阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第40号

由岐町の津波到達範囲

地学班(地学団体研究会)

             寺戸恒夫1)

 由岐町は昭和21(1946)年12月21日、南海地震に伴う津波に襲われ、その後の防災体制はほぼこの津波の規模を基準にしているように思われる。しかし、この地を襲った大地震は表1の規模で分かるように、将来発生の場合はより大きくなる可能性があり、必然的に津波の規模も大きくなることが予想される。そこで本調査では体験者の多い昭和南海地震津波(以下昭和津波と略称)の被災地域を明確にすると共に、最大級の規模で記録のほか口碑もかなり残っている安政(嘉永)南海地震津波(安政津波と略称)についても調査し、津波災害の範囲を地形図に示して、今後の津波対策の参考資料とすることを目的とした。なお、聞き取りはすべて調査時に地元居住者を対象として行ったものである。

 本町の集落や耕地の大部分は臨海の平地にある。志和岐・阿部・伊座利を除くと、海岸から奥地にかけての平地は、いずれも波打ちぎわより砂や磯からなる浜堤と呼ばれる高まりが続き、その背後に低い後背湿地がある。そこから少しずつ高度を増して山麓まで平地(沖積低地)が広がる点と、集落立地の地形的条件が共通している。一般に浜堤は砂州から発達したもので、後背湿地は潟湖(ラグーン)の名残である。東由岐の大池のほか、田井の小川留・由宇の葦原池・阿部の蛇ノ溜(蛇ケ池)などは、潟湖がその跡を留めたものである。しかし、多くは湿田に利用され、最近では減反政策などにより荒廃した水田の目立つ場所である。津波被害は、津波が浜堤を越すか越さないか、平地のどこまで侵入するか、つまり地形的には、1 湾入などの海岸形態、2 浜堤の幅と高さ、3 平地の方向と傾斜と広がり、などで差を生じている。
 以下町内の各地域について詳述する。津波の到達した範囲は図1に記入して示した。しかし、安政津波のそれは記録や聞き取りによるもので、それぞれのポイント以外は地形図や空中写真によっておおよその限界を推定して記入した。

