元図(図7−2)を掲載する。(林)

(6)増田 亀勝家(地主の家) 志和岐147-2
 志和岐の集落のほぼ中心部の町並みにこの家はある(写真8−1)。付近の山、畑を広く所有している地主の家で、屋号は「福島屋」と言っていた。当主は明治37年生まれで90才であるが御元気で色々と話してくれた。現在は農業と漁業を息子さんと営なんでいる。
 主屋は中二階の切妻造りで屋根は下屋共に本瓦葺、外壁は杉板の横羽目板張りでコールタール塗り。間取りは向かって左側に「戸の口」があり、入ると「ウチニワ」の上間が奥の「ハシリ(炊事場)」まで延びている。この土間の右側に四ツ目形式の部屋が設けられている。「ウチニワ」の右に「ミセ(アガリハナ)」3畳、その横に「オモテ」8畳(床の間、神棚付)があり、裏側に「ダイドコ」(ナイショともいう)と「オク」がある。
 また、主屋の右外に漁具を収納するための下屋の物置がある。なお、「ソトニワ」には便所と倉がある。(図8−1)
 ニワ、ミセ、カマヤ、ダイドコの中心に桧材(220×190mm)の大黒柱がある。主人の言うには「家の主が亡くなって息子の代になると、大黒柱を建て替える習わしがあるんでよ」と言っている姿に自信が満ち溢れていた。考えるに、家も50年位経過すると所々傷んでくるでくるので、この時期に大修繕をする必要も生じてくるのだと思った。
 この家の柱は栗材を使用しており、明治37年に大修繕をしたときに天保5年3月(1834)の棟札が発見されて、現在床の間においてある。
 倉(クラ)は間口二間、奥行き三間の切り妻本瓦葺きで、外壁は大壁白漆喰塗りである。漁村民家には「イケ」と呼ばれる井戸があり(写真8−2)、通りニワを通り抜けた「カマヤ」の外庭にあるのが普通である。共同に使用するイケは、路の交差点にあるのが多い。現在は道路拡張、給水施設が完備されたため埋められたり、防火用水として蓋をされて残っている。昔は共同の井戸であり、共同の洗濯場であって、漁師の主婦達のコミュニティの場としてにぎわっていた。(四宮)

(7)松村 久樹家(浜庄屋の家) 阿部407
 松村家は棟札・普請帳より建築年は明治17年である(写真9−1)。現在の位置に敷地裏側より移築した建物である。阿部には山林を管理をしていた喜多条家のおか庄屋と、漁業を管理していた浜庄屋であるこの松村家があった。
 「オモテ」にはヌレエンがあり、庄屋として村人との行事をここでとりおこなったと思われる。また「オモテ」よりヌレエン越しに海を見通すことができ、この部屋より浜の様子をうかがったと思われる(写真9−2)。
 現在は当建物裏(北)側に新しい住居を移している。建物としては以後も比較的手入れされているが一部物置として利用されている。前回(昭和30年)も調査されており当時は風呂、便所が裏に別棟としてあったが、その後図面の左側、旧「ニワ」部に移された。「オク」の4帖も軒を取り込むことで6帖に拡張している(写真9−3)。
 屋根は切妻三方瓦庇(かわらびさし)(福井産本瓦葺)、外壁はささら子下見板張りである。喰違四間取りで(図9−1)、大黒柱(210×205mm)はオガタマの木で造られている。ツギノマに段梯子が設けられ2階がある。小屋組は登り梁構造となっている(写真9−4)。
 敷地北側山裾に屋敷神である五輪塔があり(写真9−5)、当家が室町か桃山時代にこの地に移り住んだといわれている。(工藤)

(8)枡井マツヨ家(漁村民家) 伊座利8-2
 伊座利の湾の西、集落の町並み外れに石垣を積み上げた高台に山を背にして当家は建っている(写真10−1)。伊座利の港は阿部の港より風当たりが強いそうで、調査日も強風であった。しかし海側に繁っているタブの木に守られて、この家にはそれ程影響はないようで、海沿いに建つ民家の知恵を感じさせる(写真10−2)。
 建物は切妻本瓦葺二方瓦庇で(写真10−3)、建築時は桁行四間(後に妻側に一間増築している)、梁間三間半で築後81年と言われており、伊座利地区でも最も古い民家の一つである。間取りは食い違い四間取りであり(図10−1)、オモテの間は竿縁天井を張り、床の間と仏壇を構えている。平面形式は土間(ニワ)を改造しているが、由岐町の一般的な民家の間取りであろう。ニワと部屋の間仕切の中央に大黒柱(200×170mm)を持ち、小屋組は登り梁で一部の小屋裏の床を大和天井にして物置にしている(写真10−4)。屋敷神は竜神さんであり、八幡さんと合祀されている。(野口)