 1)山座 ここは浜堤が幅30m ほどある。朝海要三郎氏(85歳)によれば、昭和津波は自宅から150m 付近(海岸から約250m)まで押し寄せて、田の中に船が入っていた。また上の溜池の水がいつの間にか抜けていた。南白浜との間の水田にも潮が入ったという。昔大地震があったことは祖父より聞いたが、詳細は不明とのこと。図1には推定範囲を記入した。
 2)南白浜 『三岐田町史』によれば、浜堤北端にある王子神社が安政津波で流失し、白浜の民家も流れている。神社は翌年遷宮とあるが、位置はほとんど変わらないのではなかろうか。昭和津波では被災していない。北白浜の中川健氏(69歳)によれば、昭和津波は海岸から直線距離で約350m の南地氏宅の石垣の2段目まで潮がきたとのこと。これは『三岐田町史』の記載とほぼ一致している。また朝海俊雄氏(74歳)によれば、昭和津波は海岸から約150m の南向き山麓にある自宅の宅地には浸水せず、前の水田を西方へ海岸から300m あたりまで逆上ったとのこと。なお、神社の南には昭和津波で破堤した跡が今も残っている。水田はその後、潮が入る率が高くなったという。
 3)北白浜 『三岐田町史』によれば、「北白浜あんの下」まで潮がきている。「おあん(庵)」はJR牟岐線すぐ北にあり、もしここまでなら中川健氏が指摘した昭和津波の浸水範囲とほぼ同じである。氏によれば、安政津波は自宅より約200m 奥(海岸線からの直線距離約700m)のワカメ田までとのこと。そこまで津波によりワカメが流されたのである。昭和津波では、海岸近くの家で流されたものはなく、牟岐線が堤防代わりとなったため、より上流の水田への浸水はわずかであった。北白浜の浜堤幅は約50m である。
 4)木岐駅付近 『三岐田町史』には、安政津波の遡上限界が3例載せてある。小坂元日堂(A)は「奥留リハ柿の谷前の堤切」、濱名萬喜太郎(B)は「村方ヘ高浪壓入ル事凡ソ十二町即チ今ノ大師庵迄ニ至ル」、白浜彦兵衛(C)は「木岐徳井口迄汐人候」としている。Aは柿の谷のほか、かじや谷・海部谷なども記している。Bの大師庵は、延命寺の栗林海学住職によれば今はなく、「堂の前」の地名が残っている近くの集会所がそれであるとのこと。Cの「徳井」という地名はなく、「徳竹」の誤読らしい。以上より、木岐川沿いの遡上限界は、本村から登っている県道が徳竹へ直角に折れる付近、ということになる。「十二町」を猪井達雄ほか(1982)は面積と考えているが、距離であることは間違いなく、この点も上記地点を示している。昭和津波では、木岐の漁業集落はほとんど浸水しているが、牟岐線木岐駅付近が堤防の役割を果たし、駅北では水田が数十 cm 冠水した程度である。延命寺石段の記録では、安政津波は「凡八歩通りつかる」が、昭和津波では下から4段目までの浸水であった。4段目は、以前の水田面より1.5m ほど高く、上述と食い違うが、これは鉄道のガード横という位置の影響である。『三岐田町郷土読本』によれば、安政津波の到達点は、近くの八幡神社の石段で、両者の差は8尺としている。
 5)田井 昭和津波の際は、浜堤幅が100m 内外と広く、また高い所では10m 近くもあるので、高さ3m の鉄道線路を越えて県道に砂を運んだ昭和津波(『由岐町史 上巻』)も、多くは浜堤の線で進路をはばまれていたようである。しかし、田井ノ浜駅東の潮田川沿いは低地なので、津波は主にここから侵入している。従って、水田地域を囲む現在の舗装道路内がおおよその浸水限界であって、奥の西谷の地蔵坊前から目晴大師堂(図1のA)前の間は道路まで及んでいない。浜堤裏の原田西も原田東も浸水の害はほとんど受けなかった。これに反して安政津波の際には、家屋が10軒流され、死者も1人でている(『三岐田町史』)。地蔵坊西約110m の山腹に居住の小畠一郎氏(67歳)によれば、同家の旧地は「元屋敷」(図1のB)といい、被災後現在地に移ったとのこと。同様に田井の浜駅と白鳥神社の中間にあった本田順作氏の先祖の家も、堤防を越えた津波につぶされたため、白鳥神社北約250m の少し高い現在の土地に屋敷を構えたといわれる。また西谷の小林裕衛氏(59歳)によれば、数代前の先祖の口碑に、地蔵坊北の同家屋敷すぐ南横の水田(図1のC)まで冠水し、タンスが流れついていたこと、目晴大師堂前に人が乗った家が流れてきて助けを求めていたが、再び流れ去ったことが伝えられている。それ故、昭和津波に比べて津波も被害も共に規模が一段と大きい。
 6)由岐駅付近 昭和津波では、西由岐をはじめとして、西ノ地・東由岐もほとんど被災している。浜から山へと移るに従い、家屋の被災は流失・全壊・床上浸水・床下浸水と変化している。西ノ地では由岐駅や駅前の店が床下浸水をしているが、鉄道線路を越えて駅裏の水田に浸水したかどうかは明らかでない。東由岐では長円寺の石段の1段目くらいまで(本村の谷沢円次氏―83歳―談)、志和岐谷では由岐中学校北東隅の橋あたりまで水がきている。このような浸水や被災の規模は、この地が木岐駅付近や海南町浅川同様、V字型の湾の奥にあり、本来的に津波を大きくする地形的位置に関連があり、雪ノ湊が壊滅した『太平記 巻第三十六』の時代と変わるところがない。
 安政津波の被害はより大きく、『三岐田町史』によれば、西由岐では般若寺と光願寺が残ったぐらいで、東由岐では140戸中、残ったもの十数戸という。『三岐田町郷土読本』によれば、東由岐の天神社石段では、昭和津波よりなお8尺高くまで潮が達している。また由岐八幡神社では石鳥居の下まで水がきたとの口碑があり、同書の筆者は高すぎると疑問視しているが、昭和津波でも宮の坂を水が越えている(西地の舟越要氏―69歳―談)ので、地形的な要素が加わっているとみる。ところが、津波の進行方向に平行な海岸をもつ由宇では、昭和津波の際は家屋の浸水は全くなく、水門が開いていたせいか海水が水田を一面に薄く覆った程度で、畝にはのらなかった(水口英行氏―67歳―談)。しかし、安政と思われる津波では、現在地にあった同家の草屋(水田面+1m)が浮いて流れ貴井神社前の馬場に座っていた、との口碑が残っている。由岐付近の安政津波の遡上限界は不明の点が多く、図1は以上より推定して描いたものである。
 7)志和岐 昭和津波は川にそって逆上り、小学校(現公民館)下の段に船が入っていたというから、このあたりまでは浸水したらしいが、被害は少ないとみる。しかし、安政津波は公民館入口前の安政地震津波碑に「船網納屋不残沖ヘ流レ失」とあるので、少なくとも港近くは荒廃し、被害の規模も大きかったと推定される。
 8)阿部 昭和津波の浸水家屋は聞いていない。津波は川を逆流し、下流では庭先へ上がった程度である。安政津波は持福寺門前の石段三段まで津波が達し、死者1名をだしている。水が川沿いに逆上ったとしても、寺の位置から村の半分は浸水かそれ以上の被害を受けたと思われる。鹿ノ首岬の蛇ノ溜は、東由岐の由宇同様にその位置より浸水はなかったと推定する。
 以上の調査結果から結論として次の諸点をあげることができる。
 1)昭和の南海地震は、安政のそれよりも規模が小さい。それ以前の地震もほとんど昭相地震の規模を凌ぐものである。津波は地震の規模に左右されることを考えると、将来への対策は安政地震津波を基準とするのが望ましい。
 2)昭和南海地震津波では、各地で人工の地形、ことに鉄道線路が被害を軽減しているのがよくわかる。これは反面、人工建造物により津波の進路が変わる可能性があることを示す。従って、防波堤などの建造には、予期せぬ方向が、過去になかった被害を生ずることを推定させるので、その面からの検討も必要と考える。
 3)聞き取り調査の経験では、津波被害に遭遇しているか否かで、津波に対する意識に大きな断絶がある。ことに年齢による差が明確にでている。従って、過去の被災を生かすには、後になるほど強調して伝達する必要があると考える。

参考資料
宇佐美龍夫『新編日本被害地震総覧』東京大学出版会,1987.
猪井達雄・澤田健吉・村上仁士『徳島の地震津波―歴史資料から―』徳島市立図書館,1982.
三岐田町史編纂委員会『三岐田町史』三岐田町役場,大正14年.
由岐町史編纂委員会『由岐町史 上巻』由岐町教育委員会,昭和60年.
笠井藍水『三岐田町郷土読本』昭和25年.

1)徳島文理大学文学部


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