3.由岐町の町並み
 農村の民家が納屋や作業場など広いスペースを必要とするため散居状態に集落が形成される事が多いが、漁村の集落は網の目状の道路に面して横に連なって町並みを形成するのが一般的で、都市的な街区形態をつくる。建物は町屋形式の平入りで間口は狭く、商業集積して出来た都市の町屋と違い規模は小さく奥行きも無いので坪庭なども見受けられない。
 しかし、そこにはなにか親しみの湧く暖かいヒューマンな空間がある。それは道幅や家の大きさ、軒の高さといった人間的スケールからくるものかも知れないし、曲がりくねった道に沿って少しづつ角度が違って建つ家の連なりや、少し広くなったまちかどでの立ち話、共同井戸のおしゃべりなのかもわからない。それと共に、県南の漁村の町並みの多くに見られる「ミセ造り」(蔀帳)もそれに一役買っているものと思われる(写真11)。
 この特徴的な装置は、京の町屋に古くからあるものが海を渡って土佐航路の舟が立ち寄った際に、県南の漁港に伝わったのではないかと推察される。閉じれば雨戸、開ければミセにも縁台にもなり、行き交う人が一休みしたり、夕涼みや将棋に興じたりと、さしずめ現代のコミュニティーセンターの様なものであった。
 ここ由岐町でも東西由岐に多く見られたので調査したが、由岐のものには床高が高くて腰掛けにはならない「棚ミセ」タイプのものが多く、他の町村で見かけなかっただけに由岐独自のものかも知れない(現在蔀帳の分布調査中なので結論はその結果によるが)。
 東由岐(写真12)の町並みには24軒、西由岐(写真13)には20軒の「ミセ造り」を持つ民家があった。かつてはずらっと並んでいたと思われるが、今はもうまばらにしか残されていない。最後に、阿部の集落に残る草葺屋根の民家(写真14)と40年前(写真15)と現在(写真16)の同じ場所の写真を掲載する。「いただきさん」はもう居ない。(林)

4.総 括
 由岐町は、漁港を中心として集落が形成されており、海岸線から少し入った山裾に農家が点在している状況である。集落の形態としては、狭い生活道路(路地)を挟んで家と家が寄り添い連なって形成されている。そして、西・東由岐に多く見られる「イケ」と呼ばれていた井戸が路地と路地の交差部にあり、路地空間と共に子供の遊び場や井戸端会議等に使用された活気ある地区コミュニティの場となっていたと思われる。また、この「イケ」は防火用水としても有効であったと考えられ、現在も防火用水として利用している井戸も見られる。
 由岐町は漁業に関連した民家が多いこともあり、4地区で漁村民家の調査を行った。この漁村民家(橋本・山地・増田・枡井家)の平面形式としては、「ミセ、オモテ、ダイドコロ、オク」の4間取りが基本となっており、これにニワとカマヤが付随している。阿部の松村家は浜庄屋と云うことで六間取り形式となっている。この間取りの中で「ミセ」の間口が規定のモジュール(例 一間=約1,900mm 程度)に合っていない民家が多く見られる(密集した集落で多い)これは敷地の有効利用ということで、敷地両側から規定のモジュールで計画し「ミセ」の間口部分で調整していたと考えられる。西・東由岐の残存しているミセ造り「ブチョウ」の一覧表でミセの幅が様々であることからもこのことが伺えられる。
 また、屋根形式であるが、農家には茅葺き屋根が見られるが、漁村においては切り妻の瓦葺きが大半である。漁村部においては津波等の災害により建て替えられたものが多く、建設年代が比較的新しいことと、密集して建築されているための防災上からと考えられる。
 今回の調査においては漁村民家が中心となり、農山村部の民家は蔭山家だけでデーター不足で一概には言えないが、平面形式は四間取りで漁村民家と同じである。
 由岐町の集落は、徳島県県南漁村地方で多く見られるように、網のように形成された生活道路(路地空間)に沿って寄り添うように家が立ち並んでいる。このような街は、今我々が失いつつある住まいする人達の生活共同体意識を保持出来得る形態である。しかし、近年の集落から離れての地方幹線道路の整備、車社会の到来によるより便利性の高い地域への指向性の高まりにより、転出による空家が目立つようになってきている。空き家が増加する事は、街全体の老化につながり活力が失われる。この空家・空地の有効利用「利便性向上のための駐車場への転用・ゆとり空間創生のための公園化」、そして各々の空間をつなぐ路地ネットワークの構築等利便性の向上を目指しつつ、今までの生活形態が続けられる街づくりを目指して欲しいものである。(速水)
 注:モジュール=建築を量産化する時、材料の互換性を増すため規格を単純化し幾種類かの基準を定めること。日本住宅の間単位の柱間隔や内法寸法の定め方もその一種。

1)徳島建築文化財研究所主宰 2)創和建築設計事務所所長 3)林建築事務所設計室長
4)(株)剛建築事務所専務取締役 5)野口政司建築事務所主宰 6)中川建築デザイン主宰
7)工藤誠一郎建築地域研究所主宰 8)徳島県住宅供給公社主査


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